令和のジャックザリッパー   作:佐倉シキ

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疑惑の奉公人 起

 

 

 

 

テキサス州、オースティンのとある街。

乾いた風が低木の葉をざわめかせる。夜の街は静まり返っていた。郊外特有の広い敷地が暗がりの中に沈み、点在する家々の灯りも既にほとんど落ちている。その南外れに建つ屋敷は、周囲に溶け込むように灯りを最小限に抑え、まるで息を潜めているかのように佇んでいた。テキサスの不動産王が所有する別宅。誰にも公表していないため、普段は人気も少なく、厳重な電子警備だけが静かにその内側を守っている。

 

とある6人組が外周フェンスを越え、電子錠の前にしゃがみ込んだのは午後11時40分だった。先頭の男はポケットからスマホを取り出し、届いていた短い文面を一瞥すると、そのまま乱暴な手つきで数字を打ち込む。

ロックは拍子抜けするほどあっさりと外れた。

 

扉を押し開けると、冷えた空気が流れ出てくる。遠慮のない足音が廊下に響き、室内の静けさを踏み荒らしていった。奥から犬の唸り声が上がるが、次の瞬間には乾いた銃声が続けざまに響き、それはすぐに途切れる。騒ぎに気づいたのか、奥の部屋から現れた五十代ほどの男もまた、何かを言う暇もなく撃たれる。身体が崩れ落ち、壁に鈍い音を立てて倒れた。床に広がった血がじわじわと廊下へ滲み出していく。

 

彼らは足を止めることなく屋敷の奥へ進む。監視カメラに気づけば銃で撃つ。動きに洗練さはない。ただ迷いがないだけだった。

 

地下へ続く階段を降りると、空気はひんやりと重く変わる。コンクリートに囲まれた閉鎖的な空間を抜け、やがて分厚い金庫室の扉の前に辿り着く。先頭の男が再びスマホを確認し、表示された指示をなぞるように装置へ手を伸ばした。工具が床に当たって硬い音を立て、粗雑な手つきで処理が進められていく。

 

やがて鈍い音とともにロックが外れ、扉が開いた。

 

内部には現金や証書、貴金属が並んでいる。その中央、強化ケースに収められた宝石が静かに光を放っていた。縦にラインの入ったオパールのビッグジュエル、ドラゴンアイ。薄暗い室内でも、奥底から滲むような輝きを宿している。

 

男はそれをためらいなく取り上げると、ケースごとスーツケースの中へ押し込んだ。

 

For real(おい), it’s right here.(マジであったぞ) This shit's gonna (こりゃすげぇ金に)make(なる) us bank.(はずだ。) Flip it overseas and let’s (とっとと海外に回すためにも) get the hell outta here.(ずらかるぞ)

 

その声に応じるように、6人の影が一斉に動き出した。

6人が地上に戻ったのは午後11時52分。予定通りの完璧な作戦だった。玄関を抜けた瞬間、外の夜気が肺に流れ込む。閉鎖空間の重さから解放された感覚に、緊張がわずかに緩む。あとは車に乗り込んで走り出せばいい。そのはずだった。待機中のシボレー、サバーバンに向かって走り出した、その時。

 

銃声が響いた。たった一発。

 

乾いた破裂音が夜の静寂を切り裂き、その音は理屈ではなく本能に直接訴えかける。体が反応するより先に叫んでいた。銃だ、と。

 

後ろを走っていた男の身体が跳ねた。まるでパチンコの玉が弾かれるように、脚が不自然な方向へ折れかける。太ももを走る焼けるような衝撃は最初の一瞬だけ熱かった。次の瞬間には、それが本物の激痛へと変化する。鈍く、しかし圧倒的な痛みが爆発するように広がり、筋肉を内側から引き裂かれるような感覚が全身に広がっていく。弾丸が通過した箇所は骨にまで響く振動を残し、足に力が入らず、地面に崩れ落ちそうになるが、なんとか根性で堪えた。

 

屋敷の正門脇。そこに人影があった。赤いヘルメット。黒いインディアンのバイク。アメリカンハーレーとは異なる、細身でいて力強いシルエット。ヘッドライトが直線的に闇を切り裂き、その先端に人影を縫い留める。

 

Run!(走れ!) Get in the car, now!!(さっさと車に乗り込め!!)

 

怒号が飛ぶ。躊躇はない。銃撃の恐怖を振り切るように全員が車へ飛び込み、脚を撃ち抜かれた男を二人がかりで引きずり込む。その男の喉からは押し殺した呻きが漏れ続け、介抱する者の手は血で赤く滑った。体重を支えるたびに傷口が揺れ、男は歯を食いしばって声を抑える。それでも堪え切れない痛みが、断続的な低い呻きとなって零れ落ちていた。ドアが閉まると同時に、ドライバーはアクセルを思い切り踏み抜いた。エンジンが唸りを上げ、いっきに前へと飛び出す。シートに体が押し付けられ、加速度が肉体に重くのしかかる。

 

その直後、背後からバイクのエンジン音が夜の空気を引き裂いた。

制限速度70キロの幹線道路を、サバーバンは150キロで飛ばしていた。車体の振動がハンドルを通じてドライバーの腕全体に伝わってくる。車体は重く、それでも無理やりに車線変更を繰り返す。対向車のクラクションが怒声のように響き、急ブレーキの軋みが夜道に散らばり、それら全てを置き去りにして突き進む。ドライバーの視線がルームミラーへ走る。

 

いる。黒いバイク。300メートル後方。だが、その距離は意味をなしていなかった。縮まっているのだ、確実に、じわじわと。

 

Wait, is that a fucking cop!?(ありゃサツじゃねぇのか!?)

 

助手席の男が言った。

 

No lights, (ライトも)no sirens!(サイレンもない!)This crazy bastard(しかも) is coming at us alone!(あの野郎は1人だ!)And he didn't even(それに) give a warning (アイツ) before he started fucking blasting, right!?(俺らへの警告もなしに撃ちやがったよな!?)

Then what the hell is he!?(じゃあ一体なんだっていうんだよ!?)

Who gives a shit!! (どうでもいい!!)Just shake him off,(撒け!)

put a bullet in him! Now!(もしくは殺せ!)

 

乱暴な指示。ドライバーがハンドルを乱暴に切り、分岐へ突っ込む。車体が大きく揺れ、後部座席で負傷者が痛みに顔を歪めた。揺れるたびに傷口が刺激され、内部で裂けた筋肉が軋む。ズボンに染み込んだ血が体温を奪い、湿りが冷たさへと変わっていく感触が意識を侵食していく。

 

Shit!(くそったれ!)

 

堪え切れない呻きが漏れる。バイクは一度反対車線へ逸れた……かに見えた。だが次の瞬間、中央分離帯のブロックを軽々と跳ね越えるようにして復帰する。その無茶な挙動に、車内の空気が一瞬凍りついた。

 

カーチェイスは住宅街へと突入する。幹線道路の広さが嘘のように道幅は狭まり、街灯の間隔は広がって影が濃くなる。視界が悪化し、先の見通しが利かなくなる。速度を落とさなければ曲がれない。しかし速度を落とせば、あのバイクに追いつかれる。

 

逃げ切れる。一瞬だけ、そう思った。だが、ミラーに映る光がその期待を容赦なく否定する。バイクは、むしろ加速していた。コーナーのたびに距離が縮まる。重いSUVは遠心力に抗いながら曲がるしかないが、バイクは違う。軽やかに旋回し、内側のラインを鮮やかに切り取っていく。

 

He’s gaining on us!(差が詰まってる!) Do something,(何とかしろ) goddammit!(チクショウ!)

 

後部座席の男が身を乗り出し、割れたリアウィンドウの縁に肘をかける。風圧が顔を正面から叩き、目が自然に細まる。その不安定な体勢のまま、引き金を引いた。一発。二発。三発。しかし当たらない。バイクは倒れない。ヘッドライトは真っ直ぐこちらに固定されていた。

 

そして、バイクの運転手は両手を広げて見せた。何をやっているんだと言わんばかりの、挑発。

 

その仕草が見えた瞬間、怒りと恐怖が混ざり合い、理性が軋む音がした。

 

車は北上する。ドライバーは高架下の抜け道を選ぶ。コンクリートの柱が等間隔で林立する薄暗い直線路。視認性は悪いが逃げるには適している。照明もなく、追跡者から身を隠しやすい構造だ。

 

運転手は前を走る危険物を運んでいるらしい大きなトラックの存在に気がつくと、口角をわずかに上げた。そして次の瞬間、体当たりをした。何度も、何度も。鈍くて重い衝撃が車体を歪め、金属同士がぶつかり合う不快な振動が骨にまで響く。そして次の瞬間、トラックが横転してコンクリートの柱に直撃し、爆ぜた。

 

轟音が鼓膜を打ち破る勢いで響き渡り、閃光が視界を白で塗り潰す。燃料に火が回った瞬間の熱が、一瞬だけフロントガラス越しに肌を焼く。衝撃波が背後から車体を叩きつけ、サバーバンの巨体がアスファルトから浮いた。重心が崩れ、車内の全員が一瞬だけ無重力に投げ出される感覚を味わう。シートベルトが胸と腹に深く食い込み、内臓が引っ張られるような鈍い苦しさが走る。

 

爆発の余波はそれで終わらなかった。衝撃を受けた高架の柱が軋み、遅れて鈍い音を立てる。コンクリートに走った亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、次の瞬間、上部構造が崩れ始めた。

砕けた塊が次々と落下し、アスファルトを叩き割る。粉塵が一気に巻き上がり、視界を濁らせ、遅れて鉄骨の軋みと破断音が連鎖していく。逃げ場を失った瓦礫が雨のように降り注ぎ、車体の屋根やボンネットを容赦なく打ち据えた。

 

What the fuck are you doing!?(何してんだよ!?) That was close, man!!(危ねぇだろ!!)

Just drive, goddammit!(いいから走らせろ!)  No way that piece (あのクソ野郎も) of shit survived that!!(流石に死んだだろ!!)

 

炎を背に、サバーバンは高架下を抜ける。だが、バックミラーに映る光は消えていなかった。黒いバイクは崩れ落ちる構造物の脇を縫うように滑り抜ける。落下する瓦礫の合間を、ほとんど減速もせずにすり抜け、砕けたコンクリート片を踏み台のように蹴り上げて跳躍する。常識外れの軌道で宙を裂き、そのままサバーバンの進路へと叩きつけるように着地した。

 

Why the (なんで) fuck is he still coming!?(死んでねぇんだよ!!)  You crazy (この) son of a bitch!!(イカレ野郎!)

 

次の瞬間、発砲された。

至近距離から放たれた複数の弾丸がフロントガラスを撃ち抜き、亀裂が一気に広がる。耐えきれず、ガラスは内側へ弾け飛び、鋭い破片が車内へ雪崩れ込んだ。

 

運転手は反射的にハンドルを切る。タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく横滑りする。進行方向を無理やり変え、崩落する高架と炎の渦から逃れるように、サバーバンは反対方向へと弾かれるように走り出した。

 

再び住宅街へと雪崩れ込んだ瞬間、空気が変わった。舗装の荒れた路面にタイヤが叩きつけられるたびに車体全体が細かく震え、サスペンションが悲鳴を上げる。街灯はまばらで、家々の窓は暗く閉ざされている。住民はとうに眠りについているのか人の気配は感じられない。

 

そして、それは起きた。

 

後方左タイヤ。突如、内部から弾けるような衝撃が伝わってきた。銃声とは違う。もっと低く、鈍く、腹の底に直接響くような破裂音。それが何を意味するか、全員が一瞬で理解した。次の瞬間、車体の挙動が狂う。サバーバンの巨体が、まるで足を払われたように左へ急激に滑った。ハンドルを握るドライバーの腕に、制御不能の重さが一気にのしかかる。ステアリングが暴れ、修正しようとするたびに逆方向へ引っ張られる。

 

後輪が潰れ、むき出しのホイールがアスファルトを直接削る。耳障りな金属音が住宅街の路地に反響し、後方へ火花が散る。ドライバーは必死に修正を試みる。だが、速度が速すぎる。この速度、この重量で制御を取り戻すには、あまりにも遅すぎた。

 

車体が蛇のように左右へ振れ、遠心力が乗員の身体を容赦なく叩きつける。シートベルトが肋骨に食い込み、内臓が激しく揺さぶられる。負傷している男の脚は、その振動のたびに地獄のような激痛を呼び起こした。縫合もされていない傷口が再び開き、裂けた筋肉が震えるたびに電流のような痛みが脊髄を駆け上がる。血がさらに溢れ出し、座席を湿らせていく。意識が遠くなりそうになるのを、奥歯を噛みしめることだけで繋ぎ止めていた。

 

速度が落ち始める。終わりだ。誰もが直感した。もう、この車は走れない。

 

Sniper!?(スナイパー!?)

 

誰かの叫びが、切迫した空気を切り裂いた。

 

It’s a sniper!(スナイパーだ!)  We’re being shot!(狙撃されたんだ!)

Get out!(降りろ!)  Scatter!(散れ!)  Every man for (全員バラバラに) himself!(走れ!)

 

ドアが内側から蹴破られるように開き、5つの影が飛び出していく。リーダーはスーツケースを抱え、右の路地へ。迷いはない。

 

ドライバーと助手席の男は植え込みを飛び越え、葉と枝を踏み潰しながら暗がりへと突っ込む。枝が顔や腕を切り裂き、細い傷から血が滲むが、それを気にする余裕などない。後部座席の2人はそのまま直進。息を切らしながら、ただ闇へと溶け込むように走り去る。

 

その瞬間だった。空気が、揺れた。

どこからともなく、白い影が舞い降りる。

 

夜風を孕んだそれは、まるで生き物のようにしなやかに揺れた。マント……いや、翼のようにも見える白い布が、月明かりの中を静かに滑る。それが何なのかを視認するより早く、その影は地面すれすれを這うように滑空してきた。

 

シルクハットに、モノクル。

そして、月光を白く反射するような純白の衣装。

 

「よっ、と!」

 

軽やかな声。その人物は、グライダーを操りながら地面すれすれを這うように飛び、リーダーの元へと滑り込んだ。視認したときにはもう遅い。指先がスーツケースのハンドルに触れた瞬間、それはまるで最初から彼のものだったかのように、あまりにも自然に奪い取られていた。

 

あまりにも鮮やかで、あまりにも速い。反応できなかった。

 

「ご苦労さん! これは頂いていくぜ」

 

白い男が帽子のつばに指を当て、軽く傾ける。余裕に満ちた仕草。その笑顔には、焦りも緊張も微塵も宿っていない。スーツケースを脇に抱え、次の瞬間には、もうその姿はビルの陰に溶けていた。残されたのは、わずかな風の流れと、夜に溶けていく白い残像だけ。

 

After him!(追え!)

 

リーダーの怒号。だが誰も動かなかった。動けなかった。背後では、赤いバイクが低く唸りながら減速している。その存在が、見えない重圧となって背中に張り付いていた。

 

後方、車の側では、脚を撃ち抜かれた男が膝をついている。呼吸は荒く、浅く、視界は痛みと失血で滲んでいる。血は止まらない。アスファルトに滴り、黒く滲んでいく。リーダーの視線が、その男に止まる。一秒。それだけの沈黙。だが、その一秒は、永遠のように長かった。

 

Sorry, pal. (悪いな) You're easily replaced.(代わりはたくさんいるんだ)

 

乾いた銃声が二発、夜に響く。弾丸が身体を貫き、衝撃で背中が跳ねる。痛みを感じる間もない。意識は 一瞬で途切れ、血が路面に広がり、街灯の乏しい光の中で黒く光る。

 

Move out!(行くぞ!)

 

残った5つの影は、振り返ることなく闇へと消えた。

赤いバイクが完全に停車したのは、それから間もなくのことだった。エンジンが静かに止まり、余熱がわずかに空気を揺らす。ヘルメットのシールドがゆっくりと上がる。

 

運転手の視線は、まず地面へ。

 

路上に転がる身体。まだ呼吸がある。だが、それも長くは続かない。呼吸は浅く、不規則で、生命の灯は今にも消えそうに揺れていた。仲間に撃たれた。逃げ遅れたから切り捨てられた。邪魔になるから、囮として。

 

現場の空気が、それを雄弁に語っていた。

短く、低い舌打ちが落ちる。

 

Disgusting bastards.(胸糞悪い連中だ)

 

顔を上げる。ビルの角。そこに、まだ白い残像があった。白い影はスーツケースを抱えたまま、空を滑るように去っていく。その軌道は予測不能で、風そのものになったかのようにしなやかだった。

運転手はジャケットの内側に手を入れ、銃を引き抜く。動作は無駄がなく、滑らかだ。照準を合わせる。

しかし距離が遠い。速度も、高さも、すべてが射程外だ。

 

No way I can reach him……(届くわけもない、か)

 

小さく呟き、銃を下ろす。ホルスターに収め、周囲へと視線を巡らせる。スナイパー。確信があった。タイヤが撃ち抜かれた角度、破裂のタイミング、すべてが計算され尽くしている。運転手はその場で立ち尽くし、思考を巡らせる。道路は東西に伸びている。後方左タイヤ。弾道。南、あるいは南西。視線を向ける。建物、フェンス、木立。そして、給水塔。

 

高さおよそ30メートル。錆びた鉄骨。照明はない。塔の頂部には、狙撃に適したプラットフォーム。距離は約400メートル。運転手の目が細められる。400メートル、距離としては問題ない。だが、問題はそこではない。

 

その位置は道路から完全には見通せない。ビルの陰に半分隠れている。しかも対象は高速で移動するSUV。その小さなタイヤを、この角度、この遮蔽越しで正確に撃ち抜くなど、常識では考えられない。普通の狙撃手では不可能だ。しばらく視線はその塔に固定される。

 

だが、そこにはもう誰もいない。とっくに離脱している。仕事が終わった瞬間に次へ移る。無駄がない。

運転手は内ポケットに手を入れた。取り出したのはスマートフォン。画面を数回タップし、耳へ当てる。

 

コール音。

一回。

二回。

三回。

やがて、相手が出た。

 

Sorry for calling out(急な電話で) of the blue, kiddo.(悪いな坊や)

 

場違いなほど軽い声。

 

Do me a favor and (頼みがあるんだよ。) get over to the States?(アメリカに来てくれ) Things are getting pretty complicated, (面倒なことになった) and I really want you here to help me out, (お前に手伝って欲しいんだ、)my favorite Little Killer. (大親友。) I trust your (お前の) skills more (スキルを)than anyone else's,(信用しての) you know?(頼みだ。)

 

短い沈黙。受話口から聞こえるのは、深いため息と、呆れた声。

 

Please, man!(頼むよ〜!)  Don't leave me hanging!(手伝ってくれよ〜!) I bought us a little breathing room,(時間稼ぎはできたけどさ、余裕は) but it won't last (あんまなさそうな感じ) long. (なんだ。) I worked so hard,(頑張ったのに) but they're gonna steal my thunder(横取りされちゃうよ)

Come on, help me!(だから助けて!)  Crack the case for me, (事件を解決してくれない?) won't you?(だって友達だろ?)

 

少しして、ため息と共に了承の返事が返ってくる。事情を調べ、準備が整えば向かう。その言葉に、運転手は軽く頷く。視線は再び、給水塔へ。

 

No way…(まさかな……)

 

そして通話を切ると同時に、数台の車が滑り込むように到着した。紺色のジャケットの男たちが降りてくる。ヘルメットの人物は短く指示を出す。無駄のない言葉に、男たちはすぐに動き出した。

 

それを一瞥だけ確認して視線を外す。再びエンジンが始動し、低い振動が夜を揺らす。黒いバイクは来た道をなぞるように向きを変え、静かに走り出した。オースティンの夜に溶け込むように、その姿は次第に小さくなる。

 

テールランプだけが一瞬、赤く光る。そしてそれもやがて、闇に飲み込まれた。

 

 

 

 

 

*  *  *

 

 

 

 

 

公園のベンチに腰を下ろしたまま、コナンはスマートフォンの画面をじっと睨みつけていた。指先にわずかに力が入り、無意識に画面の縁を強く握りしめている。表示されているのは、屈託のない笑顔を浮かべた蘭の写真だった。その笑顔は眩しくて、見れば見るほど胸の奥がじくじくと痛む。そして、その隣にはあまりにも自然な様子で腕を組んで並び立つ“工藤新一”の姿がある。自分自身の、はずの姿。

 

親指で画面をスクロールする。だが、どれだけ見直しても結果は同じだった。蘭から送られてきたメッセージが頭の中で何度も何度も繰り返される。偶然にも新一に会えたこと。彼は関わっている事件の都合でオースティンにいるらしいこと。少しの間一緒に動くことになったこと。そして、“心配しないでね”という一文。

 

その心配しないで欲しいという思いで送ってきたメールのせいで、余計に心配になってしまっている。

 

「っ……」

 

短く息を詰まらせると、コナンは勢いよくベンチから立ち上がり、そのまま両手で髪を乱暴にかきむしった。髪は一瞬で乱れ、子供らしからぬ苛立ちが露わになる。夕暮れを過ぎた公園の空気は少し冷たく、風が頬を撫でるが、今のコナンにはそんなことを感じる余裕もない。

 

「なっ、なんで、よりにもよって……あの野郎またッ!」

 

吐き出した声は思いのほか低く、公園の静けさに沈んでいった。周囲には誰もおらず、遊具が風にわずかに軋むだけで、返事を返すものは何もない。苛立ちを逃がすようにどかりと座り直し、もう一度頭を掻き乱す。指に絡まる髪の感触すら鬱陶しく感じられ、胸の内側に溜まった感情が行き場を失って渦巻いていた。

 

テキサス州オースティン。その地名が頭の中で重く響く。小五郎の知人が挙式をするとのことで蘭は小五郎と一緒に向かったのだが、オースティンではここ数週間、強盗被害が連続して発生している。蘭が行くと聞いた時点で嫌な予感がして調べた結果、この情報に辿り着いたのだ。

 

蘭がいる街は別だが、距離的には決して遠くない。車で移動すれば容易に行き来できる範囲であり、その事実が余計に不安を煽っていた。

 

さらに追い打ちをかけるように、昨日のニュースで怪盗キッドの予告状が届いていたという報道があった。標的は富豪の邸宅。時期も場所も、あまりにも出来すぎている。

 

「ッ、くっそぉぉぉ……俺も行きてぇ……」

 

歯ぎしりが鳴る。強盗団、キッドの予告、そして蘭。どれか一つでも放っておけるものではないのに、自分はここにいるしかないという現実が、どうしようもなく苛立たしかった。

 

江戸川コナンとして日本にいるしかない自分。小学生という制約。どんな理由を並べても、単独でアメリカに行くことなど不可能だ。

 

「ちっくしょー……」

 

足元の砂を蹴り上げる。軽い音とともに砂粒が舞い上がるが、それだけだ。何も変わらない。その無力さが余計に腹立たしかった。

 

やがて視線は再びスマートフォンへ落ちる。笑顔の蘭と、その隣に立つ新一の姿。だが、あれが本物でないことはわかっている。怪盗キッドが変装しているに違いない。自分には分かる。分かるのに、何もできない。

 

「……蘭を騙しやがって」

 

低く呟いた声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。それを嫉妬ではないと自分に言い聞かせる。あくまで探偵として、危険を排除するための感情だと。これは全然、嫉妬とかそういうのではないのだと。スマートフォンを握る手に力がこもる。指先がわずかに震えていることに気づきながらも、コナンは画面から目を離せなかった。

 

「……絶対、何かある」

 

それは予感ではなく確信だった。複数の危険要素が同時に存在している以上、何も起きない方が不自然だ。コナンは眉間に皺を寄せたまま、画面の中の蘭を見つめ続けた。笑顔が眩しいほどに無防備で、そのことがかえって不安を煽る。

 

その時、不意に隣から声が落ちてきた。

 

「こんにちは。突然だけどアメリカに行きたい気分だったりしないか? 名探偵」

 

耳に届いた瞬間、コナンは反射的にベンチから飛び降りていた。心臓が大きく跳ね、全身の神経が一気に研ぎ澄まされる。振り向いた先には、銀髪の男がいつの間にか背後に回り込み、ベンチの背もたれに腕を組んで体を預けるようにしてこちらを見ていた。その姿は見慣れてしまった異常そのものであり、同時に決して油断してはならない危険な存在でもあった。

 

「おまッ!? 何だ急に!?」

 

声に警戒が滲む。距離を取りつつも、視線は決して逸らさない。

 

「俺も急で悪いとは思うんだけどな。今からアメリカに向かう事になったから、誘いに来たんだよ。攫うのは流石に良くないだろ?」

「当たり前だバーロー!」

 

反射的に怒鳴り返しながら、過去にキッドによって無理やり海外へ連れ出された記憶が脳裏をよぎる。

 

「というか、どういうことだよ」

 

問いかける声には疑念が色濃く混じる。なぜ今このタイミングで、自分をアメリカへ誘うのか。理由が見えない以上、警戒を解くことはできなかった。

 

「用事があってアメリカに向かうんだ。言って仕舞えば事件の捜査だけれど、あまり時間がないんだ。だからアンタにも捜査をしてもらいたいんだよ。ちょうどいい事に毛利蘭が騙されているみたいだし……うん。アンタにも向かう動機が出来たみたいで何よりだ」

 

そう言いながら、男はいつの間にかコナンのスマートフォンを手にしていた。まるで最初からそこにあったかのような自然さで、画面を覗き込んでいる。その手際に気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 

「彼氏がいる女性にこのような身体的接触を行うとは、怪盗キッドは嫌なやつだな」

 

淡々とした真っ当すぎる感想に、思わずこいつの倫理観はどうなっているんだと言葉を失う。

 

「あ、そういえば言っていなかったな名探偵。ようやく付き合ったんだって? 良かったな、おめでとう」

「え? あ、ありがとう」

 

予想外の言葉に反射的に礼を返してしまい、自分でも一瞬戸惑う。

 

「ま、どう考えても遅すぎるがようやく一歩前進したようで何よりだ。そんじゃ、大事な女性は自分の手で守る事だな」

「うるせぇよ! つか、当たり前だろうが。俺が、その、絶対……指一本……」

 

言い返しながらも、どこか照れが混じって語尾がわずかに鈍る。

 

「指一本? 俺には腕を組んでいるように見えるけど」

「だからうるせぇって!」

 

コナンは顔を赤くしてそう言って怒ると、ジャックからスマホを奪い返した。

 

「じゃあ意思を確認したところでもう一度聞くけど、アンタは俺とアメリカに来る気はあるか?」

 

静かに問われ、コナンは言葉を失う。行きたい気持ちは揺るがない。だが、その手段がまともであるとは到底思えなかった。躊躇が生まれる。しかし相手はそれを待たない。距離を詰め、答えを迫る圧が増していく。行きたいのか、行きたくないのか、と。

 

「う、うるせぇな! 行けるもんなら行きたいに決まってんだろ! 今すぐにでも駆けつけたいさ!」

 

思わず吐き出した本音。その言葉を聞いた男は、満足そうに静かに頷いた。その瞬間、嫌な予感が走る。だが、それを形にするより早く、視界がぐらりと揺れた。音が遠のき、感覚が切り離されていく。足元が消えたような浮遊感。

 

次の瞬間、コナンの意識はぷつりと途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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