初めて会ったその日の事を、きっと何年経っても忘れない。
いつもの様に街を歩いて、貰ったお菓子を子供たちと一緒に食べて、そうしてお気に入りのたい焼きを手に向かったお気に入りの場所。
みこしか知らない場所に、その日は先客がいた。と言っても、殆ど同じくらいに到着したんだけど。
森からふらふらと出て来てたその人は、見える景色に息を呑んだかと思ったら、崩れ落ちるみたいにその場にへたり込んでしまった。
予想外に予想外が重なった。驚いて一瞬呆然としちゃったけど、今にも倒れそうな様子を見てすぐに駆け寄った。近づくにつれてハッキリとしてきたその人の姿に、また驚いて持っていたたい焼きを落としそうになった。
森で迷子になっていたのか、着ている服はぼろぼろで、髪もくすんでいる。なのに、その子は誰よりも綺麗に見えた。可愛い子や綺麗な子は元々好きだったけど、そんな趣味嗜好を別にして、本能的に魅力を感じた。
震える喉に、つばを飲み込んで喝を入れて声を掛けてみたら、ゆっくりとその子は顔を上げた。
虚ろな瞳。でも、目が合うなり、徐々に光が灯って輝きを持ち始める。
その子に抱いた第一印象は、神秘的だった。くすんでいながら、それでも尚余りある透明感で光に煌めく純白の髪。水晶に見違える瞳は、意識を引き込む引力を持っているかのようで。触れれば折れ、吹けば飛んでいきそうなその体躯は、さながら綿飴で構成されている様にすら感じた。
返事を待って、間を風が通り抜けるも、彼女は一向に口を開こうとしない。ただ、呆けたみたいにみこを見ている。
どうしたんだろう、大丈夫なのかな。第一印象から受けた衝撃を乗り越えたみこに待っていたのはそんな疑問。その疑問に突き動かされるまま、身体を揺すって再び声を掛けると、瞳を揺らしたその子が反応を見せた。
ゆっくりと、その小さな口を開いて。そして、来たる第一声の代わりに返って来たのは、微かに聞こえる、くるると子犬の鳴くようなお腹の音だった。
途端、その子は顔を真っ赤にして訂正しようとして来る。それを見て、ようやくみこは自分が一瞬彼女を人外に見ていたのだと知った。あまりにも神秘的で、あまりにも幻想的で、あまりにも儚くて。自分達に共通する部分を見つけて、ようやく彼女を同じ存在なのだと認識できた。
掠れながらも鈴を転がすような彼女の声に聞き惚れながらみこが差し出したたい焼きを受け取った彼女は、震える手でそれを受け取ると、夢中になって瞬く間に平らげてしまった。
そんなにお腹が空いていたんだ、とみこが続ける間も無く、食事を終えた彼女は、とさりと軽い音と共にその体躯を地面に横たわらせた。
力のこもらぬその様に慌てて側にしゃがみ込むと、彼女は微かに顔をもたげて、ただ眠くなっただけだと言う。
止まりかけた心臓を上から撫で下ろし、頬を伝う汗を拭う。まさか、たい焼きに何か仕込まれていたのかと、危うく行きつけの店にいる、人の良い店主を疑ってしまうところだった。二重の意味で安堵の息を吐くと、それを見た彼女はゆっくりとその身を起こす。
そして遥か上、空に浮かび光を放つ太陽をチラリと見つめて、空乃光と自身を名乗った。
光ちゃんへの次の印象は不思議な子だった。
執事になってよ。そんな自分でも突拍子も無いと思うお願いにも、嫌な顔一つ浮かべず、即答で了承した事もそうだけど、何より光ちゃんは言葉を選ばずに言ってしまえば、世間知らずだった。
勿論、明らかな間違いは指摘してくるけど、その他の大抵は教えた事をすぐに鵜呑みにしてしまう。
初日の朝だってそうだった。鐘を強く叩けば、大音量が鳴り響くのなんて目に見えているのに、シキガミのみんなに勧められるがままに、思い切り鐘を叩いていた。おかげで強烈な寝起きになった訳だけど、申し訳なさそうにしている光ちゃんを責める事なんて出来ず、それを進めた元凶たちに矛先を向けた。
けど、世間知らずかと思えば、光ちゃんは妙に知識を持っている。
料理もそつなくこなして、家事全般は初日から完ぺきだった。みこが間違えて覚えてしまっていた事も、すぐに訂正を入れて来る。寧ろ、カミとアヤカシについて知らなかった事の方が変に思えるくらい。
だから、不思議な子。知識はあるのに、実際の生活を送る上では何処かずれている。まぁ、それも最初の内だけで、ひと月も経った今では世間知らずな所は殆ど見受けられなくなっていた。
光ちゃんへの印象が理想的な執事、大切な友人となり、不思議な子という印象が薄れてきた頃、新たにみこの中に一つの疑問が生まれた。
今までは彼女を加えた新たな日常に目を引かれていたけど、それが常になってくれば、自ずと彼女自身の事柄へと目が向く。詰まるところ、光ちゃんの過去についてだ。
あの日、初めて出会った光ちゃんはぼろぼろで、森の中から出て来ていた。けれど、ここで一つおかしな点がある。光ちゃんが出て来た森。あの森は確かに深く広いけれど、四方の内三方向を山に囲われている。森に入るのなら、さくら神社の前を通る以外に森の中に入る手立てはない。けれど、街の人は光ちゃんの事を誰も知らなかったし、光ちゃんもさくら神社の事を知らなかった。
向こうから山を越えて来た?それとも、何か目的が有って森に入った?
分からない、知りたい。
でも、もしそれを聞いて光ちゃんに嫌われたら。離れて行ってしまったら。そう思うと、どうしようもなく胸が痛んだ。
往々にして誰もが抱える心の傷、触れられたくない過去。もし、自分がそれを掘り起こしてしまったなら、彼女はきっと自分から離れて行ってしまう。少なくとも、傷つけてしまう。
だから、何も聞かなかった。どんな過去があっても、光ちゃんと楽しく過ごせるならと、自分に言い聞かせて、もやもやとした感情にそっと蓋をしていた。今日までは。
『きっと後悔するわよ』。帰り際にみこを引き留めたお婆ちゃんの言葉。
内容もそうだけど、何より自身の胸の内を見透かされたことに驚いた。それと同時に悟った。お婆ちゃんは、後悔したのだと。聞こうとした疑問を胸に秘め続けて、一定の距離を保とうとして、それを失敗だったと思っているのだと。
みこは光ちゃんの事をほとんど知らない。明日、光ちゃんが不意に居なくなっても、みこは彼女を探し出すことが出来ない。目を逸らしていた事実を、眼前に突きつけられた気がした。
それは駄目だ。そんなの、絶対に受け入れられない。ならば、どうするのか、答えはもう決まっていた。
だからこの日、さくらみこはヒカリの内側へと、一歩踏み込んだ。
「光ちゃんは、どこから来たの?」
夕暮れ時、茜色に染まった街並みを背に、正面から向き合うみこさんからそんな問いを投げかけられた。
向けられた揺れる瞳は、けれど真っ直ぐとボクを捉えて、いつになく真剣なその表情が、彼女がどれだけの覚悟を持ってその問いを口にしたのか伝えて来る。
それを前にして、時折みこさんが見せた物憂げな表情の理由を察した。
悩んでいてくれたんだ。聞くべきか、否か。ボクの内側へと入り込む事を、ずっと。
場違いだけど、ボクはそれが嬉しいと感じた。だってそうだ。それはつまり、みこさんは上辺だけじゃなく、本当の意味でボクと仲良くなりたいと思ってくれているという事なのだから。
なら、ボクもそれに答えないといけない。応えたいと、そう思う。
「分からないです」
問いに対する端的なボクの答えに、みこさんは一瞬傷ついたような表情を浮かべた。そんな彼女に、ボクは首を振ってそうじゃないと伝える。
違う、違うんです。煙に巻こうとか、誤魔化そうとしている訳じゃない。
「気が付いた時には、あの森の中にいました。何で自分がこんなところにいるのか、何のためにそこにいるのか、何も分からないまま、ただずっと長い間閉じ込められていたんです」
目を瞑れば、今も尚鮮明に思い起こせる。
何処にも光なんてなくて、真っ暗な闇の中を、微かに流れて来る記憶を頼りに、朧げなままいつまでも、いつまでも揺蕩い続けた。
光の中に身を投じた今なら、その時自分が何を感じていたのか理解できる。
「何も見渡せない闇が怖かった、誰も傍にいない空間が寂しかった。ボクはずっと、外の世界に憧れてた」
唯一知覚で来た流れ込んでくる記憶。その中では、いつだって誰かが笑っていて、ボクはそれがどうしようもない程に羨ましかった。
「ある日突然森に放り出されて、正直右も左も分からない中、このまま一人終わってしまうんじゃないかって、不安で、でも諦めたくなくって、ただひたすら光を求めて歩きました。その先にあった光の中で、ボクはみこさんに出会ったんです」
あの日は、僕にとって初めてできた特別な日。生れて始めて見る光の下で、出会った貴女はまるで太陽の様だった。
そして、その日、ボクは空乃光になった。
「…光ちゃんは、誰かに森に閉じ込められてたの?」
「それも、分かりません。ボクが気づいた時には、誰も居ませんでしたから。だから、ボクが生まれて初めて会った人は、間違いなくみこさんなんです」
出会ったのがみこさんで良かった。ボクの話を聞いて、ボクの事を想って、その瞳に涙を溜めてくれている彼女で。
言い様の無い幸福感、その中にチクリと罪悪感が胸を刺す。
ボクはまだ、みこさんに隠している事がある。
「みこさん、ごめんなさい。ボクは、みこさんに一つ嘘をついてました」
「嘘…?」
一瞬、みこさんの瞳が不安に揺れた。けれど、すぐに震えは鳴りを潜めて、みこさんは決意を露わに一つ頷く。
小さな、本当に小さな嘘だけど。もうみこさんに隠し事はしたくない。
「ボクの名前、本当は空乃光じゃないんです」
あの時、空に浮かぶ憧れをもとに、咄嗟に名前を自分で自分に付けた。
「ヒカリなんです。苗字も無い、字も違う。ただのヒカリ。苗字があるのが普通だと思っていたから、少しでもみこさんに変に思われたくなくって、つい空乃光って、名乗ったんです」
本当に、ごめんなさい。
そう続けて、深く頭を下げる。
地面に映された自分の影を見つめながら、自分の鼓動が早まるのを感じた。これで、嫌われてしまったらどうしよう、距離を置かれたらどうしよう。得も言われぬ不安が、しくしくと胸の奥を苛む。
みこさんは凄いな。きっとボク以上に不安だったはずなのに、葛藤していた筈なのに。こうして、踏み込んできてくれたんだから。
「ヒカリちゃん…」
名前を呼ばれて、思わずぎゅっと目を瞑る。
何て言われるだろう。やっぱり、許してもらえないのかな。肩を震わせて、みこさんの次の言葉を待つ。
そして、
「ぷふっ…!」
次に聞こえてきたのは、そんなみこさんが吹き出した音だった。
「み、みこさん?」
予想の斜め上の反応が聞こえて来て、キョトンと目を丸くしながらボクが顔を上げるのと、目の前のみこさんが抱き着いてくるのは同時だった。
「なーんだ、そんな事かー。みこ、てっきり何か重大な嘘を付かれてたのかと思って身構えたちゃったよ。どっちにしても光ちゃんなんだから、今までとあんまり変わらないね」
耳元からみこさんの声がする。優しく宥めるようなその声音に、みこさんが受け入れてくれたのだと悟って、弛緩した反動かジワリと目頭が熱くなった。
漏れそうになった嗚咽を堪えていれば、みこさんは指摘もしないで背中を摩ってくれる。
「答えてくれて、ありがとね。光ちゃんの事を知れて、みこ嬉しかったよ」
そんな事を言われたら、もう限界だった。
眦から雫が頬を伝う感覚。みこさんの背中に回した手に、力が籠る。
「こちらこそ…聞いてくれて、ありがとうございます、みこさん」
お礼を言うのは、こちらの方だった。みこさんが勇気を出してくれたから、ボクはきっと全てさらけ出せたんだと思う。
心の中にあった一枚の薄い壁。今までずっと隔て、阻んでいたそれが、ようやく取り払われた気がした。
あぁ、本当に、みこさんには敵わない。内心独り言ちながら少し体を離す。そうして向き合ったみこさんは瞳を潤ませながら、花の開くような笑顔をその顔に咲かせていた。
それから、ボク達は手を繋いで、色んな話をしながらさくら神社へと戻った。
みこさんの昔話を聞いたり、今までの生活を振り返ってみたり。神社に到着してからも話は途切れることは無くて、兎に角、離れたくないと思っていたのはボクだけじゃない筈。
夕飯を食べ終えても、その気持ちは収まらなくて、そのままボク達は一緒にお風呂へと向かった。
「みこさん、昔からそんな感じだったんですね。ツミキさんの苦労が偲ばれます」
湯舟に浸かりながら、先ほど聞いたみこさんの話を思い返して、くすくすと笑いを洩らす。すると、みこさんも顔をむぅっとさせて、負けじと言い返してくる。
「光たんだって、最初の頃は酷かったよ?『あれ、みこさん、この独楽回らないですよ』って、頑張って手で回そうとしてあたふたしてたり」
「へ、変な事思い出さないで下さい!実際に回すのは初めてだったんです!もう紐を使ってちゃんと回せますよーだ」
思い思いに話して、顔を突き合わせれば、自然と二人して笑顔になった。
一頻り笑い合うと、少し羽休めとばかりに、湯舟の暖かさを堪能する。ふと隣に目を向けて見れば、同じように気の抜けた顔で息を吐いているみこさん。
すぐ傍に誰かがいる、そんな安心感に、身体の奥から温もりを感じた。
「幸せ…」
ぽつりと、意図せずそんな言葉が口を衝いて出た。
かっと頬が熱くなるのを感じつつ、もしかして聞こえてないんじゃ、と一縷の望みに掛けて視線を横に向ける。しかし、案の定しっかりと聞こえていたみたいで、視線の先では、みこさんがにまにまとした笑みを浮かべていた。
「うんうん、みこも幸せだよ」
「もう、そこは聞かないでも良いのに…」
そっぽを向いて、頬を冷ますようにパタパタと手で煽る。
すると、不意にパシャリと隣から水音が聞こえて来たかと思うと、お湯とは違う暖かな感触が体を包んだ。
「ね、光たんはこれからもみこと一緒に居てくれるんだよね」
横合いから抱き着いて来たみこさんに言われて、ボクは自然と表情がほころぶのを感じながら、そっと彼女を抱きしめ返した。
「はい、勿論です。だってボクはみこさんの執事で、お友達ですから!」