いつもと変わらない朝だった。
阿笠博士の家は、相変わらず機械油の匂いが混じる独特の空気に満ちている。そんな中で灰原はキッチンに立ち、静かに紅茶を淹れていた。湯気が細く立ちのぼり、ガラス越しの光をやわらかく歪める。ティーポットの中で茶葉がほどけていく様子を眺めながら、彼女はぼんやりと窓の外へ視線を向けた。
薄曇りの空が広がっている。庭の片隅では、博士が世話をしている植木鉢が整然と並んでいる。土はまだ湿り気を帯びている。今朝方水をやったばかりなのだろう。葉の表面に残った水滴がわずかな光を受けて鈍くきらめく。ホースが無造作に巻かれたまま壁際に置かれていて、その雑さがこの家らしいと思えた。
何も変わらない米花町の朝。
そう思えた、その瞬間だった。
また、あの感覚が走る。
首筋のあたりが、わずかにざわめいた。
視線だ。誰かが、こちらを見ている。
灰原は反射的に身を固くするような真似はしない。ただ、ほんのわずかに呼吸を整え、自然な仕草で視線だけを動かした。窓の外、通りを行き交う人々が目に入る。通勤途中のサラリーマンがスマートフォンに目を落としながら歩き、犬を連れた老婦人がゆっくりとした足取りで角を曲がる。自転車に乗った中学生が、風を切るように通り過ぎていった。
誰一人として、こちらに関心を向けてはいない。
気のせい、と言えれば楽だった。
だが、この感覚はそれを許してくれない。皮膚の表面ではなく、もっと内側に触れてくるような違和感。鋭さはないが、確かにそこにあると断言できる程度には明瞭だった。
最初に気づいたのは三日前。
帝丹小学校からの帰り道、ランドセルを背負って歩いていたときのことだ。夕方の柔らかい光の中、ふと背後に意識が引かれた。あの組織の人間が放つ、肌を這い回るような圧迫感とは明らかに違う。もっと希薄で、しかし消えない。遠くから、ただ静かに見られているような感覚だった。
紅茶のカップを両手で包み込む。陶器の温もりが指先からじわりと伝わってくる。そのぬくもりとは裏腹に、灰原の思考は冷静に沈んでいく。
正体のわからないもの。
それが彼女にとって、何より厄介だった。
既知の危険には対処のしようがある。だが、輪郭すら掴めないものは違う。どこから来るのか、何を狙っているのか、そのすべてが曖昧なまま、ただ存在だけを主張してくる。そういうものは往々にして始末が悪い。
博士を巻き込むわけにはいかない。
コナンも同じだ。彼はすでに多くを抱えすぎている。蘭や子供達など、無関係な人間を危険に晒すなど論外だった。
ならば、自分で確かめるしかない。
灰原はカップを静かに置き、スマートフォンを手に取る。検索ウィンドウに文字を打ち込んだ。ラグジュアリーブランド ポップアップ 東京。
指先の動きは迷いがない。ほどなくして、いくつかの候補が表示される。その中から目に留まったのは、新宿伊勢丹で開催されているシャネルの期間限定展示だった。新作バッグの披露と、招待制のファッションショー。一般公開のスペースもある。
悪くない口実ね、と灰原は思う。
人の多い場所。出入りも多く、視線を紛れさせるには十分だ。
学校が休みの金曜日、昼前。
灰原は博士に声をかけた。
「ちょっと出かけてきてもいいかしら。新宿でシャネルのポップアップイベントがあるの。招待状は取れなかったけど、外の展示は一般公開で見られるみたいだから」
阿笠博士は作業の手を止め、顔を上げた。
「ほほう、ファッションショーかね。哀君はそういうのに興味があったのかい?」
「ないことはないわ」
事実だった。ブランド品にはそれなりの関心がある。ただし、それが今日の目的でないこともまた確かだ。
「一人でかね?」
「気ままに歩きたい気分なの。博士も工藤君たちも、必要ないわ。興味もないだろうしね」
博士はしばらくの間、灰原の顔を見つめていた。何かを言おうとする気配はあったが、結局それは言葉にならないまま消える。やがて小さく息をつき、「気をつけるんじゃぞ」とだけ告げた。
それ以上は踏み込まない。灰原が密かに信頼している、この人の在り方だった。
新宿に到着したのは、13時を少し回った頃。
街はすでに人の熱気に満ちている。高層ビルの谷間を行き交う人々の流れに紛れながら、灰原は伊勢丹へと足を運んだ。展示スペースには洗練された空気が漂っている。磨かれた革の匂い、光を受けてきらめく金具、無駄を削ぎ落としたフォルム。それらを一通り眺めながらも、彼女の意識の半分は常に周囲へ向けられていた。
視線はない。少なくとも、今は。
展示を抜けると、灰原は特に目的もなく歩き出す。新宿駅の構内へと入り、人波に身を預けるように進む。押し流されることなく、それでいて浮かび上がることもない、絶妙な距離感で歩を進める。
追われている感覚は、やはりない。
だが、どこかで何かが彼女を導いているような、曖昧な違和感が残っていた。
東口の改札を出たところで、ふと足が止まる。
コンコースの片隅。カプセルトイの機械が整然と並ぶ一角。その中に、見覚えのある人影があった。
黒いコートに帽子。癖のある銀髪。赤いメガネ。
人混みのすぐ脇でしゃがみ込み、無造作にコインを機械へ押し込んでいる。その横顔は、見間違えようがなかった。
灰原は三秒ほど、その光景を無言で眺める。
場違いなほど穏やかな仕草と、この男の本質との落差が、わずかに可笑しくすらあった。
やがて、静かに歩み寄る。
「意外ね」
低く、しかしはっきりと声をかける。
「貴方にも、そんな子供じみた趣味があるなんて」
「……キミか。どうしてこんなところに?」
「少し散歩をしていたのよ」
灰原はそう言いながら、その男……日本警察の間では殺人鬼アルシエルと呼ばれ、テレビでは令和のジャックザリッパーとも称される人物の手元へと視線を落とした。人混みの喧騒からほんのわずかに外れた場所で、彼はしゃがみ込んだまま、取り出したカプセルを無造作に握っている。その仕草はどこか無防備で、周囲に溶け込んでいるようでいて、やはり異質だった。
ジャックはゆっくりと立ち上がると、手の中のカプセルを軽く振り、中身の感触を確かめるような仕草を見せる。そして、慣れた手つきでそれを開封した。プラスチックの小さな殻がぱちりと音を立てて開く。
灰原もつられるように、並んだガチャガチャの機械へと目を向けた。どれもゆるくデフォルメされた犬のマスコットだ。丸みを帯びたフォルムと、どこか力の抜けた表情。
「あげるよ」
「え?」
差し出されたそれを、灰原は反射的に受け取っていた。掌の上に収まる小さな感触。軽くて、しかし確かな存在感がある。指先でそっと形を確かめると、それはヨークシャーテリアだった。長い毛並みを模した造形が細かく、思いのほか精巧に作られている。
「キミに似ている」
「欲しくて回したんじゃないの?」
「いや……そうだな、ボクが欲しかったのはそれじゃない」
「じゃあどれが欲しかったのよ」
「……マルチーズだ」
ジャックが指先で示した先には、白く小さな犬のマスコットがあった。ふわりとした毛並みを強調した造形で、他のものよりもどこか柔らかい印象を受ける。
「意外と子供なのね」と呟きながら、灰原は財布を取り出した。硬貨を取り出し、機械に投入する。カチリ、と軽い音がして、内部の仕組みが動き出す。ハンドルを回すと、ガラガラと乾いた音が響き、やがてカプセルが排出口に落ちてきた。
それを拾い上げ、静かに開封する。
中に入っていたのは白い小さなマルチーズのマスコットだった。
「あげるわ。お返し」
「見事なものだな」
ジャックはそれを受け取ると、しばし無言で眺めた。ほんの一瞬だけ、その視線が柔らかくなる。
「貴方のことを詳しく知っているわけじゃないけど、なんだか意外なイメージね。犬が好きなの?」
「犬というか、動物は割と好きだぞ。昔は動物に関わる職に就きたいと思っていたからな」
「ちょっと意外すぎるわね」
「ふっ、キミにも微笑ましい幼少期のエピソードの一つくらいあるだろう。当然ボクにだってある」
「一つくらいって言い方が引っかかるわね……」
灰原は腰に手を当て、わずかに眉を寄せながらジャックを見上げる。人混みのざわめきが絶えず耳に入ってくる中で、2人の間だけが奇妙に静かな空間を作っていた。ジャックはそんな灰原の視線を受けながらマルチーズのマスコットを指先で軽く転がす。
その表情は、ほんのわずかに遠くを見ているようだった。現在ではなく、過去のどこかへと意識を滑らせているような、そんな気配。マルチーズがお気に入りなのかと問えば、似ているからなと返ってきた。
「……それ、誰に似てるのか聞いてもいい?」
「好きな子さ」
あまりにもあっさりとした答えに、灰原は思わず目を丸くした。
「工藤君も服部君も、あれだけ分かりやすく好意を露呈させておきながら肝心な一言だけは全然言えないでいたけれど……貴方は違うみたいね」
「子供じゃないからな」
わずかに強調されたその言い方に、灰原は内心で小さく笑う。先ほどの「意外と子供」という評価を、どこかで引きずっているのだろう。その反応が妙に人間らしく、そしてこの男の本質との乖離を際立たせていた。
「あら……それなら告白はもうしたの?」
「いや、もう出来なくなってしまった」
「……悪いこと聞いたわね」
「気にしなくていい」
その言葉は驚くほど平坦だった。感情を押し殺しているようにも、取り繕っているようにも聞こえない。ただ事実だけを淡々と置いた、乾いた響き。
だが、その奥にあるものまでは消しきれていなかった。
ほんのわずかな間。言い終えたあとの静けさが妙に長く残る。そこに滲むのは、沈めきれずに底に溜まった熱だった。声には出ていないはずの、煮えたぎるような憎悪と憤怒が、形を持たないまま漂っている。
巧妙に抑え込まれている。悟らせないために、意図的に均された声。それでも完全には隠しきれていない。
灰原は何も言わなかった。
理解するには十分だったからだ。だからこそ、それ以上踏み込むことをやめた。
ジャックはマスコットをチャック付きのポケットへとしまい込んだ。動作は相変わらず無駄がなく、それでいてどこか丁寧だった。そして特に余韻を引きずる様子もなく、次の行動へ移るように踵を返した。人混みの流れに自然と紛れ込むその動きは滑らかで、まるで最初からそこにいたかのように周囲と調和している。どうやらやるべきことがあるらしい。
その背を見送りかけた瞬間、灰原の首筋に、あの感覚が戻ってきた。
ざわり、と。
皮膚の内側を撫でるような、不快な違和感。
思わず足が止まる。視線を巡らせるが、やはりそれらしい人物は見当たらない。だが確実に、何かがこちらを捉えている。先ほどまで薄れていたはずの気配が、ここに来て再び濃度を増していた。
理由もなく……いや、理由はあるのかもしれないが、それを言語化する前に、灰原は無意識にジャックの後を追っていた。距離を詰めすぎないよう注意しながら、しかし見失わない程度に歩幅を合わせる。
数歩進んだところで、ジャックがわずかに振り返る。視線が合う。
「どうしたんだ」
「いえ、その……ちょっと……」
「つけられているのか?」
灰原は軽く肩をすくめるような仕草をしてから、短く状況を告げた。
ジャックは一瞬だけ表情を消し、周囲へと視線を走らせる。人の流れ、立ち止まる者、視線の動き。そのすべてを機械的に拾い上げているかのような観察の鋭さだった。しかし、不審な人物は見つからない。
やがて彼はポケットからスマートフォンを取り出し、何気ない動作で周囲を撮影する。観光客がよくやる仕草と何ら変わらないが、記録として残しているのは明らかだった。
灰原はそこで、ふと我に返る。
この男を巻き込むわけにもいかない。そう考え直す。もともと一人で処理するつもりだった問題だ。ここで関係を深めるのは得策ではない。
踵を返そうとした、その瞬間。
「灰原哀」
ジャックが声をかけてきた。
「ボクはこれから遊園地に行く予定なのだがね。流石に1人では寂しいだろう? よければ話し相手になってくれないか?」
「……好きな子がいるくせにデートのお誘い? 私、二心ある男って嫌いよ」
「フッ、随分な言われようだ。……だが彼女ならきっと、今のキミを一人で帰らせるボクを見たら、それこそ愛想を尽かすと思うんだ。付き合ってくれると助かるのだがね」
灰原は一瞬だけ迷い、そしてその後を追う。
人混みの中、視線の正体は依然として掴めないまま、二人は同じ流れの中へと紛れ込んでいった。
* * *
橋を渡る風はいつもより冷たかった。
潮の匂いが先に来る。湿った塩気が鼻腔の奥に入り込み、その後を追うように音が届く。遠くでジェットコースターがレールを軋ませ、金属同士が擦れ合う甲高い音を上げている。どこかのスピーカーからは陽気な音楽が流れ、子供たちの笑い声がそれに重なって弾けていた。
現実と非現実が混ざり合ったようなその空間の中で、ジャックは橋の半ばで一瞬だけ足を止めた。わずかな停滞。だがそれは迷いではない。何かを確かめるための、ほんの刹那の間だった。すぐに歩みを再開する。
「ここ、来たことあるの?」
「昔な」
短く答え、振り返ることなく進む。その背中を、灰原は黙って追った。
歩き方で分かる。観光ではない。案内板に目を向けることもなければ、地図を取り出すこともない。迷っている様子もなければ、急いでいる様子もない。ただ、何かの輪郭をなぞるように、一定のリズムで歩いている。記憶を辿っているのか、それとも感覚で場所を確かめているのか。
灰原はその歩幅を合わせようとして、結局合わせきれなかった。半歩遅れる。その距離が妙に心地よくもあり、同時に踏み込めない領域の存在を示しているようでもあった。
「今更改めて言うけれど、失礼ながら、やっぱりガチャガチャを回す姿が少し意外だったわ。それだけ、その彼女の存在が大きかったってこと?」
「名探偵に影響されたのかね。ボクのことを探っているのか?」
「やっぱり聞き過ぎだったかしら?」
「いいさ。ボクとガチャガチャが結びつかないと言う意見には100%同意できるからな。ちなみに理由だが」
そこでジャックは足を止め、ゆっくりと振り返った。人の流れの中で、二人だけがほんのわずかに切り離されたような静けさが生まれる。
「2週間ほど前にあの場でキミと同い年……ああいや、違うな。6歳の少女が誘拐されて、先週の金曜日に遺体で発見されたんだ」
「やっぱり。言い方は良くないけれど、ああいった理由だけでガチャガチャを回すタイプには思えなかったのよね。センシティブな話題を出して誤魔化そうとしたわけ?」
「彼女を思い出していたのは事実だ。嘘をついたわけじゃない」
本当のことも言わなかっただけでな、と続けるような空気を残しながら、ジャックは何事もなかったかのように両手をポケットへ入れた。橋を抜けた瞬間、空気が変わる。潮風はより強くなり、音も広がる。
ジャックはメリーゴーラウンドの前で足を止めた。
白い馬がゆっくりと円を描き、誰も乗っていない鞍が規則的に上下する。ライトに照らされたその光景は、どこか現実感が薄く、空虚さだけが際立っていた。
ジャックはそれを見ていた。いや、正確には、その向こう側にある何かを透かしているようだった。視線が現在に留まっていない。灰原はその横顔を、正面ではなく斜め後ろから見つめる。
やがてジャックが動き出す。灰原もそれに続いた。
アトラクションのエリアを抜けると、急に視界が開け、海が近づく。ジェットコースターのレールが水面へと突き出し、そのまま空へ切り裂くように伸びている。だがジャックはそちらへは向かわない。岸沿いの遊歩道を選び、一定の歩調で進んでいく。
風が強い。灰原は思わず前髪を押さえた。ジャックのコートの裾が大きくはためき、布が空気を切る音が耳に残る。海の色は一定ではない。灰色にも青にも見え、光の角度によって揺らいでいる。向こう岸には、工場か倉庫らしき建物が並んでいる。
「ここに来たせいで、彼女達の運命は狂った」
唐突に落とされた言葉。
灰原は返事をしなかった。求められていないことが、分かっていたからだ。
「……やっぱり、嫌な気持ちになる」
独り言のように続けると、ジャックは波の音と、遠くで流れ続ける音楽に耳を澄ませる。何かを思い出しているのか、それともただ音を聞いているのか、その区別はつかない。
ベンチの脇を通り過ぎても、座ることはない。売店の前を通っても、足を止めることはない。すべてが素通りされていく。やがて観覧車の前に辿り着いたとき、ようやくその足が止まった。
「どうせ来たなら、何か乗るか?」とジャックが言った。初めて問いかけとして発せられた言葉だった。
灰原はわずかに考え、「乗る」と答えた。
ゴンドラに乗り込み、しばしして、灰原はふと口を開く。
「……4年ほど前に、とある取引があったらしいわ。小耳に挟んだだけだけど」
「ああ」
「警察に絶対にマークされないような、思いもよらない場所で、取引をしようって。内容までは知らないけれど、場所は覚えているの。そんなところでやるんだって、驚いたから」
ゴンドラがゆっくりと上がっていく。
灰原は窓の外、夕陽に染まり始めた海を一度だけ眺め、それから視線を戻した。まっすぐに、ジャックの顔を見据える。
「その場所はシーアイランド。ここよ」
「……」
「貴方達、ここで何か見たのね」
内部は静まり返っていた。上へ上がるにつれて、地上の音が遠ざかる。コースターの悲鳴も、音楽も、笑い声も、すべてが下へ沈んでいく。代わりに風の音だけが、ガラス越しに大きく響く。
「……なんでこうなったのかなって、今でも良く考えるよ」
頂上近くで、ゴンドラがわずかに揺れる。
そこからは東京湾が一望できた。水平線は緩やかに弧を描き、その上に空が広がっている。沈みゆく太陽が、その境界をゆっくりと侵していく。
ジャックは窓の外を見ていた。
灰原もまた、同じ景色を見ていた。
しばらく、何も言わない。
言わなくていい時間がある。灰原はそれを知っている。だから口を閉ざし、ただ同じ空間に身を置いた。同じ光の中に、同じ沈黙の中に。
やがて、ジャックが口を開く。
「なぁ、タランチュラって知ってるか?」
「タランチュラと言えば蜘蛛……だけど話の流れからして違うんでしょうね。テキーラをベースにしたリキュール。酒の名前。奴らのコードネーム」
灰原は記憶を辿る。曖昧な情報の断片を拾い上げ、形にしていく。
「……関わりはないわね。けど、少しだけ噂で聞いた事があるわ。幼稚な女とか、若い男とか、噂はめちゃくちゃだけど。一貫しているのはその性格ね。仕事は暗殺で、酷い手段で殺すのが好きなサディストだって」
ジャックはわずかに目を細める。期待していた情報には届かないが、それでも無駄ではないと判断しているようだった。
「今度は私から質問してもいいかしら?」
「どうぞ」
「“二代目テキーラ”から聞いたの? そのコードネーム」
「テキーラ……名探偵から聞いたのか。空港で、やはり聞き耳を立てていたんだな」
「貴方にしては迂闊だと思ったけど、態とだったの?」
「FBIが突然あの事件に首を挟んだのはその“テキーラ”を探してのことだろう。折角あいつがコードネームを手に入れたと言うのに、彼らに邪魔をされては困るからな。捕まったら大変だ」
「彼を通してFBIに、“テキーラは組織と敵対しているかもしれない”って情報を流してもらうつもりなの? 貴方の味方なんて信用されるのかしら……」
「名探偵が己で掴んだ情報ならば信用するだろう。彼にはそう言う不思議な魅力がある」
「……ちょっと待って、それって、貴方まさかそのテキーラを日本に……!」
ゴンドラがゆっくりと地上へ近づいてくる。軋むようなわずかな振動が足元から伝わり、現実へ引き戻される感覚があった。遠ざかっていた音が少しずつ戻り始める。コースターの金属音、スピーカーから流れる閉園を告げる音楽、子供たちの無邪気な笑い声。それらが層をなして、再び耳の中を満たしていく。
ジャックはその変化を受け止めるように一度だけ目を細め、それから軽く息を吐いた。
「秘密の会談はここまでだな、なかなか有意義な時間だった」
そう言って、わずかに口元を緩める。
その余裕に、灰原は思わずジト目を向けた。こちらはそんな気分ではない。軽く投げられた情報の一つ一つが、まるで処理しきれない爆弾のように頭の中で転がっている。
ゴンドラが地面に触れ、扉が開く。
一歩外に出た瞬間、空気が変わった。潮風が肌を撫で、音が一気に押し寄せる。静寂から現実へ、無理やり引き戻されるような感覚だった。
灰原は席を立ちながら、さきほどの会話をもう一度頭の中で反芻する。ジャックはすでに歩き出していた。出口へ向かうその背中を、灰原はまた無言で追う。さきほどと同じ距離、同じ半歩遅れの位置で。
「そろそろ帰るか。キミを待つ博士も心配するだろう」
「帰りは遅くなるってメールしたから平気よ。と言うか、私ちょっとお手洗い行ってくるから」
「近くで待っている」
「あのね、私子供じゃないのよ。先に帰ってくれてても平気よ」
その言葉に、ジャックはわずかに眉を動かした。言われてみればその通りだと、遅れて理解する。流石に気恥ずかしかったか、と内心で小さく息をつく。だが今は子供の姿だ。見た目に引きずられるのは仕方がない。結局、彼は近くのベンチに腰を下ろし、戻ってくるのを待つことにした。
ジャックは海を見た。
水平線がじわりと滲んでいる。沈みかけた太陽が水面を照らし、波のひとつひとつが砕けるたびに、その光も細かく裂けて消えていく。
「……」
ふと浮かぶのは、夕陽を背にして笑っていた少女の顔だった。光に透ける髪、無防備な笑顔。
その記憶が、やけに鮮明だった。
気づけば、五分が過ぎていた。
長い、とは言えない。だが、短いとも言い切れない微妙な時間。急かすのも違う、と理性が告げる。待つべきだ、と。
それでも、落ち着かない。
理由のない焦燥が、じわじわと内側に広がっていく。ベンチに座ったまま、足先がわずかに動く。視線が落ち着かない。無意識に周囲を見回している自分に気づき、舌打ちしそうになる。
十分。
その時には、もう立ち上がっていた。
気づけば足がトイレの入り口へ向かっている。自分で決めたわけではない。身体が先に動いていた。ドアの前で止まる。ここから先には入れない。分かっている。
中に向かって声をかけた。名前を呼ぶ。
返事はない。
もう一度、呼ぶ。
やはり返事はない。
胸の奥に嫌な予感が沈む。通りかかった女性に声をかけた。できるだけ自然に、できるだけ平静を装って。
「中に茶髪の子供がいるはずなんですが、確かめてもらえませんか」
女性は軽く頷き、中へ入っていく。
ジャックはその場で待った。
十秒。
それだけのはずなのに、異様に長く感じた。
「……誰もいないけど?」
戻ってきた女性は、申し訳なさそうにそう言った。
ジャックは微笑みを作り、礼を言う。迷子センターに掛け合うと告げる。女性が立ち去るのを確認してから、すぐに中へ入った。
床に、何かが落ちている。
拾い上げる前から、分かっていた。
小さなマスコット。ヨークシャーテリア。
自分が渡したもの。チェーンが千切れている。
それを広い、そのままトイレを出て、しばらく動けなかった。頭の中で、何かが音もなく崩れていく。
少女誘拐殺人。
その四文字が曇りなく浮かぶ。妙な視線を感じると言われていたのに。殺された少女たちと灰原はタイプが異なるから関係ないだろうと高を括っていた。犯人の行動範囲からは外れたから大丈夫だろうと油断した。証拠を残さないような犯人が知らない土地で衝動的に誘拐することはないだろうと勝手に決めつけてしまった。感傷に浸っていて、完全に意識が逸れていた。自分が目を離した。自分のせいで……
ジャックは、大切な人の死を見たことがある。
燃え盛る家の中、崩れた床の上に倒れていた少女。呼びかけても返事はない。抱き上げた体は力が抜けきっていた。焦げた匂いと熱が、皮膚の内側にまで染みついて離れない。知っている。あの時、自分は間に合わなかった。
それが、またか。
思考より先に、確信が落ちる。
また、自分のせいで。
怒りが来た。
後悔よりも先に、悲しみよりも先に。
腹の底、そのさらに奥。沈みきった場所から、静かに湧き上がる。凪いだ海の底のように動かず、しかし触れれば焼け落ちるほどの熱。逃げ場のないそれが、じわじわと全身を満たしていく。
頭の奥が、鈍く脈打つ。
次の瞬間、記憶が現実に重なる。神経の奥を逆撫でするように、じわじわと広がるあの日の熱。それは消えずに残り続け、今もそこに衝撃を呼び覚ます。脳を内側から焼き焦がすような拍動が、容赦なく思考を塗りつぶしていった。
視界の端が暗くなる。音が遠のく。
代わりに、自分の鼓動だけが異様にはっきりと聞こえる。
それでも、思考は崩れない。
むしろ、研ぎ澄まされる。
余計なものが削ぎ落とされていく
無能な自分への怒りと、やった奴への怒り。区別はない。ただ一つの衝動として混ざり合い、形を持つ。暴発するのではなく、内側へと圧縮されていく。
そして残るのは、殺意だけだった。
ジャックが殺人犯を殺したいと思う事に高尚な理屈なんて存在しなかった。ただ、我慢ならないのだ。奪われた命は二度と戻らないのに、奪った本人がのうのうと空気を吸い込んでいるその不条理が、彼の思考を、心を激しく逆撫でする。謎を解くのは真実を知るためじゃない。人殺しが息をしているのが、ただ、我慢ならない。
証拠を見つける。
罪を確定させる。
真実を明らかにして事件を解決し、その犯人を必ず殺す。
順番は変えない。外さない。逃がさない。
こめかみの脈動が強く打つ。痛みと熱は消えず、芯として固定されていく。
ジャックはゆっくりと歩き出した。動作に乱れはない。呼吸も乱れない。外から見れば、普通の男に見える。
千切れたマスコットをポケットへ収める。
そこから先は、静かだった。
感情が消えたわけではない。すべて、そこにある。ただ閉じ込めた。蓋をし、鍵をかけた。
今は不要だ。
怒りも、後悔も、自責も。
今、必要なのは答えだけ。
誰が、どこへ連れて行ったのか。
人の流れを読む。足取り、視線、密度の変化。情報が自然と目に入る。視線が変わる。殺人鬼の目になる。
夕暮れの光の中で、ジャックはすぐさま行動を始めた。