貴女が居なくなってから、どれだけの時間が経ったのでしょう。束の間のようで、長い、それは長い時を過ごしたように思います。
あの日から今日に至るまでの日々はまるで、寒空の下、花々が地面の下に隠れてしまった冬のようでした。移ろい行く季節に応じて姿を変える景色も、確かにあったのでしょう。けれど、そのどれもが、貴女と過ごした日々に比べれば、色彩に欠くモノクロも同然でした。
初めて出会ったのは、暖かな日差しの降り注ぐ春頃でしたね。年中桜が降るこの街で、春だなんていうと少し可笑しな気分になるけれど、それは兎も角、今も鮮明にその時の事を思い出せます。貴女はいつだって私に幸せをくれました。負けないくらい愛を伝えていたつもりだけれど、振り返ってみれば、一方的に貰ってばかりだったのではと考えてしまうくらい、多くのものを貰っていたように思います。
もう貴女は私の傍には居ないけれど、思い出の中ではいつだって貴女が傍にいて、いつかのように明るい笑顔で私に笑いかけてくれている。それだけが、私に残された生きる意味。貴女が居てくれたから、私は長い月日を超えられました。それは、今だって変わりません。
貴女との記憶を抱いて、貴女と共に、私は時を歩んでいます。
…一つ、嘘を付いてしまいましたね。鮮明に思い出せると言ったけれど、いつからか、貴女との記憶には霧がかかり始めて、本当はどんな場所に行って、どんな会話をしたのか、もう殆ど思い出せません。老いによる影響なのでしょうか、それとも膨大な時間に押し流されてしまったからでしょうか。
ふと、思い出せなくなった記憶に気が付く度、私は、擦り切れてしまいそうな悲しみを覚えるの。一つ、また一つと記憶が消えて行って、果てには何も思い出せなくなって、私の中から貴女の面影が無くなってしまって。
貴女はまた、私の前から消えてしまうのかしら。
…なんて、弱気になっても仕方が無いのは、分かっているつもりなのだけれど。貴女に向けての言葉だと思うと、どうしても甘えたくなってしまうわね。やっぱり、私は貴女がいないと駄目みたい。
これ以上書いていると、弱音ばかりになってしまいそうだから、今日の所はこのくらいにしておこうかしら。丁度、お客様もいらしたようですし。また、お手紙を書きますからね。
暖色に包まれた部屋の中に、ことりと筆の置かれる音が響き渡る。
机に向かう一人の老女は、今正に書き終えた手紙に封をして、呼び鈴の鳴らされた玄関の扉へと、静かに目を向けた。
光からの書置きが手から零れ落ちるのと同時に、周囲のシキガミ達を置いて、みこは無我夢中で駆け出した。どたばた足音を鳴らしながら、キッチンを出て廊下を走り、裸足のままでさくら神社の外へと飛び出す。
淡い朝日に照らされて、桜の花びらの降り注ぐ街並みには目もくれず、一心不乱にみこが向かうのは街の中心にそびえ立つ桜の大樹。その根元には、先日目にした地下の空間へと繋がる階段への入り口が存在する。
光に連れられて歩いた朧げな記憶を頼りに、みこはもつれそうになる足を必死に動かした。時によろけて、時に足裏を穿つ石の痛みに顔をしかめながらも、彼女の足が止まることは無い。その脳裏に浮かぶのは、白い執事の少女と過ごした日々の記憶。顔を見合わせて笑みを交わし、共に食事をして湯舟に入って、同じ布団に入って眠るまで話した、何てことは無い些細な日常の風景。
時間にすれば、大して長い時間を共に過ごしたわけでも無い。それこそ、二人が出会ったのは年単位で見れば、ごくごく最近の出来事と言える。それでも、みこにとって光と過ごした時間の密度は、自らの人生を振り返っても類を見ない程に濃密で、既に光は掛け替えのない存在としてみこの心に焼き付いている。
「光ちゃん…!」
その名を口にして、みこは眦に浮かぶ雫をそのままに、大切な彼女を失うまいと、息を切らせて尚も走った。
さくら神社から大樹までの距離はさほど離れていない。やがて、ヒトの手では到底計りかねる大樹の根元までたどり着いて立ち止まったみこは、息を整える間も無く、目を皿のようにしてきょろきょろと辺りを見渡し、階段への入り口を探す。
「…なんで」
けれど、見つからない。確かにそこにあった筈の暗い洞は、まるで最初から何もなかったように滑らかな樹皮に覆われているのみで、場所が違うのかと、みこがそれらしき影を探せども、変わりは無かった。
呆然とその場に立ちすくむみこだったが、何かの間違いだとばかりに、諦めず大樹の傍まで駆け寄る。
「だって、昨日はここから!なんで無いの…?なんで…!」
そんな筈はない、間違っている筈が無いと、みこは洞のあった箇所に手を振れて、叩いて、爪を立てる。しかし、がりがりと音は立つものの、大樹は依然として沈黙を保っており、樹皮には傷一つつく気配もない。寧ろ、削れていくのは彼女の爪の方であった。
「光ちゃん…此処なんだよね、此処に居るんだよね!このままお別れなんて嫌だよ…、嫌だ…やだ…」
微かに赤く染まった樹皮を一際強く叩いて、少女は大樹に縋りつくようにその場に崩れ落ちる。その胸中に募るのは、どうして引き留められなかったんだろうという後悔ばかり。つい昨夜まで一緒に居て、すぐ近くに居たのに、そんな自責の念が彼女の心を突き刺した。
その顔は普段の華が開くような笑顔の面影すらも見えないで、ただ生気の抜け落ちた虚ろと成り果てた。ボロボロと零れ落ちる雫は根を伝い、地面へと吸い込まれていく。
大樹の根元にへたり込むみこに、追って後から来たシキガミの一匹が近づいて、気遣わしげに彼女を見上げるも、失意に沈む彼女がそれを意に留める気配もない。ただ抜け殻になったように、人形めいた端正な顔立ちを微動だにもさせず、瞳から溢れ出る雫だけが動くその様は、まるで彼女だけがその場で時間に取り残されたかのようだった。
みこの様子を目にしたシキガミ達は、なんとか生気を取り戻させようと、懸命に彼女を揺さぶり、服の袖を引く。けれど、尚も反応を示さないみこに、シキガミ達の中に焦りが生まれ始めた。
『ボクが居なくなった後は、みこさんの事、お願いしますね』
今朝がた、光はそうシキガミ達に伝えて、全てを終わらせるために神社を後にした。もう戻って来れないと分かっていたが故に、ずっと身近にいたシキガミ達にみこの事を託したのだ。なのに、幾ら世界が救われたとしても、みこが抜け殻となってしまったのでは、あまりにも光が報われない。
シキガミ達は、あの手この手で、必死にみこの関心を向けようとした。彼女を揺さぶるものがいれば、周囲で踊りだすものや、ひたすら大喜利を始めるものも居た。彼らにとって、普段から感情を発露させている彼女が示す反応であれば、それは怒りでも何でもよかった。
ただ、光が愛した彼女の笑顔がいつか再び花開くのならば、その結果自ら達がどうなろうとも何でもよかった。
不意に、みこの唇が震えた。それを目にしたシキガミ達は、一斉に動きを止めて彼女の言葉に耳を澄ます。
「もう、放っておいて…」
けれど、無情にも呟かれた主からの明確な拒絶に、はたりとシキガミ達は一匹、また一匹と視線を下げていく。自分達では力になれないのかと、無力感に苛まれながら、そのつぶらな瞳が涙に潤む。
「…あら、もうやめてしまうのかしら?随分と可愛らしい踊りで、巫女様も顔を上げてご覧になればよろしかったのに」
その時、時の重みを感じさせる静かな声が辺りに響いた。いち早く反応を見せたのは周囲に居たシキガミ達、それに遅れてゆっくりと、みこが顔を上げた。
「お婆、ちゃん…?」
「えぇ、巫女様。お久しぶりですね、と言ってもそこまで時間は経っていないのかしら」
呆然と呟いたみこに、柔和な笑みを浮かべるのは、微かに地面から浮いた揺り椅子に腰かけた、白髪の老女。かつて、ツミキから渡された三つの依頼をこなす中、街の郊外で出会った彼女の姿に、みこは虚ろな瞳を向けて何故と問いかける。
その意図をくみ取ってか、老女はしたり顔で再度微笑んで、膝の上に乗せた一匹のシキガミを撫でた。
「この子がね、家まで来て教えてくれたの。光様が生贄になるために地下へ向かったって。きっと巫女様が悲しむだろうから、力を貸して欲しいって。まぁ、この子達とは言葉で意思疎通が出来ないから、全部憶測だったのだけど。その様子を見るに、正解だったみたいね」
そう話す老女の温和な笑みの中に、一瞬痛まし気な表情が浮かぶ。老女はみこの顔を見て、それから赤くなった両手の指先と、露わになった裸足に目をやった。
「随分とまぁ、ぼろぼろになって。言ったとおりになってしまったようね、きっと後悔するわよって。なんて、どんなに最善を尽くしたとしても、結末が悲しみだったとしたら、どうしても後悔をしてしまうのだから、仕方がない事なのかもしれないわね」
ゆらりと、地面を滑るようにして老女は座る揺り椅子を動かし、みこの元へと近づくと、徐にその手を彼女にかざした。途端、見る見るうちにみこの指先から傷が消えて行く。
痛みの引いた手にみこがぼうっとその手を見つめていると、老女はそんな彼女の様子を見つめて、瞳を伏せて問いかける。
「ねぇ、巫女様。もう一度光様と会って、話をしたいかしら?私だったら、入り口を開けることはできるのだけど」
それを聞いたみこの反応は劇的だった。瞬時のその瞳には光が灯り、驚愕を隠せぬ顔で詰め寄る様に顔を上げる。
「ほんと…?お婆ちゃん、ほんとに光ちゃんと会えるの!?」
「本当ですよ。元々、その為に私はここに来たんだもの。それよりも、巫女様は良いのかしら?そんな顔で、光様と会うつもり?」
詰め寄るみこに、老女はくすりと笑みを漏らしながら指摘する。
みこの顔は先ほどまで涙を零していたせいで、お世辞にも綺麗とは言い難い状態にあった。それを受けて、みこが慌てた風に服の袖で顔を拭くと、幾らか顔色も良くなったいつものみこが現れた。
「もう、大丈夫!それよりお婆ちゃん、入り口を開けるってどういう事なの?」
調子が戻ったようで、ぱっと顔を明るくしたみこが感情豊かに表情を変えながら問いかける。それを見た老女は満足げに頷いてから、すぐ傍の先ほどまでみこが縋っていた樹皮の辺りを見やった。
「あの地下への入り口はね、普段は閉じられているの。だってそうでしょう?街の人達が好き勝手に中に入ったりしたら大問題だもの。だから、開け方に条件を設けているのよ。今この街で開けられるのは、ツミキちゃんと光様と…私くらいのものね」
とんと、話しながら老女は手を大樹に触れさせた。すると、先ほどまでは滑らかな樹皮があるばかりだったその箇所に、いつの間にやらぽっかりと開いた暗い洞が開き、先にある階段が姿を現した。
道が開けたことを認識したみこが歓声を上げる。それを横目に、老女はなにやら物憂げに地下へと続く階段を見つめていた。
「ありがとうお婆ちゃん!この先に光ちゃんがいるんだよね、これで光ちゃんの所まで行けるよ!」
「…あら、良いのよ。巫女様には、ペンダントを見つけて貰った恩があるもの。それに、さっきも言ったけど、これは私の為でもあるの」
意図をくみ取りかねて首を傾げるみこに「さ、行きましょ」と声を掛けて、老女は揺り椅子を動かして階段へと向かっていく。遠ざかるその背に、みことシキガミ達も慌てて後に続いた。
みこ達が足を踏み入れると同時に、ゆらりと壁の蝋燭に火が灯り、段差をほのかに照らす。一歩一歩、進むたびに冷たくなっていく空気を感じながら、一行は地下へと降りていく。
「ねぇ、お婆ちゃんはどうして開けれたの?ツミキさん言ってたよ、此処の事は街の人は知らないって」
道中、みこがふと生じた疑問を投げかける。
みこ自身、桜の巫女という当事者でありながら昨日に知ったばかりなのだ。にも拘らず、老女はは徹頭徹尾、全てを知った上で動いているように見えた。それが、みこには不思議でならなかった。
「そうね、此処の事を知っているのは、代々の桜の巫女と街の管理者だけ。私は、昔に知る機会があったの。と言っても、半ば無理やり押し入ったようなものなのだけど」
すると、老女は首に下げていた対のペンダントを手に掲げてみこに見せる。それは、以前みこ達が探し出したもので、ペンダントの中にある写真には若かりし頃の老女ともう一人、結婚相手だと言う女性が写っている。
「この人の事、話していなかったわよね。私の大事な人。この人が、先代の桜の巫女なのよ」
「桜の巫女…えっ…!?」
思わぬところから繋がりのある人物が出て来て、面食らったみこは言葉を失った。その様子を見て、老女は悪戯に成功した子供の様に朗らかに笑う。
「そこまで驚いてくれると、話した側としても嬉しいわ。まぁ、だから、短命だったと言うのはそういう事。あの人は生贄になる事を選んでしまったの。丁度、巫女様と光様と同じ立ち位置ね。喧嘩別れをして、私を置いて勝手に行ってしまって」
記憶を辿るように、ペンダントを見つめる老女の視線が遠のいていく。
「さっきの巫女様と同じようにね、当時の私も入り口の開け方を知らなかったの。でも、どうしても諦めきれなくて、力だけはあったものだから、殆ど無理やり入り口をこじ開けたのね。…でも、私は間に合わなかった。入り口を開けるのに、時間を掛け過ぎてしまったの」
悔いを滲ませる老女は瞼を閉じて、手すりに掛けた骨ばった手に力を籠めた。
「結局、私が地下に辿り着いた時には全て終わっていた。あの人は生贄として、黒薔薇の発生を防いで、その命を散らした後だった。遺体は残らなかったわ。残されていたのは、出てきた当時の街長から手渡された、あの人の持っていたこのペンダントだけ」
ちらりと、揺れる蝋燭の火が持ち上げられたペンダントに反射する。
この話を聞いて、みこは到底他人事だとは思えなかった。なにせ、老女がいなければみこも同じ結末に辿り着いていたのだ。ごくりと、静かな空間に生唾を飲み込む音が反響した。
遅れて、気が付いた事実にみこは途方もない焦燥感を胸に抱いた。
「じゃあ、急がないと光ちゃんも…!」
光が神社を出て行った時間を、みこは正確に把握していない。みこが起きたのもそれなりに朝も早い時間帯だが、常であれば光はもっと早く、それこそ太陽が昇り始めるよりも早くに起きて家事をしていた。
慌てて階段を駆け下りようとするみこだったが、しかし、それを大丈夫だと老女は静止した。
「焦らなくても、私の頃とは状況が違うわ。光様の傍にはツミキちゃんがいるはずよ?あの子は私とあの人の事を近くで見ていたから、きっと何かと理由をつけて光様が生贄になるのを遅らせているわ。だから、巫女様は光様をどうやって連れ出すのかだけ、考えておけばいいのよ」
「でも…」
「大丈夫、ツミキちゃんとは当時からの付き合いだから、このくらい分かるものなのよ」
逡巡するみこだったが、言い聞かせる老女の言葉に、こくりと頷いて心を落ち着ける。そうして、落ち着きを取り戻した心で、ふと生じた疑問について考えた。
「ツミキさんって、何歳なの…?」
ぽつりとみこが、外見だけは妙齢である街長への疑問を口に出す。一応聞こえていた筈の老女も、こればかりはふいと白を切って何も答えなかった。
何とも言えない空気になりながら、ついにみこ達は地下の空間にある扉の前へとたどり着いた。