屋敷に足を踏み入れた瞬間、小五郎と蘭は言葉を失った。
吹き抜けの天井はゆうに10メートルを超えるだろうか。美しいドームが頭上に広がり、その中心から巨大なシャンデリアが威風堂々と吊り下げられている。数百のクリスタルが光を乱反射させながら揺れ、磨き抜かれた大理石の床に無数の輝きを与えていた。左右に伸びる大階段は純白と金で縁取られ、その緩やかな曲線はまるで劇場の舞台装置のように計算し尽くされている。壁面を彩る絵画はどれも額縁からして別格で、空調すら静かで品が良かった。
「おお、こりゃあ、すげぇなぁ……」
「……すごい」
蘭の口から、ほとんど息だけで構成されたような声が漏れた。隣で小五郎も同じように顔を上げたまま固まっており、その目は純粋な驚嘆で見開かれていた。ニックは自分のものでもないのに自慢げにエントランスの装飾を紹介し始めている。
しかし、少し離れたところでは、明らかに異なる空気が流れていた。
コナン、キッド、ジャックの三人は蘭達からやや距離を置いた位置に固まっていた。ジャックが微かに眉根を寄せ、コナンが腕を組んで思案顔をしている。キッドに至っては入口の方をちらりと振り返り、逃げ道を確かめるように視線を走らせた。
「それで」
と、キッドが口を開いた。
「俺はどういう設定でここに来てんの?」
「アンタが出した予告状を知って、関わらせてくれって頼み込んだ日本の探偵。物好きのビアンカ・ゴールドウィンが受け入れ、使用人のニックが迎えに来た。以上だ」
「マジでそのまんまか……」
「どうせ予告状出したんなら、丁度いいんじゃないの?」
「予告状出したの俺じゃねーの! ちょっと前に展示されてたドラゴンアイがあの館にあると知ったから、そっちは確かに俺が予告状出したけどサンセットハートの方は知らねぇ!」
「またかお前……」
「うるせぇよ探偵君。俺は人気者なの。ま、ビッグジュエルがあんなら丁度いいしそのまま使わせてもらうぜ。それに、警備員にでも化けて忍び込むかとも考えていたけど、こっちの方が深く話聞けそうだし。というかそれより気になるのはお前のことだよ」
と、キッドはジャックを指差した。何しに来たんだと問いかける彼に対して、ジャックは「別に」とそっけなく答えて扉の方に目を向ける。ムッとした様子のキッドに対して、コナンは予想だが、“借りのあるらしい誰かから何か頼まれて来たのかもしれない”という事をこそっと伝える。用事ができて急に行く事になったという言葉から、元々来る予定だったのではなく、誰かに突然呼ばれたのだろうと推測できる体。
(つまり、このゴールドウィンの屋敷の中の誰かが、殺人鬼アルシエルの協力者……!)
まさか海外にいるとは思わなかった。いや、もしかしたら海外”にも”いるだけかもしれない。ゴールドウィンのプライベートジェットを自在に動かせるということは、本人か、家族か、あるいはよほど立場の高い使用人ということになる。必ず見つけ出す。固く決意したその時、靴音が廊下の奥から響いてきた。
扉が静かに開き、一人の女性が現れた。五十代ほどだろうか。肩まで流れる銀髪は乱れ一つなく整えられ、真紅のリップが白磁のような肌の上で鮮やかに映えている。纏うスーツは仕立ての良さが一目でわかるもので、余計な装飾が一切ない洗練さが、かえって値段の桁を想像させた。
「
声は低く、よく通った。視線が一人一人の顔を順番に拾っていく。それだけで室内の空気が水を打ったように静まり返るような、不思議な力があった。
「
わずかに口角が上がる。微笑みと呼ぶには鋭すぎ、威圧と呼ぶには優雅すぎる、そういう種類の表情だった。
「
ビアンカが視線を後方へ向けると、それまで気配を消すように控えていた2人が、ほんの少しだけ前に出た。
「
男は無言で頭を下げた。金髪をきっちりとオールバックに撫でつけ、赤いネクタイを一分の隙もなく締めている。体格は良いが動きに無駄がない。小さく下げた頭が戻ると同時に、品定めするような冷たい視線がこちらに向いた。愛想はない。
「
対照的に彼女は名前を呼ばれた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。黒髪に濃いめのアイラインと鮮やかなチークが、この豪奢な空間の中でひときわ浮いて見える。赤いマニキュアの塗られた手をひらひらと振り、「こんちはっす」と短く言い放つ。
「
ニックは「改めましてよろしく〜」と言いながら、小走りでビアンカの元へと戻って行った。走るたびに柔らかそうな髪が揺れ、耳元の赤いリングのピアスが小さく揺れる。
「にしても本当にあの名探偵の毛利小五郎が来るなんて驚きっすねぇ」
と、マリッサがコナン達の元に歩み寄り、小五郎に握手を求める。すると小五郎は照れながら「こんな遠くの方にも知られているなんて光栄ですな」と返す。
「お姉さんおじさんのこと知ってるの? 日本語上手なんだねぇ」
「知ってますよ。ウチはお母さんが日本人なんで、日本のこともよく聞いてるんす。日本語もそれで喋れるんすよね」
「それなら俺らにも教えてほしいなぁ。連れて来たはいいけど、俺は日本の有名人はよく知らないし」
「ニックはアニメで日本語覚えたんすもんね。行ったわけじゃなくて」
「そうそう」
ニックはそう言いながら、キッドの前に立つ。
「にしても、高校生で探偵とか超クールじゃん! しかも自分から売り込みとかなかなか出来る事じゃないよ」
「って事は君が工藤新一っすか! 噂はお母さんから聞いてるっす」
マリッサに握手を求められ、キッドは笑顔で応じる。ニックにも手を出したが、困った様子で断られる。そういえばハンドルにアルコールをかけていたし、この男は潔癖症かと判断し、キッドは大人しく手を引っ込めた。この二人は人懐っこそうだが、奥のアルヴィンは一筋縄ではいかなそうだ。
(化けるならニックかマリッサだな)
なんて品定めをしつつ、話に耳を傾ける。マリッサはそのまま屋敷の面々に彼らのことを説明した。
「
ビアンカはそう言うと、レッドラインと怪盗キッドに関する一連の事件について語り始めた。
現在、レッドラインによる強盗殺人はダストン市内で確認されているだけでも4件。いずれの事件でも被害者は全員死亡し、金品はすべて奪われている。4件目の現場は、ゴールドウィンの別居中の夫の館だった。そこに保管されていたドラゴンアイも盗まれたが、最終的にはキッドによって取り戻され、今はサンセットハートとともにこの館の地下金庫に収められているという。
レッドラインは過激な集団で、仲間を殺されたまま黙っているような連中ではない。ドラゴンアイがキッドに奪われた際、メンバーの一人が死亡している以上、報復は避けられない。そしてその報復は、キッドが予告状を出したこの場所で行われる可能性が高い。ビアンカはそう結論づけた。
(キッドが殺しを……?)
そんなはずがないとコナンはキッドへ視線を向ける。彼は明らかに不満そうな顔をしていたので、やはり殺してはいないのだろう。また何らかの罪を被せられたのだと判断する。
協力してもらうにあたってこの館についての説明が必要だろうとの事で、ビアンカが案内してくれることとなった。そんなタイミングで、玄関のベルが鳴らされた。ハウスキーパーのマリッサが戸を開けると、そこにはFBIを名乗る男達が立っていた。ビアンカが一言二言話すと、
「
と、告げた。被害者はビアンカが大家である家に住む知人らしく、彼女はボディーガードのアルヴィンを連れて事情聴取に向かうこととなった。コナンはその隙にこっそりと盗聴器を飛ばし、捜査官の靴の裏に貼り付ける。館の案内はマリッサとニックが務めることになった。
(ラッキー、一番おっかねぇアルヴィンが抜けたぜ)
内心でキッドはご機嫌に鼻を鳴らした。
FBIがビアンカを連れて館を出て行ったところで、マリッサが「なんか面倒で嫌になるっす」と眉を顰めた。
「え、どう言う事ですか?」
蘭がそう尋ねると、ニックが答える。彼はジャックの肩に腕を乗せると、隣に立つキッドに向かって「アンタが名探偵なら分かるだろ。管轄ってもんが世の中にはあるのさ」と言ってため息をついた。
「なんで俺らがこんなのに巻き込まれなきゃいけないんだかね」
「本当っすよ。昨日も別の人達に同じこと何回も聞かれてんすよ。疲れちゃうっす」
「で、また違うやつらが来て横から口出してきて、あれもこれもそれもごちゃごちゃと聞いてくる……これって最初は別の筋が押さえてた話だろ? 州またいでるからって、あとから出てきて全部持ってこうとすんのやめてほしいわ」
「なんで急に来たんすかね?」
「さぁ?」
なるほど、とコナンは胸の内で静かに得心した。二人の愚痴は感情的で雑だが、そこに含まれる断片的な情報は十分すぎるほど揃っている。何度も繰り返される聴取、統一されない質問の内容。これは指揮系統が一本化されていない証拠だ。州を跨いだ事件とはいえ、最初に動くのは現地警察だ。そこに後から別の組織が割り込めば、当然摩擦が生じる。ニックの言葉にあった”あとから来て全部持っていこうとする”という表現は、その軋轢の正体をそのまま指し示していた。恐らく元から捜査していた組織とFBIが主導権を巡って衝突しているらしい。コナンはそう結論づけると、わずかに目を細めた。
(ん……というか今……)
何かが引っかかった気がする。だがその何かが何なのかが、すぐには掴めない。しかし考え込んでいる余裕はなかった。
「まあそんな景気の悪い話よりハッピーになれる話しましょ! お菓子とか食べます? ウチが館を案内するっす」
「金庫の案内は俺がしますよ。ビアンカさんの超ハイテク金庫。アルヴィンは機械音痴だからセキュリティは俺も手伝ってるんで、多少は説明できますし」
そう言って笑う陽気な二人の案内のもと、コナン達は館を巡った。金庫のセキュリティについても軽く説明を受ける。いかにも最先端らしい素晴らしい設備だったが、キッドは問題なさそうだと小さく笑い、その場で堂々と、誰にも一切見咎められることなく盗みの準備を完了させた。
そんなこんなで、気がついたら日も完全に沈んでいた。マリッサにタクシーを呼んでもらい帰ることになったが、コナンはその場でもう少し見たいと駄々を捏ねてジャックと共に残ることにする。キッドもまた、少し気になることがあると言い、蘭と小五郎だけをタクシーに乗せてその場に残った。
「ねぇニックさん。セキュリティはニックさんも分かるんでしょ? 僕監視カメラの映像とか見てみたい!」
「hey heyチビ助。ひょっとしてお前って探偵の卵? 監視カメラの映像なんて見ても退屈なだけだぜ? トムとジェリーとかの方がいいんじゃない? あるよ、DVD」
「監視カメラがいい! 昔からそういうのってカッコいいなって思ってたの!」
「まじかよ! 特殊な嗜好だ!」
そうやって渾身の演技を披露し、ニックにセキュリティルームへ案内してもらうことに成功する。仕事に戻ったマリッサと別れ、通されたセキュリティルームには大きなモニターがいくつも並んでおり、館内の隅々を映したカメラの映像がすべて映し出されていた。ニックがパソコンを起動すると、
「キッドかレッドラインが来るまでこれを見張ってろとか言われたんだけど、普通にダルすぎんのよね。ここで座ってこのクソ退屈な画面だけずーっと眺めてるとか全然クールじゃない。2秒で眠くなる」
と言い終えた瞬間、首筋がチクリとした。ニックの意識は一秒も経たずに途切れ、ガン、と額が机に叩きつけられた。
「2秒どころか1秒で寝たな」
「うぅわ、今の痛そう。てかマジで容赦しねぇのな、お前」
ジャックとキッドがそれぞれに呆れた目を向ける中、コナンは素早くパソコンを操作し、データをUSBに移し始める。キッドはその様子を眺めながら、ニックの指先からさりげなく指紋を採取した。マリッサの分は握手の際にすでに取れていたが、ニックのは機会がなかったのだ。ここぞとばかりの行動だった。ジャックは半目になってその一連の流れを眺めた。
* * *
さて、ホテルに戻り、特に問題が起きないまま時は過ぎ、次の日の夜を向かえようとしていた。
別の階に泊まっていたコナンが物音ひとつ立てないようにドアを開け、静かに廊下へと消えていった。ジャックはそれを発信機の動きで察する。規則的に動く点が、確実に距離を離していくのを見届けてから、ようやく体の力を抜いた。張り続けていた緊張が、潮が引くようにじわりとほどけていく。
十分だ。そう判断して初めて、ジャックは顔へと手を伸ばした。化粧を落とし、素顔に戻ると小さく息が漏れた。解放に近い吐息だったが、安堵とは違う。緊張を一段階だけ解いた、それだけの呼吸だ。鏡の中に現れたのは、先ほどまでとは全く異なる顔だった。黒い無造作な髪の下で、青藤色の吊り目が静かに存在している。何となく、その鏡から目を逸らす。
「FBI…スナイパー……まさか……。いや、死んだはずだ。でも……」
独り言のように零れた声は、低く、かすかに掠れていた。確信には至らない。だが、引っかかりが消えない。思考を断ち切るように、ジャックは立ち上がった。
そのまま浴室へと向かい、服を脱ぐ。シャワーの蛇口を捻ると、すぐに水音が狭い空間を満たした。冷たい水が肩に打ちつかり、頭皮を伝って流れ落ちる。髪を撫で上げ、ふと鏡の方へ視線を向ける。
そこに映ったのは消えない傷跡だった。古く、それでいて完全には過去になりきらない痕。そして、髪を撫で上げた腕の肘から手首にかけてもそうだ。そこだけ皮膚のきめが消失し、薄い膜を張ったようになっている。見るたびに微かな違和感を伴う。痛みというほどではない。だが、忘れたはずの感覚が、皮膚の奥でわずかに疼く。
ジャックは何も言わず、ただ水を浴び続けた。時間と共に感覚は鈍る。水音が思考を均し、余計な感情を削ぎ落としていく。やがてシャワーを止める。
静寂が戻る。
タオルで水気を拭き取り、着替えを済ませる。上着に袖を通したそのタイミングで端末が小さく震えた。ジャックは画面を一瞥する。そこに表示された内容を確認した瞬間、表情は変わらないまま、視線だけがわずかに鋭くなる。黒いコートを手に取り、羽織る。適当に買った白い仮面を懐にしまい、帽子を被る。影が目元を覆う。
ドアを開けて部屋を出る。廊下の照明は均一で、足音は絨毯に静かに吸われる。エレベーターを待つ間も、ロビーを抜ける間も、彼の動きに淀みはない。駐車場に出ると、夜気がわずかに肌を撫でた。コンクリートの匂いと、遠くから届く車の音が混ざり合う。
車に乗り込む。ドアを閉めた瞬間、外界の音がすっと遮断される。エンジンをかけると、低い振動がシート越しに伝わってきた。深く座り直した拍子にコートの裾が広がる。アクセルを踏む。車は静かに動き出し、そのまま夜の闇の中へと溶け込んでいった。
* * *
コナンはホテルを抜け出し、一人でとある場所へと向かった。目的地に近づくと、そこには見覚えのある人影が二つあった。
「こんにちは、ジョディ先生。キャメル捜査官。こんな所で会うなんて奇遇だね」
「ッ、君は……!」
「クールキッド!? どうして、こんなところにいるの!?」
「ちょっと気になることがあって来ちゃった!」
実際のところは、盗聴器を仕込んだ捜査官との会話からジョディ達がここにいると察知したので、いなくなる前に情報を引き出そうと急いで駆けつけたのだ。しかしそんな事情など知らないジョディ達にはまるで全てを見透かされているような心地になる。
「FBIの2人に何でここにいるのって聞くのもおかしな話だと思うけど、聞いてもいい?」
ジョディとキャメルは暫し顔を見合わせた。そしてジェームズの指示だと告げた。もしかしたらこの件を調べれば、捜査中の事件に関する重大な手がかりが手に入るかもしれない。それで急遽手伝いにテキサスまで飛んで来たのだという。
「その事件ってひょっとしてレッドラインが関係してる?」
「流石、お見通しって訳ね」
感嘆するように息を吐いたジョディは、レッドラインが最近接触したらしい相手、その調査を続けているのだと告げた。管轄の問題でやや揉めていてなかなか進捗は上がらないが、それでも情報は確実に集まっているらしい。コナンはレッドラインについてさらに細かく聞いた。
被害者5件は、ゴールドウィンの夫の館を除けば中流階級が3件。仕事をクビになり車も売り払うような厳しい家庭が1件で、金品目当ての強盗とはとても思えない。それは以前の週でも同じ傾向だった。金持ちを選んで狙っているというより、強盗殺人そのものが目的と思えるほどだ。だからこそ、家主が帰宅していて人がいるであろう夜に踏み込み、妊娠中の妻だろうが幼い子どもだろうが一切容赦なく銃殺していく。酷い事件ほど強いインパクトを与え、近隣の住人達は不安でパニックを起こす。
「そして、テキサスで起きたこの5件の事件のうち3件には目撃者がいて、こう言っているのよ。犯人は不法滞在者達の6人組のグループだって」
「憎悪犯罪なんでしょうかね?」
「まって、リーダーの男は白人だったって……」
「え、白人?」
コナンは思わず口を挟んだ。あの後の帰りの車でキッドから、ドラゴンアイを盗んだ時の状況を聞いていたのだ。誰かに追われて逃げていたらしいレッドラインの一人が、息苦しくなったのか覆面を外したタイミングを見計らってドラゴンアイを盗み取ったという。だからその顔を一瞬だが目撃している。人種の見分けくらいはつく。不法滞在者だけで構成されているわけではないはずだ。
「つまり、その目撃者の勘違いか……」
「目撃証言自体が嘘で、誰かが憎悪犯罪に見せかけようとしている……?」
「何のために……」
動機も引っかかるが、問題はそれだけではない。レッドラインを追跡していたという赤いヘルメットの人物も気になった。キッドは、自分が殺したと思われている犯人グループの一人は、恐らくその人物が手を下したのだろうと考えている様子だった。しかしジョディに尋ねると、その人物はFBIではないと告げられる。
(一体誰が、何のために)
レッドライン、FBI、もう一つの警察組織、怪盗キッド、そして殺人鬼アルシエルとその協力者。明らかに複数人の思惑が複雑に絡み合っている事件だ。だが、きっとそこまで複雑ではないはずだ。一つ一つ丁寧に解きほぐしていけば、必ず真実に辿り着ける。コナンはそう確信しながら、好戦的に口の端を吊り上げた。
帰り道、靴紐を結び直そうとして、ふと靴の違和感に気がついた。覗き込むと小さな発信機がそこにはあった。コナンの眉間に皺が寄る。無言のまま指先でそれを剥がし取り、軽く握り潰す。鈍い音とともに内部が砕け、役目を失ったそれをポケットにしまった。
気を取り直すように歩き出したところで、ふと足元に落ちていた新聞が視界に入る。何気なく拾い上げ、広げた。目に飛び込んできたのはビアンカの名前だった。かつて荒廃していたダストン地区を立て直した元市長。その実績とともに、彼女が次期市長選への再出馬を表明したことが大きく報じられている。
記事は、相次ぐ強盗殺人によって再び治安が悪化している現状にも触れていた。その上でビアンカは、「この街を離れたいと考えている方がいるのなら、その負担を少しでも軽くしたい」とし、希望者から土地や不動産を買い取る意向を示している。不安を抱えたまま暮らすよりも、新たな場所でやり直す選択を支えたい。そんな言葉が丁寧な文体で並べられていた。
同時に記事は、街の再建を成し遂げた手腕を背景に、再びこの地を立て直す決意があることも強調している。かつての実績と今の混乱。その両方を背負う形での立候補だった。
コナンはその紙面を、しばらく無言で見つめていた。
* * *
テキサスの街はゆっくりと暗がりへ沈んでいく。昼間の熱を孕んだ空気は夜になっても冷えきらず、肌にまとわりつくようなぬるさをまだ残していた。乾いた夜風が低く吹き抜け、街路樹の葉をざわりと揺らす。
その上空を、白い影が音もなく滑るように横切った。
キッドはグライダーを巧みに操り、ビルとビルの間を縫うように、風を切り裂きながら抜けていった。眼下に広がる街の灯りが流線を描いて流れ、夜景は一瞬ごとに形を変える。彼は高度を細かく調整しながらも目的地へ一直線に向かうことはしない。あえて遠巻きに旋回し、建物の配置、警備の動線、監視の死角を頭の中で組み上げていく。侵入と離脱、その両方を同時に設計するための、長年培ってきた癖だった。
やがて一棟のビルの屋上へ音もなく降り立つ。靴底がコンクリートに触れる瞬間の衝撃は最小限に殺され、衣擦れの音すら夜の空気に溶けた。キッドは縁へと歩み寄り、身を乗り出すようにして眼下を見下ろした。照明で夜に浮かび上がるゴールドウィンの屋敷は輝いて見える。均整の取れた庭園、規則的に行き来する警備の影、死角を補うように配置されたカメラ。まさに完璧だ。白い手袋の指先でモノクルを軽く押し上げ、その全てを静かに焼き付けた。
だが、その静寂は長く続かなかった。
階段の奥から複数の足音が一斉に駆け上がってくる。乱れのないリズム。訓練された動き。扉の向こうに気配が膨らんだ瞬間には、キッドの身体はすでに次の動きへと移っていた。
屋上のドアが内側から爆ぜるように開き、銃を構えたFBI捜査官たちが雪崩れ込む。
「
鋭い怒号が響いた。複数の銃口がキッドを同時に捉える。しかし彼は止まらない。踏み出す一歩と同時に身体をひねり、換気設備へ足をかけて跳ねる。そして、トランプ銃が乾いた音を立てた。放たれたカードは一直線に飛び、捜査官達の拳銃を的確に弾き飛ばした。金属音が連鎖し、いくつもの銃が床を転がる。キッドは軽やかな足取りで空間を渡り、翻弄するというより余裕すら感じさせる動きで包囲を切り抜ける。そして一瞬の隙を突き、屋上の縁へと駆け上がり、そのまま夜空へと飛び出した。
その姿を、遠方から一対の瞳が静かに捉えていた。スモークグリーンの瞳。隈がありながらも鋭さを一切失わない視線が、白い影を逃がすまいと追い続ける。
次の瞬間、乾いた銃声が夜を裂いた。
グライダーに穴が穿たれる。風の流れが乱れ、機体の安定が一瞬で崩壊した。
「んな!? マジかよ狙撃か!?」
キッドの声にわずかな焦りが滲む。機体が大きく揺れ、体にかかる負荷が跳ね上がる。歯を食いしばり、無理やり制御を取り戻そうと腕に力を込める。
「あの時のやつか!?」
脳裏を掠めるのは、レッドラインの車を撃ち抜いた、あの異常な精度の狙撃。考える暇などない。落ちれば終わりだ。なんとか進路を修正し、少し離れた大きなビルへと強引に滑空する。屋上に叩きつけるように着地し、膝と両手で衝撃を分散させる。硬いコンクリートが手のひらに食い込んだ。顔を上げる。
「怪盗キッド、悪いけど一緒に来てもらうわよ!」
そこに立っていたのは、ジョディ・スターリングとアンドレ・キャメルだった。キッドには覚えのない顔だが、FBIの関係者であることは一目で察せられる。
二人ともすでに銃を構えていた。距離を取り、射線を交差させるように配置している。逃走経路を限定するための、基本に忠実な布陣だ。まず制圧、次に確保。それぞれの役割を無言で分担している。
キャメルの引き金にかかる指がわずかに動いた。発砲。弾丸が空気を裂き、動こうとしたキッドの足元のコンクリートを弾く。牽制だ。動きを止めるための一発。続けて二発目が来る。
キッドは煙幕を使いつつ、横へ滑るように動いて射線から体をずらす。同時にトランプ銃を引き抜き、カードを放つ。回転するカードがキャメルの拳銃に直撃し、弾き飛ばした。金属が乾いた音を立てて転がる。
ほぼ同時にジョディが動いた。発砲される前にトランプ銃で牽制しつつ、ワイヤーを使って一気に背後へ回り込み、拳銃を蹴り飛ばす。しかしジョディはすぐに距離を詰め、体勢を崩しにくる。伸びた腕が手首を狙う、正確な動きだ。
キッドは半歩だけ退いてその手を外す。しかし次の瞬間には懐に入り込んでいた。ジョディの重心が前に流れた一瞬、再び煙玉で視界を奪う。そしてその手首を掴み、流れるような動きで背後の柵へと誘導する。カチリ、と乾いた音が夜に響く。手錠が閉じ、冷たい金属の感触が手首に食い込んだ。
「レディに痛い思いをさせたくはないのでね」
ジョディはすぐに状況を把握し、「shit」と舌打ちをして逆の手で解除を試みる。完全な拘束ではない。時間稼ぎだ。しかしそれで十分だった。
その背後ではキャメルが体勢を立て直していた。銃を失っても躊躇はない。地面を蹴る踏み込みの音が響き、一直線に距離を詰めてくる。腕が伸びる。確保を優先した、迷いのない動きだ。
「チッ……」
キッドが焦りに汗を滲ませたその瞬間、黒い影が夜に滑り込んだ。
「お前ッ」
黒いコートと、妙な白い仮面。いつもと異なる仮面だったが、キッドには分かった。令和のジャックザリッパーこと、殺人鬼アルシエル。
ジャックは地面すれすれの低い姿勢から一気に踏み込み、キャメルの懐へと潜り込む。正面から受けず、肩をずらして相手の重心の内側へ。接触と同時に腰を落とし、腕を巻きつける。無駄のない流れるような動きで体を反転させ、そのまま一気に引き崩した。
強烈な投げ。キャメルの大柄な体が宙を浮き、コンクリートに叩きつけられる。鈍い衝撃音が屋上に響いた。しかしキャメルはすぐに受け身を取っていた。背中から落ちながらも腕で衝撃を逃がし、転がるように距離を取る。完全には崩れていない。次の瞬間にはすでに立ち上がり、ジャックと正面から向き合った。
「イテテ。貴方は、怪盗キッドの協力者でしょうか……?」
「キャメル! 油断しないで!」
「分かってます!」
間合いは近い。キャメルが先に動く。重心を低く落とし、タックル気味に踏み込む。押し倒して拘束するための動きだ。ジャックは半歩引いて軌道を外し、顔面への回し蹴りを叩き込もうとする。だがキャメルは素早く腕を上げてそれを防ぐ。骨と骨がぶつかる鈍い感触。ジャックは即座に足を引き、今度は肘を叩き込む。短く、重い一撃がキャメルの脇腹に深く入る。確かな手応えが腕に伝わった。
だが止まらない。キャメルは体重で押し返し、腕を掴みにくる。握力が強い。捕まれれば終わりだ。ジャックは手首をひねって外し、逆に相手の腕を取る。関節を極めにいく。しかしキャメルはそれを力でねじ伏せ、体ごと回転して抜け出す。
距離が再び詰まる。重い拳が振られる。ジャックは最小限の動きでかわし、そのまま踏み込んで髪を掴み、体を折り曲げる。膝が腹部へ打ち込まれた。衝撃が内側から広がる。
キャメルの呼吸が一瞬だけ乱れる。その隙を逃さず、ジャックは背後へ回る。腕が首に絡みつく。頸動脈を狙った締め技だ。キャメルの呼吸が詰まる。だがすぐに、肘が後方へ向かって打ち込まれてくる。鈍い衝撃がジャックの脇腹に食い込んだ。肺が一瞬潰れたような感覚。空気が出ていかなくなる。それでも締めは緩まない。むしろ圧が増す。
今度は体重を後ろへ預ける。壁に叩きつけるつもりだ。ジャックはそれを察知し、足を踏ん張りながら膝で腰を押し、重心を崩しにかかる。拮抗。力と技術の、静かなせめぎ合い。
その背後で、ジョディはすでに手錠を外しかけていた。器用に角度を変え、わずかな隙間を作っていく。金属が軋み、外れる。その瞬間、すかさずキッドへと向き直った。無駄のない足運びで間合いを詰める。
キッドはそれを受けてあえて踏み込まない。半歩引き、さらに半歩。攻撃をなんとかいなし続ける。ジョディの拳が伸びる。直線的で無駄のない打撃だ。キッドは体をひねってかわし、軸足で回転して距離を取る。追撃。今度は低い足払い。キッドは跳ねて回避し、着地と同時にさらに後退する。間合いを維持するのが精一杯だった。
(クッソ、何とか此処を離脱しなきゃまずいぞ……!)
キッドは舞うように回避し続けながら、この状況を打開する方法を必死に探していた。その時、キッドの視界に赤い光点が映り込んだ。キャメルと向き合うジャックの胸部にあるそれは、間違いなくレーザーサイトだ。
(さっきの狙撃手……ッ)
光点がゆっくりと動く。胸から首へ、首から頭へ。
「危ねぇッ!!」
キッドが叫んだ瞬間、空気を裂いて何かが飛び込んできた。サッカーボールだ。それとほぼ同時に、銃声が夜を切り裂く。
「なッ」
ジャックが反射的に腕を上げる。彼が防御に入ったそのタイミングでボールが右腕に直撃した。骨の奥まで響き渡る衝撃が、体を弾き飛ばす。だが、それだけではなかった。
弾丸は、ほんの一瞬前までジャックの頭部があった空間を正確に貫いていた。そしてその勢いのまま、仮面をバラバラに砕いていった。
地面に叩きつけられる直前、ジャックは辛うじて受け身を取り、転がるように衝撃を逃がす。ライフルの弾が至近距離を通過した影響で脳を直接殴られたような衝撃が突き抜け、視界が火花を散らした。鼻血が溢れるも、手の甲で雑に拭い去る。キッドはジャックの負傷を確認すると迷わず煙幕弾を投げた。今まででいちばんの白煙が爆ぜ、視界を一瞬で塗り潰す。ジョディ達が拳銃を拾った音を聞き取り、危険を感じて己も先程下にいたFBIから奪ったテーザー銃を取り出そうとしたジャックだが、
「い゛、っ……!?」
瞬間、声にならない悲鳴が漏れた。煙幕が広がり切る前にまた狙撃されたのだ。テーザー銃が弾き飛ばされる。直撃の瞬間、腕全体を大型のハンマーでフルスイングされたような、逃げ場のない衝撃波が一気に突き抜けた。骨の芯から脳天まで駆け上がる強烈な痺れ。指の関節ひとつひとつが逆方向に引き千切られるような感覚。震える右手を左手で押さえても、冷や汗が止まらない。指先から感覚が消えるほどの激痛。
(何なんだ!? まともに狙撃できるポイントなんてなかった筈だ! 煙幕だって張られてんのに、一体どこからッ!?)
顔を隠しつつ、白煙が立ち込める屋上で目を凝らす。キッドが降り立ったこのビルの周辺に、まともな狙撃ポイントが存在しないことは確認済みだった。
(このビルは四方を強化ガラスの防風壁に囲まれた完全な死角……。周囲のどのビルから狙っても、弾丸は斜めに入射するしかない。物理法則通りなら弾道は逸れて威力も削がれて、まともに当たるはずがない! それだけじゃない。このビルの縁を吹き上がる上昇気流が、屋上付近で複雑な渦を作ってやがる。弾丸にとっては、見えない壁が何枚も重なってるようなもんだ……! 光の屈折、風の乱流、そしてこの距離……。その全部を一瞬で読み切って、針の穴を通すみたいに、的確に2発も撃ってきやがったのかよ……!?)
「おい逃げるぞ!」
キッドはジャックの腕を掴み、強引に引き上げた。その素顔を目にした瞬間、一瞬だけ言葉を失う。
(コイツ、俺が言えた事じゃねぇけどマジかよ……)
しかしそんな事に構っている時間はない。ジャックの素性など、同じ犯罪者であるキッドにはなんの関係もない。言いふらす予定もないので知った所で意味もない。だから今はただ逃げる。それ以外に選択肢はない。
二人は階段へと駆け込み、コンクリートの段を一気に駆け下りる。駆け上がってくるFBIの捜査官達を強引に切り抜け、迷いなくビルの内部を突き抜ける。そして夜の街へと消えていった。音も、気配も、何一つ残さずに。
* * *
キャメルは乱れた呼吸を整えながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。素早く操作し、通話を繋ぐ。
「良かったんですか。逃がしちゃって」
キャメルはそう問いかけた。世界規模でその名を知られる怪盗1412こと、怪盗キッド。そして日本で生まれた凶悪犯罪者、令和のジャックザリッパー。今夜の装いは普段と異なっていたが、恐らくそうであろうことは見当がついている。キッドはアメリカ国内でも前歴があり、当然ながら逮捕状が出ている対象だ。ジャックもまたFBIを攻撃した以上、同じである。両者ともFBIとして見逃す理由など、本来なら存在しない。
だが、
『構わんさ』
通信の向こうから返ってきた声は端的だった。
『元より俺たちの狙いはレッドライン。いや、更に言うなら彼等が繋がりを持ったらしい人物だ。少しでもその人物についての情報が手に入ればと思い、レッドラインと接触したキッドの逮捕を試みたが、何も絶対に必要なわけじゃない』
失敗が前提というわけではない。しかし、失敗しても痛手にならない範囲での作戦。そういう位置付けだったのだ。それに、キッドが“その情報”を持っている可能性は限りなく低い。その程度で足跡が掴めるのなら、FBIだって苦労しない。
「そもそも、レッドラインが“組織”と繋がりを持とうとしたと言う情報自体眉唾よ。もし組織の関係者が本当にいたとしても、これだけ騒ぎが大きくなったのなら、とっくに手を引いているでしょうね」
後はその痕跡を探すに限ると、ジョディは疲れたように息を吐きながら付け足した。
『それに、』
「何ですか?」
キャメルは反射的に問い返した。ほんのわずかな間だったが、そこには先ほどまでとは違う、個人的な何かが滲んでいるように感じられたからだ。
『いや、これはお前達には関係ないな』
「え?」
赤井さん、と呼びかけるより早く、通話は切れていた。無機質なツーという音が耳に残る。キャメルはしばらくそのままスマートフォンを見つめていたが、やがて小さく息を吐き、端末をゆっくりと下ろした。
* * *
通話を終えた側の男、赤井は画面を閉じる前に一瞬だけそれを見つめていた。何かを確認するでもなく、ただ、流れていく思考を静かに整理するような短い沈黙。
やがてスマートフォンをポケットに収め、ゆっくりと歩き出す。夜のテキサスの街は、昼間の熱を地面に溜めたまま静かに沈んでいる。アスファルトはまだ仄かな温もりを帯び、遠くから車の走行音が途切れ途切れに届く。街灯の光が地面に長い影を落とし、その中を赤井は迷いなく進んでいく。
(それに、妹が痛い目に遭わされたらしい分は、あれで十分だろう。ちょっとしたお返しだ)
内心でそう呟きながら、赤井はポケットからタバコを取り出した。ライターを鳴らし、火をつける。小さな炎が一瞬だけ彼の横顔を照らし、その後すぐに夜の闇に溶けた。煙をゆっくりと吐き出す。白い煙が夜気に溶け、形を崩して消えていく。その様子を一瞥することもなく、赤井は歩みを止めない。
やがてその姿は、テキサスの夜の闇に自然と溶け込むようにして消えていった。音も気配も残さず、最初からそこにいなかったかのように。