山の向こう側から太陽が顔を出し、窓から差し込む朝日がキッチンの中を照らし始めた。
野菜の乗ったまな板の上、小気味良いリズムで包丁を動かす。隣のコンロでは鍋に入った水がポコポコと沸騰し、そのまた横に置かれた土鍋は蓋から蒸気を漏らしていた。
切った野菜を鍋に入れながら、そう言えばまだ卵があったと、取り出したフライパンに油を敷いて火にかける。合間に、作り置きしておいたきんぴらごぼうを小鉢に添えて、フライパンが温まったのを見計らって卵を割り入れれば、じゅうと音が立つ。
そろそろみこさんを起こしに行かないと、なんて考えていた矢先、キッチンの外から響く、階段を降りて来る足音を耳に捉えた。漏れ出る匂いに釣られてか、段々と近づいてくるそれに軽い感動を覚えながら、ボクは暖簾を潜って来た彼女に振り返る。
「おはようございます、みこさん。もう少ししたら朝ごはんが出来上がりますよ」
「うん、おはよー光た…ん!?」
寝ぼけ眼を擦っていたみこさんは、こちらを見るなり目を見開いてぽかんと口を開けた。その視線はボクの足先から頭の上までをしげしげと眺める様に推移していき、あまりに不躾に見られるものだから、居たたまれないで、かっと頬が熱くなるのが分かった。
「…な、なんですか、似合ってないならそう言って下さいよ」
言いながら隠すように腕を前に交差させるも、それだけで隠し通せるはずが無いのは自分でも分かっている。
そうこうしている間にも、目の前では動きを止めていたみこさんがわなわなと震えだす。経験則からして、これはマズイパターンだと直感したボクは、感じた悪寒にひくりと頬を引きつらせた。
「かっ…」
「別に、これは暫くバタバタしていて約束を果たせていなかったから仕方なく着て見ただけで、大して思い入れがある訳でも無くて、みこさんの期待に沿えないと言うならすぐにでも着替えて…」
いつでも自室に駆けこむべくじりじりと逃げ腰になりながら、時間を稼ごうと、畳みかける様に早口で捲し立てる。
「かわいいー!!」
しかし、そんなボクの努力も虚しく、やがて臨界点でも迎えたのか、絶叫にも似た歓声を上げながらみこさんが飛び込んで来る。そのままするりと、いつの間に身に着けたのだと驚くべき速度でみこさんの腕が腰に首裏に回されて、瞬く間に逃れられぬよう強く抱き留められてしまった。
「わっ、ちょっとみこさん…!」
あまりに唐突なものだから反射的に距離を取ろうにも、ヒト並みの腕力ではそれも叶わず、ただただ為されるがままになる。
「かわわ、かわわだにぇ光たん!甘々なメイド服に猫耳と尻尾まで付けちゃって、これはあれですよ、あざと可愛いって奴ですよ、辛抱堪らんって奴ですよ!うぇへへ、ほっぺもすべすべだにぇえ」
「うぅ…、みこさん変なスイッチ入ってますよ!」
乙女にあるまじき声を上げながら、みこさんは抱き着くに留まらず、その本能の赴くままに頬ずりをしては、回した手をわさわさと体をまさぐる様にして動かして来た。
「相変わらず腰細いね、光たんは…って、前よりまたほっそりしたような。でも、柔らかさはそのままだからやせ細ったわけでも無くて…。光たんどんなマジック使ったの?」
すると、腰辺りに触れた辺りで、ぴたりと動きを止めたみこさんは体を離してまじまじと顔を覗き込んでくる。とはいえ、そんな事を聞かれても、特にダイエットをしたわけでも無いし、体型が変わる様な心当たりはない。
「いえ、何もしてませんけど…。きっと、みこさんの気の所為ですよ」
「いいや、違うにぇ。幾千幾万回と光たんの身体をまさぐった、所謂光たんソムリエのみこの目は騙せないよ。今までが高級フルコースだとしたら、今は最高級の極上フルコース。さぁ、吐け。吐くんだ光たん。どうやってそのプロポーションを手に入れたのか!」
ぐいぐいと詰め寄って来るみこさんの圧に押されて、思わず後ろに一歩下がる。
「だから、本当に何もしてませんってば!…うーん、でも、いまやボクも普通のヒトですから。人並みに成長しているのかも…」
弁明しながら、ふと思い至った事を口に出して見る。けれど、思い付きだけど、考えれば考えるだけ、あながち間違いでもないような気もしてきた。
人は時間を経るにつれて成長し、身体なども変化していく。それは寿命がヒトよりも長いカミやアヤカシとて例外ではない。違いがあるとするなら、それは寿命というスパンに合わせて、成長の過程もまた長くなっている部分だろう。ヒトにとっての一年の変化が、寿命の長さに比例して何倍もの時間を掛けて変化していく。
普通はヒトからアヤカシなどに成って、外見の変化が緩やかになっていく。けれど、ボクに限っては例外的にその逆を行って、カミからヒトになった訳だから、成長速度が早くなったのにも頷ける。
まぁ、それでもたかが数日の成長で、みこさんがその自分でも気づかないくらいの微細な変化に気が付いたのは良く分からないけれど。
「これは大人の女性になるのも、意外とすぐそこなのかもしれませんね…って、どうしたんですか、みこさん?」
遠いようで現実的な距離になった未来を想像していると、ふとみこさんが肩を震わせているのが目に留まった。それは何かこみ上げてくる激情を堪えているかのようで、既視感と共に再び嫌な予感を覚える。
「ひーかーりーちゃーん!」
そうして、案の定とでも言うべきか。やがて、限界にでも達したのか、先ほどとは違い、怨嗟の声を上げながらみこさんが飛び掛かって来た。
「こ、今度は何ですか!?」
「なにもかにも、聞きたいのはみこの方だよ!ただ成長しただけでこんな理想的なボディを手に入れられるってどういうことだー!あれですか、甘いもの制限しないといけないみこへの当てつけか!」
「そんなつもりは微塵もないですよ!ボクだって普通に食べ過ぎたら太りますし…あ、でも昨日見たら体重は減ってたような…」
「減るなー!!」
ぽろりと余計な情報が口から洩れて、みこさんが更なるヒートアップを見せた。一応同じものを食べているのだけど、この辺りは個人差という奴である。仕方ないと諦めて貰う他無いのだけど、みこさんからしてみればそうにも行かないみたいで、悔し気な歯ぎしりの音が聞こえてくる。
「みこは毎日苦心してるにぇ。甘いものを食べ過ぎれば後悔が待っている、でも甘いものの誘惑に負けて食べてしまって、その後悔が後から押し寄せて来るにぇ。なのに…、光たんは…!」
「一応後悔はあったんですね、いつも嬉しそうに食べてたので気付かなかったです」
昨日だってたい焼きを幸せそうに頬張っていたのに、ボクの知らない所で後悔していたのだろうか。何故だか居たたまれない気持ちになっていると、不意にみこさんが『不平等だにぇ…』と不穏な事を呟いた。
「こうなったら光たんも太らせてやる…!みこが揉んでそのつつましやかなお胸を大きくして、体重の増加という恐怖を共有してやるにぇ!」
「何ですかその斬新な嫌がらせ!というか、それで体重が増えても大してショックでも何でも…って、何処触ろうとしてるんですか!?」
するりと後ろに回ったみこさんの魔の手が体をまさぐって、思わず身をよじらせる。しかし、がっちりと抱きすくめられて密着した状態に変わりは無く、寧ろ身をよじった分、変に体勢が固定されてしまった。
「うぇへへ、大丈夫だよ光たん。安心してこのみこおじさんに体をゆだねなよ」
「遂に自分でおじさんって認めましたね!?なんだかんだ言いながら結局それが目的なんじゃないですか!」
どたばたとした喧噪がさくら神社のキッチンに満ちる。伸ばされたみこさんの手を防ぐようにして、一進一退の攻防がその場では繰り広げられていた。それはもう、二人揃って周囲の事なんて忘れて、キッチンに近づいて来る足音に気付かないくらいに。
「巫女様、光様。こちらにいらっしゃるのですか?」
不意に聞こえてきた第三者の声に、ぴたりと時間がその場で止まったように感じた。暖簾を潜って入ってきたのはツミキさんで、目が合った彼女は無言のまま暫しその場で立ち止まってこちらを眺めていた。
「へ、あの、ツミキさん…」
呆然と呟きながら、ふと自身らの状態を思い返す。メイド服に猫耳尻尾を付けたボクに、後ろからみこさんが覆いかぶさるようにして抱き着いて、前に手を回している。
それは、傍から見れば大きな誤解を招きかねない情景で。
「おっと、これは失礼いたしました。暫く時間を潰してからまた参りますので、どうぞごゆっくり」
二の句を継ぐ間も無く、くるりと身をひるがえしたツミキさんがキッチンを出て、その足音が遠ざかっていく。
時に、火事場の馬鹿力といって、人というのは窮地に陥ると普段以上の力を発揮するとよく言われるが、この時のボクは多分その状態だったのだろう。
「待ってください、誤解ですから!変な気を遣わなくていいですからぁ!!」
みこさんの拘束を振り切ったボクは、弁明の言葉を上げながら、一目散にツミキさんの背を追って駆けだした。
「成程、早とちりでしたか。てっきりお二人が深い仲になられたのかと」
納得した風にしながら、何処か残念そうに言うのはテーブルを挟んで座ったツミキさん。
あの後、ボクは辛うじて玄関の手前で追いついてひと悶着あってから、何とかツミキさんの誤解を解くことに成功した。誤解だと何度言っても『またまた、隠されなくても宜しいのですよ』などと返された時には冷やりとしたものだけど、後からついて来たみこさんから揶揄われているだけだと知らされて、膝から崩れ落ちるような脱力感に見舞われた。
今も、ツミキさんは芝居がかった悲壮感をぶら下げながら、楽しそうにくすくすと笑っている。
以前までの彼女からは考えられない姿だけど、それだけ今まで背負ってきていたモノが重く、その肩の荷が下りたという証なのだろう。
「もう、だから違いますから。ボクとみこさんはそんな関係じゃありません」
「そうですか…、気が変わりましたらいつでもお申し付けくださいね」
「変わりません!」
楽しそうなのはいいけれど、まさかツミキさんからこんな揶揄われ方をするとは夢にも思っていなかった。
ため息をつきたくなるのをぐっとこらえながら、
「…それにしても、光たんが料理に失敗するのって珍しいよね。今日はいいことでもあるのかな」
「みこさんが変な事してくるからですよ」
黒焦げになった目玉焼きらしきものを箸でつまみながら言ってくるみこさんに、不満たっぷりに言い返してぴしりとデコピンを執行する。
朝から色々とあった訳だけど、その始まりでボクは調理の真っ最中だった。みこさんがキッチンに入って来たのが丁度フライパンに卵を投入したところで、長らく焼かれ続けた卵は、慌てて戻った時には案の定黒焦げになってしまっていた。しかし、焦げたからと言えども無駄にする訳にもいかず、そのまま本日の朝食の一席に並ぶ事となった。
苦みに顔をしかめているみこさんを横目に、ボクはチラリとツミキさんの前に置かれた湯呑に目を向ける。
「ツミキさん、本当にご飯は要らないんですか?もう一人分くらいならすぐに用意できますけど…」
「えぇ、お気持ちだけで結構です。元々、本日は巫女様と光様に一言お礼を伝えに伺っただけですので」
お礼。その単語に、思わずみこさんと顏を見合わせて首を傾げる。
この数日、これと言ってツミキさんに何かした心当たりはなかった。みこさんが何かしたのかと思ったけど、同様にして首を傾げている辺りみこさんもボクと同じ考えみたいだった。
「昨日、姉さん達のお墓にお供え物をして下さったでしょう、そのお礼ですよ。」
補足するようにツミキさんが続けて、その件かと思い至ったボクは箸を置いた。
「それは…当然ですよ。今ボク達がこうしていられるのは、お婆さんのおかげなんですから」
「うん、だから光たんと決めたんだよ、定期的にお参りに行こうねって」
あの日、地下から出たボク達はお婆さんの家にある先代の桜の巫女のお墓の横に、お婆さんのお墓を作った。墓石などは流石に当日に用意は出来なかったから後付けになったけど、それが備え付けられて諸々がひと段落したのがつい昨日の出来事だった。
それを聞いたボクとみこさんは、その日の内にお婆さんの家に足を運んでいたのだ。生憎、ツミキさんは街の仕事に手一杯で一緒には行けなかったのだけど、わざわざお礼を言いに来てくれたらしい。
「そのお言葉だけで、十分に報われると言うものです。姉さんは、特にここ数十年と、あまり街の者とは関わりがありませんでしたから。勿論私だけは会いに行きますが、やはり他にも誰かが会いに行って下さるのであれば、それだけで姉さんも嬉しく思うでしょう」
感傷をその顔に浮かべたツミキさんは、そう言って深々と頭を下げた。
「光様、巫女様、誠にありがとうございました」
向けられたお礼の言葉。表面上はお参りの件へ向けられたものだろうけど、多分それだけではない、もっと多くのものに向けられたものだ。
それを悟って、ボクは咄嗟に止めようとした口を噤んで、一言『はい』とだけ答えてその言葉を受け取った。
「ツミキさんは、これからどうするの?」
隣で同じように頷いたみこさんがツミキさんに問いかける。心配そうに見つめるみこさんの視線を受けて、驚いたように目を丸くしたツミキさんは、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「そうですね、役目も終わりましたし、隠居するのも悪くは無いのですが…。残念ながら、姉さんと最後に約束してしまいましたから。これからは人並みに老けていくでしょうが、街の為にその時間を使っていこうと考えておりますよ」
その笑みに陰りは一片も見えなくて、明日への希望という明るさに満ち満ちていた。それを見て安心したのか、みこさんも満面に笑みを返していた。
「では、私はこの辺りでお暇致します。巫女様、あまり光様にご迷惑をお掛けしないようになさってくださいね」
立ち上がりながら、しれっとツミキさんから矛を向けられたみこさんの顔が若干の不満に歪む。
「うぇ、ツミキさんはみこの事なんだと思ってるの?このエリート巫女が迷惑なんて掛ける訳ないじゃん」
「えっと…ツミキさん、お気をつけて。今度はぜひご飯を食べて行って下さい。ボク、何時でも作りますから」
去り際、チラリと申し訳なさそうな視線をこちらに向けてくすりと笑うと、ツミキさんはさくら神社を後にした。みこさんに厳しいのは相変わらずのようで、むすっとしたみこさんの顔も相まってつい可笑しく感じてしまう。
「むー、なんでツミキさんはみこにいっつも一言言い残してくんだろ…」
ツミキさんの出て行った襖を不満げに見つめながら、みこさんが愚痴をこぼす。
「日ごろの行いじゃないですか?…でも、良かったですね。ツミキさん、ちゃんと笑ってましたよ」
「それは良かったけど…、ツミキさんはもっとみこに優しくしても良いと思う」
あの日からずっとツミキさんを心配していたみこさんは、素直に喜びきれない様子で複雑そうな表情を浮かべていた。
大事なお姉さんを失って、ツミキさんもきっと落ち込んでいた筈。ボクも心配はしていたけど、けれど何処大丈夫だと確信めいた予感がしていた。
だって、身近な場所にみこさんが居るのだから。落ち込んでいる暇なんてないくらい、明るく照らし出してくれるみこさんが居るのだから。
半分くらいは放っておけない危うさの様なものもあるのだろうけど、それでも、一緒に居たら自然と笑顔になってしまう。少なくとも、ボクから見たみこさんはそんな人だった。
「?光たん、何考えてるの?」
「秘密です。さ、それより早く食べちゃってくださいよ。街に出る前に、これ着替えたいんですから」
そう言って着ているメイド服と猫耳尻尾を指さすと、途端にみこさんがいやいやと首を横に振る。
「えー!良いじゃん、皆にも可愛い光たんを見せつけようよ!」
「絶対に嫌ですよ!」
朝食を食べ終わったボク達は、早速さくら神社を出て街へと降りた。
道端にはぎっしりと積もった桜色が間隔を開けて小山と為されていて、時折街の子供たちがかき集めて何処かへ持って行ったりもしている。道なりにある屋台や店では既に人が忙しなく動いていて、道行くに人に声を掛けては談笑をし、時には店主同士で交流を深めていた。
そんな彼ら彼女らは、街を歩くボク達に気が付くと、こちらに向けて大きく手を振った。
「巫女様、光様も、今日は早いなー」
「おや、巫女様は相変わらず元気いっぱいだね!」
「そうねぇ、こっちまで元気になっちゃうよ!」
そうして口々に掛けられる声に答えるように、みこさんはその顔に満面の笑みを浮かべると、軽やかに駆け出した。
「みんな、おはよー!みこは今日も元気だよー!」
桜の花びらが降り注ぐ街の中に、ひと際輝く一輪の花が咲き誇る。それは辺り一帯を照らす太陽の様に、悲しみも辛さも吹き飛ばして、明日にもその先の未来にも幸せという光を差し込ませる。彼女がいる場所を中心として、釣られるように、周囲にまでも笑顔という花が咲く。だから、今日も今日とていつまでも、桜の巫女は花と笑う。
これにて、『桜の巫女は花と笑う』完結でございます。
長らくの間お付き合い頂いた方々、誠にありがとうございました。