令和のジャックザリッパー   作:佐倉シキ

33 / 37
降谷零の分析 下

 

 

探り屋バーボンとして組織の中で立ち回り、多くの情報を掘り起こしてきた降谷が本腰を入れて捜査を行えば、連続放火殺人の犯人を特定することなど当然の帰結だった。

 

まず彼が足を運んだのは、生き残っている被害者の病室だった。件の放火事件は3日前に起きたばかりのものだ。被害に遭ったのは両親と3人の子どもからなる一家。だが、火災によって父親と2人の息子は焼死し、母親は重体、娘は重傷を負った。重体だった母親は昨日、息を引き取ったという報せが入ったた。生き残っているのは、高校生の娘ただ一人。

 

彼女は火傷で全身を覆われていた。包帯の隙間から覗く皮膚は痛々しく赤黒く爛れ、ベッドの上に横たわるその姿は年齢以上にやつれ切っていた。医師も最善を尽くしていたが、その表情からは長くはもたないかもしれないという予感がにじみ出ていた。医師たちはこれ以上の消耗を避けたいと事情聴取には否定的だったが、少女自身が「死ぬ前に、役立つことは全て話したい」と希望したことで聴取を行うこととなった。

 

「みんな、死んだんでしょ……?みんな殺されたんだよ……」

 

かすれた声がベッドの上から洩れる。震えるその響きは、まるで今にも崩れ落ちそうな予感を感じさせる。顔の半分以上は火傷に覆われ、痛々しく歪んでいた。蘭や園子と歳の変わらぬ少女が、ここまで惨い仕打ちを受けた事実に、降谷は無意識に拳を強く握り締めていた。爪が手のひらに食い込み、じわりと血が滲むほどに。

 

「暑い日の夜だった、あの夜、水が止まっちゃって……お父さんが元栓を見に行った。でも戻ってきたのは知らない人だった……」

 

掠れる声に合わせて、少女の瞳が虚空をさまよう。彼女の証言が描き出すのは、悪夢の光景だった。

 

顔を覆い隠した男が現れ、近くにいた息子の首筋へ刃を突きつけた。抵抗する間もなく家族は制圧され、男の指示に従い、父親は自らの手で家族を縛るよう強要された。抗えば息子の命が危うい。選択の余地などなかった。全員が縛り付けられて逃げ場を失った空間に、男は無造作にガソリンを撒き散らした。そして最後に防犯カメラをいくつか設置し、火を放って姿を消した。

 

燃え上がる炎の中で家族が焼かれていく光景を、犯人はカメラ越しに愉悦の眼差しで観察していたに違いない。そう推測できる決定的な証言だった。降谷の胸の奥に怒りの炎がくすぶり始める。だが、その炎を冷静さで抑え込み、彼は更なる調査へと移った。

 

次の焦点は、被害者たちの共通点だ。ただの快楽殺人なのか、それとも特定の人物への執念が動機となっているのかを見極める必要があった。二つの家庭を調べた結果、浮かび上がった共通点は二つ。ひとつは“子供が3人いること”。もうひとつは“母親が茶髪のショートヘアであること”だった。

 

つまり、犯人は“3人の子供を持つ茶髪でショートヘアの女性”に強い恨みを抱いている可能性が高い。憎悪の対象となる女性本人を手にかけることはできない。だが、似通った家庭を選び出し壊すことで、歪んだ欲望を満たしている。その線が濃厚だと降谷は判断した。

 

嫁は殺したいほど憎い。しかし実の子を殺すことはできない。ならば代わりに、似た家族を地獄へ突き落とす。それが犯人の歪んだ心理ではないか。

 

降谷はすぐに役所へと足を運び、近年離婚した男性の記録を調べ上げた。条件は明確だ。“妻が茶髪のショートヘアで、3人の子供を持つ父親”。やがて、その条件に合致する男が一人浮かび上がった。

 

まだ証拠はない。だが犯人である可能性は高い。ならば狙うべきは現行犯。

 

最初の放火事件から1週間後に2件目が発生している。もしこれが犯人の行動パターンだとすれば、前回から1週間経過した今日、再び炎が放たれる危険性が高い。警察がまだ足取りを掴めていないと高を括っている彼が、犯行を控える理由は存在しない。

 

降谷は男の尾行を開始した。連絡を入れたのは風見だけ。公安組織全体には共有しない。黒田から許可も得ている。理由はひとつ。アルシエルの協力者が警察内部に潜んでいるかもしれないからだ。

 

アルシエルに協力者がいるかどうかは不明。だが降谷はいると考えている。未解決事件の犯人を単独で突き止め、次々と殺すなど、いかに優れた人物でも不可能に近い。もしアルシエルが警察や司法に関わる人間であるなら、内部情報を入手して目星をつけ、罪人を追い詰めることも可能だろう。しかし、ベルモットが子猫と呼ぶように彼が若者であるなら、尚更単独行動は困難だ。

 

いないと断定するより、いると想定して動く方がいい。そうでなければ、情報が漏れ、アルシエルに逃げられる危険がある。だからこそ今回は、降谷と風見の二人きりで動くことを決断したのだ。

 

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 

とある、月が雲に隠れて夜が一層濃く沈んだ時のことだった。

生ぬるい風が止み、あたりは不気味なほど静まり返っている。そんな中、ひとりの男が一軒家の庭にしゃがみ込んでいた。草木の影に身を潜め、金属の蓋を開けると工具を使って手際よく元栓を閉める。水道が止まれば、住人は必ず怪訝に思って外に出てくる。そこを狙い、家へ侵入する。それが彼の常套手段であり、これまでも成功を重ねてきた。

 

手早く作業を終え、男は息を殺して物陰に潜み、獲物が罠にかかる瞬間を待つ。だが、その夜は違った。

 

「そうやって、住人を誘い出したんですね。前回も、その前も……」

 

闇に沈んだ空気を震わせるように、くぐもった声が背後から響いた。男は全身の血の気が引き、反射的に飛び上がる。

 

「ぅわぁッ!?」

 

と、情けない悲鳴を上げ慌てて後ずさる。その目に映ったのは、黒いロングコートに身を包み、黒だけで構成されたシンプルながら不気味な悪魔のような仮面をつけた人物だった。月明かりがわずかに漏れ、影が地面に長く落ちる。異質な存在感に背筋が凍る。

 

「な、なんだよッ。なんなんだお前ッ!」

「初めまして、殺人者。私は、世間からは“ジャックザマーダー”と呼ばれている者です」

 

その名を聞いた瞬間、男の顔から血色が消えた。連続して罪人を殺す、殺人犯を狩る殺人鬼。噂でしか耳にしたことのないその存在がまさに目の前に立っている。恐怖が理性を打ち砕き、男は踵を返して逃げ出そうとした。しかし、

 

「ぐぁッ!」

 

走り出すより早く、腕を極められ、背骨を軋ませるほどの力で地面へと叩きつけられた。手足の骨が鈍い音を立て、激痛に呻く。

 

「お、大声をあげるぞ!」

「そうですか。死期が早まりますね」

 

無機質な声と共に、銀の刃が月明かりを受けて妖しく光る。喉元に刃を見て男はもはや声を失った。

 

「被害者の方々も怖かったでしょうね。脅され、焼かれ、痛くて苦しくて……何の罪もない方々に、なんたる悪逆非道。残忍極まりない。ええ、端的に言って、許せません」

 

冷たく言い放つ言葉が、仮面越しの眼差しと共に突き刺さる。男は必死に言い訳を吐き出した。

 

「しょ、証拠がないだろ!お、俺はただ、あの、ただイタズラしてただけだよ!元栓閉めて、ちょっと困らせてやろうって!」

「証拠なら、もう集まりました」

 

仮面の人物が差し出したものを見て、男の顔が凍り付く。それは彼が放火殺人の犯人であると示す決定的な証拠だった。司法なら確実に彼を有罪にできる。だが、これを手にしているのは警察ではない。罪人を葬り去るために暗躍する殺人鬼、ジャックだった。

 

「では、ご理解いただけたところで死んでいただきますね」

 

低い声が告げ、鋭い刃が喉元へ迫る。刹那、男は絶叫した。

 

「は、話が違うぞ!!早く助けろよッ!!」

 

その言葉を耳にした瞬間、仮面の下でジャックの目が鋭く見開かれる。その瞬間、どこかから小さな装置のようなものが投げ込まれた。ジャックは反射的にそれを掴み、遠くへと放り投げる。しかし、何も起こらない。

 

(罠……ッ!)

 

と直感するよりも早く、背後に影が躍り出た。

 

「貴方はッ!」

 

見覚えのある顔。瞬間、仮面の奥で舌打ちが漏れそうになる。拳が迫る。ジャックは咄嗟に身を捻り、その一撃を受け流した。拳が仮面をかすめる。

 

休む暇を与えまいと詰め寄るのは、降谷零。彼はすぐさま距離を詰め、ジャックが体勢を整えるより先に右肘を掴み、壁に押し付けた。ナイフを持つ腕が首に押し付けられ、自らの腕で締め上げられかねない危うい角度。力を込めれば肩が折れるのも時間の問題だ。

 

「チッ……」

 

当然、掴まれた右腕に力を込めにくい。ならば左手で、と動かそうとした瞬間、金属の冷たい感触が手首を縛る。手錠。もう片方は錆び付いたポールに絡められていた。

 

(……クソッ)

 

判断は一瞬。ならば足だ。体勢を変え、降谷の急所を蹴り上げにかかる。

 

「おっと、それは怖い」

 

降谷は素早く右手を離し、蹴り上げられた足を手で受け止めて防ぐ。その瞬間、拘束が外れてジャックの右手は自由になった。彼は即座に刃を翻し、相手の目元を狙って振り抜く。降谷は紙一重で顔を逸らした。距離を取らざるを得なくなる。

 

好機を逃さず、ジャックは足を振り上げ、錆び付いたポールを蹴り折った。鈍い金属音が響いて下部が外れ、そこから手錠を外し、左手も自由になる。

 

「怪力だな」

 

降谷は一歩退きながらも油断を見せぬ声で呟いた。その眼差しは冷静だ。全身に緊張を張り詰め、決して隙を与えない。巻き込まれていた放火犯は腰を抜かしたように後ずさり、必死に這いずってその場から逃げ出す。やがて風見に保護される姿が視界の端に映った。

 

(……誘い込まれた、か)

 

現状を悟ったジャックの唇から舌打ちが零れる。そして同時に理解した。この場にいる警察官は降谷と風見、たった二人。それは単なる偶然ではない。必ず別の理由がある。ジャックを捕まえること以外の、大きな理由が。

 

「里見キリル珠枝(たまき)

 

その名が降谷の口から低く告げられた瞬間、ジャックの身体が硬直した。仮面の下で目を見開き、鼓動が激しく早鐘を打つ。胸の奥に押し込めてきた過去を、鋭く抉り出されたような感覚だった。

 

「神奈川県横浜市生まれ。父親はロシア出身の貿易関係者、イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・アブリコーソフ。母親は日本人、里見幸枝。幼少期は母方の祖父母の家で従兄弟と共に育つ。

 

小学校は桜ヶ丘第一小学校に入学。中学校は市立南中学校に進学。高校は県立聖陽高等学校を卒業。学生時代は総合格闘技部に所属。全国大会を3連覇。

 

高校卒業後は陸上自衛隊へ入隊。第1普通科連隊に配属。銃剣道の全国大会にも出場。任期満了後に退官。

 

警視庁警察官採用試験に合格し、警察学校へ入校。卒業後、交番勤務を経て刑事部に配属。勤務態度は良好とされ、上司からの評価も一定水準に留まる。

 

だが29歳の時に横浜市内の公園駐車場にて車両火災。焼死体として発見される。身元確認は歯型により行われ、焼身自殺と処理。遺書等は見つからず、自殺の理由は不明。一部関係者の証言では“直前まで普段通りに勤務していた”とされ、精神的に追い詰められた様子は確認されていない。焼死体の状況に関しては、公式には“自らガソリンを使用した可能性”と記録されているが、詳細な検証は行われていない」

 

降谷は事務的に、抑揚をほとんど付けずに語り続けた。その声は冷徹な調査官のそれであり、読み上げられる一つ一つの事実が、まるで槍のようにジャックの内側を突き刺す。

 

「顔が分かってるんだ。調べるのはそう難しくなかったよ」

「……自殺じゃない」

 

低く搾り出すような声が夜に溶けた。降谷がわずかに眉を寄せて聞き返す。ジャックはゆっくりと仮面を外した。現れた瞳は燃えるような怒りに満ち、その視線は降谷を貫いた。

 

「アイツら組織の誰かが、焼いて殺したんだよ……ッ」

 

深い憎悪を宿した声。その響きに、降谷は心の奥で手応えを覚えた。会話に乗ってきた。逃亡を選ばず、憤怒と共に言葉を吐いた。ならばこちらが言葉を誤らなければ情報を引き出せる。

 

(司法取引に持ち込みたいな……組織の関係者の息子。恐らく重要な情報を握っている。FBIにはできない手だ。日本の殺人鬼を利用する発想なんて、まずない。そもそも奴らはアルシエルと組織の関係に関してはまだ掴んでいないはず。もしここで何か引き出せれば、公安が一歩先に行ける)

 

降谷の脳裏で戦略が閃光のように走る。

 

「それ、前も言ってたけど証拠でもあるのかな?」

 

冷静に問いかけると、ジャックの表情は更に険しく歪む。

 

「証拠はお前ら警察が捨てたんだろうが」

「“お前ら警察”?なんの話かな?」

「相手のことを調べているのが自分だけだと思うなよ。俺もアンタの事は掴んでる。警察関係者だろう」

「へぇ。それって、警察組織にいるだろう君の協力者のおかげかい?」

「警察内部に裏切り者がいると考えてるのか。当然だな。俺が持って行った証拠を隠して、あまつさえ殺そうとしてきたのはお前の仲間だ」

「警察が君を殺そうとしたと?」

「ああ。警察が俺の情報を組織に流した。……そう言う事、覚えがあるだろうよ。なぁ、バーボン」

 

挑発のように名前を呼ばれ、降谷は思わず眉を顰める。その反応を愉しむようにジャックの口元がかすかに歪んだ。

 

「いいぜ。アンタ俺との対話が目的だろう。少しは付き合ってやる」

「話し方が急に変わったね。それが素?」

「要件だけ話せ。アンタと仲良くなる気はないぞ」

 

うんざりしたように言い捨ててジャックは顔を顰める。その顔はまさしく、降谷が調べ上げた里見の顔。だが、にこやかだった写真とは全く異なるその表情は、恐らくジャックの素なのだろう。

 

(……まだ逃げない。さらに会話に応じるとは、隙を窺うつもりだな)

 

降谷は冷静さを崩さず言葉を継ぐ。

 

「まず、君が誰なのかを考えてみたんだ」

「どうせ掴めないよ。アンタには」

「酷いな。これでも結構、探り屋としては優秀なんだよ」

「自分で言うか、ナルシストめ」

「君も結構ナルシストだろう。自己陶酔的な態度が強い人じゃないと、自信満々に赤いカードなんて置いていかない」

 

口の応酬にわずかな緊張の糸が張り詰める。だが降谷はすぐに核心へと話を戻す。

 

「里見珠枝には妹がいた。里見ヨランダ枝真(えま)。兄と同じ家で育ち、小学校は桜ヶ丘第一小学校に入学。中学校も同じく市立南中学校に進学予定だったけれど、自宅で発生した火災により家族と共に死亡。享年12歳。遺体は家族と共に焼損状態で発見された。詳しい情報は無かったけど、警察は火災事故として処理している。火災原因は老朽化した配線からの出火と結論づけられているね。

 

気になるのはこの枝真という少女の友人も1ヵ月後に亡くなってる点だな。彼はタクシーで移動中に事故にあっている。運転手の操作ミスにより、ベイブリッジからタクシーごと海に転落。タクシーは数日後に海中から引き上げられたが、流されたのか車内に遺体は残されていなかった。この子供と運転手は共に行方不明のまま死亡認定。事故車両にはドライブレコーダーが搭載されていたが、映像データは残っておらず原因不明」

 

降谷は感情を表に出さぬまま、ただ静かに事実を並べ続ける。ジャックのわずかな表情の変化を見逃さぬよう、その目は鋭く研ぎ澄まされていた。だがジャックは苛立ちを隠そうともせず、腕を組み、足を踏み鳴らすようにして聞いていた。

 

「君はこの、死んだ人達の関係者の誰かじゃないかと考えてるんだ。8人も短期間に亡くなってるし、情報がいくらなんでも不自然だ。明らかに隠蔽されている。だからこそ警察を恨み、信じず、自分の手で決着をつけようとしている」

 

降谷の推測を突きつけられ、そっぽを向いていたジャックの目が鋭く動いた。牡丹色の瞳がぎらつき、再び降谷を睨む。その視線には、底の見えぬ怒りと憎悪が渦巻いていた。

 

「彼らを殺したのは組織の誰かなんだろう?」

 

降谷の問いに、ジャックは短く、しかし確実に呟いた。

 

「里見家の人達を殺したのは……スコッチだ」

「ッ。そんな筈はない!!」

 

降谷の息が止まる。衝撃に大きく目が見開かれ、思わず大声で否定する。その反応を見たジャックは、初めて口元に薄く笑みを浮かべた。鋭い目を細め、今度は自分が主導権を握ったと確信したかのように。

 

「嘘だよ間抜け」

 

当然ジャックは動揺した降谷のその一瞬の隙を逃さなかった。刃物を投げ、相手の態勢を崩して即座に間合いに踏み込み降谷を掴むとそのまま流れるような体捌きで押し倒す。芝生に体が沈んだ瞬間、降谷の首元には鋭い刃先が突き付けられていた。鋭く冷たい光が喉元に映り込み、わずかな動きで血を噴かせるであろう距離。ジャックの視線は容赦なく、まるで捕らえた獲物を前にした獣のように鋭かった。

 

「動揺したな?ダメじゃないかバーボン。俺は組織の連中が大嫌いなんだ。たとえアンタがスパイでも嫌いな事に変わりはない。組織の利益に貢献したわけだしな」

「ちなみに、いつから気がついていたんだ」

「ミステリートレインから。気をつけなよ、俺の事をアルシエルなんて大仰な名前で呼ぶのは警察関係者だけだ」

「……成程、迂闊だったな」

「今も迂闊だったよ。さあ殺すぞ。スパイだろうとアンタを殺すのに躊躇はない」

 

低く荒んだ声が降谷を脅す。しかし押さえつけられたままの降谷は、刃物の冷たさを喉元に感じながらも、口元にわずかな笑みを浮かべた。

 

「どうした?切らないのか?少しナイフを動かすだけだろう。それをしないって言う、この現状が君の躊躇の証拠じゃないかな?」

 

余裕を装った声音。その笑顔がジャックの怒りを逆撫でする。

 

「降谷さん!」

 

背後から風見が駆け戻ってきた。足音は焦りを孕み、冷や汗も出ている。銃口を迷わずジャックに向けるが、降谷は鋭い視線だけでそれを制した。その眼差しに、風見は唇を噛みしめながら引き金にかけた指を止めるしかなかった。

 

「そうか。アンタ、フルヤって言うのか」

 

ジャックは楽しげに笑った。その声音に、降谷は思わず眉を顰める。軽率に名前を出した風見への苛立ちが胸を掠めたが、今はそれを咎めている余裕はなかった。

 

「さっきのって総合格闘技の技だよね。アームドラッグだったかな、里見珠枝に教えてもらったのかな?」

「なかなか様になってるだろう?」

 

ジャックの口元が不敵に歪む。その笑みに影が差し、言葉が鋭く続いた。

 

「それにしても……知らなかったのか、知らなかったようだな。調べてもわからなかったか。組織の探り屋もまだまだだな。まあ仕方ない。そりゃあそうさ。国を守り国民を助けるはずの警察官が、国民を殺した奴を手助けして守ってるなんて、そんな事は信じたくないに決まってるさ」

 

言葉には露骨な不快さと憎悪が混ざっていた。記憶が蘇り、古傷が疼くたびに胸の奥から吐き気のような衝動が込み上げる。頭が割れそうに痛む。脳裏を焼くようなフラッシュバックが、刃物を握る手に更なる力を宿らせる。

 

アルシエル……その存在は、元より八つ当たりの果てに生まれた怪物だった。目の前の何も知らない警察官は、理不尽な憎悪を叩きつけるには十分な相手だ。

 

「遺体の情報も消したんだろう?里見家一家共々、体に穴が空いた異様な死体だったのに。火事の前に死んでたなんて、少し調べれば分かるのに、もみ消しやがったんだ」

「タクシーの子供も?」

「そうさ。運転手共々眉間を撃たれた。子供達は偶然にも組織の何かを目撃しちまった。結果として、家族諸共消される事になったのさ、何も悪いことなんてしてないのに」

 

憤怒に呼応するように、ジャックの手は降谷を押さえつける力を強める。肩口に食い込むその力は骨を軋ませ、息苦しささえ覚えるほどだった。

 

「……なぁ、アンタにとって一番大事なものは何だ?アンタは何のために命をかける?」

 

唐突に空気が変わった。刃の冷たさも、圧迫する力も変わらないが、その問いは真剣そのものだった。

 

「里見珠枝は子供達を守ろうと命をかけた。結果として焼き殺されちまったけど、あの人は守ろうとしたんだ、最期まで。……アンタは何を守るために命をかける?」

「国さ。僕はこの国を守る為に命をかける」

「ふん、国ね。その為には犯罪者だって利用すると?」

「今更な問いだね。組織を潰すのに使えるのなら、なんだって利用するさ。例えこの先も殺人犯が殺され続けることになろうとも、組織を潰せるのなら構わない。それまでは、見過ごせる」

「悪い奴だな」

「それこそ今更な評価だな」

 

静かな吐息と共に、ジャックの手から力が抜けた。その隙に降谷は身体を捻り、拘束から脱することができた。

 

「言っておくが、捕まっても司法取引には応じないし、これからアンタの協力者になるつもりもない」

「……は?悪い取引じゃないだろう。と言うか、よく分かったね」

「殺人鬼と仲良くおしゃべりがしたい悪趣味な警察官は存在しない。援軍が来る様子もない。なら目的は俺との取引だろう。応じない」

「なぜ?」

「減刑は不要。命を持って償えと言っている俺が、よりにもよってそんな俺が、減刑を受け入れるなんて事はあり得ない。お前は俺を勝手に利用すれば良い。……でもまぁ、とりあえずアンタのことは殺さない方のリストに入れておいてやる」

「へぇ、そのリストって他に誰が入っているのか聞いてもいい?」

「アンタが里見珠枝を焼き殺した奴の名前を掴んできたら教えてやる」

 

そう言い捨てると、ジャックは刃物を静かに収めた。その仕草は、今は話はここまでだと告げる合図のようだった。ジャックは放火犯が逃げた方角を名残惜しそうに睨んでいた。その横顔に、降谷は最後の一言を投げかけた。

 

「タランチュラ」

「……は?」

 

虚を突かれたように、ジャックの目が丸く開かれる。蜘蛛の名前、いや、違う。そんな事は考えずともわかる。タランチュラ。テキーラの本場であるメキシコで生まれた、ブルーアガベを原料とする青い酒の名前。だが、今この場で降谷が口にした意味は明白だった。組織の幹部、そのコードネーム。

 

心臓が跳ね、頭蓋の奥に鋭い痛みが走る。記憶の断片と怒りが混ざり合い、ジャックの目つきが荒くなる。

 

「僕が調べてないとでも?組織にいる幹部の1人で、拷問を得意としてる。そして何より、人を焼き殺すのが大好きな異常者らしい」

「そうか……そうか……」

 

胸の奥が灼けるように熱くなる。ついに、殺すべき相手の名を知った。その歓喜と殺意が同時に胸を焦がし、フラッシュバックが冷静さを奪いかける。理性を必死に繋ぎ止め、退路を確認する。

 

「それで、教えてくれる?殺さない方のリストの幹部」

 

降谷の問いに、ジャックは一瞬視線を戻して短く答えた。

 

「────」

 

その名を聞いた瞬間、降谷の表情が大きく揺らぐ。

その驚愕の隙を突くように閃光が辺りを包んだ。反射的に腕で目を覆い、視界が回復した時にはジャックの姿は跡形もなく消えていた。「すぐに当たりを捜索します!」と風見が声を張る。降谷はわずかに頷き、許可を与えた。そのまま深く思考に沈む。

 

(……なるほど)

 

胸の奥から昂ぶりが込み上げ、口元に笑みが刻まれる。

これは公安にとって計り知れぬ成果だった。組織の情報や、幹部との繋がりを持つであろうアルシエルと接触し、一定の信頼を得られた。もちろん最終的にはアルシエルを捕えるつもりだ。当然である。だが何より優先すべきは組織の壊滅。そのためなら、危険な殺人鬼でさえ利用する。

 

一般人を無差別に殺して回る存在なら、一瞬たりとも見逃すことなどできない。だがその刃が、すでに罪を犯し逃げ続ける殺人犯だけに向けられているのなら、暫し、見過ごす。見過ごせる。警察が殺人犯を見過ごすことが、どれほど許されない裏切りで、どれほど取り返しのつかない過ちかは、誰よりも自分が分かっている。それでも、

 

(何だってやるさ。組織を潰す為ならね)

 

罪人を見逃すという大罪だって、背負う覚悟だ。

そんな降谷の脳裏に浮かぶのは、一人の男の影。

 

(赤井ッ……)

 

憎らしいほどに優秀でありながら、幼馴染を救えず死なせた男。彼に、彼らに日本で好き勝手にはさせない。ここは降谷の国であり、公安が守るべき国だ。

 

(組織は公安が必ず潰すッ!)

 

遠ざかるパトカーのサイレンを耳に、降谷は新たな決意を胸に静かに帰路についた。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。