電車が揺れるたびに、灰原は無意識に指先に力を込めた。連結部分に近い角に立ち、静寂に包まれた車内を見渡すと、自分だけがこの空間に取り残されたような感覚が押し寄せてくる。隣に立つジャックは意識しないと見失ってしまうほどに気配が薄いのだ。まるでひとりぼっちになった心地で彼のセーターをギュッと握る。
車両全体が微かにきしみ、窓の外には灰原の心とは対照的な晴れやかな景色が流れていく。
シルバーブレット、銀の弾丸。
不思議な霊力を持ち、通常の弾丸が通用しない狼男や魔女を撃ち倒すと信じられているもの。転じて、通常の手段では対処が難しい相手をたった一撃で葬るモノという比喩表現に使われる事が多い。
(ごめんお母さん、私分かってなかった)
灰原は後悔する。こんな薬は作ってはいけなかったのだと。一体何人の人間がこの薬のせいで不幸になったのか分からない。悪夢のような代物だ。
(でも、みんなを巻き添えにしないためにも今はこれに頼るしかない……)
もし幼児化した姿のまま殺されてしまい、遺体が車内で発見されたら少年探偵団の子供達が泣いて騒ぎ立てる事になる。そうなれば組織の目に留まってしまうだろう。その場合彼らは恐らく殺される。いや、殺されるだけならいい方だ。シェリーから何らかの情報を聞いていないかと拷問される可能性もある。組織にはそういうのが得意な人間もいる。
その点、元の姿に戻れば殺されたとしても子供達にとっては一度会っただけの女性の遺体だ。残念に思うだろうし、ショックを受けるだろうが、“灰原哀”が死ぬよりもずっとマシだ。一度会っただけの女性の遺体よりも姿を消した灰原哀の事を心配するだろう。そうなれば彼らは女性の遺体に拘ってる暇はなくなり、騒ぎ立てなくなる。騒がなければ関係者とは判断されず、組織の視界から外れる可能性もあるのだ。
どちらを選ぶべきかなど、迷うまでもない。
「私、元の姿に戻る。貴方、大人の女でも着れる服とか持ってない?」
「持ってますけど……死ぬつもりですか?」
「覚悟はできてる。ただ、万が一があってはいけないってだけよ」
「そうですか」
ジャックはそう言うと、視線を前に向ける。ギィィと軋む音を立てて扉が開いた。
「さすが姉妹だな。行動が手に取るようにわかる。まあ、少々想定外もあったようだが」
眼鏡をかけた精悍な男だ。彼は鋭い目で灰原を見た後、ジャックの方に目線を向けた。探るような目だ。灰原の怯えた様子を見たジャックが問いかける。
「この子のお知り合いですか?」
「それは僕が聞きたいな」
「質問しているのは此方ですが」
険悪な空気が漂い、灰原は思わずジャックの背中に隠れた。それを見て眼鏡の男は一瞬困ったような様子を浮かべる。
「この人は、ダメ……」
灰原は小さな声でそう言うとジャックの裾を引っ張る。
「困ったな。こちらのエリアに来てもらわねばならないのに」
「行こう、哀ちゃん」
「うん……」
ジャックは灰原を自然な様子で隠し眼鏡の男に背を向ける。その瞬間鋭い殺気が飛んできて、反射的にジャックは男を殺意を込めて睨みつけた。虎と獅子が間合いを測り合うような迫力に灰原は思わず震える。
「その子とは、お知り合いですか?」
「一緒にお昼のティータイムを嗜む仲ですよ。面白い本をプレゼントしたりね」
「そうですか、良いですね。コナン君とは親しいのですが、どうにもその子とは仲良くなれなくて」
「子供って意外と聡いんですよ。裏があって近づいてくる大人と親しくなりたくないと思うのは不自然ではないでしょう」
「ふむ、難しいものですね。害意はないのですが」
「他意があるからではないですか?」
「ホー、君に他意は無いと?」
「彼女には誠意を持って接しています」
それでは。
そう言って再び歩き出そうとした背に男は再び声をかける。
「最後に一つだけ良いですか?」
「どうぞ」
「君、人を殺した事はありますか?」
ジャックは足を止め、振り返る。
「怯える少女に許されないような酷い事をした。そう言う罪人の魂をあるべき場所へ導いた事ならありますよ」
そうやって笑い、目を細めた後、今度はジャックが問う。
「貴方はどうなんです?無垢な魂に許されざる暴虐を行ったことはありますか?」
「さてね」
「……残念です。いつか貴方の言葉を聞ける日を楽しみにしていますよ」
そうして今度こそ振り向かずにその場を離れた。彼が戻って行ったのを確認すると、灰原はようやく大きく息を吐いた。
「彼は工藤新一の家に住み始めた男ですよね。名前までは存じませんけど」
「貴方本当に色々把握してるのね。彼は沖矢昴、東都大学の院生らしいけど……どうだか……」
「嫌いなんですか?」
「苦手なのよ。何を考えているのか分からないし、それに気配が」
灰原はそこで言葉を止め、ふと隣を見る。視線の先にあるのは7号車のB室。入れ替わりトリックで使われた、被害者役の人の部屋だ。つまり今は誰もいない部屋。
「ちょっと、色々あって頭がこんがらがってるわ。この部屋には誰もいないはずだし、少しここで落ち着いて考えても良い?」
「良いですよ」
そうして、扉を開けた瞬間人の気配を察知したジャックは慌てて灰原を抱えて退がり、右手で拳銃を握った。
「ストップストップ!待って待って!私敵じゃないから〜」
と、どこか緊張感が削がれる調子の声が2人にかけられる。
「味方よん♡」
少し古い言葉遣いの、愛嬌のある声だ。ジャックは警戒心を保ったまま相手の顔を見る。大きな帽子の下にはどこか既視感のある顔があった。ハッと目を引くような美人だ。くりんとした癖のある栗色の髪、形の良い丸い瞳。
「藤峰、有希子……?」
「ええ!正解!今は工藤だけどね。ささ、入って入って!」
工藤有希子。
かつて世界中の男性を魅了したと言われる女優だ。19歳という若さで賞という賞を総なめにした演技派の美人女優。
そんな彼女は工藤新一の母親、つまりは江戸川コナンの母親である。
もちろん工藤有希子の偽物の可能性もある。
ただ、出会い頭に発砲していれば少なくともこちらを手負にする事が出来ていた。それをしなかったと言うことは、恐らく彼女は本物なのだろうと思う。
ジャックが疑っているのに気がついたのか「私は本物の工藤有希子よん♡」と相変わらず少し古い調子で話し、己の両頬を思いっきり引っ張った。
「アイタタ」と言いながら戻したその頬は少し赤くなってしまっていた。
それに第一彼女からは人殺し特有の冷たい気配は感じない。と言うか武術を嗜んでいる人物の立ち振る舞いではない。それすらも隠し通せているとすれば、それはジャックでは相手にならないほどの実力者だと言うことだ。そんな相手がいたとすればそれはもうどうしようもない。そう考えて、警戒を緩めた。
「色々説明したいところだけどそんな時間はないのよねえ。咄嗟に哀ちゃんを庇ったところから味方だと判断させてもらうわ」
有希子はコホンと咳払いをすると真剣な表情を浮かべて膝をつき、灰原に視線を合わせる。
「準備は出来ているの。後は任せて」
灰原は逡巡した。
巻き込んでも良いのか、頼っても良いのか。そして思わずジャックを見上げるが……
「それは貴女が決めることですよ」
と、言われてしまう。
灰原の胸の奥で何かがかすかに軋んだ。「任せて」と投げかけられたその一言に、心が揺れた。信じたい気持ちは山ほどある。だがそれ以上に、皆を危険な状況に巻き込んでしまうかもしれないという恐怖が心に根を張っていた。
彼女の目は真剣で、その瞳には迷いが見当たらない。けれど、その覚悟がどれほど固くても、今まで平穏な日々を送ってきた人達がこの先に待ち受けるかもしれない命の危険を本当に理解しているのかどうか、ふと疑念が胸に浮かぶ。自分の決断一つでコナンや子供達、そして今目の前にいる彼女の命が危険に晒されるかもしれない、その重圧が肩にのしかかってきた。
時間はない。早く決断しなければとわかっているのに思考がぐるぐると回る。
「任せて」と言われた以上、頼るべきなのかもしれない。準備は出来ていると言っていた。つまり組織の連中が来ると予想できていたのだ。
しかし、その言葉の裏に潜むリスクを考えれば考えるほど口が重くなる。頼っていいのか、皆の覚悟に応えるべきなのか、頭の中で葛藤が渦巻く。
ぐるぐる、ぐるぐると。
自分の心の中で、何度も問いを繰り返す。頼るべきか、やめるべきか。短い時間が永遠にも感じられる。2人の視線が自分の答えを待っているのを感じる。その視線が一層のプレッシャーとなり、決断を急かされているようだった。当然だ、早く答えなければならない。しかし灰原の口の中はカラカラだ。
しかし、考え抜いた末にふと気づく。彼女が「任せて」と言ったのは、自分を助けるためだけではない。彼女やコナン自身の信念が、その言葉の裏にあるのだと。そう思った瞬間、胸にあった迷いが少しずつ解けていった。
コナンはいつでも、何度でも手を伸ばしてくれた。
彼の心を、覚悟を、自分も信じるべきだ。
深く息を吸い込んで、心の中の不安を押し出すように吐き出す。そして、彼女を見つめ返すと、自分の心に静かな決意が生まれるのを感じた。頼ることで彼を、コナンを信じることができるのなら、それが最良の選択だと。
「…分かった。お願いするわ。」
そう告げたとき、自分でも驚くほど静かな声が出た。心の中の葛藤がすっかり消え去ったわけではないが、コナン達の覚悟に応える決断をしたことで少しだけ軽くなった気がした。
自分に黙って色々と考えを巡らせていた事には腹が立つ。なぜ教えてくれなかったのかと、文句を言ってやらねば気が済まない。その為には、ここで死ぬ訳には行かないのだ。
「OK♡」
有希子は灰原の覚悟を理解した上で、いつもの調子を崩さずに返事をする。灰原を椅子に座らせてから、今度はジャックの方へと目を向けた。
「それで、貴方はどうするのかしら。ジャックザマーダー君」
「存外聡いですね」
「“存外”ってところがちょーっと引っ掛かるけど…まあいいわ。協力してくれるのなら協力してくれたらありがたいのだけど。最高のキャスティングが揃ってる中に、最強のジョーカーが現れた訳だし」
「生憎ですが、私の最優先事項は組織の人間の首を切る事です。私は私の意思を最優先に動く。協力は難しいでしょう」
「そう、残念だわ。あ、この子に化けた子が1人いるけどその子は完全に部外者だから優しくしてあげてね」
「了解です」
ジャックは銀髪を靡かせ、部屋から出て行こうとする。その背中に灰原は「待って!」と声をかけた。
「組織の人間は多分1人じゃない。気をつけるのよ」
「ええ、分かっています」
「死んだら、ダメだからね」
灰原のその言葉を聞きジャックはキョトリと目を見開いた。
「“死ね”とか“殺す”とかはよく言われてきましたけど、死んだらダメは初めて言われましたね。心配してくれているのですか?」
「ッ……別に!貴方が死んだら、烏を狩る猟師の数が減るじゃない。狩人は1人でも多い方がいいのよ」
「それもそうですね。では生き残った暁には、何か私だと分かる品物を送らせていただきます。それでは、失礼します」
2人に頭を下げ、部屋を出る。
ジャックはゆったりとした足取りで自分にあてがわれた部屋に入り、いつもの姿へと着替えた。癖のある銀髪、アンダーリムのメガネ、吊り目がちな牡丹色の瞳。黒いコート、黒いズボン、黒いブーツ。
ずっとずっと、会いたかった烏どもがここにいる。それだけで、臓物が煮えるような怒りを感じた。古傷がズキズキと痛みを訴える。舌打ちを一つして、痛み止めの薬をガリガリと噛み砕く。
痛み止めが効いてきた頃、盗聴器の先からポアロの男、安室が火事だと叫ぶのが聞こえてきた。部屋から顔を出すと、車両中に白煙が上がっていた。狂乱状態の乗客達が我先にと先頭車両の方へ避難していくのが見える。
恐らく、これで灰原を炙り出す作戦なのだろう。1人で殺される方がマシと判断した灰原なら間違いなく8号車に向かう。そして、組織の人間は8号車でそれを待ち構えている。
ならば己も最後方に烏を狩りに行くべきだ。
そう判断して、ジャックは足を進めた。
貨物車の内部は、白煙がゆらゆらと漂い、静寂が支配していた。かつての熱がまだ残る車内に、冷たい空気がしんと満ちている。天井に取り付けられた小さな窓からは、薄暗い光がわずかに差し込み、煙の粒子がその光を反射して、かすかな輝きを放っていた。
車両の両端には、布に包まれた大きな荷物が無造作に積み上げられている。中に詰められているのは爆弾だ。その側には1人の女性が立っている。姿は大人になった灰原によく似ているが、別人だ。この人物こそが月下の奇術師、怪盗キッド。コナンに押し切られる形で協力を頼まれた男だ。見事な変装術で“シェリー”に化けている。
列車の揺れに合わせて、荷物が微かに揺れ動き、時折布が擦れ合う音が静かな空間に響く。キッドと向かい合うのは小麦色の肌にブロンドヘアの色男、安室透。コードネームは“バーボン”。灰原が以前所属していた組織の男で、今回ベルモットと共に彼女を殺しに来た刺客の1人だ。
「そう警戒しないで。大丈夫ですよ。僕は君を生きたまま組織に連れていくつもりですから」
「生きたまま?何やら段取りに手違いがあったようね。これだけの爆弾があって生きていられるとは、とても思えないのだけれど……」
キッドが布を退かして爆弾を見せるとバーボンは僅かに眉を顰めた。彼は生かして捉えたいが、ベルモットは何が何でも殺したいのだ。それを察したバーボンが再び誘いをかける。
「仕方ない。僕と一緒に来てもらえますか?」
その時だった、キッドが目を見開いたのは。バーボンは怪訝な顔をする。瞬間、
「伏せなさいバーボンッ!!」
いる筈のないベルモットの声がして反射的に身を伏せた。その時、頭に鋭い痛みと衝撃が走る。
(撃たれた、頭を狙われたッ)
掠った銃弾は額を切り裂き、その整った顔に血が流れる。バーボンは乱暴にそれを拭うと拳銃を取り出し、撃ってきた相手の方に発砲しようとする。だがそれよりも先に肩にナイフが突き刺さり、銃を思わず手放してしまった。
(まずいッ──)
肩のナイフを引き抜き、顔を鷲掴みにして己の首を掻っ切ろうとする下手人の腕を受け止め、思い切り相手の顔を殴り飛ばした。
殴り飛ばされた相手はしかし、壁を蹴り態勢を整えるとバーボンの後ろにするりと回り込む。彼が邪魔で発砲できなかったベルモットは、その一瞬の隙を見て刃物を投げられ、それが腕に突き刺さった為に拳銃を落としてしまう。
落ちたその拳銃は、ジャックが発砲して遠くに弾き飛ばした。だが今度はバーボンがその腕を捻り上げ、拳銃を奪い蹴飛ばした。
「あら、これで全員手ぶらになったわね。どう?せっかくだし話をしましょう、キティ」
ベルモットは悪魔の面を被った人物に普段と変わらぬ調子で声をかける。煙が晴れ、その容貌を見たバーボンはボソリと「まさか、殺人鬼アルシエルか…ッ」と呟いた。そして舌打ちをして、この状況をどう凌ぐべきか頭を悩ませる。そんなバーボンをギロリと殺気混じりの目で睨みつけてから、ジャックは真っ直ぐベルモットを見た。
「醜悪な烏……ずっと探していたんです、追い求めていた」
「始めましてなのに熱烈ね。その執着心、猫というよりまるで蛇だわ」
「ベルモット、組織の女、千の顔をもつ魔女。一つ聞きたい事があります」
「何かしら?私も貴方に興味があるし、一つくらいなら聞いてあげるわよ」
「魔女が……偉そうな口を聞かないで頂きたい。すぐにその首を捩じ切って、ダンバースに晒して差し上げますよ」
「物騒ねぇ。さすが、山猫の子は山猫って言ったところかしら」
ベルモットは余裕のある調子を崩さずに笑う。
そんな様子を見てジャックは更に苛立った様子で舌打ちをする。
「何をそんなに苛立っているのかしら?」
「……貴方達は、つくづく私の神経を逆撫でしてくれますね。怒りで脳みそまで沸騰しそうです」
ジャックは仮面を投げ捨て、その下にある顔を露わにする。彼がお気に入りだと宣言した銀髪の顔だ。
「苛立つに決まっているだろう!?お前らの事を考えない日は無かったんだから!この顔に覚えはないかベルモット!?お前ら組織の誰かが、生きたまま焼いて殺した警官の顔だ!」
「さあ、知らないわ。少なくとも私じゃないわね。それに、殺した人間の顔を一々覚えている人なんてウチにはいないんじゃないかしら?」
瞬間、ジャックは刃物で切り掛かるも、バーボンが慌ててそれを阻止する。何度か拳を打ちつけ合うと、興奮で再び出血が始まり、一瞬バーボンの視界が塞がる。その隙を見逃さずジャックはバーボンの髪を乱暴に掴んで引き寄せると、渾身の膝蹴りをその腹に叩き込んだ。そして思い切り咳き込むその顔を蹴り飛ばす。壁に叩きつけられたバーボンは思わず血の混じった唾を吐き捨てる。
「貴方に用はありません。引っ込んでいてください」
「酷いなぁ、僕とも遊んでくださいよ」
「本当に……腹立たしい方ばかりですね」
ジャックは大きなサバイバルナイフを握る手に力を込める。対するバーボンは、拳を固め、体を低く構えた。ボクシングの構えが、彼の体に染み付いた習慣であることを示している。
ジャックは舌打ちを一つして、先に仕掛ける。刃が鋭い弧を描いて相手に迫る。だが、バーボンは一瞬の動作でそれをかわし、鋭い右ジャブを相手の顔面に放った。ジャックはその一撃を手のひらで受け止めて防ぎ、すぐさま反撃に転じる。鋭く突き出されたナイフが、脇腹を狙って突き込まれるが、バーボンはそれを一歩下がって避け、返す刀のように左フックを振り抜いた。
そのフックが顎にわずかに触れるも、ジャックは体をひねってその衝撃を和らげる。
次の瞬間、ジャックが踏み込んだ。低い姿勢から鋭くナイフを振り上げ、バーボンの目を狙う。バーボンはギリギリの動きでそれを避け、反撃のクロスを繰り出した。拳が相手の脇腹に突き刺さり、ジャックが短くうめき声を上げる。
「下がりなさいバーボン」
反射的にバーボンが後退すると、銃弾が彼の横を通り過ぎていった。通り過ぎた銃弾は的確にジャックの体を狙う。数発は外れたが1発が脇腹のあたりに命中した。防弾チョッキを着ているため大した怪我にはならなかったが、当然痛みはある。
床を跳ねるように動き、後退するジャックが貨物車の扉の前まで辿り着いた。行き止まりである。逃げ場が無くなったのだ。
「bye-bye kitty。シェリー共々先に地獄に落ちなさい」
その瞬間、連結部分が爆発して8号車が切り離される。ジャックはその小さな爆発に巻き込まれながらも、何とか大怪我を負わずに8号車の上に避難できた。元より人が近くにいると考えていたのか、そこまで殺傷力のある爆弾では無かったのだ。しかし車両が離されてしまった為、もはやベルモットに手出しができなくなった。
爆発で大きく破れた作り物の顔の下から、目元にかかるくらいの長さの黒い髪と鋭い青藤色の瞳が覗いている。
爆破の煙で顔は見られていないだろうが、ジャックは咄嗟に左手で破れたマスクの下を隠した。しかし指の隙間から覗くその瞳には、抑えきれない激情が浮かんでいる。
「くたばれ阿婆擦れ」
「やぁね、貴方の母親と一緒にしないでよ」
ベルモットがスマホを操作した瞬間、貨物列車は爆発した。鉄と火花の破片が四方八方に吹き飛んで行く。爆風は大きくうねり、最後尾の車両を瞬く間に破壊した。鉄骨がねじれ、積まれていた荷物が火に包まれながら空中に散らばる。
列車はその衝撃で全体が揺れ、残された車両たちは、後ろから突き上げる激しい風圧に押されるように進んでいく。青空に突如として浮かび上がった炎の柱が、爽やかな空気を裂いて上昇し、燃え盛る残骸が軌道を離れて落ちていく。燃え尽きた金属片が、陽光を鈍く反射しながら、線路の下へと消えていった。
「死んだ、んですかね?」
「猫に九生ありなんて言うけれど、死んでくれていると助かるわ」
「彼は何者ですか?」
「あら、探り屋なのに知らないのね。あの子猫の事」
ベルモットはタバコに火をつけて落ち着いた様子で煙を吸う。そしてフゥと煙を吐き出してから笑う。
「自分で調べたらいいわよ」
そうして、崩れゆく橋には目を向けずベルモットは去っていく。バーボンもまた暫し爆破された車両を眺めたのち、去っていった。
後日、青空がどこまでも澄み渡っている日の事だった。雲ひとつないその青は、深く透き通っている。そんな空とは裏腹に灰原の心は曇っていた。
車両爆発のニュースを何度もチェックしては身元不明の遺体が上がっていないかと調べているのだ。そんな時、
ピンポーン。
と、家のベルが鳴らされた。博士は今トイレにいる為、代わりに灰原が出る。差出人不明の小さな宅配便だった。しかも博士ではなく宛名は灰原哀。不審に思いながらもサインをしてそれを受け取り、部屋に戻る。
少し警戒しながらもその箱を開ける。
「ッ!」
思わず目を見開いた。
そして呆れたような、安心したような笑みを浮かべる。
中に入っていた小箱に書かれていた文字は“TOM FORD”。箱から取り出し香水瓶を手に取ると、そっとキャップを外し、わずかに傾けた。甘く優雅な香りが、静かに空気中に広がり始める。鼻先に漂うその香りに、灰原は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。華やかでありながら、どこか懐かしさを伴うその香りが心を穏やかに包み込む。
「思いのほか趣味がいいじゃない」
灰原はそう言って、嬉しそうに少し口角を上げたのだった。