コトコトと湯気を立てる鍋を横目に、均等なリズムでサラダ用の野菜を切っていく。昨日までの気怠さや朦朧とした意識では、この作業すらも難しかった事を考えると、今のボクはすこぶる絶好調だった。
薬のおかげで、朝にはすっかりと良くなった体調を実感しつつ、けれど一つだけ、以前とは異なる点に視線を向ける。
「おぉー、光ちゃん野菜切るの上手だにぇー」
そう感心した様に言うのは、ボクの隣で調理を見ていたみこさん。
時間帯としては、まだまだ日が昇ったばっかりの早朝。なのにも関わらず、既に着替えまで済ませたみこさんの姿が、さくら神社のキッチンの中にあった。
勿論、ボクはまだ起こしに行っていない。朝ごはんの準備をしていたら、いきなりみこさんがキッチンに入って来て、その時は、まだ熱が引いていないのかと自分を疑ってしまった。
「あの、みこさん?今日は随分早起きですけど、何か悪い夢でも見たんですか?」
戸惑い混じりに、隣の、それも肩が触れ合う距離にいるみこさんを見つめる。
いつもだったら、部屋ですやすやと寝息を立てているのに、こうして起きてくるのは、短いさくら神社での生活の中でも、明らかな異常事態だった。
そんなボクの心境は他所に、みこさんは素知らぬ顔で首を横に振った。
「ううん、別に見てないよ?目が覚めたから、これは光たんの仕事姿を愛でるしかないって、思っただけだよ。それに、体調良くなったか心配だったからね。エリート巫女は、アフターサービスまで完璧ってことですよ」
「あ、あはは、昨日はありがとうございました。見ての通り、ボクはもう平気ですから。みこさんの看病のおかげです」
話しつつ、ボクの内心は動揺に満ちていた。
多分、昨日のボクは熱でおかしくなっていた。気が抜けていたからって、あんな子供みたいな我儘を言って、みこさんに甘えて。薬を飲んでからは、すぐに眠ったから大丈夫だと思うけど、それが何の慰めにもならないくらいには、酷い有様だった。
昨日の自分の行動を思い出して、穴に潜りたい気分に耐えていると、ボクの心情を見透かしてか、それとも同じように思い出してか、みこさんはにまにまと笑みを浮かべ始める。
「それにしても、みこは嬉しかったよ。光たんの意外な一面?をいっぱい見れたし、あんなに甘えてくれるなんて…。控えめに言って最高でしたよ」
「うぅ、お願いですから、昨日の事は忘れて下さいよぉ。あ、ほら、もう朝ごはん出来ますから、みこさんは先に戻っていて下さい、ね?ね?」
丁度サラダの盛り付けも終わった所で、出来上がった朝ごはんを引き合いに、みこさんの背中を押して、キッチンから追い出すようにそう催促する。
みこさんは最後まで『みこも持ってくの手伝うからー!』と、頑なに残ろうとしたけれど、ボクだって恥ずかしいのだから譲るわけにもいかない。
結局、渋々とキッチンを後にしたみこさんに、ボクは心の底から胸を撫で下ろした。そんなボクの安堵も、しかし、すぐに早計だったと思い知らされることになった。
「はい、光ちゃん、あーんして?」
そう言って差し出された卵焼きに、ボクは思わず表情を引きつらせる。目の前には、満面の笑みを浮かべているみこさんがいて、心なしかその瞳は楽しそうにキラキラと輝いている。
みこさんが座っているのは、いつものテーブルの向かい側では無く、ボクのすぐ隣で、さらに身を乗り出すようにするから、余計に距離が近く感じた。
「み、みこさん!だから、もう熱は無いって言ってるじゃ無いですか!」
「分かってる分かってる。それより、ほら、あーん」
「分かってないから言ってるんですよ!」
何を言っても、みこさんは意に介する様子もなく、ただひたすらに卵焼きを差し出し続ける。
ボクも抵抗を続けるけど、遂には根負けして、小さなため息と共に小さく口を開けると、みこさんはぱっと一層笑顔を輝かせて、卵焼きをボクの口に入れた。
「どう、光たん、美味しい?」
「…それ、自画自賛みたいでいやです。もう、今日のみこさんは何だか意地悪ですよ」
確かに今日は綺麗に焼けたと思うけど、自分で作った卵焼きを美味しいと言うのは、何か違う。ぷくりと膨れ面をすると、さして気にした素振りも見せないみこさんは、むしろ不敵な表情でおもむろに人差し指を立てた。
「因みに光たんはね、一つ勘違いをしてるよ」
「…何ですか?」
話の流れで不穏な空気を感じて、あまり進まない気持ちで続きを促す。
「みこは光たんに熱があるからあーんをしてるわけじゃなくて、ただ単に、光たんが小鳥みたいに食べるのが可愛いからやってるだけです」
「なお悪いじゃないですか!変なこと言わないでくださいよ!」
案の定、といった形で、みこさんは捲くし立ててきて、ボクは反射的に答えながら、こんなに怒ってますよと表すように両手を振る。
大体、みこさんはこういう事を軽々しく言いすぎだと思う。言われるたびに、ボクがどれだけいたたまれなくて、恥ずかしい気持ちになるのか、考えもしないで。
考えていたら、段々とムカついてきてしまって。感情の赴くまま、みこさんの頬っぺたへと手を伸ばして、むにーっと横に引っ張る。
「い、いひゃいいひゃい、光ひゃん、いひゃいー!」
「悪いお口はこのお口ですか?ボクだって、いつもやられてばかりじゃないんですからね」
「わかっひゃ、わかっひゃから、許ひてー!!」
口を一の字にしたみこさんが涙ながらに懇願してきて、いくらか溜飲の下がったボクが手を離すと、みこさんは摘ままれていた部分の頬を抑えて、恨みがましそうな目で見てくる。
けれど、そもそもみこさんが原因なのだから、ボクが謝るつもりは毛頭ない。ぷいとそっぽを向いて、箸を進めると、みこさんの表情が驚愕のそれに変わった。
「み、みこの光ちゃんが、反抗期になった?前まで、あんなに素直ないい子だったのに…、やっぱり、あの病気の所為で、まだ熱が続いて…!」
「だから、無いですってば。むしろ、変なのはみこさんの方ですよ!」
そう言って、ぴしりと人差し指を突きつける。
今朝からずっと思っていたけど、やっぱり今日のみこさんはいつもと比べて、何かがおかしい。起きてくる時間だったり、色々と気になる部分はあるけれど、その中でも一層際立つのは、その距離間だった。
キッチンではずっとべったりとくっつかれていたし、今も肩が触れ合う程近く隣に座っていて、思い返してみれば今に至るまで、ずっと距離が近い。
「やっぱり、何か怖い夢でも見たんじゃないですか?それならそうと言ってくれたら、ボクももっと優しくするのに…」
そういう時は人肌が恋しいと思っても不思議じゃないし、ボクだってそんな夢を見たら、同じように思うかもしれない。だから、気持ちが理解できるのもある。それに、昨日のお礼とまではいかないまでも、少しでもお返しがしたいと思うのも本当だった。でも、それを伝えたらもっと要求がエスカレートしそうだから、うっかり零さないように口にチャックをしておく。
「え、いやみこは…」
するとボクの言葉に、みこさんはきょとんと目を丸くして、それから少し悩む素振り。
どうしよう、そんな葛藤を感じさせる彼女だったけど、ボクが疑問を浮かべるよりも先に、それらを振り払うように、ぱっと笑顔を見せた。
「うん、実はねすっごく怖い夢でね?えっと…とにかく、凄く怖くて、恐ろしい夢だったにぇ…!だから、今日は光たんに甘えたいなーって!」
「…みこさん、嘘をつくのは良いですけど、せめて目を見て話してください」
あまりにも分かりやすいみこさんの嘘に、呆れ混じりに嘆息しながら、ボクは自分の卵焼きを口に運んだ。
遡ること先日、光が流行病に倒れた日の事。
『やっぱり、1人は、寂しいです』
そう言って、光は意識を落とした。規則的な呼吸は、彼女が深い眠りについたことを示している。
熱のためか少し頬が赤く、額には薄らと汗が滲んでいる。そんな光を前に、みこは冷や水を浴びせられたような心地で、その顔を青く染めていた。
光が意識を落とす直前の言葉。熱で弱り果てた彼女のそれは、彼女が胸の内に秘めた、本心に他ならない。
みこにとって、光の出自は特に問題では無かった。なにせ、彼女が何者であれ、接してきたみこ自身の光への印象、信頼を上回る物は無いのだから。
けれど同時に、何一つ知らないというその事実は、みこが光へと寄り添うことを阻むことになる。
知らないから、どう寄り添えば良いのか分からない。知らないから、原因を解消してやる事もできない。
日常生活を送る上では、それは特に問題にならないだろう。どこの誰であれ、初対面から築き上げてきた今の2人の関係は、良好そのものなのだから。
けれど、だからこそ一歩先へ進めない。彼女の過去に何があったのか、彼女が一体どこからやって来たのか、みこがそれらを聞くためのハードルは、時が過ぎるごとに上がっていく一方だ。
「…ねぇ、光ちゃん。光ちゃんは、なんで寂しがってるの?」
たった一言。それを伝えるだけのことが、相手が眠っていないと伝えられない。これが、今の光とみこの限界だった。
ぽつりと呟くように言ったみこは、寂しさの滲ませた表情でじっと、ある日突然現れた少女を見つめる。
誰も好んで立ち入らない広大な森林の中から出てきて倒れこんでいた彼女。もしかしなくとも、尋常ではない事情があることは、みこも承知の上で共に過ごしてきていた。
それでも、光とは良い関係を築けたと、みこはそう自負していた。
「何があったのか、みこには分かんないけど、これからはみこが、光ちゃんを寂しがらせないからね」
ぎゅっと、光の手を握るみこの手に力が込められる。
原因を取り除けないのなら、せめてこれからの時間だけは、自分が同じ思いをさせない。そんな決意を胸に、みこは光の手を握り続けた。
朝ご飯を食べ終わってから、片づけを終えて、みこさんと一息つく。そんな時間に、いつかと同じようにシキガミさんがやって来て、ボクたちに来客を伝えてきた。
「おー、最近はお客さんが増えたもんだ。みこもさくら神社の巫女として鼻が高いよ」
「というか、少し前にも同じことがありませんでしたっけ」
何やら既視感を感じる展開に、ボクが首を傾げている中、シキガミさんに連れられて姿を現したのは、案の定ツミキさんだった。
「あれ、ツミキさんだ、にゃっはろー」
「おはようございます、巫女様。そして、光様。体調が戻られたようで、何よりでございます」
相変わらず綺麗な所作で軽くお辞儀をするツミキさんは、みこさんを見て、次にボクへと視線を向ける。
後からみこさんに聞いたけど、薬を持ってきてくれたりと、ツミキさんには随分とお世話になっていたみたい。
「ツミキさん、昨日はありがとうございました。あの薬のおかげで、この通り回復できました」
薬の味は兎も角として、その効果は本物だった。当日で急だったのに、用意してくれたツミキさんには頭が上がらない。
「いえ、そのようお言葉は不要でございます。もとより、私の短慮が招いた事態でしたので」
すると、ツミキさんはそのままおもむろに床に膝を付くと、ボクとみこさんが反応するよりも前に、頭を床に着けた。
「光様に多大なるご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。どうか、お許しください」
「え?…あ、あの…」
多分時が止まったような、と言うのはこんな感覚なんだ。そんな場違いな感想を脳裏に浮かべつつ、ボクの思考の大半は、何が起きているのか、という現状への疑問に満ちていた。
「ツ、ツミキさんいきなり何してるの!?光ちゃん、完全に固まっちゃってるよ!」
「しかし巫女様。光様がこの街にいらしてから日が浅い事を考慮に入れず、過信していたのもまた事実。先日のように、光様が体調を崩されたのも、全て私の責任でございます」
「だからって、光ちゃんを困らせたら意味なくない!?」
みこさんとツミキさんが言い合っているのを、どこか遠くの出来事のように感じつつ、なんとかはっと意識を取り戻す。
「あ、あの、ボクはツミキさんの所為だなんて思ってないですから。だから、お願いですから、頭を上げてください」
「…ご寛大な対応、痛み入ります」
しゃがみこんで必死に頼み込むと、ようやくツミキさんはそう言って頭を上げてくれた。それでも、何処か不承不承と言った雰囲気が垣間見えて、思わず戦慄する。
「ツミキさんって、責任感強すぎるよね」
「当然の事ですので。巫女様は、もう少し巫女としての責任感を持って頂きたいのですが」
長年の付き合いらしいみこさんですら、少し引き気味の反応を見せるけど、ツミキさんは何処までも澄ました顔で凛としている。とても、先ほど土下座を披露した人には見えなかった。
巫女さんと話す時のツミキさんがどんな人なのかは分かるけど、ツミキさん単体で見ると、何故か掴みどころが無くなるのだから不思議だ。
「ねぇ、まさか光ちゃんに土下座しに来ただけじゃないよね?」
恐る恐る、不安そうな声音でみこさんが問いかける。ボクもみこさんよりの意見で、何かのついでであって欲しいと、切に願っていた。
そして、「はい」と、間もなく発せられたツミキさんの肯定に、ボクとみこさんは揃って息を吐いた。
「本日の主題も、先日同様に巫女様のお仕事の件でございます。順を追うのであれば、本来こちらから先にお任せしたかったのですが、流行り病で少々予定が狂いました」
そう言って、ツミキさんは持って来た包みの中から、数枚の紙きれを取り出してテーブルに置いて、みこさんとボクの視線がそこに集中する。
「何これー?」
「そうですね、簡単に申しますと、街のものから集めた要望書でございます。要望と言うよりは願いに近いものですが、巫女様のお仕事としましては、それらを達成していただきたく思います」
ツミキさんの説明を聞きつつ、一枚手に取ってみた要望書を読んでみる。それに書かれていた内容は、要約すると、居なくなったペットが見つかりますように、というものだった。
他の二枚にも目を通してみたけど、どれも内容からは、これを書いた人の切実な願いが伝わってくる。
「…これ、本当にみこが解決できるの?」
「まぁ、巫女様はシキガミを扱えるのですから、内二枚は何とでもなるでしょう」
「ちゃっかりみんなまでこき使おうとするツミキさん、マジパネェっす」
急に話の矛先を向けられたシキガミさんたちが、『自分たちもですか!?』と目を丸くして一斉にツミキさんを見るけど、当のツミキさんは当然とばかりにそれを無視する。
代わりに、ツミキさんは流れるようにボクの方を向くと、今度は気遣わし気に眉を顰めた。
「光様は、病み上がりで申し訳ございませんが、みこさまの手助けをお願いできますでしょうか」
「あ、あはは、はい、それは勿論。ボクは巫女さんの執事ですから」
まさかの対応の差に、ちょっとシキガミさんたちの方へ向きづらく感じつつ、快諾すれば、ツミキさんはあからさまにほっとしたように息を吐く。
「では、どうぞ、よろしくお願いいたします」
そう言ってお辞儀をして、ツミキさんはさくら神社を後にした。
そうして残されたのは、それぞれ願い事が書かれた三枚の要望書。
「これから、大変になりそうだにぇ…、」
「そうですね。でも、街の皆さんにはお世話になってますから、頑張りましょう」
こうして、病み上がり初日から、さくら神社に新たな仕事が舞い降りたのでした。