ミステリートレインというものがある。
鈴木財閥がオーナーであるベルツリー急行にて行われるミステリーのイベントのような物だ。
乗客の中からランダムに犯人役、被害者役が選定され、架空の事件が発生する。他の乗客達は探偵役となりその事件の真相を探っていくのだ。
「わぁ〜、すごぉ〜い!!」
と、子供達が歓声を上げる。
朝、東京駅のプラットホームには蒸気機関車が静かに停まっていた。重厚な鉄の塊は黒々とした存在感を放っている。大きな車輪はその重量を支えるかのように力強く、レールの上にどっしりと据えられていた。
煙突からは、白く濃い蒸気が立ち上り、青空にゆっくりと溶け込んでいく。シュウシュウという音が駅に低く響き渡り、その音はまるでこの巨大な機械が生きているかのような錯覚を与えた。
運転席からは淡い光が漏れており、窓の奥には乗務員の影が見える。彼がレバーを操作するたびに機関車が小さく震え、汽笛の音が響く。
ホームには、たくさんの乗客たちが待ちわびた様子で蠢いていた。
コナン達も、そんな客達の1人であった。少年探偵団と阿笠博士、それに蘭と園子と小五郎が乗車するメンバーである。
「歩美、蒸気機関車って初めて見る〜!!」
「オレもー!!」
「大迫力ですー!!」
楽しそうにはしゃぐ少年探偵団の3人に、灰原はSLなのは見た目だけで中身は最新鋭のディーゼル機関車だと説明をした。そんな彼女はゴホゴホと咳をしており、風邪をひいている様子だ。
「ガキンチョ共!ベルツリー急行のオーナーである鈴木財閥に感謝しなさいよ!!」
少年達の背後に立った園子が腰に手を当て「特別に席を確保してやったんだから!」と言う。言葉だけ聞くと恩着せがましいがそう感じさせないのは彼女の明るい性格による物だろう。
園子と蘭はこのミステリートレインの一等車に乗車するのだ。なぜかと言うと一等車に展示する宝石を怪盗キッドが狙うと予告したからだ。キッドの大ファンである園子は彼がやってくるより先に列車にラブレターを置いておこうと計画しているのである。
「そんな手紙を盗るヒマ、キッドにはないと思うけど……。というかそろそろ京極さん怒るんじゃないの?」
「キッド様への愛は別腹なの♡」
と、いつものようにおちゃらける園子に後ろから声がかけられた。少年めいた声だった。
「ボクはそんな泥棒よりも、毎回車内でやっているって言う推理クイズの方が気になるけどな!」
「せ、世良さん!?」
「どうして?」
「ボクは探偵!乗るのは当然だろう。というか、君のパパは一緒じゃないのかい?」
世良は2人に挨拶をしてから、小五郎の姿を探す。どうやら今は席を外しているようだ。そう判断すると2人と雑談を始めた。灰原はそんな世良の様子を見て警戒するようにフードを深く被る。
そうして、乗客達が次々と乗り込んでいくのに続いてミステリートレインへと灰原も乗車した。
全員が乗り込んだのを確認すると、蒸気機関車は東京駅を出発した。朝の光の中でその漆黒の車体がきらりと輝く。駅のホームに残された人々の姿が徐々に遠ざかり、列車は力強いリズムで車輪を回転させながら、街中を抜けていく。エンジンの低いうなり声と、車輪がレールを叩く鋭い音が、都会の喧騒と混ざり合い、独特の存在感を放っていた。
「すごいすごーい!!」
「駅みんなすっ飛ばしてるぜ!」
窓の外には、東京の街並みが次々と広がり、ビル群や商店街、駅が目まぐるしく流れていく。煙突から立ち上る白い煙が、青空に一本の線を引くようにたなびき、やがて風に溶けて消えていく。
列車が街の中心部を抜け、郊外へと進むにつれて、景色は徐々に変化していく。高層ビルが遠ざかり、低い住宅地が広がり始めた。
「今どこ走ってるんだろう?」
「きっとまだ東京ですよ!」
そしてさらに進むと、田園風景が広がり始める。一面に広がる田んぼが光を受けて輝いていた。蒸気機関車は、田園風景の中を一直線に突き進む。青空の下で、空気が一段と澄んだように感じられる。
列車は目的地までノンストップで進んでいくのだ。刻一刻と変わる風景を背景に、終着駅を知らない客達を乗せて進む。太陽が高く昇り日差しが車体を照らす中で、機関車は走り続ける。
「終着駅までノンストップなんですよね?」
「まあどこが終着駅なのかは謎じゃがな」
「名古屋だよ……ネットで列車の運行情報を調べればわかるからな」
コナンは呆気なく一つの真実を暴いた。阿笠博士はせっかくのミステリートレインなのに夢のない事を言う奴だと呆れた様子で彼の頭頂部を見下ろす。そうやって子供達がわちゃわちゃと話していたら部屋の扉がノックされた。
誰か客人でもやってきたのかと思い扉を開けるも誰もいない。しかし足元には手紙が置かれていた。そこには“おめでとう。あなたは探偵役に選ばれました!10分後、7号車のB室で事件が発生しますので捜査を開始されたし”と書かれている。
どうやらミステリートレインの主題である推理劇が始まったようだ。コナンが子供達を引き連れて示された場所に向かうと確かに犯人役と被害者役がいた。そして犯人役は被害者役を殺したフリをして逃げ去っていく。それをコナン達が慌てて追いかける。ミステリーというより鬼ごっこだが、まあこんなものかとコナンと灰原が内心ため息をついていた時だった。
ガチャリ。
彼らの背後の扉が開かれた。
瞬間、灰原の心臓は大きく跳ね上がる。気配がしたのだ。忘れるはずもない、冷たい気配。帽子を被った黒衣の男だった。顔はよく見えないが、帽子の下から僅かに癖のある前髪が覗いている。
(まさか──)
嫌な予感がした。こんな所にいるはずが無いとも思う。しかし、あの気配を間違えるはずもないとも思うのだ。灰原の不安をよそにミステリーは進行していく。7号車がまるまる無くなるという大胆なトリックは、コナンがしっかりと解き明かした。彼がトリックを丁寧に説明すれば共犯者役に選ばれていた蘭は「すっごーい!さすがコナン君だね」と感心する。
「そういえば小五郎のおじさんは?」
「ウチらと一緒にこの部屋にいたけど被害者役の人に言われて食堂車に行っちゃったわよ」
「へぇ」
「それより、初めましてだよな?」
彼らの会話がひと段落したのを確認すると、世良が灰原へと話しかけた。
「君だろ?灰原って子!君とは一度お話ししたかったんだよね」
グイグイと迫る世良に何となく嫌なものを感じた灰原は思わず顔を背け、部屋から出て行った。そんな彼女に「おいどこ行くんだよ?」と言いながらコナンが着いていく。
「この列車、妙な気配がするのよ。殺気立ってるっていうか……」
「そりゃオメー、クリスティの小説の読み過ぎだよ」
1人や2人の気配じゃない。何となく落ち着かない灰原は深くため息をつき、歩き出す。
「だからどこ行くんだよ?1人になるなって」
「食堂車。紅茶でも飲んで一息つきたいの。おじさんがいるんでしょう?平気よ」
「じゃあオレも着いてく」
「馬鹿なこと言わないでよ、子供じゃないんだから付き添いなんていらないわ」
「でも妙な予感がすんだろ?」
「あら、クリスティの読みすぎじゃなかったのかしら?貴方の方が急に慎重になり出すなんて、ちょっと気味が悪いわね」
「うっせ」
「私は1人で行くから、貴方は子供達と一緒にいなさい」
「なんかあったらすぐに連絡よこせよ」
「分かったわよ」
「いいか、すぐだぞ」
「分かったって」
灰原はコナンにヒラリと手を振ると食堂車に向かい歩き出す。列車が走る中で車内を移動しているため、リズミカルな振動が足元に伝わってくる。狭い通路には、窓から差し込む柔らかな日差しが帯のように落ち、壁が温もりを帯びている。落ち着いた雰囲気だ。しかし、落ち着かない。
複数人の乗客達が通り過ぎていく。その中に、先ほどの男がいた。黒い服を着た、背の高い男だ。気配がする。背骨に氷を入れられたような、心臓を針で突くような、そんな心地がする。冷たい気配だ。
(見える──)
帽子の下の、容貌。
鋭い瞳、火傷のある顔。
灰原は思わず前を歩く銀髪の女性の服を掴んでしまった。
「あ、ごめんなさい」
「いえ……」
すぐに手を離して謝る。灰原が振り向いた時には黒衣の男はもう遠くに歩き去っていた。まだ心臓がバクバクと早鐘を打つように動いている。
何度か深呼吸をして気持ちを落ち着ける。そしてふと、ある事に気がついた灰原は先ほどの人物を追うように目的地へと足を早めた。
食堂車に足を踏み入れると、灰原は一瞬立ち止まった。窓から差し込む柔らかな日差しが、白いテーブルクロスを優しく照らし、グラスがその光を反射してきらめいていた。車内には温かなスープや焼きたてのパンの香りが漂い、どこか懐かしい安心感をもたらしている。鈴木財閥がオーナーなだけあってどの料理も高い品質を保っていそうである。
食堂車の中央には、重厚な木製のテーブルが整然と並び、その上には銀のカトラリーがきちんと配置されていた。赤いビロードの椅子に座る客たちは、昼食を楽しみながら低く抑えた声で会話を交わしている。窓の外を流れる風景が穏やかなリズムで進み、車内に優しい静寂をもたらしていた。
灰原は静かに食事をとる客たち一人一人に視線を走らせた。ワインを注ぐウェイター、新聞を広げる老人、静かに紅茶を啜る婦人。目的の人物は見当たらない。もっと奥に行ってしまったのか。心の中で焦りを押し殺しながら、ゆっくりと通路を進んでいく。靴がカーペットに擦れる音が、微かなリズムとなって響く。ドキドキと動く心臓を落ち着かせるように胸の上の衣服をくしゃりと握る。
食堂車の端に近づくと、灰原は一つのテーブルに目を留めた。その席には背を向けたままの人物が座っている。窓の外をぼんやりと眺めるその姿に、灰原は足を止めた。後ろ姿は先程見た女性のものと同一だ。長い銀髪、ゆったりとした青いセーターに黒いスカンツ。心臓が速く打ち始めるのを感じながら、静かにそのテーブルへと近づいていった。果たして、その人物が探している相手なのか、それとも——。
灰原は彼女の目の前の席に座った。そして息を吐く。スマホをいじっていた女性は顔を上げるとその牡丹色の優しげな瞳で灰原を見て、話し出す。
「イギリス原産のセントハウンド種で、ローマ時代から存在し、ウサギ狩りを生業としてきた犬を知っていますか?」
「……ビーグル犬?」
「手荷物や国際郵便物の中から検疫検査を必要とする製品を嗅ぎ分ける訓練を受けている。病原菌や病害虫が国に侵入するのを防ぐ重要な仕事を行う存在の事は知っていますか?
「検疫探知犬の事?」
急に何の話だと灰原は怪訝な顔をする。
「私が今考えた貴方の前世です。まあ貴方はビーグルというよりはヨークシャーテリアといった容貌ですが。それにしても、随分と鼻が良いですね。どうして分かったんですか?」
「説明が難しいけど、まあ勘のようなものかしら?」
「私は、勘とは即ち経験則だと考えています。そうなると暗闇で過ごしてきた貴方の直感は確かに信用できるものなのでしょうね」
「匂いましたか?私は」と、銀髪の女はコーヒーを飲みながら灰原に尋ねる。
「ええ、ジャック。匂ったわ。烏達とは違う、冷たい匂いよ。甘い匂いの奥に微かに血生臭い匂いを感じたの」
「そうですか……。では、次はもう少し良い香水をつけてくることにしましょう。特に貴女と出会いそうな日は」
「お勧めを教えてあげるわ。TOM FORD」
「ふむ。では、今度はそれを使ってみましょう」
「合わなかったら私に頂戴」
「なるほど、それが狙いですか」
ジャックは合点がいったという表情を浮かべ、灰原を見る。灰原は己の事を見つめるジャックの顔を暫し眺めてから、ふと以前聞いた事件の事を話題に出す。
「そう言えば、聞いたわよ」
「何をですか?」
「大阪で事件が全部終わってから人を殺していったって。姿を見せないなんてつれないのね、彼怒ってたわよ」
「ああ、あれですか。私は別に彼と競い合いたい訳ではありませんからね。“お前の目の前で殺してやったぞ、さぁ捕まえてみせろ”なんて、そんなコミックの悪役のような事はなるべくしたくないです。会わないのなら会わないに越したことはありません。それに彼の事は尊敬していますが、親睦を深めたい訳ではないので。出来ればもう会いたくない」
「大胆に人を殺める割に、存外臆病なのね」
「捕まりたくありませんから。彼の目の前で態々人を殺すような挑発行為は、彼の闘志に火をつけてしまう。そんな事をする必要はないでしょう?」
「貴方の存在に気が付かないまま終わらせてしまったせいで、みすみす人を殺されてしまったって闘志を燃やしていたように見えたわよ。ついでに多分、西の探偵も」
「そうなんですか?それは怖い。もう会いたくないですね」
「もう会ってるけどね。この電車で」
「そういえばそうでしたね」
ジャックは微笑むとコーヒーを口に含む。そのあと、隣を歩いていく店員にアイスティーを一つ注文した。1分と経たないうちに店員がアイスティーを運んできて灰原の前におく。
「砂糖とミルクは必要ですか?」
「要らないわ。ストレートが好きなの」
「おや、大人ですね」
「ええ。こう見えて18歳だから、私」
「なんだ、まだ子供ですね」
「失礼ね。18は立派なレディーよ」
「ではレディー、ガムシロップをどうぞ」
テーブルの上に置かれていたガムシロップをつまみ、ジャックは灰原に差し出す。揶揄われ、子供扱いされた事にムッとした灰原はガムシロップを掴み、開けるとそれをジャックのコーヒーへと投入した。
「坊やにブラックはまだ早いんじゃなくて?ガムシロップをあげるわ」
「おやおや、ホットコーヒーにガムシロップを入れるのは初めてです」
ジャックはティースプーンでコーヒーをかき混ぜてからそれを口に含む。
「うん。そこまで変わらないですね」
「ガムシロップは砂糖と水、アラビアガムを混ぜたもの。基本的にはカクテルやアイスコーヒーのような冷たい飲料に入れる為に作られているものとはいえ、別に温かい飲み物に入れちゃダメなんてルールはないからね」
「アラビアガム……樹液ですか?」
「ええ」
「なるほど。また一つ賢くなりました」
落ち着いた様子でコーヒーを飲むジャックを見て、灰原もアイスティーを飲む。雑談をしているうちに調子もやや落ち着いてきた。
「貴方はなぜここにいるの?」
「気になる事件があったんです。5年前に大勢の犠牲者を出した大火事、あれはどうやら放火だったようです。なので下手人の方には是非とも死んで頂こうと思っていたのですが」
「ですが?」
「どうも亡くなったようです」
ジャックは右耳についているイヤホンをトントンと叩く。盗聴してるのかと聞くと、一等車の全ての客席に盗聴器を仕掛けてあるのだと返された。
「現場には名探偵がいるようですね。後は船で出会った少年達3人と毛利蘭。鈴木財閥のご令嬢。それと女子高校生探偵を名乗っている少女。乗務員の男性と……これは恐らく一等車の乗客達でしょう。あとは……男性が1人。この声には覚えがあります。最近ポアロで働き始めた金髪の男性でしょう。名前は、安室でしたか」
「何で知ってるのよ」
「情報は大事ですよ。名探偵が私を捕える事に執心しているのなら、私は全身全霊で逃げなければなりません。先ほども言ったようにまだ捕まりたくありませんから。故に彼の周りの人間はなるべく調べているのです。彼の協力者かもしれませんから」
「そう。それにしても、あの男までここにいるのね……」
灰原が俯き、何かを考え込むのを見ながらも、ジャックは盗聴先から聞こえる会話に耳を傾ける。そうして聞こえた不穏な言葉に思わず顔を強張らせた。
「……灰原哀」
「何?」
「キャンプの際、突如現れ少年達を助けて消えた茶髪の女性がいたそうですが、それは貴女ですか?」
「ええ、多分ね」
「どうも少年達は貴女を見つけたいようですよ。それで毛利小五郎に依頼したと。毛利小五郎はその動画をネットにあげて目撃情報を募るつもりらしい」
絶句した。
落ち着いてきたはずの心臓が再び動き出す。冷や汗が流れる。
「まさか、まさか……この胸の騒めきの原因は…彼らが、この列車にいるから……ッ!?」
「彼ら……?それは、もしかして……ッ」
怯えた様子の灰原がそこに思い至った時、ガシャンと食器が割れる音がした。その音で灰原の意識が現実世界に戻り、前にいるジャックを見る。ジャックは持っていたコーヒーのカップを落としてしまったようだ。
「大丈夫ですかお客様!?」
「ッ、ああ……手が滑ってしまった……申し訳ない……」
乗務員の女性が慌てて溢れてしまったコーヒーを拭き、割れたカップを回収して去っていった。代わりのコーヒーは流石に断った様子である。
「どうしたのよ……?」
「いえ、少し動揺しました。奴らが、この列車に乗っているのですか?」
「分からない……分からない、けど……」
灰原は悩む。もしも本当に組織の人間が自分を狙ってこの列車に乗り込んでいるのだとしたら非常に危険だ。自分と一緒にやってきた少年達や博士、蘭達のことも調べられるかもしれない。それは非常に危険な事だ。そうなるとやはり、自分は彼らのそばには居てはいけないんじゃないかと思うのだ。あの、居心地の良い場所にやはり甘えてはいけないのだと、そう感じる。
ピリリ、ピリリ───
思わず驚き、肩が跳ねた。
着信を知らせたのは灰原のスマホだった。届いたのはメール。知らないアドレスからのメールだ。嫌な予感を胸に、灰原はそのメールを開く。
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覚悟は決まった?
Vermouth
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目を見開いた。
一瞬、心臓が止まったような心地だった。
(ああ、やっぱり──)
嫌な予感は現実のものになったのだと理解する。まずい。非常にまずいことになった。次の行動はどうするべきか、灰原が悩んでいる一瞬の隙にジャックは彼女のスマホを奪い取った。
「あっ!ちょっとッ」
咄嗟に奪い返そうとするも、リーチの違いで間に合わない。
「ベルモット……へぇ、あの魔女がこの列車にいるのですか」
「貴方、知ってるの?」
「ええ。私、こう見えてあの組織の事にはそこそこ詳しいんです。裏には裏の情報ルートがありますので」
ジャックは灰原にスマホを返し、立ち上がる。そうして、眉間に皺を寄せ、険しい顔で彼女を置いて歩き出してしまった。灰原は慌ててその背を追いかける。
「ちょ、ちょっと待って!どうするつもり!?」
彼のセーターを引っ掴み、無理やり足を止めさせる。
「殺します。絶対に、息の根を止める」
「無茶よ!相手がどんな姿に化けてるのかも分からないのに!どうやって見つけるつもりなの!?余計な行動をすれば、彼らを見つけるより先に貴方が見つかるわよ!」
「しかし、またの機会がいつ訪れるかも……いえ、貴女が正しいですね。一旦落ち着きます。はぁ……この電車を丸ごと爆弾で吹っ飛ばすくらい冷徹になれれば良かったんですけど」
「正気じゃないわ」
「正気で殺人鬼になんかなりませんよ」
灰原は止まってくれたジャックの服の裾を引っ張り、7号車と8号車の境にある角に身を潜めた。そうしてポケットから薬を取り出す。
「それは?」
「一時的に元の姿に戻る薬よ、この姿で死ぬ訳にはいかないもの」
薬をつまみながら昔の事を思い出す。
母が録音のカセットテープに残していた言葉だ。
“じゃあ、次は19歳の誕生日に…バイバイ、またね……
あ、それと…そろそろ、あなたに言ってもいい頃かも……
実はお母さんね…今、とても恐ろしいものを作っているの……
ラボの仲間は夢のような薬って浮かれているけど…
父さんと母さんは願いを込めてこう呼んでいるわ…
シルバーブレッド…銀の弾丸ってね……
でもその薬を完成させるには父さんと母さんはあなた達とお別れしなきゃいけないの…
分かって頂戴ね、志保……”
灰原は瞳に涙を浮かべながらその薬を暫し眺めていた。
その様子をジャックは黙ってジッと見つめていた。