「みこさん、夕飯できましたよー」
立ち昇る湯気を背後に、キッチンから顔を出して、居間の方にいるであろうみこさんへと呼びかける。
いつもであったら元気な声と共にみこさんが走ってくるのだけど、待てど暮らせどもその姿が見えることは無く,しんとした静寂だけが暗い廊下に広がっていた。
誰もいない廊下に寂しさを覚える。とはいえ,これも仕方ない事だろう。そう気を取り直し、二人分のお盆を持ってキッチンを後にする。
廊下を歩いていれば、ふと窓の外にそびえたつ桜の大樹が見えた。つい先ほどまであの樹の根のある地下深くに居たのだと思うと、どうにも信じがたく、実感の湧かない心地だった。
けれど、この頭の中に流れている記憶達が、あれらは全て真実であったのだと告げている。今なお、自分の身体の内には焔のような力の躍動を感じるのだから、全部夢であったと信じることの方が無理な話だった。
夢。そう、全部夢であったなら、こんなに心配をすることも無かったのに。
心の内でため息をつきながら、辿り着いた居間の扉を開いて、中に入る。
居間の中では、みこさんが一人、隅の方に蹲ってぼうっと虚空を眺めている。さくら神社に帰ってからこの方、みこさんは心ここにあらずといった様子で、返事が返ってきたと思っても生返事くらい。
「みこさん、夕飯の時間ですよ」
ことりとテーブルの上に盆を置いてから、みこさんの近くまで寄ってそう声を掛ければ、ようやくみこさんは顔を上げて、反応らしい反応をしめした。
「光たん…え、もうご飯?さっき帰って来たばっかりなのに…、流石カミ様だにぇ」
「カミ関係なく、帰ってからもうかなりの時間が経ってますからね?みこさんってば、さっきから何度呼んでも『うん…』、としか言わなかったんですから」
「あれ、そうだったの?…ちょっと考え事してたよ、エリート巫女の集中力は伊達じゃないということだにぇ」
ばつが悪そうに笑って誤魔化すみこさん。だけど、彼女が何を考えていたのかはある程度、と言うか確実にこれだと当たりを付けられる。もしかしなくとも、地下でツミキさんから聞いた話の件だ。
太古の昔から続く神との因果。そうして、同時に続けられてきた街長と巫女の務め。ツミキさんは、最初から最後までを、余すことなくみこさんに伝えた。
街長は、街を治め、漏れ出るように発生する黒薔薇から街を守る為、代々未来を見通す眼を継承してきた。ツミキさんの瞳に宿る力は、類にもれず未来視の力で、この力でボク、基いヒカリが現れるタイミングを察知し、同時に黒薔薇が現れるタイミングなどを知っていた。とはいえ、未来視と言っても制限があるし、相応にリスクもあるから、普段は眼鏡を掛けてノイズとなりうる未来を極力見ないように、細心の注意を払う必要があった。
そして巫女は、代々その身に無病息災の加護を宿し、街の皆がその加護を受けるための一種のキャリアとなる役目があった。これは、さくら神社から病を忘れさせる程の効力を持ち、実際みこさんもこの街の皆さんも、病のやの字も知らず年がら年中健康体でいる。しかし、その加護を以てしても黒薔薇の影響までは防ぐことは出来ない。
ならば、どうやって中央に発生源を持つ黒薔薇から街を守っていたのか。隣街で発生した黒薔薇は、何も今回初めて現出したわけでは無い。太古から現在に至るまで、何度も黒薔薇は発生していた。にも拘らず、さくら神社は今なおこの地に残り続けている。
鍵となるのは、巫女が代々受け継ぐ加護だった。黒薔薇の影響を防ぐことは出来ない、加護に対するその認識は間違っていない。けれど、ある程度であれば、影響を緩和することが出来るということだ。キャリアである、巫女であれば、その許容量は群を抜く。巫女の本来の役目は、その加護を以て、世に現出する前に、その一身で黒薔薇を構成するケガレの全てを受け止めること。とはいえ、街を滅ぼす程の力をその身に受けて無事に済むはずがない。黒薔薇を受け止めた巫女は、一つの例外も無く、その場、その時で命を落とすこととなる。
詰まるところ人柱、生贄だ。
ヒカリが生まれるまでの繋ぎの為、必要な犠牲として、これまで何人もの巫女が若くしてその命を散らしてきた。当人はもちろんの事、残される人々にとっても、それは惨憺たる悲劇であっただろう事は想像に難くない。街の郊外に住んでいたお婆さんも、その内の一人だ。
もうこれ以上、あんな人たちを生み出してはいけない。ボクには、太古から続いてきたこの悲劇を断ち切る義務がある。
今代の巫女であるみこさんには、この話は伝わっていなかった。話を聞いたみこさんは、まさか自身が生贄となる運命にあったと言われて、あからさまに動揺していた。ボクもツミキさんも、無理のなからぬと理解していた。けれど、一つだけ想定外だったのは、みこさんがその次へと思い至った事だった。
『待ってよ、なら光ちゃんはどうなるの?今までの巫女は命と引き換えに、漏れ出たあの薔薇を止めてたんだよね。じゃあ、その原因を止めようとする光ちゃんは?カミ様だから、大丈夫なんだよね。だって、黒薔薇だって、あんなに簡単に…』
祭壇の前で、みこさんは蝋燭のか細い光の中でも分かるくらい、焦燥感に満ちた顔でツミキさんに詰め寄った。ツミキさんは、そっと胸元を掴むみこさんの手を離すと、けれど突き放すように首を横に振る。
『簡単ではございませんよ、巫女様。力を使われたヒカリ様にも、多少なりとも影響は出ております。悟られぬようにと振舞っておられますが、今も少なからず倦怠感を感じていらっしゃるでしょう』
ツミキさんの言葉に、みこさんがこちらに振り返ってくるので、気まずい心地を覚えつつ、曖昧に頷いておく。
実際に、倦怠感があるのは確かだった。動けない程ではないにしても、もう一度あれと同じことを繰り返せと言われると、出来るか怪しいと答えるくらいには消耗が激しい。
ボクの顔を見て、冗談ではないと察したみこさんは震えながらツミキさんに向き直る。そんなみこさんに、ツミキさんは表情の一切を消して告げた。
『どうなるか、でしたね。端的に答えるのであれば…『すべて失う』、でしょうか』
料理の並べられたテーブルを挟んで、向かい合う居間の中。正面では、みこさんがお茶碗とお箸を持って、申し訳なさそうに肩を落としていた。
「ごめんね、光たん疲れてるみたいだから、今日はみこが作ろうと思ってたのに…」
「いえ、普段通りにしていた方が気も紛れますし。それに、少し疲れただけで、家事くらいなら問題になりませんから」
大丈夫だと告げるも、みこさん的には納得がいかないみたいで、ずんと肩を落としたままうんうんと唸り声を上げている。とはいえ、それも料理を口にするまでの間で、一口箸を進めれば、たちまちパッと顔を輝かせた。
「おぉ、相変わらず光たん料理が上手だにぇ。寧ろ、前より美味しくなってるような…もしかして、カミに成ると料理が美味しくなる…?」
「違います、カミを変な存在にしないで下さい。みこさんも今日は疲れてたでしょうし、その分そう感じるだけですよ、きっと」
「…なんて冷静に言いつつ、頬を若干赤くして嬉しさを隠しきれない光たんでした。カミに成っても変わらずかわわだにぇ、これは天然記念物として認定するべきだよ」
照れ隠しがてらお味噌汁の入ったお椀に口を付けたところにそんな事を言われて、思わず吹き出しそうになったのを、腕で口を押えてなんとか堪える。気管支に残る異物感に何度かせき込んでから、ボクは目尻に浮かぶ涙をぬぐった。
「何ですかいきなり、ボクのどこが赤くなってるって言うんですか」
「柔らかそうなその頬っぺた。そんなに動揺してたら、取り繕うのは無理があると思うわけですよ。…あ、このお漬物も美味しい」
マイペースに食事を続けるみこさんに、これは暖簾に腕押しだと諦めのため息をついて、自分も同様に箸を進めた。
そうして、普段と同じく会話を交えながら夕餉は続く。けれど、次々と絶え間なく湧き上がる話題の中で、ツミキさんから聞いた話について触れるものは出てこなかった。意図的に避けていたのは、多分間違いない。ボク自身は当事者だし、殆ど全てのあらましを知っている。けれど、みこさんは違う。色んな話を一気に詰め込んだようなものだから、知りたいことだって、聞きたいことだってまだまだ沢山ある筈。
なのに何も聞いてこないのは、きっとみこさんも聞くのが怖いのだと思う。以前にも似たようなことがあったけど、今回は内容が内容なだけに、ためらっているのかもしれない。
みこさんは聞かず、ボクも話さず、結局ボク達はそのまま夕餉を終えた。
「あ、片付けはみこがやるから、光たんはゆっくりお風呂でも入っててよ」
そう言って、空になった食器を持ったみこさんは居間を出て行った。残されたボクは、手持無沙汰に髪をいじって、息を吐きながらテーブルの上に突っ伏す。
「…みこさん、いつもと違うな。当然と言えば当然だけど…やっぱり心配」
やはりこのままこの神社に残るべきではと、先ほどから何度も考えてしまう。そんな事をしたら諸共滅んで、最悪みこさんだけが生贄になりかねないから、出来ないとは分かっているけど、どうしても考えてしまう。
「こんな事なら、もっと厳しく接しておくべきだったのかな」
執事としては、それが正解だったのだろう。けれど、ボクはそれを選ぶことが出来なかった。だから、この葛藤はいわば自業自得で、身から出た錆と言うもの。そこまで理解しているのに、例え繰り返したとて、結局ボクは同じ選択をするのだろうと確信を持ててしまうのだから筋金入りだ。
「…考えても仕方ない、よね。うぅ、心配だな…」
信じるしかない。出せる結論はこれ以外にないのだけど、やはり心配なものは心配で。
ツミキさんから貰った休養という名の準備期間は一日。明日には、ボクは再び地下の奥深くに居て、世界の命運を左右する瀬戸際に立つ。にも拘らず、頭の中はみこさんの事で一杯で、おかげで恐怖も不安も感じない。これはもしかすると、カミに成った影響なんじゃないか、などと冗談めかした思考が流れる。
「みこさん…」
ぽつりと零したその声は、誰もいない部屋の中に薄れて、消えていった。
同時刻、桜色の髪をふわりとなびかせる巫女の少女は、スポンジ片手に洗い物をやっつけながら、その意識はカミと成った白い執事の少女へと向けられていた。
「なんで、光ちゃんが…」
口から零れ落ちるのは、世界への恨み言、やるせない感情の発露。
みこにとって、光がカミであったことなど些事でしかない。何者であろうと、みこにとっての光と言う存在に揺らぎはなかった。けれど、カミと成ったことにより生じた問題は別だった。
地下でみこがツミキから聞いた光が迎えるであろう結末。
『端的に答えるのであれば…「すべて失う」、でしょうか』
すべて失う。その言葉を聞いた途端、みこは頭が真っ白になった。
今までの巫女は、その命と引き換えにヤマトを守ってきた。それと同じく、光はその身を捧げることで、ヤマトに蔓延る呪いの元を根絶しようとしているのだ。
その考えに至ったみこがまず抱いたのは、怒り。
自分を犠牲にしようとしている光に対して、それを願っているツミキに対して、そして、今の今まで何も知らないでいた自分に対して。そうして抱いた怒りは、すぐに無力感へと転じた。
自分では、精々黒薔薇を一回分相殺できるかどうか。漏れ出た黒薔薇に対してこれなのだ、その根源を前にしては、光を助けるどころか、身代わりになることすらできはしない。
それを理解したが故の自身への落胆は、到底受け入れるに余る感情で、ぐるぐると巡る思考の中、気が付けばみこはさくら神社へと戻っていた。
いつもの通り変わりのない光に対して困惑しながらも、みこは普段通りに会話を続けた。その内心に渦巻くモヤモヤに蓋をして。さもなければ、支離滅裂な事を言って光を困らせる予感がみこにはあった。
みこから見て、光は全てを受け入れているようだった。事情をすべて把握して、これから何が起こるのかを理解した上で、自らを犠牲にする選択を取る。
「やだ、光ちゃんが居なくなるなんて、絶対やだよ…」
どうあっても、みこにはそれが受け入れられなかった。
彼女が持つスポンジから泡があふれ出す。けれど、彼女に引き留める手立てはなく、桶に張る水面に反射した顔を眺めながら、途方に暮れるばかりであった。
誰が立ち止まり思い悩もうとも、時間は平等に進んでいく。
光とみこが互いに思いを募らせている間に、すっかりと夜も更けて、後は寝るだけとなった頃。光は自室に1人、敷いた布団の上で膝を抱き、夜空に煌めく星々を眺めていた。
結局みことは話せず仕舞いだった彼女の顔には、少なからずの後悔が浮かんでおり、同時に仕方がないと諦観の念もまた混じっている。
光としての不安感と、カミとしての義務感とが入り混じるのは、彼女の持つ力がもたらす全能感故であった。光はカミと成って日が浅く、当然今までは感じてこなかったその感覚への戸惑いは確かに存在している。
明日の朝、光はこの神社を離れることになる。それまでには、心の整理をつけておかないといけない。そう思って、こうして光は夜空を見上げているわけだが、これが想定以上に彼女の心に安寧をもたらしていた。
もしやこのまま眠れぬのではと、覚悟していた光にとってそれは嬉しい誤算であった。
そうして、落ち着きを取り戻した心を瞼を閉じて感じ入る光の耳に、ふと襖が叩かれる音が聞こえてくる。
「…みこさん、眠れないんですか?」
襖が開くのと同時に光が問いかけると、それを耳にしたみこがピクリと身を震わせた。しかしそれも束の間で、光が瞼を開いて視線を向ける中、みこはこくりと頷いて部屋の中に入った。
良く響く足音は光の傍まで続き、その場に腰を下ろすと、みこは光の肩に身を預けるように体を傾けた。
「眠れないから、ちょっと光ちゃんとお話しときたくて…。ね、今日は一緒に寝ても良い?」
「勿論、良いですよ。ボクも、みこさんと話し足りなかったです」
光もまたみこに体を預けて、二人は互いを支え合う様にしてその場に膝を抱え、窓から差し込む月光を浴びる。
そうして、部屋の中はしんと静まり返って、自然と光とみこの手が重なった。
「…光ちゃん、やっぱりさ、明日行くのやめにしない?」
ぽつりとみこが呟くように言う。
一見静止のその言葉は、けれど、本質を見ればあまりにも残酷な提案で、光は一瞬驚きに目を見開いて、そしてふにゃりと思わずと言った形で表情を緩めた。
「そんなことしたら、ツミキさんにたくさん怒られますよ」
「良いよ。それはみこの所為だから、光ちゃんは怒られないようにするから。みこだけが怒られるようにするから。…だから、ね?」
重なるみこの手に力が籠められる。カミと成った光にとって、それは些細な力であったが、けれど今だけは何よりも力強く感じた。
幸福感が胸に灯るのを感じながら、光はしかとその首を横に振る。
「ボクは、みこさんの事が好きです。みこさんにそんなに引き止められてたら、はいって、すぐに頷いちゃいたくなるくらいです。そんなみこさんがいるのは、ツミキさんや街の人がいたからなんです。でも、ここで全部捨ててしまえば、ボクの好きなみこさんは居なくなっちゃいます」
光の知るみこは、誰とも分け隔てなく笑顔でいることが出来て、誰でも笑顔に出来てしまう、そんな存在。誰かを犠牲にしたみこに、同じ様に笑える日が来ない事を光は理解している。
唇を噛んだみこは、けれどもまだ諦めないとばかりに頭を振って、無理やり笑顔を浮かべる。
「じゃあ、みんなで一緒に逃げようよ。…そうだ、ヤマトを出て海を越えたら、また色んな場所があるんだって。ヤマトの皆で、ヤマトを捨ててさ、黒い薔薇が届かない、どこか遠くに行こうよ。そしたら、光たんは…」
「無理ですよ。仮にヤマトから逃げ出せても、路頭に迷うだけです。いくらカミがいたとしても、ヤマト中の人々の面倒を見切ることは出来ないんです。だから…これが、最善なんですよ」
分かってください。そう言い聞かせるように口にする光に、みこの瞳が揺れた。
「みこは、嫌だよ。光ちゃんが居なくなるなんて、耐えられないよ。明日から、メイド服着てくれる約束じゃん。約束、破らないでよ…」
苦し紛れの巫女の言葉に、途中まで慈愛に満ちた表情を携えていた光の顔が困ったように歪んだ。みこの言う通り、約束したのも確かなため、強く否定もできずに、少し考え込むように光は瞼を閉じた。
「…分かりました。ボクは何処にもいきません。ちゃんとさくら神社に居ますから、みこさんは安心してください」
意を決した風に光が言えば、みこはその眼を瞬かせる。
「…本当?」
「はい、本当です。だから、今日はもう寝ましょう。あんまり夜更かししちゃうと、明日の朝に起きられませんから」
「本当に?一緒に寝てくれる?みことずっと一緒に居てくれるの?」
「はい、ずっと一緒です。だから、もう安心してください」
投げかけられる疑問に首肯と共に答えつつ、光はみこの両眼を手で覆う。そうして、光が手を外すころには、みこの規則正しい寝息が光の部屋に流れていた。
「…ごめんなさい、みこさん」
ぽつりと零して、光は窓の外を見上げる。見上げた先の夜空では、月明りを遮るように雲が夜空を覆い始めていた。