令和のジャックザリッパー   作:佐倉シキ

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盈月の古戦場 承

 

 

 

話を一通り聞き終えたコナンたちは、それぞれの手元に残されたわずかな資料と、火災で焼失してしまったという資料の話について黙考していた。彼らのいる食堂は、既に夕食が終わったこともあり、静まり返っていた。壁に掛けられた燭台風の間接照明が、煌びやかな天井の梁をぼんやりと照らし、夜の帳が下りた今では、その静寂さがやけに重たく感じられる。杵島と松本は「少し席を外す」と言い残し、どこかへ向かっていった。どうやら、仕事が残っているようだった。

 

室内には、埋蔵金の調査とは関係のない杵島グループのスタッフたちが数名、片付けを始めようと待機しているだけである。小五郎はというと、すでに酒が入って出来上がってしまっており、椅子にもたれて豪快ないびきを立てていた。子どもたちの姿もすでになく、すっかり飽きて部屋に戻ってしまったらしい。

 

「やっぱり、怪しいよな」

 

低く呟いた服部の声が、静まり返った空間にぽつりと響いた。彼の声には、どこか確信に近いものが含まれていた。

 

「ああ、ただの埋蔵金絡みの殺しとは思えねぇ」

 

コナンが答えると、その視線は食堂の隅にまとめられた火災関連の資料へと向いていた。仄かな照明の下、重ねられた紙束の輪郭が不気味に浮かび上がる。

 

「埋蔵金欲しいのに、情報に詳しい関係者殺してどないすんねんっちゅう話やし。殺したら何も聞けへんぞ」

 

服部の言葉にコナンは頷く。確かにその通りだ。暗号が未解読であるにもかかわらず、すでに関係者が次々と命を落としているという事実が、状況の不可解さを際立たせていた。

 

「そもそも、ジャックの存在が気にかかる。アイツは金のために殺しをするようなやつじゃねぇ」

 

コナンの声にわずかな鋭さが宿る。そう、あの“殺人者を殺す殺人鬼”アルシエルは、金目当てで動く人間ではない。過去の事件を見ても、彼の人柄を思い出してもそれは明らかだった。

 

「人殺しだけを殺す殺人鬼、か」

 

呟くように服部が繰り返す。言葉の端々に、得体の知れない存在への警戒が滲む。

 

「つまり、奴は殺人事件についての調査……もしくは、なんらかの殺人事件の犯人を殺害する為に来ている」

 

コナンの冷静な分析に、服部は目を細めながら頷いた。ジャックが姿を現した以上、何か重大な事件が背後にある可能性が高まったのだ。

 

「となると、考えられるのはあれやな」

 

そう言って服部は、目線でまとめ置かれている火災に関する資料を示した。

 

「埋蔵金狙いの殺害って、あっちやったんとちゃうか」

「可能性はある。関係者に話を聞いてみたいところだな」

 

コナンが同意の意を示したその時、不意に声が割り込んできた。

 

「あ、それなら稲村さん子供おるって言ってたで」

 

和葉だった。彼女は先ほどまで、他の調査班の人に案内されて席を外していたが、ちょうど話の最中に戻ってきたらしい。

 

「さっき桃花さんにオススメの観光地教えてもらってん。そん中で、ついでって感じで事件の参考になるかもって言われてな。亡くなった4人の家族について聞いててん」

「おお、良くやったやん和葉」

 

服部が心からの賛辞を送ると、和葉は少し照れたように笑った。

 

「確かリーダーの稲村さんのお子さん、晶さんって言うとったな。今近くの道場におるらしいで。うちらと同い年で剣道部の子らしいわ」

「そら話も合いそうで助かるわ」

 

和やかなやり取りの最中、服部の耳が何かを捉えた。鋭く目を向けると、部屋の片隅で会話を交わしている二人の男が目に入る。

 

桃花(ピンク)さんから頼まれて火災の資料取りに来たんですけど」

「……ん?ああ、それならあっちですよ。もう終わったし持っていって良いと思います」

「ありがとうございます。後で返しますね」

「405号室に届けてもらえます?」

「了解です」

 

何気ない会話。しかし、その中にある単語が服部の心に引っかかった。今やってきた男の一人は、確か杵島の部下の一人だったはずだ。調査班の仲間の1人である彼は手に資料を持ち、そそくさと部屋を後にした。

 

「そろそろ片付けても良いかな?」

 

スタッフの問いかけに対し、コナンたちは頷いた。やがて資料がひとまとめにされ、片付けが終わりかけたその瞬間。

 

「ああッ!!?」

 

服部が突然声を上げた。食堂内に鋭い音のように響く叫びに、周囲の空気が一瞬で緊張に包まれる。

 

「うるさいわ!」

 

和葉が顔をしかめながら服部をたしなめるが、彼は何かに気がついた様子で、すでに落ち着きを失っていた。

 

「すまん和葉!オレちょっとやることできたから先に稲村さんの子供に話聞きに行ってや!後から合流するから!」

「ええ!?何聞いたらええとかアタシ分かれへんよ!?」

「くど……コナン君連れて行けや!そいつに全部聞くこと言うといたから!」

「ええ!?ちょお待ってや!」

 

和葉が慌てて服部の背中を追いかけようとするも、すでに彼は走り出していた。旅館を駆け抜ける服部は、廊下の突き当たりの高いところに飾られていた刀へと手を伸ばし

 

「すまんコレ借りるで!」

「え!?あ、お客様ッ!?」

 

と、近くにいたスタッフに一声かけたきり、そのまま勢いよく去っていってしまった。

 

「なんやの……」

 

唖然とした表情で和葉はその場に立ち尽くす。頬を膨らませ、思わず唇を尖らせたその表情には、どこか拗ねたような可愛らしさがあった。

 

「和葉ねぇちゃん、どうしたの?」

 

片付けを終えたコナンが声をかける。和葉の表情から、ただならぬ事態があったことを察したようだ。

 

「平次がどっか行ってもうたわ」

「どっかって?」

「知らん知らん!あんな奴のことは知らん!コナン君、ウチらで平次の度肝抜かすような証拠掴んだろ!」

 

和葉はそう宣言すると、ずいとコナンの腕を取って力強く引っ張る。

 

「行こ!」

 

その言葉に、コナンは若干引き気味になりながらも、仕方なく彼女の後に続いた。服部の突然の行動が気にかかるものの、今は和葉の勢いに押され、彼女と共に近くの道場へと向かうしかなかった。

 

 

 

 

*  *  *

 

 

 

 

もうすぐ満月を迎えるという月が、雲の切れ間から銀の光を覗かせていた。風のない夜の廊下を、一人の男が静かに歩いている。天井灯の明かりがまばらに照らす廊下は、長く伸びた影をその足元に投げかけている。

 

男は、先ほど食堂から持ち出した火災に関する資料の束を脇に抱え、時折立ち止まっては中身を確認していた。資料のページをめくるたび、紙の擦れる音がひそやかに夜の静寂を裂く。彼はそのすべてをスマートフォンで写真に収めていくと、器用に指先を動かしながら画像の表示を切り替え、何かと見比べていた。

 

その背後から、不意に声がかけられる。

 

「なんか気になる事でもあったん?」

 

硬質な声が廊下に響いた。振り向くと、そこには服部平次が立っていた。鋭い眼光と共に口元には不敵な笑みを浮かべ、まっすぐに男を見つめている。

 

「ええ、酷い火事でしたから……」

 

男は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに笑顔を作って応じた。しかし、服部の声がその芝居を一刀両断にする。

 

「そう言う下手な芝居は要らんねん」

 

その一言に、男の顔から笑みが剥がれ落ちた。服部は一歩、男に近づきながら手に持った刀の柄をギュッと握り締めた。刀を構える服部の姿には一切の迷いがなかった。

 

「その火災が放火で、4人を殺した犯人がいる。その証拠でも見つけたんかって聞いとんねん。ジャックザマーダー!」

 

低く唸るような声と共に、服部は刀を抜いた。鋼のような視線で相手を睨みつけながら、その刃を一直線に男へと向ける。

 

「前回は気ぃ付かんかったけど、今回は一発でわかったわ、おかしいってな。なんや忙しかったんか?下調べが雑やったな殺人鬼」

 

服部は皮肉な笑みを浮かべつつも、決して隙を見せなかった。その動きはまるで虎が獲物を狙うかのように静かで鋭い。

 

「桃花さん、確かに本名は“ピンク”って読むらしいけど、杵島さんがチラッと言うとったで。会社ではピンクさんって呼ばれとるけど、グループ内では“ももか”って呼んどるって。お前は今、調査グループの人に化けたのに当たり前のように“ピンク”って呼んだな。特殊な読み方はしっかり把握してきたけど、人間関係までは調べきれへんかったんか」

 

服部の言葉に、男の顔に浮かんでいた表情が音もなく消える。そして、ゆっくりと瞬きをすると、無言で片手を顔へと上げた。

 

「なるほど、そうでしたか」

 

男はそう呟くと、手で自らの顔をつかみベリベリと、皮膚のような何かを剥がし始めた。

 

「その顔、拝ませてもらうで」

 

服部は舌を鳴らし、目を凝らして相手の正体を見逃すまいと身構える。だが、次の瞬間、暗い廊下が眩い光に包まれた。突如として焚かれた閃光弾のような閃光に、服部は反射的に目を閉じた。

 

強烈な白光が過ぎ去り、数度瞬きをしながら視界を取り戻した服部の目に飛び込んできたのは、まるで夜そのものを纏ったかのような不気味な存在だった。

黒いロングのモッズコートを羽織り、フードを深く被ったその男。足元には泥を弾くような無骨なミリタリーブーツ。手には黒革の手袋がぴたりとはまり、首元は厚手のタートルネックに覆われていた。肌の一部も露出させぬその姿は、まるで影が人の形を取ったかのようだ。何より異様なのは、その顔を覆う仮面。悪魔のような意匠の面が、闇に浮かび上がるように服部を冷たく見つめていた。

 

「初めまして、ではありませんが。貴方は以前、私が去るまで私の存在に気がついていませんでしたよね。なので、改めて名乗ります。初めまして、西の高校生探偵。慧眼でしたね。そう、確かに私こそが殺人鬼、ジャックザマーダー」

 

その言葉に、服部の表情がさらに険しくなる。怒りの炎が彼の眼に燃え移った。

 

「ようやっと会えたな!殺人鬼!お前だけは許せへん、次会ったら1発ぶん殴ってやるって決めとってん!」

 

服部は刀を構え、足を一歩踏み込ませる。全身から迸る怒気に、まるで空気すら緊張しているようだった。

 

「大抵の方は私のことを嫌いますよ。最近はおかしな方も多いですが……」

 

ジャックは淡々と応じた。だが、服部は即座に怒声を浴びせかける。

 

「ちゃうわアホ!人殺しなんてようさんいるし、そいつら全員嫌いだけどもお前だけはそうやない。それ以上の事があるんや!」

 

拳を強く握りしめ、刀をわずかに前へ傾ける。その怒りの根源を、服部は叫んだ。

 

「お前……よくも和葉に化けて人を殺しよったな!!」

 

その言葉と共に、服部の顔は怒りに歪んだ。自分の不覚、自分の想い人を騙られた屈辱、そして何より、和葉という存在を利用され、穢されたという思いが、彼の心を強く打ち鳴らしていた。まるで彼女自身の人生に泥を塗られたような、深い憤怒が、服部平次という少年の瞳に燃えていた。

 

服部は、怒りのままに刀を振り下ろす。銀の月明かりが廊下の窓から差し込み、彼の刀身に一筋の光が走る。肩を狙ったかのような、迷いのない大振りの一撃。だが、それは本命ではない。彼の狙いは、あくまで返す刀での脇腹への攻撃だった。初撃は、かわされることを前提にしていた。だからこそ、確実に次を叩き込むための布石だった。

 

しかしジャックは、その刃を前にしても、ただ静かに佇んでいた。逃げも、避けも、怯えもなく、ただその場に立ち尽くしていた。

 

「ッ!?」

 

異様な無反応に服部の瞳が見開かれる。一瞬、鼓動が跳ねた。もしもこのまま刀を振り下ろしてしまえば、犯罪者といえども大怪我を負わせてしまう可能性があった。咄嗟に攻撃を変え、服部は握る刀の柄でジャックの顔面を殴りつけた。

 

ズンッ、と重い手応えが服部の掌に走る。確かに柄が顔に命中した感触だった。陶器が砕けるような音と共に、ジャックの仮面が激しく割れ、その体が反動で床を転がった。仮面の破片がばらばらと飛び散り、音を立てて跳ね返る。床を転がったジャックは受け身を取り、壁を背にしてすぐに立ち上がるが、その動きは明らかに鈍っていた。

 

彼は頭を抑え、わずかにぐらつく体を立て直しながら、フラフラと首を振る。痛みに顔をしかめるその姿からして、受けた衝撃は相当だった。

 

「何のつもりや……?」

 

服部は、怒りとも戸惑いともつかぬ声で問いかける。相手が自分に対して防御の構えすら取らなかったことが、どうにも腑に落ちない。砕けた仮面の下から現れたジャックの偽物の顔。銀髪に、牡丹色の瞳。その容貌は、以前にコナンから聞いていた通りの姿だった。

 

「貴方からの一撃は、受けるのが筋というものでしょう」

 

淡々とした口調だった。だが、その言葉の底には、揺るぎない覚悟のようなものがあった。

 

「はぁ?」

「私は、過ちを犯しました。その結果、怒りを買ったのは当然のことです。私はその怒りの前に黙し、悔い改める者でありたい」

 

ジャックは、そう告げると、すっと頭を下げた。その動きにはまるで芝居がかった様子はなく、むしろ静かで真摯な空気があった。そのあまりに真面目すぎる態度に、服部はぽかんと口を開け、思わず目を丸くする。

 

「軽率でしたね。そこまで考えが及んでいなかった。なるほど確かに、他者の顔で罪を犯すのは、その方への酷い無礼だ。以降、一切そのようなことはないようにしましょう」

「はぁ?お、おお。そうしろやボケ」

 

言い返した服部自身、なぜそんな返しになったのか分からなかった。怒りの火は消えていないはずなのに、どこか調子を狂わされた感覚に襲われていた。だがすぐに気を取り直し、頭を振ると刀を構え直す。そしてその目に再び鋭い輝きが戻る。

 

「……お前がどう言うやつかは大体分かったわ。せやから、これで怒りは置いとく。けどな、ここから先は、ただの勝負や」

 

真剣な眼差しが、目の前の殺人鬼をまっすぐに捉える。もはや私怨ではない、探偵としての信念の戦い。

 

「探偵が殺人鬼見つけて逃す理由はないねん!」

 

その瞬間、服部が一気に距離を詰めて切りかかる。それに対して、ジャックは少ない言葉で応じた。

 

「1発は受けますが、2度目はない。殺人鬼が探偵に構ってあげる理由もありませんしね」

 

その直後、彼は躊躇なく拳で背後のガラスを叩き割った。飛び散る破片と共に、黒い影が外へと躍り出る。

 

「待てボケェ!!」

 

服部も即座にそれを追い、廊下を蹴って窓へと飛び出す。月光が照らす屋根瓦の上、彼らは屋根の勾配をものともせずに駆け上がり、頂上でぶつかり合う。

 

「てぇやぁ!!」

 

服部の叫びと共に振るわれた刃が何度もジャックを襲うが、そのすべてが紙一重で躱される。右に、左に、振り下ろして、返す刀で、様々な手段で攻撃を繰り返すも、なかなか打撃をぶつけられない。ジャックの動きには一片の無駄もなかった。

そして服部の渾身の一撃を、いつの間にか引き抜いていたタクティカルナイフが正面から受け止めた。金属が激しく打ち鳴らされる。その瞬間、ジャックは刃物を傾けて相手の刀を受け流し、バランスを崩した服部の足元を狙う。

 

「なっ──!?」

 

足払いを食らい、服部の身体が浮いた。更にジャックに刀を奪い取られ、体勢を崩した服部はそのまま屋根の傾斜を転がり落ちていく。次の瞬間、彼の身体は屋根の端を越え、夜の空中へと投げ出された。

 

「ッ、くそっ!」

 

咄嗟に身を捻って落下を受け流すようにするが、それでも屋敷の下階の屋根に背中から叩きつけられる。

 

ゴンッ!!

 

激しい衝撃が全身を貫き、肺から空気が一気に押し出される。視界がぐらつき、頭が軋むように痛む。

 

「ッ……イッテェ……」

 

呻きながら、服部は身体を起こす。肘と背中に強い痛みが残る。どこかを打撲したのは明らかだった。だが、それでも構わず立ち上がる。まだ奴は近くにいるはずだ。そう思い、すぐさま屋根をよじ登り、即座に周囲を見回す。だが、どこにもジャックの姿はなかった。

 

あれほど目立つ銀髪の男が、気配も残さずに消えている。屋根の上での戦いは、まるで幻だったかのように静寂を取り戻していた。

 

ただ、屋根の上にぽつんと残されていたのは資料の束だった。ご丁寧にも風で飛ばないように刀で突き立てられていた。それらは、最初にジャックが手にしていた、あの火災に関する資料だ。見覚えのないものもある。火災の新聞記事や、野次馬たちのSNSの写真、他にも調査班に対する資料も残されていた。

 

「やっぱあいつ舐めとるやろ……探偵に施しなんて残していきよって」

 

服部はそれらを見下ろし、深く息をつく。その目には消えた殺人鬼への警戒と、探偵としての新たな覚悟が宿っていた。

 

 

 

 

*  *  *

 

 

 

 

一方その頃、和葉たちは稲村の子供に話を聞くべく、近くの道場を目指していた。夏の夜とはいえ、日が沈んだあとの風は思いのほか涼しく、肌に触れるたび汗ばんだ体を心地よく冷ましてくれる。耳元でさざめく虫の音が風に流され、静けさの中に雅な気配を与えていた。蘭、和葉、そしてコナンの三人は、涼やかな夜風に髪を揺らしながら、舗装された細い山道を並んで歩く。

 

やがて、古めかしい佇まいの道場が姿を現す。黒ずんだ木の外壁、瓦屋根の端には風雨にさらされて丸みを帯びた苔がこびりついている。しかしその古さには不快さがなかった。敷き詰められた砂利は整えられ、庭の隅には立派な松が静かに枝を広げている。手入れの行き届いた庭木と、隅々まで掃き清められた縁側が、使っている人の几帳面さを物語っていた。

 

「ごめんください」

 

静かな声で蘭が玄関の引き戸を開けると、僅かに軋む音が夜に混じった。しかし、応答はない。室内には明かりが灯っており、人の気配があるのは間違いないが、どうやらすぐ傍にはいないようだった。見知らぬ人の家に踏み込むことに多少の罪悪感を覚えつつも、三人は靴を脱ぎ、慎重に板張りの廊下を進む。

 

「ん?」

 

和葉がふと立ち止まり、首を傾げた。周囲に神経を研ぎ澄ますと、彼女の耳に馴染みのある音が届いた。

 

(これは……刀を振る音や……)

 

風を切るような澄んだ響き。それは単なる素振りではなかった。集中した者だけが放てる緊張感、張り詰めた空気がその音に込められていた。

 

「ええ音させとるやん」

 

和葉がぽつりと呟いた。誰かが確かにいる。それも、相当の腕前だと直感できる気配だった。好奇心に導かれ、和葉が足を進めると、蘭とコナンもその後に続いた。

 

やがて開けた襖の向こうに、剣を振るう一人の人物の姿が見えた。背筋を伸ばし、正確無比な軌道で空を斬るその後ろ姿。短く揃えられた黒髪は艶やかで、品のある濃い青の着物が、引き締まった体躯に心地よく沿っている。刀を振るたびに、着物の袖が風に揺れ、静謐の中に凛とした風格を漂わせていた。

 

その人物はやがて刀を静かに納めた。その一連の動きには無駄がなく、鍛錬された流麗な所作に、和葉と蘭は自然と息を呑んだ。

 

「カッコええやん」

「ね、ちょっと憧れちゃうかも」

 

思わず声を上げる二人を見て、コナンはギョッと目を見開いた。彼女たちの視線は完全にその人物に釘付けだった。

 

(え!?)

 

蘭がそんなタイプを好むなんて想像もしていなかったコナンは、内心で焦りを覚える。新一に会いたがっていた彼女が、ぽっと出の知らない男に見惚れているなんて……。

 

「ら、蘭ねぇちゃんはああ言う人が好みなの!?新一にいちゃんじゃなくて!?」

 

必死に声をかけると、蘭はきょとんとした顔で振り向いた。

 

「え?何言ってるのコナン君。新一は今関係ないよ」

 

その声はまるで気にしていないように明るい。

 

「やっぱ同じように武術を嗜む人としてさ、あれだけの集中力を見るとカッコいいなって思うんだ」

「ね、王子様みたいな感じや」

「分かる!なんか少女漫画とかに出てきそうな感じ」

 

二人が無邪気に語るその言葉に、コナンの眉間にはしわが寄った。まるであの人物が自分の競争相手かのような気分にさせられている。それがたまらなく悔しく、ふてくされたようにその人物、マッシュショートの髪型をした後ろ姿を睨みつけた。

その視線に気づいたのか、人物がふと振り返った。微かな驚きとともにこちらを見やると、優しげな眼差しが三人を受け止める。そして柔らかな声で問いかけた。

 

「こんばんは、どちら様かな?」

「あ、ごめんなさい。急に入ってきたりして」

 

蘭が丁寧に頭を下げると、相手はにこやかに微笑んだ。

 

「良いんだよ。誰か尋ねてくるかもって話は、昼頃に聞いていたからね」

「そうなん? なら安心したわ。アタシは和葉、遠山和葉。大阪から来てん」

「私は毛利蘭です。こっちはコナン君」

 

蘭に促され、コナンは渋々口を開いた。

 

「江戸川コナンです」

 

そのぶっきらぼうな挨拶に、相手はくすっと笑って言った。

 

「ふふ、可愛いね」

 

子供扱いされたその一言に、コナンはさらにむっと顔をしかめた。

 

「初めまして。僕は稲村(あきら)。君たちが父さんの話を聞きに来た人?」

「ええ、そうです。良ければ少しだけお話し伺っても良いですか?」

「いいよ。これでも一人娘として結構可愛がられてきたからね。父さんは僕にいろいろ話をしてくれたし、力になれると思うよ」

 

その穏やかな語り口を聞いた瞬間、コナンの目がわずかに見開かれた。

 

(一人娘……?)

 

てっきり男だと思っていた。しかし、どうやら女性だったらしい。その事実に気づいた瞬間、嫉妬に駆られていた自分の思考があまりにも滑稽に思えて、頬がほんのり赤らんだ。

 

 

そして、この出会いが後の事件を大きく動かすことになるのだった。

 

 

 

 

 

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