憎かった。
狂おしい程に憎かった、悲しい程に憎かった、妬ましい程に憎かった、絶望するほどに憎かった。
光を映さぬこの眼も、響きを忘れたこの耳も、花を認めぬこの鼻腔も、蜜を水とするこの舌も、冷暖を感じぬこの体も。
私を封ずる世界が憎い、私に屈さぬ世界が憎い、私を忘れる世界が憎い、私を忘れた世界が憎い、憎しみを憎しみとせぬ世界が憎い、憎しみを忘れた世界が憎い、憎しみを生まぬ世界が憎くて、憎しみを許容せぬ世界が憎くて憎くて、憎しみを拒絶した世界が憎たらしくて堪らない。
憎しみ無くして何が人か、何が生か。足りぬ足らぬと欲さず欲せず満ち足り生き死せど尚幸とし福とす世を喜劇と称す須らくの何と嘆かわしき事か。
かの世は悲劇であれば、憎みを拒絶せしかの者共こそ悪神たれば、我が憎しみ天を覆い地を包む大いなる災いたらん。
なれば、我が憎悪は善を蝕む毒と成り、人が世を根絶せん黒薔薇と成りて、咲かせし大輪花弁に病を乗せ人が世に降り注がん。
悲劇を知らぬ須くを、我が悲劇にて染め上げよう。
異変を感じたのは、みこさんに連れられて街の中心へと向かう途中の事だった。
気が付いたのはきっと偶然、なんとなしに周囲を見回していた先に、ふと雑踏に紛れる見慣れない色の花を見つけた。
黒い、光を飲み込んでしまうそうなほどに黒い薔薇。遠目から見ても異様な存在感を放つそれは、けれど誰の目にも止まらず、不気味なほどにひっそりと佇んでいる。こんな街道の中央にあるにもかかわらず踏まれる事も無いそれは、つい足を止めてしまうに足る光景だった。
「あれ、どうしたの光たん、気になる屋台でもあった?」
「いえ、あそこに咲いてる薔薇なんですけど‥」
突然立ち止まったボクに不思議そうに振り返ったみこさんに対して、ボクは黒い薔薇を指し示して見せる。指の先を追うようにしてついと視線を動かしたみこさんは、同様に薔薇の存在に気が付いたみたいで、はてと首を傾げた。
「ほんとだ、薔薇が生えてる。…なんでこんなところに生えてるの?」
「さぁ、街の名物だったりするんですかね。それにしても黒い薔薇だなんて、珍しいですよね。ボク始めて見ました」
少なくとも、さくら神社の周辺に咲いている薔薇にそんな色は存在しない。少し離れたこの地域で咲いている種類なのだろうか。けれど、名物にしてはあまりに関心を向けられていない。
黒い薔薇はまだ蕾のようで、どちらかと言うとチューリップに見えなくもない。けれど先端の開き方に花弁の形から見るに、それが紛れもない薔薇の花であることは確かだった。
「ね、もっと近くで見てみようよ!」
「待ってください…! 」
興味を引かれたのか駆け寄って行こうとするみこさんの手を咄嗟に捕まえた。前に重心の寄っていたみこさんは、突然の物理的な制止に腕がびんと張って、『おうっ』と声を上げてその場に停止する。
「いきなり何するの光たん!心配しないでも光たんを置いて行ったりしないよ?」
「す、すみません、そういう心配はしてないですけど、つい咄嗟に」
泡食ったみこさんから非難めいた目を向けられながら、ボクは自身でもどうしてみこさんを止めたのか分からずに戸惑っていた。
そこに在るのはただの花。場所に不可解な点はあっても、わざわざ止める必要は無い筈。なのに、どうしてだろう。あの花を見ていると、無性に胸騒ぎがする。一刻も早くこの場から逃げ出せと、先ほどから脳内には警鐘が鳴り響いていた。
何か、何か恐ろしい事が起きるような、そんな気がする。
「みこさん、ちょっと早いですけど、そろそろさくら神社に帰ってもいい時間じゃないですか?」
せめてみこさんだけは逃がさないと、そう思っての提案だったけど、多分ボクはこういうのが得意ではない。予想通り返って来たのは、胡乱気なみこさんの表情だった。
「光たん、流石に目が泳ぎ過ぎじゃない?そんなに露骨だとこのエリート巫女は騙せませんよ。…あのお花、なにかあるの?」
けれど、みこさんはボクの様子から何やら察したようで、そうボクに問いかけて来る。呆気に取られて、問われるがままこくりと一つ頷くと、ボクの手を握るみこさんの手に力が籠った。
「ならホクヒトさんに知らせておこうよ、みこ達が危ないなら他の人も危ないでしょ?」
「はい…、そうですよね。すみません、みこさん。でも、どうして危険だって…?」
ボクはまだ何一つ話せていない、なのにみこさんはどうしてそこまで。不思議に思って問いかけると、みこさんはまるで当たり前の常識について話すように、軽く口を開いた。
「だって光たんの顔がちょっと怖かったから、それだけ大変な事なんだなって。なにせ、みこはエリート巫女ですから、そのくらい朝飯前って奴ですよ」
そう言って、自信満々に鼻を鳴らして胸を張るみこさんに、ボクは思わず目を丸くした。だってそうだ、あまりに根拠が薄いただの予感程度の物なのに、顔を見ただけでここまで信じられたのだから、驚くなという方が無理がある。
「…もう、騙されやすそうなのはやっぱりみこさんの方じゃないですか」
「なにおぅ?光たんにだけは言われたくないにぇ、そんなにチョロそうな見た目しておいて」
「チョロそうな見た目って何ですか!」
言い合いながら、ボクは自身の中に渦巻いていた焦燥感が幾分か和らいだ気がした。やっぱり、みこさんには敵わない。改めてそう思うボクの横で、みこさんは徐に口に当てて、ピーでなくフーと指笛を鳴らした。
「それじゃ、みんなにも手伝ってもらって、まずはホクヒトさんを探そ!」
「はい、みこさん!」
みこさんの合図で出てきたシキガミさん達も一緒に、ボク達は街の何処かにいるであろうホクヒトさんの捜索を始めた。そうして、街を歩き回ろうとしたのだけど、しかし思いの他あっさりとホクヒトさんは見つかった。
見つけたのは現在地からそう離れない、街の中央に位置する噴水広場。ホクヒトさんは噴水の淵に腰かけて、力の抜けた、でも満足げな顔で感慨深げに人々でにぎわう街を眺めていた。近づくボクとみこさんを目にした彼は、『これはこれは』と立ちあがると、恭しく頭を垂れた。
「光様、そして巫女様。祭りは楽しんでいただけておりますかな?いえいえ、お答えいただかなくても結構、なにせこれは街を挙げての集大成、楽しく無い筈がござらん故」
そう言って、ホクヒトさんは破顔一笑とばかりに大口を開けて笑い飛ばす。あまりに大声で笑うものだから耳がキンキンとした。
「ホクヒトさん、お話したいことがあるんですけど」
若干顔をしかめつつ、先ほど見かけた黒い薔薇について話そうとした所で、ホクヒトさんはそっと片手を上げてボクを制止した。
「その話の内容、このホクヒトが当てて見せましょう。あなた方は街で黒い薔薇を見かけた、あれは悪いものだから街の皆には逃げて欲しい。こうおっしゃるおつもりでしょう」
「あれ、ホクヒトさん、知ってたの?」
完全に虚を突かれたボクはキョトンとその場に立ちすくんで、みこさんもみこさんで首を傾げながら問いかけていた。当のホクヒトさんはと言うと、大して驚いた様子も無く寧ろそれが自然だとばかりに頷いて見せる。
「えぇ、えぇ、勿論知っておりますとも。その上で、僭越ながら進言させていただくと」
すると、ホクヒトさんはみこさんを見つめて、そしてボクの方へと視線を向ける。彼のその瞳に浮かんでいたのは、紛れもない憐憫だった。
「我々はここにて滅ぶ故、光様、まだ間に合いまする、巫女様を連れて一刻も早くこの街からお逃げなされ」
告げられたその宣言に、ボクとみこさんは揃って息を呑む。ホクヒトさんの言葉からも、あの黒い薔薇が良くないものであることは確か。脅威が眼前まで迫っているにも拘らず、なのに彼らはここに残ると言う。
「どうしてですか、ボク達が逃げられるなら、街の皆さんだって」
「いいえ、我々の中であれに少しでも耐えられる者はおりませぬ。薔薇が現れたという事は、もうじき花弁が舞い始める頃でしょう。あれは人を死に至らしめる病でございます。触れればたちまち蝕まれ、果ては伏した身が新たなる花弁と散る事でしょう。…と、悠々と語りましたが、これらはすべてツミキ殿からの受け売りなのですがな」
『いやはやお恥ずかしい』と頭をかくホクヒトさんと同じように笑い合うことは出来なかった。
「分かってたなら、なんで逃げなかったの?みこ達が来るって分かって、お祭りの準備なんてしてる場合じゃないよ…」
呆然自失としていたみこさんは、打って変わって震える声で詰問する。痛い所を付かれた、とホクヒトさんは顔をしかめて、少し迷う素振りを見せてから口を開く。
「…手遅れだった、からですな。以前の流行り病、あれは前兆であったようで、一種のマーキングでしてな。黒薔薇はこの街に咲いたのではございません。我々のいる場所に、咲いたのです。故に、悪戯に被害を広げようとは思えますまい?」
「…何ですか、それ。もう、どうしようも…」
「そう、どうしようもないのです。我々一同、既に腹は括っております。犠牲の上に成り立つ命に、何の価値がありましょう。巫女様の加護があれば、走って街を出るくらいの時間はある筈、さぁ、お早く行きなされ!」
声を大にしたホクヒトさんは発破をかけて追いやる仕草を取る。けれど、ここでボク達が逃げたとて、この街が滅ぶことに変わりは無い。彼らを見捨てて逃げるだなんて、でも、このままだと諸共みこさんも含めて同じ末路を辿る。
生じた迷いに、一瞬思考に溺れる。その合間に、身を震わしたみこさんがその瞳に決意を宿した。
「なら、みこが薔薇を遠くに捨てて来る!みんな居なくなるなんて、絶対やだ!」
「な、馬鹿なことはおよしなされ!!いくら加護があると言えど、物事には限度があるのですぞ!」
「みこさんっ!」
ホクヒトさんの制止を振り切って、伸ばしたボクの手すら振り切って、みこさんは黒い薔薇のある方角へと駆けだしていく。遠ざかっていくみこさんの背中を追ってボクが足を踏み出すのと同時に、視線の更に向こう側では遂に上空に向かって無数の黒い薔薇の花弁が舞い上がり、天空を覆う黒は日を遮って街に影を落とす。
到底一輪の薔薇から生じたとは信じられない量の花弁。あまりの光景に、視線の先でみこさんが足を止めかけるも、それも束の間で寧ろ焦燥感に駆られるように更に前へと進んで行く。
比べて周囲の人たちは、あんなにも大量に花弁が舞い上がったにも関わらず、意にも留めずに日常の中に居る。ホクヒトさんも、花弁ではなくみこさんの背しか見ていない。きっと、見えていないんだ。あれに気が付いているのはボクとみこさんの二人だけ、そして、この場でみこさんを止められるのはボクだけ。
けれど、間に合わない。出遅れたボクがみこさんに追いつくよりも先に、みこさんは黒薔薇の元へとたどり着いてしまう。
無病息災の加護、それがあっても長くは耐えられない。あの加護はあくまで保険、古代のカミが残したさくら神社への遺産。
このままだと、みこさんを失ってしまう、みこさんが居なくなってしまう。嫌だ、それだけは絶対に嫌。みこさんを守らないと、みこさんを救わないと。みこさんを、みこさんを…!
途端、埋め尽くされた思考にノイズが混じった。知らない筈の事を知っている。違う、元々知っていただけ。みこさんに宿る加護を、あの黒薔薇を、自分自身が生まれた意味を、その役割を。
「…あ、そっか。そうだったんだ…」
ずっと不思議に思っていた。どうして森に閉じ込められていたのか、どうして周囲の人から光様と呼ばれるのか、どうしてさくら神社に辿り着いて、みこさんと出会ったのか。
全部、この為だった。ボクという存在は、ヒカリは、この瞬間の為に生み出された。
自覚するなり、身体の内から出でた炎が全身を駆け巡る感覚を覚える。あぁ、これでもう元には戻れない。でも、それで構わない。みこさんが大切だから、みこさんを助けられるのなら、みこさんが笑うことが出来るのなら。
「光様…なりませぬ!我らは、貴女を犠牲になど…!!」
後ろからホクヒトさんの声が聞こえた。ボクの変化に気付いたんだ。ふと、自身の身体を見下ろしてみると、身に纏っていたのは執事服ではなく、厳かかつ豪華絢爛な白の巫女服へと変わっていた。
(…この仕様は要らなかったかも)
あまりの変わり様に軽く頬を引きつらせてから、後ろのホクヒトさんの方へと振り返る。このヒトは良いヒトだ。自身の滅びが目前に迫って尚、他者を慮れる強きヒト。
「大丈夫です。ボクは、犠牲だなんて思いませんから」
必死に引き留めようとしてくれる彼を安心させるように微笑んで、眼前に広がる太古の怨念へと目を向け、この身に宿る権能を行使する。
舞い上がった黒き花弁はやがて降りしきり、この地に生ける須らくを黒に染め上げるであろう。
我が身は天高く照らせし太陽の化身なれば、須らくを浄化する日の光、太陽を象徴する焔を借り受け、振るわんとす。
故に、ヒカリ。
神楽舞に合わせ振るった手に連動し、生み出された焔は人を避け今尚花弁を生み出す黒薔薇を呑み、舞い上がった花弁を追い上空へと昇るそれは天を覆う黒の悉くを滅し、浄化する。その様は、さながら天に咲いた焔の華。
後に残るは上空よりひらりひらりと舞い落ちる火の粉のみ。街中に降りしきる火の粉は、街民に残された怨念による影響を取り除き、この地に残された全ての不浄を焼き滅ぼした。
それを確認して、焔を収めたボクはゆっくりと大きく息を吐く。権能の行使により僅かに感じる倦怠感、それ以上に強く感じる達成感と充足感。そして、同時にもう後戻りは出来ない自身の現状を自覚する。
辺りからは街の人達が驚嘆し、戸惑う声が聞こえてくる。彼らからしてみればいきなり炎が出てきたと思ったら、上空へ昇って空を覆ったのだから無理もない話だった。それでも、混乱に陥ったりせずに何が起こったのか周囲と事態の把握を始めているのだから、流石と言うべきなのだろうか。
あまりの順応性の高さについ苦笑いを浮かべつつ、ボクはようやく一際大切な人へと目を向ける。
立ちあがった焔を目前にしたみこさんはしりもちを付いていたみたいで、その場にへたり込んだまま、呆然と花弁の消え去った空を見上げていた。
そんなみこさんの元へと近づくべく足を踏み出して、声を掛けようとした所で、躊躇したボクは一度口を綴んだ。けれど、大丈夫だと自分に言い聞かせてから、意を決して再び口を開く。
「みこさん…その、大丈夫、ですか?」
我ながらたどたどしいと思ったボクの声掛けに、ようやくみこさんは我に返ったみたいで、『え、うん』と声を上げながら立ち上がってこちらに振り返る。
そうして、対面したボクの姿を見たみこさんは、キョトンとその瞳を丸くして鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、分かり易く動揺をしていた。
「光、たん?どうしたの、その格好…それに、さっきのって?」
未だ状況を飲み込めていないで、頭の上に疑問符でも浮かぶ勢いで目を瞬かせて首を傾げているみこさんに、ボクは緊張に高鳴る鼓動を他所に、努めていつも通りの笑みを携えながら伝える。
「ごめんなさい、みこさん。ボク、カミ様だったみたいです」