執事の朝は早い。どれだけ早いかと言うと、大抵はまず朝日が昇る前の夜の帳が降りたままの部屋で起きるところから始まる。
主人の世話をするには、まず自分の世話を十分以上にこなした上で。寝ぼけ眼をこすって、てきぱきと着替えを済ませ、かっちりとした執事服を身に纏う。
洗面所で諸々の身支度を済ませてから、今度は主人の朝食を用意する。最近はよく街の皆さんから屋台の食べ物を色々と頂いて少し不摂生気味だったから、今日は少しヘルシーなメニューにしよう。幸いみこさんはあまり食べ物で好き嫌いは無いみたいで、嫌いなものも克服しようとしてくれているから助かっている。
朝食を作り終わったら、さくら神社の掃除をする。当初は一人で全部やっていたんだけど、いつからかシキガミさん達が手伝ってくれるようになって、この時間帯になると神社のあちこちに白い狛猫の姿が見える。あ、でも、みこさんの下着を被って走り回っているシキガミさんの姿を見かけてからは、洗濯だけはボクが全部やっている。
そうして、掃除がひと段落する頃には、朝日が街を照らして街の方からも喧騒が聞こえ始める。
神社の近くを通りかかった住人の皆さんと軽く挨拶を交わして、頃合を見計らってから、ボクは神社の中に戻って、朝一番のお仕事に取り掛かる。
「みこさーん、起きてますか?」
みこさんの部屋の前で立ち止まって、襖を叩いて声を掛けるけど、今までこれで返事が返ってきたことは無かった。
今日もやっぱり、返事は返って来なくて。予定通りにボクが襖を開けると、部屋の中にはすやすやと眠っているみこさんの姿。相変わらず気持ちよさそうに寝ている彼女の横を通って、とんと部屋の窓を開けると、たちまち入り込んできた朝日が、室内を明るく照らした。
「起きて下さい、朝ですよ」
「うぅ…」
瞼を貫通する日光から逃れる様に、唸り声を上げながらみこさんは布団の中に潜っていく。けど、それを許すわけにはいかないので、ボクは彼女が潜った布団に手を掛けて勢いよくそれを引きはがす。
いくら春だとはいえ、まだまだ朝の時間帯は肌寒い。布団の温もりが突然無くなったら、一際それを感じる事だと思う。実際に、アルマジロみたいに丸まっているみこさんは身を震わせると、やがて耐え兼ねたみたいで、渋々と体を起こす。
「おはようございます、みこさん!」
「おあよう…ごじゃいます…」
にこりと笑いかけて朝の挨拶をすれば、みこさんは寝ぼけ眼なまま、あくび交じりで舌っ足らずにそう答えた。
「最近、光ちゃんが厳しくなってきた気がするのですが」
空いたお皿を片づけていると、おもむろにみこさんが何処か不服そうに、唇を尖らせながらそんな事を言ってくる。けれど、特にそんな自覚も無いボクは、顎に指を当ててはてと首を傾げる。
「そう、ですか?ボクは普通にしてるつもりですけど…」
少なくとも特別何かをした覚えもない。けれど、みこさんはそうは思わないみたいで、断固として首を横に振って、ピシリと指を突きつけて来た。
「いいや、前までの光ちゃんならほっぺたをつつくか、軽く揺すって来るだけだった!少なくとも、みこの布団を容赦なくはぎとったりはしなかったじゃん!」
「む、それはだって、そうしないとみこさん起きないじゃないですか。ボクだって優しく起こせるならそうしたいですよ」
負けじと言い返すと、みこさんは痛い所を突かれたとばかりに口をつぐむ。
優しく起こしたいのは本当だった。けれど、それだとみこさんは中々起きてくれないし、そこで苦戦しているとシキガミさん達によってもっと強制的に起こすことになる。
だからこれは必要な事。どうせ布団も干すのだから、そっちの方が効率的なのもあるけど、あくまでそっちはついでです。
返す言葉を失ったみこさんは、それでも諦めきれないのかむむむと唸っている。
「光たん、なんだかツミキさんに似てきたにぇ。もしや、みこの知らないところで繋がっていたりして…、みこはそんな事許していないぞ!」
「基本的に四六時中みこさんと一緒に居たじゃないですか。まぁ、お世話係として見るとボクはツミキさんの後釜なわけですし、その辺りを意識して、影響を受けていないとは言いませんけど」
このさくら神社で生活を始めて早くも一か月近く。ツミキさんとは偶に街で出くわして話をする程度だった。最後に会ったのは二週間ほど前で、その時も多少世間話をしたくらいだし、そもそもあまり会う機会は無かった。多分、街長としてのお仕事が大変なのだと思う。
お仕事と言えば、みこさんはさくら神社の巫女とは聞いているけど、それらしいお仕事をしているところは、これまで見たことが無かった。街に繰り出して住人の皆さんと話したり、子供たちと遊んだり、一日中神社でまったりとしている事もあった。
一度、みこさんに直接聞いてみたことがある。その時のみこさんは『街のみんなが元気で居れるように、みこが元気でいるのがお仕事なんだって』と言っていて、特別問題がある訳でも無さそうだから、ボクもあまり気にしていない。
「うぅ、でも…」
と、考え込んでいる内に、不満そうなみこさんの声が聞こえてくる。こういう時は大抵駄々を捏ねだしてしまって、下手をすると変な要求を呑まされそうになる。ボクの精神衛生上、それは避けたい。
「ところでみこさん、食後にホットミルクでも飲みませんか?丁度蜂蜜も頂きましたし」
「ホットミルク?飲みたーい!あ、じゃあ光ちゃんのはみこが入れる!特別にエリートスペシャルをご馳走してあげるよ」
「…食べ物で遊んだら怒りますからね?」
話題を逸らすと、先ほどまでの葛藤からころりと表情を変えて、途端にご機嫌になったみこさん。相変わらず喜怒哀楽が如実に出る人だなと、ほころぶ口元をそっと手で隠して、ボクはみこさんの後をついて行く形で、キッチンへと向かった。
さくら神社のキッチンの中に甘い香りが漂う。鍋の中ではミルクがコトコトと優しく湯気を立ていて、ボクはそれを沸騰をさせないようにそれを木べらでゆっくりとかき混ぜる。
その様子を横合いから眺めながら、みこさんは感心した様に声を上げた。
「おぉー、どんどんとホットミルクになってるにぇ」
「温めてますからね。それよりみこさん、エリートスペシャルって何なんですか?」
「それは出来てからのお楽しみって奴ですよ、光さん」
さりげなく聞いてみるけど、みこさんは指を振って自信ありげに鼻を鳴らすのみで、答えようとはしない。
一体ボクは何を飲まされるのだろう、ふと胸に過ぎったその不安を端に押しのけつつ、丁度良い温度になったホットミルクの鍋を火から下ろす。
すると、タイミングよく表れたシキガミさんが、持ってきた二つのコップを横に置いてくれた。
「シキガミさん、ありがとうございます」
ボクが礼を言うと、シキガミさんは答える様に片手を上げて、キッチンの床に置かれた何処からか持ってきた小さな長椅子に、何故かサングラスをしてポップコーンをかじっている他の何匹かと一緒にちょこんと座った。
偶にと言う程稀でもないけど、彼らが何をしているのか良く分からなくなることがある。
「あ、みこさん、材料を出しますけど、何か必要な物はありますか?」
ホットミルクを鍋からコップに移し終えて、戸棚に手を掛けながらボクはみこさんに問いかける。
「えっとにぇ、まずココアの粉と…」
「それはホットミルクと言うよりはミルクココアでは…あれ?」
取り合えず自分で使う蜂蜜を取り出そうと甘味用の戸棚を開けたボクは、はてと首を傾げた。
「光たん、どうしたの?」
「いえ、昨日まであった筈のチョコレートが無くなっていまして。みこさん、何か知って…ますね」
くるりと振り返ってみた先では、みこさんがたらりと汗を流しながら不自然な程に横を向いていて、ボクは彼女が何か知っていることを確信する。
と言うより、この反応を見るに、犯人にも目星がついてしまった。
「もしかして、みこさんが全部食べました?」
そう言ってジトリと見つめると、みこさんはぶんぶんと首を横に振って弁明を始める。
「み、みこだけじゃないよ?昨日みんなが持ってきたから、みこもちょっと食べただけで…」
「みんな、と言うとシキガミさん達もですか」
こそこそとキッチンから退避しようとしていたシキガミさん達は、その一言にびくりと肩を跳ねさせて立ち止まって、次いでみこさんに裏切ったな!とばかりに愕然とした顔を向けるけど、みこさんもざまあみろとばかりに舌を出している。
要するに、昨日みこさんとシキガミさん達でチョコレートは全部食べてしまったという事らしい。ボクが見ていないという事は、多分夜中に小腹が空いたから、適当にあるものを食べたのだと思う。
「まったくもう…」
事情を大まかに察して、ついため息がこぼれる。すると、それを聞いたみこさんとシキガミさん達は、こちらを見ると揃ってぴたりと動きを止めて、何故か素早くボクの前に正座をした。
「…皆さん、なんで正座をしたんですか?」
「いや、その、光たん、怒ってる?」
みこさんが恐る恐る聞いてくるけど、別に夜食を食べたくらいで目くじらを立てたりしない。一人で全部を食べたと言うならともかく、一粒二粒なら健康にも大した影響は出ない筈だし。
ただ、あれは確か職人さんが一粒一粒こだわって作っているから、あまり量が無くて。偶々手に入れられたものを、ボクたちにも是非とツミキさんからもらったモノだった。だから、次にお目に掛かる機会があるかすらも分からなくて。
「ボクもちょっと食べてみたかったのに…」
だから、別に怒っている訳じゃない。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!みこのとっておきのマシュマロあげるから、許してぇ!」
縋りついて来るみこさんからぷいと顔を背ける。みこさんは美味しそうなマシュマロを持ってきて、シキガミさん達は揃って五体投地をして、懸命に許しを請うてくるけど、そもそもボクは怒ってなんかいない。
けれど、ボクの膨らんだ頬が元に戻ったのは、ホットミルクにココアの粉とマシュマロと生クリームが投入されて、更に苺の果肉が乗せられた後だった。
二つのカップが空になって、ボクとみこさんが一息ついていると、不意に神社の入り口の方で来客を知らせる鈴の音が鳴った。
「あ、お客さんだにぇ」
「ん、どちら様でしょう。少し出てきますね」
そう言って席を立とうとするけど、その寸前でシキガミさん達に止められた。それから身振り手振りで伝えてくるには、自分たちが迎えに行ってくる、とのことで。多分、さっきの件を気にしての事だと思うけど、流石にここまで来ると少し申し訳なくなる。
とはいえ、シキガミさん達も意思を変える気は無いみたいで、すぐに背を向けて迎えに行ってしまった。
「こんな時間に珍しいですね」
「にぇー、みこもびっくりだよ。いつもならこの時間はまだ起きてないから、誰も来ないのに」
いくら珍しくても、来客は来客。簡単にテーブルの上を片づけてお茶を用意して、ボクは執事らしくみこさんの後ろに控えることにする。
ふとシキガミさん達は喋れないけどちゃんと案内できるのだろうか、と思ったけど、それも杞憂だったみたいで、数刻とせずに迎えに行っていたシキガミさんが戻って来くる。
そんなシキガミさんに連れられてやってきたのは、狐に包まれたような顔をしたツミキさんだった。
「あれ、ツミキさんじゃん。どうしたのー?」
「…は、巫女様、光様、ご無沙汰しております。少々お話ししたいことが有りまして、お伺いしたのですが…」
みこさんの声にはっとした様子のツミキさんだったけど、話している間も何やらしきりにちらちらとシキガミさん達を気にしている。
「シキガミさん達がどうかされたんですか?」
「いえ、私がお世話係の際はここまで普通に出歩いている姿は見かけませんでしたので、少々驚いた次第でございます」
コホンと咳ばらいを一つ入れて、ツミキさんはみこさんの向かい側の座布団の上で綺麗に正座をする。対するみこさんは少し足を崩しているけど、そこはツミキさんも今更指摘したりはしないみたいだった。
「改めまして、本日足を運ばせていただいたのは、巫女様のお仕事の件でお話しする必要が出来たためでございます」
「お仕…」
「事…」
みこさんと言葉が重なった。みこさんのお仕事に関しては、元気で生活するだけと聞いていたけれど、ツミキさんの口ぶり的にはもっと他の何かのように聞こえて…。
「…みこさん?」
「ち、違う違う、本当にみこが元気で居れば良いって、ツミキさんそうだよね!?」
まさか仕事を忘れていたのではと問いかけると、みこさんは慌てた風にぶんぶんと首を横に振って、ツミキさんに同意を求める。
「はい、そこは相違ありません。今回の主題は、新たに仕事を追加すると言うものです。まぁ、元々あってない様なものですので、さして問題はないでしょう」
「失敬な!」
「みこさん、そこはボクも反論できないと思います」
元気に暮らす、それは多分誰でもやっている生活の一部とすら言える。確かに仕事と言えば仕事だけど、それだけとなるとツミキさんにそう言われても何も言い返せない。
みこさんも、自分でもそう思っていた節があったみたいで、複雑そうな顔をしつつツミキさんに話の続きを促す。
「で、そのお仕事って何なの?」
ツミキさんは少し悩むそぶりを見せて、それからゆっくりと口を開いた。
「そうですね…簡単にお伝えすると、お使いです。話は逸れますが、光様も巫女様も、先日お渡ししたチョコレートはもうお召し上がりになりましたか?」
「…」
「う、うん、美味しかった!美味しかったから、早めに先に進んで貰っても良いですか!」
美味しかったんだ。ふーん、美味しかったんだ。
再燃しかけるボクを置いてみこさんが早口で答えると、ツミキさんも何か察したようで、その端正な顔を僅かに引きつらせて続きを話し始める。
「左様でございますか。それを作った職人が拠点にしていた隣街で、どうも病が流行っているらしいのです。病と言っても薬で治る程度のモノですが、何分病人の数が多くその薬の材料の一部が足りないようでして、そちらを隣街まで運んでいただくのが、今回のお仕事になります」
一通り話終えると、ツミキさんは湯呑を傾ける。本当にお使いといった内容だった。
「ほえー、病気が流行ってるんだ。…ちょっと待って、職人がいる?」
「…っ!」
「いえ、病気が流行り出したので、また拠点を移すそうです。私にも行先までは…」
「…」
別に期待なんてしていないし、残念がってもいない。
それよりも病気で苦しんでいる人がいるのなら、そちらの方が優先に決まっている。
「それで、ボクたちはどのくらいの量を運べば良いんですか?」
「馬車に収まる程度ですので、そのまま馬車に乗って隣街まで向かっていただければと思います。無論、馬を操らずとも勝手に歩いて行きますので、そこはご安心下さい。既に準備も終えておりますので、何時でも出発いただけます」
後はボクとみこさんが乗るだけで良いとのこと。至れり尽くせりで、あまり仕事という実感が湧かないけれど、流石みこさんの前お世話係と言うべきなのだろうか。
ともかく、こうしてボクとみこさんは隣街へと向かうことになった。