令和のジャックザリッパー   作:佐倉シキ

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嘘で暴く真実 上

 

 

 

これは、とある新聞の記事の内容だ。

 

 

 

 

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【呪われた“青の刃”に魔の手 私設博物館に予告状】

 

今月某日未明、怪盗キッドを名乗る人物から、神奈川県内にある私設博物館「ジャリール博物館」宛てに予告状が届けられた。

予告状には例によって、独特の形式で展示物の一つであるナイフを盗む旨を示す一文が記されていた。

警視庁はこれが正真正銘の“怪盗キッド”による犯行予告であると断定し、警備体制の強化を博物館側に要請した。展示品を所蔵する同館も関係者以外の立ち入りを制限し、今夜の展示時間を前倒しして終了するなど警戒を強めている。

今回キッドが狙っているとみられるのは「アズラエルの刃」と呼ばれる一本の儀礼用ナイフである。中東、アラビア半島にあったとされる旧貴族家系の家宝で、柄の部分に巨大なブルーサファイアが埋め込まれている。宝石の直径はおよそ6センチ、推定価値は数億円以上とも噂される。

しかし、注目されているのはその美しさだけではない。このナイフには、その所有者の命を奪うとされる“呪い”の逸話が残されているのだ。

中東に伝わる伝承によれば、このナイフは「家族の血によって真の輝きを増す」と信じられており、実際、初代の所有者であるジャリール家では、当主の父親が一家心中を図り、妻と子らを刺殺。後に使用人達も殺害し、最後に自らも命を絶つという凄惨な伝承が残されている。その現場にこのナイフが落ちていたという。

以後、このナイフは長らく行方不明とされていた。だが近年、あるコレクターを通じて現所有者である文化財収集家である久保寺辰夫氏の手に渡り、今回初めて一般に向けて展示されることとなった。

「確かに曰く付きの品ではあるが、そういった歴史的背景も含めて文化財。私どもは呪いよりも、そこに刻まれた人間の歴史にこそ価値があると考えております」と話すのは、ジャリール博物館の広報担当者。

なお、警視庁ではキッドが過去に幾度も宝石を予告通りに盗み出し、関係者の目の前から忽然と姿を消した前歴があることから、今回も高度な潜入、変装、逃走手段を用いるものと見ている。

 

 

 

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新聞記事に視線を落としながら、目鼻立ちの良い青年が小さくため息を漏らす。

 

「本当にキッド、来るんですかねぇ……」

 

困ったように呟いたその声は、静かな会議室の空気に溶けていった。

場所は神奈川県、厚木市の高層マンション。その最上階に併設された私設博物館、ジャリール博物館。アラビアの古代貴族、ジャリール家の歴史と遺物を集めた施設であり、豪奢ながらもどこか重々しい空気を纏っている。

 

博物館の会議室には関係者7名が集まっていた。中央に座るのは、久保寺辰夫。細身の体に整えられた立派な髭を蓄え、年齢は67。マンションと博物館のオーナーであり、厳かな威厳を漂わせていた。その隣には眼鏡をかけた理知的な顔立ちの男、久保寺一紀。辰夫の息子で36歳、この博物館の館長を務めている。

 

会議室の壁際には、顎髭を生やし髪にウェーブをかけた男が立っていた。綾野茂、41歳。資料の収集と保管の責任者だ。斜め向かいの席には、そばかす交じりの茶髪が印象的な女性、増田明日香が座っていた。広報担当で30歳。その隣では丸眼鏡をかけたおかっぱ頭の中嶋紗季が、淡々と展示品管理の報告書を手にしている。彼女もまた30歳だ。

 

そして先ほどの声の主、早川ジュン、21歳。博物館の清掃員で、もさっとした黒髪に気弱そうな瞳が印象的な青年である。椅子の端にちょこんと座り、場違いな緊張を隠せない様子だった。

 

「来るさ、必ずな」

 

低く重い声が響いた。

全員の視線が一人の男に集まる。声の主は捜査二課、知能犯捜査係、警視庁の中森銀三警部。長年怪盗キッドを追い続けてきた捜査官は、長椅子にどっかりと腰を下ろして手元の資料に目を落としながらも気配を緩めない。

 

「なんなら、もうこの中の誰かにもう化けて忍び込んでるかもしれんぞ?例えば、あんたとかな」

 

ふとした笑みを浮かべながら中森は不安げな早川に近づくと、唐突にその頬を思い切りつねった。

 

「いひゃいいひゃい、いひゃいですよ……!」

 

早川が痛みを嫌がって顔を捻りつつ、情けない声を上げる。だが引っ張られても皮膚はずれず、マスクも剥がれず、どうやら本物と確認できたようだった。

 

「まあいい、予告時間はまだまだ先だしな。そんなことより、それが噂の……」

「“アズラエルの刃”、です」

 

中森の視線がテーブルの上の黒い箱に移ると、隣に立っていた中嶋が静かにその蓋を開けた。空気がぴんと張り詰める。そこに現れたのは、細やかな宝飾が施された一本のナイフ。

 

「ジャンビーヤ、と呼ばれるアラビアで使われていたダガーですよ」

 

中嶋の言葉に、数人が無意識に身を乗り出した。刃はわずかに湾曲し、両刃であることが一目で分かる。柄と鞘には繊細な装飾が施されており、何より目を引いたのは、その柄に嵌め込まれた大きな青い宝石。“アッザの涙”と呼ばれるブルーサファイアである。

 

「これが奴の狙うブルーサファイアか。アッザの涙……アッザって何だ?」

 

眉をひそめた中森に、綾野が即答した。

 

「アッザというのは我が博物館に多く飾られる貯蔵品の初代持ち主、ジャリール家の末娘の名前でね。一家心中が起きた際、最後に殺されたのがそのアッザだったんです。発見時このナイフはアッザの胸に突き刺さっており、彼女の涙が宝石に滴っていた。そのことから、アッザの涙と呼ばれるようになったとか」

「嫌な由来だな……」

 

ナイフの妖しい輝きが不吉な記憶を封じ込めているかのように見え、中森は顔をしかめた。

 

「しかも何が恐ろしいって、歴代の持ち主も必ず事件を起こしてるらしいですよね。みんな死んじゃうから、死の天使アズラエルの名前がそのままこのナイフの名前になった」

 

増田が声を潜めて言うと、中嶋も頷いた。

 

「そうそう、確か前の持ち主もこの刃物で刺されて」

「その話はもう良いだろう!」

 

重く響く声がその空気を断ち切った。

辰夫がいつになく強い口調で遮ったのだ。自分でも驚いたのか、すぐに軽く咳払いをして空気を整える。その姿に、一瞬だけ室内が静寂に包まれた。

 

「我が博物館の展示物に、呪いだの何だのでケチをつけたくない。呪いなんてものは存在しないのだから」

 

そう言い放つと、辰夫は疲れたように、しかしどこか頑なにため息をついた。

 

「大切なのは、怪盗キッドが本当にこのナイフを盗んでいくのかどうかです」

 

言葉を続ける辰夫に、中森が即座に問いを投げかける。

 

「そういやぁ、警備はどうなっているんです?」

 

その問いに、辰夫は微かに眉をひそめて口を開いた。

 

「どうもこうも、我が社は鈴木財閥ほど財力があるわけではありませんから、普通の警備員を配置するくらいしか出来ませんよ……」

 

どこか自嘲を含んだ口調。確かに、鈴木財閥のような桁違いの資本力を持つ企業に比べればここはただの私設博物館に過ぎない。普通の警備員を雇うくらいしか出来ないのだろう。当然、桁違いのトラップなんてものは存在していない。

 

「なら、我々警察が人手を貸し出すにして……展示場のシステムは?」

 

詰め寄るような中森の言葉に、辰夫は静かに首を振りながら答える。

 

「普通の博物館と同様です。ただ、アズラエルの刃はこの博物館の目玉ですから、個室の真ん中にポツンと配置することになりますね。たくさん人が入ってもみれるように」

 

そのまま彼はナイフを手に取り、すっと立ち上がる。中森らを促しながら、重い足取りで展示室へと向かった。廊下には薄暗い照明が灯され、窓の外には厚木市の街並みが夕焼けに染め上げられていた。

 

そうして、辿り着いた扉の先に広がっていたのは、無機質ながらもどこか神聖な空気を纏った展示室。個室の奥に鎮座するのは、ガラス張りの展示ケース。その前には平たい椅子が整然と配置されている。壁にはジャリール家の悲劇を記したパネル、そしてその隣には、やや場違いにも見える大きめのロッカーが一台。

 

「このロッカーの中とか、怪しいんじゃねぇの?」

 

と、中森が呟きながら近づき、勢いよく扉を開けた。だが、そこに隠し通路や秘密の機構は一切なく、ただ清掃用具が几帳面に並んでいるだけだった。拍子抜けするように中森が周囲の壁にも目を走らせるが、やはり何の変哲もない。監視カメラも最低限。出入り口とナイフを映す、わずか二台だけである。一つだけある窓も、別に強化ガラスですらない普通のものだ。一般人でも破壊できてしまう。

 

「うーん、シンプルだ。こりゃ簡単に盗み出されそうだな」

 

中森の額に皺が寄る。鈴木財閥の持つ施設の警備体制に慣れている者からすれば、あまりにあっけない。

 

「鈴木財閥の対策とか半端じゃないですもんね。ベルツリータワーとか、銀座の交差点とか!大きい水槽の時もありましたもんね!」

 

増田が目を輝かせて語る。対照的に、一紀はその興奮に困り顔で応じる。

 

「財力があまりにも違うから、比べないでくれると助かるかな……」

 

そう言って苦笑しながら頭を掻く一紀。展示室の照明が、展示物に反射してほのかに壁を照らしていた。

 

「そういえば、キッドといえば……キッドキラーのあの子はいないんですか?」

 

ふとした調子で放たれた言葉に、中森が肩をすくめる。

 

「ん?あぁ、そりゃまぁ、平日だし学校行ってるんじゃないのか?」

「キッドキラーがいれば防いでくれるかもって思ったんだけど」

 

軽い気持ちで呟いたその言葉に、思わぬ方向から反応が返ってくる。

 

「あんたは警察を馬鹿にしてるのか……コスプレ探偵もキッドキラーも、次郎吉の爺さんがいなくたって……ワシらが必ず、怪盗キッドをとっ捕まえてやる!」

 

強い意志と共に中森は宣言した。拳をぎゅっと握りしめ、瞳には長年の因縁に対する執念が宿る。そのまま彼は踵を返すと、声を張った。

 

「まずは地図だ地図!館内図を見ながら警備の配置について考えるぞ!」

 

言葉の勢いそのままに、彼は再び会議室へと戻っていった。

 

時間は静かに、だが確実に過ぎていく。中森は他の警官たちと警備体制について真剣に協議を続けていたが、一方で博物館の関係者たちはそれぞれの業務へと戻り、会議室は次第に閑散としていった。

 

久保寺親子は急な会社の呼び出しで姿を消した。辰夫からは突発的なトラブルの対応に追われてしばらく戻れないという連絡が入る。中嶋は広報担当として、外部の記者との対応に追われた。綾野と増田の二人も、重要な取引先との応対で三十分ほど席を外していた。そして、早川は清掃作業を済ませるために、四十分ほど会議室を離れていた。

 

それぞれが、それぞれの理由を持って姿を消した約一時間。再び辰夫を覗く5人が会議室に集ったとき、中森は鋭い目で全員を見回した。

 

その心中で、ひとつの確信が渦巻いていた。

 

(この中に、すでに怪盗キッドが紛れ込んでいるかもしれんな)

 

全員の顔を引っ張ってしまうのが手っ取り早いか……。中森はそんな乱暴な考えが頭をよぎるのを、なんとか押しとどめた。

予告状の時間まではまだ余裕がある。しかし怪盗キッドの常套手段を考えれば、すでにどこかに潜り込んでいる可能性は十分にある。いや、むしろそのほうが自然だ。

 

キッドはいつだって、用意周到に舞台へ入り込む。ときには警備員や警察官などの表面的な関係者に化け、またあるときは事件の核心に迫るため、重要人物に成り代わる。変装の技術と心理戦の妙は、彼の最大の武器。だからこそ、今ここにいる者たちは全員が等しく疑わしい。

 

(ここにいる全員はもれなく“アズラエルの刃”と、今回の警備の関係者だ。情報を手に入れるにゃこれ以上ないほどの適任……)

 

そう考えながら視線を巡らせてみるが、誰の表情にも不自然なところは見られない。違和感を覚えるような素振りは誰にも見て取れない。

 

(なんなら、抜け出しちまった辰夫さんに化けて情報を盗み出そうとしてくる可能性もあるな……)

 

思考の中で次々と疑念が膨れ上がっていく。あれもこれも、何もかもが疑わしく思えて来てしまう。その不安を払拭するかのように、声を出した。

 

「あー、喉乾いたな……」

 

思わず漏らしたひとことに、すぐさま反応が返る。

 

「あぁ……なら俺、水汲んできますよ」

 

快活な調子で答えたのは早川だった。すぐに立ち上がると、手際よく部屋を出ていった。そして約二分後、ピッチャーと紙コップを抱えて戻ってきた彼は、にこやかに皆へ水を配り始める。

 

「おお、すまんな」

 

中森は礼を述べて手渡されたコップに手をかける……が、次の瞬間、ぴたりとその動きを止めた。

 

(いかんいかん!仮にこれに睡眠薬が盛られていたらおしまいだ!)

 

頭に浮かんだ可能性を即座に否定できず、彼は早川の様子に目をやる。すると、当の本人は同じピッチャーから注いだ水を何の躊躇もなくぐいっと飲み干していた。それどころか、もう一杯を注ごうとしている。

 

(なら平気だな)

 

ようやく疑念を拭い去った中森は、ようやく水を口に運んだ。皆が水を飲んだそのとき、室内に高く、しかし軽やかな電子音が鳴り響いた。携帯の通知音だ。

 

「ああ、すいません僕だ」

 

すぐさま立ち上がったのは、一紀だった。スマートフォンを耳に当てると、相手の声に応じるように頷く。

 

「はい、はい、了解です。すぐ向かいますね」

 

そう言って、彼は機材トラブルが発生した旨を口にし、そのまま足早に会議室を出ていこうとする。

 

「キッドかもしれませんし俺も行きましょうか?」

 

即座に反応した早川に、一紀は首を振る。

 

「いや、いいよ。早川くんはここに居て」

「だが万が一ということもある。警察を1人つけましょう」

 

中森はそういうと、同席していた警察官の一人を付き添わせた。

 

「分かりました」

 

簡潔なやり取りの後、一紀と警察官一名が会議室を後にする。そしてそのわずか数分後。今度は、

 

「ふぅ、何とか間に合ったみたいだな」

 

と、ドアの向こうから戻ってきたのは辰夫だった。顔に疲れの色を浮かべつつも、どこか落ち着きを取り戻した様子である。

 

「会社の方は大丈夫でしたか?」

「ああ。もうあちらで何とかできるはずだよ」

 

そう答える辰夫に、早川は手にしていたピッチャーから水を汲んで差し出した。

 

その後、再び会議は再開され、警備の配置についての議論が淡々と交わされる。だが、中森の頭には先ほどの入れ替わりの激しさが引っかかっていた。

 

(何だか入れ替わりが激しいな。訳がわからなくなって来たぞ……)

 

眉間に深い皺を刻みながら、指先でこめかみを揉む。疲れているのか、何だか眠い。そう思ってから、会議室に変化が訪れるまで、そう時間はかからなかった。

 

数分後には部屋の中に、すう、すうと静かな寝息が満ち始めた。

 

ひとり、またひとりと椅子にもたれ、深い眠りに落ちていく。ついにはその場にいた全員が、静かに、抵抗することなく、夢の中へと沈んでいった。

 

いや、正確には全員ではなかった。

 

ただ一人、下手人だけはその中にいて、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして、周囲の誰もが完全に眠っていることを確認すると、ひとつも音を立てることなく、会議室の扉を開けて、外へと出ていった。

男は黒い手袋をはめながら、迷いなく廊下を進んでいった。彼の目指す先は警備室だ。目的の人物には発信機をつけておいた。

 

薄暗い照明の下、静まり返った警備室へと足を踏み入れると、案の定、そこでは一紀が椅子に沈み込むようにして眠りこけていた。ついていった警官の男も眠っていた。男は物音ひとつ立てずにその傍へ近づき、ポケットに忍ばせていた手をするりと滑り込ませる。やがて、小さな鍵が掌に収まった。それは、ガラスケースを開けるためのもの。

 

再び足音を殺し、男は警備室を後にする。無駄な動きは一切ない。彼の次の目的地はただ一つ、展示室。簡素な通路を抜け、幾つもの展示を横目にしながら、真っ直ぐに「アズラエルの刃」の展示室へと向かう。

 

その部屋に足を踏み入れると、男は迷いなく奥のガラスケースの前へと進んだ。そして、静かに鍵を差し込み、回す。微かな音を立ててロックが外れたその瞬間だった。

 

「そこまでです」

 

突如として響いた声に、男の動きが止まる。聞き覚えのない声。ゆっくりと振り返ると、展示室の壁に寄りかかるようにして一人の男が立っていた。

 

その姿は異様であり、印象的でもあった。白いスーツに身を包み、同色のマントが静かに揺れている。シルクハットを深めにかぶり、モノクルを嵌めた顔は不敵な笑みを湛えていた。会議室にはいなかった……いや、いたのかもしれない。だが、誰の目にも“それ”と認識させなかった存在。

 

「何のつもりか知りませんが、私の舞台の前に宝石を盗むなど、無粋な真似はしないで頂きたいですね。……早川さん」

 

白衣の男は、淡々とした口調で語りかける。下手人は一瞬の沈黙の後、肩をすくめて笑う。

 

「宝石を盗む?やだなぁ、人聞きが悪い。俺はほら、みんなが急に寝ちゃったから、宝石が心配になって見に来ただけですよ」

「おや、妙な事をおっしゃる。あなたが眠らせたのに、何を心配することがあるんでしょうか?」

 

その指摘に、早川は困ったような表情を浮かべる。だが、白衣の男の追及は止まらない。

 

「こんなもの、手品とも呼べない初歩的なものですよ」

 

その言葉と同時に彼の手の中に現れたのは、あのピッチャーと紙コップだった。まるで何もないはずの空間の中から取り出したかのような鮮やかさでそれらを手にしたキッドは、先ほど早川が行った動作を再現してみせる。

 

「一見すると確かに、ピッチャーの中の水は減っているように見えますが、実際は減ってません。なぜなら、これは二重底のような構造になっていたから」

 

水を注ぐような仕草をしてみせるが、実際にはピッチャー内部の別の空間へと流れ込んでいる。見た目には水が減ったように見えるが、外には出ていないのだ。

 

「最初の一杯はその構造を利用して水を注いだように見せた。実際は水は外には出ず、ピッチャーの中の別の空間に流れただけです。ただ、その場にいた他の面々には水が減ったように見えた」

 

キッドは空の紙コップを掲げ、それを自分用のものとして低い椅子の上に置くと、自然な動きでそれを背後に隠す。

 

「何も入っていない、濡らしておいただけの空の紙コップ。それを己のコップとして皆から離れた場所におき、さりげない仕草でコップを己の体で隠しつつ、他のみんなにはあらためて注いだ睡眠薬入りの水を渡した。

そして、何も入っていないその紙コップの中身を飲み干したふりをすれば、警戒していた面々も安心して水を飲む。あなたが部屋を暑くしたせいで皆さん喉が乾いていたようですからね。そういう仕組みです。そして2杯目は汲んだだけで飲まなかったのでしょう。当然、このトリックは水を汲んだ貴方にしか使えない」

 

男は会議室での早川の動きを再現するかのように水を早川のそばに置き、背後に隠しておいた紙コップを取ると、中身を見せないようにしつつ、飲み干すふりをしてみせた。

早川はその様子を見て、皮肉を込めたように口を歪めた。

 

「面白い推理ですね。怪盗なのに、まるで探偵だ」

「私のショーを台無しにしようとする方がいれば、当然だが、止めさせて頂きますよ。それで、貴方は一体誰なんですか?」

 

鋭く問いかける男に対し、早川は困ったような顔をして応じる。

 

「誰って、早川ジュンですよ。見ていたのなら知っているでしょう。自己紹介、ちゃんとしたし」

「私が知っていることは一つ。早川ジュンは今日、沖縄にいるはずだったという事だけですよ。いないはずの人物がいて、驚きました。改めて聞きます……貴方は一体、誰ですか?」

 

その一言で、空気が張り詰める。キッドの視線は真っ直ぐに男を射抜いていた。相手は腕を組み、しばし沈黙の中で何かを考えている様子を見せる。そうして、再び男の方を向いたときには顔の雰囲気が変わっていた。

 

「このナイフに用があるのは私も同じ。貴方に盗まれては困るのです。暫しお借りしますよ、怪盗キッド」

「やはり貴方は、ジャックザマーダー!」

 

その名を叫ぶや否や、キッドはトランプ銃を射出した。だが、ジャックはそれを意にも介さず、手にしていたアズラエルの刃で全弾を軽く弾き飛ばす。

 

しかし──

 

「ッ!?」

 

次の瞬間、彼の手からナイフが失われた。

 

「悪いけど、人殺しにこれは渡さないぜ」

 

キッドの放った弾のうち、一発にはカードではなくワイヤー付きの吸盤が仕込まれていたのだ。吸盤はナイフに吸い付き、そのまま勢いよく引き寄せられる。キッドは素早くそれを確保し、その場からの離脱を図る。

 

だが、逃れようとしたその刹那、ジャックの拳がキッドの顔面へと迫る。

 

(げぇ!?いきなり顔面かよッ!!)

 

内心でそう毒づきながらも、キッドはぎりぎりでその一撃を回避する。シルクハットが宙を舞い、ゆっくりと落下する。そんな中、ジャックは体勢を崩すどころか、勢いを活かして身体を捻り、足を払う。それを何とか飛び退いて回避するも、次の瞬間には懐に入られ、襟を掴まれてしまう。

 

「やっべぇッ!?」

 

思わず声が漏れた次の瞬間、キッドの体は床に叩きつけられていた。背中に衝撃が走る。とっさに銃を相手に向けようとするが、すでに遅かった。ジャックはキッドの胴体を膝で圧迫しながら、刃物の切っ先をその首元に突きつけていた。

 

「アズラエルの刃を渡してください。すぐに返しますから」

 

肋骨を押し潰されるような苦痛。このままでは動けない。どう切り抜けるか、キッドが次の策に移ろうとした、そのときだった。

 

がこん!

 

展示室に不釣り合いな乾いた音が響いた。誰も触れていないはずのロッカーの扉が、キッドが床に叩きつけられた衝撃で開いたのだ。

 

そこから現れたのは、人ひとり。

 

ずるりと身体を崩すように地面に落ちるその姿は、異様なほど静かだった。そして、動かない。

 

 

 

人影は一切動かなかった。

 

 

それは間違いなく、死んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

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