ひんやりとした感触が頬に触れていた。
それは一度きりではなく、するり、するりと規則的に行き来するように肌の上を滑っていく。
「…………ん」
微かな声が喉の奥でくぐもって漏れる。重たい瞼の裏に、じわりと光が滲み込んでくる。水底から浮かび上がるように、意識がゆっくりと表層へ向かって押し上げられていく感覚があった。ベンチで寝落ちしてしまったのかもしれない、とぼんやりとした頭で考えかけたその瞬間、冷たい感触が今度は鼻の頭に押し当てられた。神経が一気に引き剥がされるように、意識が現実へと強制的に引き戻される。
「……っ」
反射的に目を開いた瞬間、視界の中心に顔があった。焦点が合うまでの刹那はただの影のように見えたそれが、徐々に輪郭を帯び、見知らぬ男の顔として認識される。日焼けした褐色の肌に、焦茶色のわずかに癖のある髪。整った骨格の中で、静かな青い瞳だけがこちらを無表情に見下ろしていた。その手にはスポンジのようなものが握られている。
状況を理解するより先に、身体が動いていた。コナンは勢いよく上体を起こした。そのまま頭からぶつかるような勢いだったが、男はそれを難なくかわした。コナンの額は空を切り、勢い余ってそのまま前のめりに崩れる。支えたのは脇にあったシートのアームレストだった。硬い感触が腹部と脇腹を受け止め、鈍い衝撃が肋骨の奥へと響く。
「……っ、な」
浅く息を整えながら体勢を立て直し、コナンはすぐに鋭い視線を周囲へ走らせた。まず目に入ったのは、広い空間だった。決して狭くないどころか、むしろ余裕のある造りで、柔らかな革張りのシートが整然と並んでいる。壁面には木目調のパネルが施され、間接照明が落ち着いた琥珀色の光を空間に投げかけていた。通路の向こうには小さなソファまで見える。日常の乗り物とはかけ離れた、明らかに特別な空間だった。
窓の外へ目をやると、灯りの列が規則正しく並んでいる。滑走路だ。そこでようやく、ここが飛行機の内部だと理解する。しかもただの客室ではない。調度品の質や空間の配置からして、プライベートジェットであることは疑いようもなかった。
なんで俺が、という疑問が遅れて押し寄せてくる。だがそれより先に、コナンは目の前の男へ視線を戻した。男はすでにシートへ浅く腰を落とし、片手にスポンジ、もう一方の手にコンパクトを持っている。開いた蓋の内側にはファンデーションが見えた。つまり先ほどまで、この男は自分の顔にそれを塗っていたということになる。
理解が追いつかないまま、それでもコナンは男の顔をまじまじと見つめた。日焼けした肌、焦茶色の癖毛、輪郭、そして青い目。そのすべてが、妙な既視感を伴っていた。どこかで見たことがある。だが知り合いではない。その違和感が頭の中でゆっくりと形を取り始める。鼻筋、口元、目の配置。一つひとつを確認するように視線を滑らせていくうちに、やがて一つの結論に辿り着いた。
髪型は違うが、毎日鏡の中で見ていた顔に酷似している。
ただし決定的に異なるのは、肌の色と髪。その二点だけで印象は僅かに変わる。しかし骨格そのものはほぼ同一だ。角度によっては、同一人物と言われても信じてしまうかもしれない。
「……お前」
喉が乾いているのか、絞り出した声は思ったよりずっと掠れていた。
「その顔、
「アンタの顔を参考にしたからな」
「何でだよ?」
問い返しながら、コナンはすぐに気づく。目の前の人物は変装をしている。その精度は極めて高いが、それでもわかる。彼はジャックだ。ジャックは一度だけ視線を外し、窓の外をさりげなく確認するように見やってから、再びコナンへと目を戻した。
「今の俺はケイ・ヒライだ」
「ケイ・ヒライ……?」
聞き慣れない名前に首を捻った直後、コナンは反射的に自分の頬に手を当てた。先ほど塗られていたものの正体を確かめるためだ。指先に纏わりつくのはファンデーションの感触で、しかも自分の肌色とは合っていない色のものが薄く乗っている。そこでようやく、ある可能性が頭をよぎる。
「まさか、今の俺って……」
「アーサー・ヒライ君だ。アンタがアメリカにいるのはまずいんだろ? シンガポールの記事にsuper boy Arthur hiraiって記事があって、どう見てもアンタだったからそれにした」
マリーナベイサンズが落ちたのには流石にびっくりしたけど、アンタがいたことの方がびっくりだったな、と一人で頷いているジャックを見て、コナンは小さくため息をついた。まさかあの偽名をこんな形で再び使うことになるとは、思ってもいなかった。
「つか、ケイ・ヒライってなんだよ。俺の”アーサー”は別にアーサー王伝説から取ったわけじゃないぞ。ケイって確かアーサー王の兄貴の名前だろ」
「そうだけど、やっぱり違かったか。適当か?」
「適当じゃねーよ。何だと思う?」
半ば投げるように問いかけると、ジャックはわずかに考えるような素振りを見せてから答えた。
「アーサーと名のつく偉人から取ったってことか? アーサー・ウェルズリーかアーサー・ミラーなら出てくるけど、アンタが選びそうにはないな。じゃあアーサー・C・クラークとかか? SF作家の」
「……わざと言ってんのか? それが出てきて何でアーサー・コナン・ドイルが出てこないんだよ」
「ああ。そう言えばコナンドイルも”アーサー”だったな。それなら平井は江戸川乱歩か」
さらりと返され、コナンは半目になった。分かっていて外しているのが見え見えだったからだ。分かっててなんでコナンドイルの兄弟ではなくアーサー王の兄の名を使ったのかと問えば、コナンドイルの兄弟まで把握しているわけがないと返される。そもそもシャーロックホームズよりアーサー王伝説の方が好きだ、とも。コナンは少しムッとした。と、その時、機体が低く震え始めた。
エンジンが起動したのだ。
地の底から湧き上がるような重低音が床を通じて身体の芯へと伝わり、シート全体が微かに振動する。空気そのものが揺れているような感覚だった。その変化に気づいたコナンは、前に座るジャックへと視線を向けた。
彼は明らかに顔をしかめていた。眉間に深い皺が刻まれ、口元が僅かに引き結ばれている。
「……お前、飛行機苦手なの?」
何気なく問いかけると、わずかな間を置いてから返事が返ってきた。
「……苦手じゃない。ただ頭が痛くなるから、嫌いなだけだ」
言いながら彼が取り出した薬を見て、コナンは自然と視線を落とした。飲んだのはロキソニンとリリカ。そういえば、この男は時折眉間のあたりを押さえている。慢性的な頭痛を抱えているのだろうか、そんな推測が頭を過ぎる。
やがて飛行機がゆっくりと動き出し、それに伴ってジャックの様子は目に見えて悪化していった。眉間を押さえる指先に力が篭り、その奥で脈打つような痛みと格闘しているのが伝わってくる。最初はまだ会話に応じていたものの、次第に言葉の数が減り、やがて完全に黙り込む。
「おい、何でそこまでしてアメリカ行くんだよ……」
思わず漏れた言葉には、呆れとわずかな心配が混じっていた。敵であるはずの相手に対して抱く感情としては不自然だと分かっているが、僅かな好奇心に逆らえずに尋ねた。少しして、低く掠れた声が静かに返ってきた。
「用事ができたから……」
「いや、そりゃそうだろうけどよ……」
それ以上は語らないという意思表示のように、ジャックは再び目を閉じ、ただ痛みに耐えることだけに集中しているようだった。コナンはそれ以上何も言えず、しばらくその横顔を見つめてから、静かに視線を外した。機内にはエンジンの低い轟音と、規則的な振動だけが満ちている。
これから向かう先で、何が待っているのか。そこで起きるであろう出来事の輪郭が、まだ何一つ見えない。そしてこの男と行動を共にするという、不確かで危うい現実。すべてが霧の中にあるようで、どこか拭いきれない嫌な予感だけが胸の奥にじわりと滲んでいた。
コナンは無意識のうちに拳を握りしめながら、微かに揺れ続ける機内でじっと到着を待った。
* * *
半日ほどの移動を経て、二人はようやくテキサスの地へと降り立った。タラップを下りた瞬間、乾いた空気が全身にまとわりついてくる。湿気の少ないどこか砂を含んだような風が頬を撫で、長時間のフライトで鈍くなっていた感覚を無理やり現実へと引き戻した。空は遮るものが何もなく、どこまでも突き抜けるような濃い青が広がっている。日本のそれとは明らかに違う、スケールの違う空だった。
復活したジャックは空港を出るなり露骨に顔をしかめながら「二度と飛行機には乗らない」と言い放った。コナンはその横顔を横目で一瞥してから、淡々とスマートフォンを取り出した。
「復路って知ってるか」
そう声をかけながら地図アプリを開く。現在地から目的地までのルートが自動で算出され、画面には距離と所要時間が表示される。車で約6時間。その数字を目にした瞬間、コナンは思わず小さく舌打ちした。改めてテキサスという州の途方もない広さに辟易する。日本の感覚で距離を測ろうとすると、完全に感覚が狂う。
とはいえ、ここで足を止めている理由はない。2人は空港の近くで車をレンタルし、そのままハイウェイへと乗り入れた。アクセルを踏み込めば、車体は重低音を響かせながら加速し、乾いたアスファルトを滑るように走り始める。地平線まで続く直線道路はその果てが見えず、左右には茶色がかった荒野とまばらな建物が広がるばかりだ。どこまで走っても景色が変わらない、この国特有の単調さがある。
「と言うかそもそも、何で怪盗キッドがこんなところにいるんだ。最初はドラゴンアイに予告を出して、今度は別の宝石にも予告状を出した。アイツは日本でビッグジュエルを狙ってるんだろ」
「キッドはもともと国際的な犯罪者だ。ビッグジュエルがあると分かれば海を渡ってでも盗りに来るよ。実際、シンガポールでもそうだったし。ひまわり展の時だって態々海外に行ってた」
淡々と返される言葉に、ジャックは小さく息を吐いた。実際あの男は国境など最初から存在しないかのように振る舞う。必要とあればどこへでも現れる。それがキッドという存在だ。コナンはスマホの画面を操作し、ニュース記事を引き出して表示する。テキサス州内で発生した強盗事件の詳細だ。
不動産王と言われる人物が所有する別邸への侵入。目的は地下金庫に保管されていた貴金属と、“ドラゴンアイ”と呼ばれるビッグジュエル。記事にはそう記されていた。しかし結末は奇妙だった。宝石は確かに一度奪われたものの、約10キロ離れた地点で強盗団の車両と一つの死体が発見され、その後、怪盗キッドによって宝石が返還されたという。
コナンはその内容を頭の中で丁寧に整理しながら口を開いた。
「この強盗団は何が目的でオースティンを荒らしまわっているんだ?」
「そうだな……頭から話すか」
ジャックはそう言い、運転席の窓を開けた。乾いた熱風が車内に流れ込み、わずかに前髪を揺らす。片腕を窓枠にのせ、ハンドルをゆるく握るリラックスした姿勢のまま、彼は話し始めた。口にする内容だけが、その落ち着いた態度と場違いなほどに凄惨だった。
「オースティンではここ二週間のうちに6人組の強盗犯にのる家宅侵入の事件が4件発生している。ちなみにどの事件でもジャマーによって通報は不可能な状態にされていた」
「住人は?」
「全員死亡」
「死因は?」
「銃殺だ」
「即死?」
「いや、何発も撃たれていたらしい。女子供も容赦なくな。……主は“敵をも許せ”とおっしゃるが、そんな連中を許す気にはなれない」
その言葉の持つ重さは、車内の空気を確実に沈ませていく。被害者の詳細も順に語られる。経済状況も、人種も、家族構成もバラバラだ。何一つ共通点がない。ただ物を奪われ、命を奪われた。それだけだ。
HSI、国土安全保障捜査局の操作によると、犯人のうち一人の死体はすでに身元が割れていた。ユタ州の不法滞在者のチンピラだ。そこから監視カメラの映像を辿り、複数人のチームを組んで各州を転々としていたことが判明している。目撃者達の証言によると、6人組の強盗団。そして彼らはニューメキシコ、アリゾナ、そしてテキサスへ。最終的にオースティン郊外、中流階級の住宅が多く集まる町、ダストンに居着いたと見られていた。
「そんな危険な連中が流れてきたんだとあれば当然町はパニックになる。お陰でダストンの土地の価値はダダ下がりだ。自然豊かな街として売り出し始めるところだったのにな」
「そりゃそうだろうな。そんな奴らの暴れ回ってる場所、誰だって住みたくない。というか、州を跨いでの犯罪者か」
「今頃FBIが動いているだろうよ」
「FBIか……」
「まあ元々調べていた連中と管轄争いをしているらしいけどな」
「移民の犯罪ならHSIの管轄だしな」
FBIという言葉を耳にした瞬間、コナンの脳裏に一つの顔が浮かんだ。冷静で有能な捜査官の顔。特に、最近その姿が視界から消えている人物のことを。
(確か、三日前くらいから昴さんの姿が見えなくなっていたけど)
偶然だろうか、と一瞬考え、すぐに頭を振る。
(というかコイツやたらと詳しいな)
ジャックの情報量は明らかに異常だった。単なる伝聞ではない。現場に近い、踏み込んだ情報だ。コナンはスマートフォンの画面を切り替え、別の記事へ視線を落とす。捕まった一人の体には赤いバンダナ。複数の目撃証言ではその6人組全員がどこかに赤いものを身につけていたという。その特徴から、強盗団は”レッドライン”と呼ばれるようになっていた。押収された車にも、側面に赤いラインが入っていたらしい。
(この”レッドライン”を遥々殺しにきたんじゃ……)
思考が自然とそこへ繋がっていく。ジャックは殺人鬼だが、無差別ではない。標的を選ぶ。そして今回アメリカへ来た理由は、“急に行くことになったから”。言い回しからして、元々行く予定はなかったのだと考えられる。つまり、可能性として高いのは誰かに突然呼ばれたということだ。あれだけ痛い思いをしてまで来るということは、もしかしたらその人物に借りでもあるのかもしれない。そして殺人鬼をわざわざ呼び寄せたのだから、当然その用途は犯人の特定及び犯人の殺害だろう。
(被害者の数はテキサス州だけで既に13人。まだ未確定だがニューメキシコやアリゾナの件も含めれば恐らく相当な……)
想像しただけで胃の奥が軋むような不快感が広がる。コナンは小さく息を吐き、スマートフォンの画面を閉じた。気分を切り替えるように、意識的に窓の外へ視線を向ける。流れていく単調な景色。対向車線を走る車列。その中に、ふと見覚えのある顔が飛び込んできた。
(あ……)
一瞬のすれ違い。だが見間違えるはずがない。短めの金髪に、印象的な大きなメガネ。
(ジョディ先生!? 何で!?)
思わず目を見開きかけたが、すぐに全力で表情を押し殺す。ここで反応すれば、隣の男に気づかれる。何事もなかったかのように平静を装い、前を向く。
(マジで厄介な事になってきやがった……)
背中にじわりと汗が滲む。それでも口の端は、知らず知らずのうちにわずかに吊り上がっていた。危機的な状況に追い込まれるほど、思考は逆に冴えてくる。コナンはとりあえず推理の材料を集めておこうと、灰原に向けて短いメールを送った。少し前に日本からテキサスへ飛んだプライベートジェットの持ち主が誰なのか、どんな人物なのかを調べるよう、端的に記す。
その様子に気づいているのかいないのか、ジャックはスマートフォンの着信通知を確認し、短く目を通すとすぐにポケットへ戻した。そのままアクセルを踏み込み、車はさらに速度を上げる。
数時間後、二人は広い公園に沿った駐車場へと辿り着いた。と同時に、灰原からの返事の電話が届いた。車を降りて応答する。どうやら少年探偵団達もそこにいるらしく、アメリカに行きたかったなと残念がる彼らに、気晴らしだと言う阿笠博士からくだらないクイズを出しているようで、巻き込まれてしまったが。
『じゃーん! クイズじゃ! テキサスの男達が一番憧れる兵士の種類はなんでしょう! ①、槍兵。②、侍。③、ガンマン。④、弓兵』
『またどうせダジャレなんだろ〜』
『やっぱりアメリカと言えば西部劇じゃないですか!? きっとガンマンですよ!』
『お侍さんじゃない? 日本の漫画とか大人気って聞くもん!』
「違うよ。答えは1番の槍兵」
どうしてだと聞いてくる子供達に、コナンは説明をする。侍は斬る。ガンマンは撃つ。弓兵は射る。それなら槍兵はなんだと。
『え? 刺す?』
『そうよ。槍は刺すもの。敵を刺す。敵刺す。テキサス』
「だから答えは一番の槍兵」
『やっぱり結局ダジャレなんじゃねぇかよ』
そういって呆れた声と共に子供達の声は離れていき、ようやく灰原から求めていた情報を教えてもらうことができた。プライベートジェットの持ち主の名前はビアンカ・ゴールドウィン。テキサスの不動産王と呼ばれる、強盗が相次いでいるダストンで元市長を務めていた女だった。そして、先の強盗事件で殺された男の妻である。
(コイツと何の関係が?)
コナンがそう考えている後ろで、ジャックが降りてきた。遠くで子どもの高い笑い声が風に乗って届き、木々の葉が擦れ合う音が耳に入る。穏やかで、のどかで、どこにでもあるような公園の光景だった。しかしその向こう、木々の隙間の先に、その風景とは明らかに場違いな存在感を放つ豪邸がそびえているのが見えた。コナンは自然と眉をひそめる。
「ここ何処だよ」
「アンタの目的地だ」
簡潔な答えが返ってくる。意味を測りかねながら公園に向かうと、乾いた空気と草の匂いが混ざった風が頬を撫でた。辺りを見渡すように視線を流す。そして公園の奥にその視線が止まった。
レジャーシートを広げ、穏やかに言葉を交わしている二人の人影。木漏れ日の中で並んで座る男女。その光景を認識した瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
ジャックが「アイツ最悪だな」と呟いた声が耳に届くよりも早く、コナンは走り出していた。地面を蹴るたびに、心臓の鼓動が速くなる。呼吸が荒れるのも構わず、一気に距離を詰める。木陰に滑り込み、足元に転がっていた、ぶつけてもあまり痛くなさそうな小石を一つ拾い上げる。腕を振り、狙いを定めて投げた。乾いた音と共に、それは見事に背中に命中した。
男がわずかに顔をしかめ、振り返る。そこにあったのは、工藤新一の顔だった。だが中身は違う。コナンの顔を認識した瞬間、その表情がゲッとでも言わんばかりに、これ以上なく露骨に歪む。
「どうしたの?」
隣にいた蘭が不思議そうに首を傾けながら問いかける。その声に軽く応じながら、男は木陰のコナンの方へ小走りで近づいてきた。そして、
「なぁんでオメーがここにいんだよ!?」
「そりゃこっちのセリフだ! 怪盗キッド!」
周囲に聞こえないよう声量をぎりぎりまで抑えながら、それでも怒気を一切隠さずに言い放つ。器用な怒鳴り方だった。それを受けてキッドは目を細め、やがて楽しげな笑みを浮かべた。道化師のような笑い方だ。
「つかオメーどうやって来たんだよ。パスポートもねぇくせに。密航か? よくないなぁ名探偵さんよぉ」
「オメーに言われたくねぇんだよ! シンガポールの時に密航させて来たやつによ!」
「おおっと、そうだったな。ま、理由なんてどうでもいいか。にしてもヤな奴だなぁ。俺の行く先々に現れて。そんなに俺の邪魔をしたいのか?」
「オメーが俺に化けてなければここまで出張ってくる理由もなかったさ」
「手は出してねぇんだから勘弁してくれよ。あっちから触ってくる時以外は触れてねえんだぜ?」
「そういう問題じゃねぇッ!!」
「おお怖!」
軽口を叩きながらも、キッドの目の奥にはわずかな警戒の色があった。余裕を装いながらも完全には気を抜けない。その一方で、コナンの胸の内には苛立ちが渦巻いていた。目の前の男が、自分の顔で蘭の隣に座っている。その事実だけで、冷静さを保つのが難しくなる。言葉を交わすたびにその違和感と不快感がじわじわと積み上がっていく。キッドはけけっと軽く笑い、からかうように肩をすくめた。
「まあまあ一人旅も程々にな。“アーサー・ヒライ”くん!」
わざとらしく名前を強調して、くるりと踵を返す。何事もなかったかのように元の場所へ戻ろうとする背中に、コナンは即座に手を伸ばした。
「待ちやがれ!」
指先が布を掴む。軽く引き止めた、その瞬間だった。
「あれ?」
聞き慣れた声が、すぐ背後から落ちてきた。コナンの背筋がわずかに強張る。
「びっくりした。コナン君……じゃ、ないわよね。ここにいるわけないし。それじゃあ貴方、確かシンガポールで会った……」
振り返ると、そこには蘭がいた。柔らかな日差しが彼女の輪郭を縁取り、穏やかな表情が静かにこちらに向けられている。その視線がまっすぐ自分に注がれているだけで、心拍数が一瞬で跳ね上がるのを感じた。
「あ、あ! あの! えっとね」
頭が白くなる。バレてはまずいという焦りが喉を塞ぎ、言葉が出てこない。しゃがみ込んだ蘭がコナンと視線を合わせた。その距離の近さに、思わず息が詰まる。
「確かアーサーくん……だよね? こんな所でまた会うなんて奇遇じゃない! どうしてここにいるの?」
「えっと、そのぉ……」
言えない。殺人鬼と一緒に怪盗と強盗団を追いかけてここまで来たなど、口にした瞬間にすべてが崩れ落ちる。黙り込んだコナンを見て、蘭はわずかに眉を下げた。心配の滲んだ、柔らかな表情だった。
「また一人なの? シンガポールからここまで、お父さんかお母さんと一緒じゃなかったの?」
「一人旅じゃないよ。心配いらない」
その声が割って入ったのは、まさに絶妙なタイミングだった。コナンは内心でほっと息を吐く。普段なら決して望まないはずのその存在が、今この瞬間だけは確かに救いに感じられた。
「え?」
蘭が振り向く。そして、現れた男の顔を見た瞬間、目を見開いた。同時にキッドの表情も一瞬で引き攣る。現れたのはラフな格好の青年だった。落ち着いた色味でまとめられたその装いは一見するとただのカジュアルだが、どこか異質な空気を纏っている。地黒の肌に癖のある焦茶色の髪。そして何より、その顔立ち。偶然にもその顔は
「お、」
「え、新一そっくり……」
「俺ぇ!?」
「どうも。ケイ・ヒライです。この子のお兄ちゃんです」
「わ、わーい! 待ってたよ兄ちゃん!」
棒読みもいいところの台詞を吐きながら、コナンは迷いなくジャックの足に抱きついた。ぎこちない動きではあるが、今はこれが正解だと判断している。蘭はその様子にほっとしたように頷いた。
「お兄さんと二人旅だったんだね」
「う、うん!」
即座に頷く。多少不自然でも、押し通すしかない。簡単な自己紹介が交わされた後、ジャックはゆっくりとキッドへ視線を向けた。そのまま、じっと顔を観察するように見つめ続ける。その眼差しには何の感情も読めない。ただ静かに品定めするように見ている。キッドの背中に冷たいものが走った。
(この感じ……間違いねぇ、あの時の殺人鬼だ……)
視線を逸らす。だがそれだけで済むはずもない。圧が増していく。空気が重くなる。居心地の悪さを誤魔化すように軽く口笛を吹いてみるが、そうするとかえって場違いさを際立たせるだけだった。そして。
「久しぶり、工藤くん」
急に穏やかな笑顔になり、投げられたその一言にキッドの内心が一気にざわついた。
(や、やべぇッ! どういう設定だ!?)
「あれ? 新一、ケイさんと知り合いなの?」
「あ、あ〜、まあ、ね。まあそう。知り合いだぜ」
「へぇ、アメリカで会ってたの? 現地で友達作るなんて羨ましいなぁ。いつ仲良くなったの?」
(掘り下げてくるのかッ)
蘭の純粋な疑問が、容赦なく追い詰めてくる。じわじわと首を絞められるような焦りが喉元まで迫り上がってくる。助けを求めるようにコナンを見るが、返ってきたのは完全に他人事の顔だった。むしろ面白がっている。やられた。そう思いながらも、キッドは瞬時に思考を切り替える。この状況、逆に利用できるかもしれない。自信満々に押し通せば、相手は疑いきれない。
「レッドラインって強盗団いるだろ? 奴らの最初の事件はアリゾナだったんだけど、ケイは捜査の関係者と知り合いで、その流れで仲良くなったんだよ。年も近かったしな」
「あれれ〜、兄ちゃん達ってそうだったっけ〜?」
即座に差し込まれたコナンの横槍に、キッドの内心が悲鳴を上げる。
(そんな容赦なく梯子を外すなよ名探偵ッ!)
蘭は小さく首を傾げる。疑念が生まれかけるその瞬間、コナンは笑った。
「冗談冗談。そうだったよね」
さらりと修正する。その態度の鮮やかさに、キッドは一瞬だけ歯噛みする。だが同時に、これ以上突っ込まれない流れができたことにも気づく。コナンは内心で小さく満足していた。いつも振り回されてばかりの相手に、ほんのわずかながら仕返しができたのだから。
ジャックはそのやり取りを静かに眺めていたが、やがてキッドへ向き直った。
「そんな事より工藤くん。また捜査に協力する気はない? 俺はこれからゴールドウィン夫人の家に向かうけど」
コナンはプライベートジェットの持ち主の名前が突然飛び出したことに、わずかに目を見開いた。隣ではキッドが息を呑む。ゴールドウィン。ビアンカ・ゴールドウィン。オースティンの不動産王と呼ばれる女。派手な生活と強大な資産で知られ、人生の全てがうまく行っていて、“アメリカで1番完璧な女”とも言われている。その手元には“サンセットハート”と名付けられたサンストーンのビッグジュエルがある。
そして、それこそが今回のキッドの本命だった。
「いいね。元から俺はレッドラインの調査をするつもりだったんだ。願ったり叶ったりだぜ」
即答だった。蘭はその様子を見て、どこか納得したように微笑む。推理となれば止まらないあの性格は、彼女にとって見慣れたものだ。今回も同じ。そう判断したのだろう。
そのタイミングで、飲み物を買いに行っていた小五郎が戻って来た。片手にビニール袋を下げ、無防備な表情で歩いてくる。見覚えのない顔を見つけると、不思議そうに眉を上げて誰だと問う。その問いに蘭は新一の友人らしいと簡潔に説明した。小五郎は納得したのかしていないのか判然としない顔でふーんと鼻を鳴らし、視線をゆるやかに流す。そして何気なく下へと目線を落とした、その瞬間だった。視界に飛び込んできた小さな姿に、彼の動きが止まる。
アーサーに変装しているコナン。その顔を見た途端、記憶が結びついた。シンガポールで一度出会った少年。小五郎の目がわずかに見開かれる。そしてすぐに、その視線はジャックへと向けられた。お前兄貴なのにシンガポールでこんな小さな子を一人にしたのかと、呆れを隠さない言葉を投げかける。
その言葉を受けても、ジャックは強く反論するでもなく、ただ困ったように「あはは、なんかお世話になっちゃったみたいですいません」と笑った。その笑い方はひどく人間らしく、場の空気が一度柔らかく緩む。新一とジャックがこれからどこかへ向かうのだろうということは、言葉にせずとも容易に察せられた。ならば自分たちはどうするか。蘭と小五郎の間に、口に出さずとも同じ結論が浮かぶ。時間までは適当に観光でもするか、と。
異国の空気はどこか乾いていて、日差しは強いが風は心地よい。公園の芝生はよく手入れされ、遠くには低い建物が整然と並んでいる。見上げれば空は果てしなく高い。そんな穏やかな景色の中で、ようやく一息つこうとした、その瞬間だった。
「Hey, hey, hey! 君が噂のクドウシンイチ? ゴールドウィン様からVIPをお出迎えしてこいって言われて飛んできちゃった。ハイスクールで探偵とかマジでクールじゃん!……で、隣のこの超キュートなレディは誰? ガールフレンド?」
「アンタ誰……?」
場の空気を一瞬で塗り替えるような、妙に軽快で遠慮のない声が割り込んできた。コナンは反射的に半目になる。また面倒な人物が増えた。そういう予感が、拭い去れない。
視線の先に立っていたのは、金髪に紫がかった赤い吊り目が印象的な男だった。黒いジャケットを羽織り、その立ち姿には妙な自信と軽薄さが同居している。整った顔立ちではあるが、どこか胡散臭さが抜けない。
「俺はニック・ヘイリー。ゴールドウィン様のお使いだよ」
名乗りはあくまで軽やかだったが、その内容は無視できるものではなかった。夫人に怪盗キッド関連でメールを送った日本の探偵、工藤新一。その人物を迎えに来たというのだ。日本の怪盗からの挑戦状。ならば日本の探偵を呼ぶのも悪くない。そう考えてゴールドウィンは工藤新一を招いたのだと、自然な流れで説明が続く。
コナンはわずかに眉をひそめた。全く覚えがない。視線を上げ、隣に立つジャックを見上げる。ジャックは小さく、ほとんど口の動きだけで答えた。
俺が送っておいた。
その一言で全てが繋がる。コナンはさりげなくジャックの背に回り込み、死角を作るようにして新一用の携帯を取り出した。画面を操作し、送信履歴を確認する。そこには確かに、該当するメールの記録が残っていた。
勝手なことをしやがって、と内心でため息をつく。だが同時に、この流れは好都合でもあった。正面から関わる理由が出来た以上、動きやすくなる。
行けるのなら行きたい。その判断に迷いはなかった。コナンはそのまま流れに乗ることにした。ニックの案内に付き添う形で、キッドが車へと乗り込む。さらに、日本の探偵ならアンタも来なよと誘われ、小五郎と蘭も同行することになった。小五郎は多少面倒そうではあったが、蘭は嬉しそうだ。断る理由も見当たらず、結局は流れに従う。
キッドが助手席に座り、シートベルトをかける。カチリと乾いた金属音が車内に響く。その直後、ニックはサングラスをかけると手慣れた動作でハンドルに消毒液を吹きかけた。アルコールの鋭い匂いが一瞬だけ車内に広がり、すぐに消える。
エンジンがかかる。低い振動が車体全体を伝い、静かに前へと動き出した。その後ろを、ジャックとコナンが乗った車が続く。コナンは窓の外へ視線を向ける。流れていく景色の中で、状況だけが急速に動いているのを感じていた。偶然にしては出来すぎている流れ。強盗団、怪盗キッド、そしてこの招待。
それらが一本の線で繋がり始めている。その線の先に何があるのかはまだ見えない。だが確実に、何かが動き始めていた。