M.M.Trione   作:四乃宇内

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蛙を夢む

断崖に向かって駆け出す友人の背を、私はたぶん陰鬱な目で追った。明るく送り出せるほど、今の私の心は晴れやかではない。右腕は鈍い痛みを、左の指先は鋭い痛みを訴えている。胃の底では、気だるさが浮沈しているようだ。

人知れずわだかまる私を一顧だにせず、友人が崖下へと姿を消した。落着の音は聞こえず、代わりに何処かで何かが吠えた。

 

「今のは、なんだ」

「テツカブラが吠えただけさね」

 

隣に立つ女のぞんざいな口調に、私は閉口した。小さな苛立ちを飲み込んだと言った方が正確か。最前に知り合ったばかりの、未だ名も明かさぬ女だ。分かっていることと言えば、先ほど崖から飛び降りた友人の知り合いであること、背が低く発育不良のきらいがあること、そして拷問にかけられていた私を助けてくれたこと、くらいである。

 

半日ほど前になるだろうか、私は反社会的勢力の構成員による拷問を受けていた。反社会的勢力などと大仰に表現すると、国家転覆を目論む悪の組織のように聞こえるやもしれぬが、実態は法の隙間を縫って小銭を稼ぐちんけな集団だ。ただ矮小ながらも私のような一般人を相手にする場合には、悪辣非道な面を垣間見せることがある。面子とやらを保つためか、手段を選ばなかったりするのだから堪ったものではない。不法な住居侵入に拉致監禁、殴る蹴るの暴行、そして拷問の類と、被った暴力を思い出すだけでも薄ら寒くなる。情報を誰に売っただ何だと詰問されたことを鑑みると、流通経路の一つ二つを他の組織に奪われたか、あるいは官吏によって検挙でもされたか。

いずれにせよ、私は奥歯一本をなくし、右の上腕骨を骨折し、左手の爪三枚を剥がされた。そこから友人と素性の知れぬこの女に救助され、そして応急措置もそこそこに、地底洞窟まで連れてこられて、今に至る。

 

「下顎に巨大な二本の牙を持つ、巨大な蛙さ。別名鬼蛙とも呼ばれておる」

 

憮然とした私の表情を、テツカブラなる怪物への疑問の表れと取ったか、女が説明を始めた。

 

「般若みたいな面構えをしとるよ。見たことは?」

「あると思うか?」

「なら後学のために、眺めの良いところへと行こうや」

 

起伏のある地底洞窟をすいすいと進む女の後ろを、いかにも大儀そうに追った。崖っぷちに並んで立って、遠くを望んでみれば、馬鹿げた寸法の蛙を相手取り、だんびら片手に丁々発止の大立ち回りを友人が繰り広げている。

 

「時に修の字」

「――俺のことか?」

「他に誰がいるってんだい。修次郎だから修の字だよ。そんなことよっか、カブトムシの角の成長に、インスリンが関係しているって研究を知っているかえ?」

「生憎ともぐりの無免許医なんでな。最近のこた知らんよ」

「卑下なんてみっともないからお止しよ。事実だってんなら、なおさら悪いが」

 

げらげら――と、女が下品に笑った。助け出された時も、そうだった。拷問部屋の薄闇の中に、昂ぶった哄笑を張り上げながら現れたのだ。頭のねじが飛んでいるのかもしれない。

カブトの角のサイズは、インスリンの量に比例する――と、私のことを一しきり小馬鹿にした後で、女が付言した。

 

「インスリンが増えると、角がでかくなるってことか」

 

女が首肯すると同時に、テツカブラが高く飛び上がった。そして、あわや天井に激突するかと言う高さまで上昇した後、自由落下の末に友人を巻き込んで落着した。ずずんと大地が揺れる。

めくれた岩盤の隙間から、ほうほうの体で友人が転がり出た。どうやら無事のようだ。

安堵した反面、友人の頑強さにわずかに呆れた。

 

「頑丈なもんだな。ハンターという輩は」

「血止めに気つけ、ガマの油まみれだろうから、生半にゃ、くたばらんだろうさ」

「ひいふうみい――後ろ足の指、五本しかないように見えるんだが」

「落語じゃなし。四六のガマでなくとも良いんじゃん?」

 

茶化すような女の言い草に、私は短く息を漏らした。いい加減なものだと思うものの、怪物の巨躯に押しつぶされてなお元気に駆けずり回っている友人の姿が、迂遠な証左のようにも感じられる。

私は女に向き直った。

 

「で、カブトムシがどうしたって言うんだ」

「テツカブラの口の中にさ、よくいるんだよ。角の大きなカブトがさ」

「アレが好んで食べてるだけだろ。見るからに悪食じゃないか」

 

アレ――テツカブラを、爪のない指で私は指し示した。巨大な顎で、土中から岩の塊をほじくり返す怪物である。土砂ごと絡げて餌を口にするような、いわゆるいかもの食いに違いない。

私がそう指摘した時、テツカブラが吐き出した唾液を、ざんぶと友人が頭からかぶった。

 

「ご覧よ」

 

女が示す方を見れば、友人が肩で息をしているようだった。先までの縦横無尽な疾駆は見る影もなく、疲労困憊の体で、膝に手をつき往生している。

 

「疲れている、ように見えるが」

「テツカブラの唾液は、ヒトのスタミナを奪うんだよ。今さっき吐きかけられていたろ。アタシはね、あの症状は急性の低血糖みたいなもんじゃなかろうかって思うんだ」

 

女の回りくどい説明に、少しだけ得心がいった。

ヒトを含む生命系は、活動の際にグルコース(ブドウ糖)を必要とする。運動時のエネルギー源である反面、血中の濃度――血糖値が過剰になると高血糖症となり、咽喉の渇きや多尿・頻尿、吐き気、意識障害などの症状を来たす。反対に血糖値が低下すると、手足の震えやめまい、痙攣などの症状が出る。さらに血糖値が下がり続けると意識レベルが低下し、最悪の場合、昏睡状態から死に至るケースもある。

そのため生体への害とならないよう、通常は血糖値が一定の範囲で保たれている。血糖値を上昇させるホルモンがグルカゴンであり、逆に低下させるホルモンが――

 

「インスリンか」

「角のデカいカブトムシが、口の中で頻繁に見つかるならさ、唾液からインスリンとか抽出できるんじゃないかなって思ってね」

「血糖値の低下まで、どんなに早くとも10分程度はかかるはずだが」

「腐っても医者だね。その通りだよ。だから単なる低血糖症だともインスリンの影響だけとも考えてないさ。ぶっちゃけ医学的なエビデンスなんて、どうでも良くってさ。肝要なのは、社会が上手く回るかってこと。価値のあるモノが取れて、金を回す仕組みが保たれていて、そんでもって誰も文句の言えないような利益の分配がなされること。そこいらのごろつきにゃ、過ぎたチャネルなんだよ」

 

女の意地の悪い笑い方が、全てを物語っていた。

ならず者を相手にした無免許の医療行為を、私は日々のたっきとしていた。違法ゆえに薬剤など用品の手配は、全て社会からはみ出た連中に頼らざるを得ない。私を拷問にかけていた集団が、それだ。そういった非正規の業者が取り扱う商品の品質は、えてして悪いものである。また価格も正規品と、乖離していることが多い。

 

「ゴミ処分の良い口実だったってだけさ」

 

不法に医薬品を取り扱っていた連中の排除を、女が言外にほのめかした。

私を拷問していた連中は、取引先のリストや保管庫、商品の受け渡し場所などの情報を、他所に流出させた人間を探していた。利害関係が薄く、金離れの悪い私のような顧客から疑われたのかもしれない。それとも、そんなにも私は疑わしき風貌をしているのだろうか。

気付けば、目と鼻の先に女の両目があった。色素の薄い双眸が、私を凝然と見詰めている。

 

「運が悪かっただけじゃん。忘れっちまいなよ」

「シマ争いに巻き込まれて、大怪我までして、不運なんかで片付けられたくねぇよ。つーか、オメーが原因じゃねーか」

「なんで?」

「オメーが余計なことしなきゃ、俺は痛い思いしなくても――」

「これは驚いた。はみ出しもんとの付き合いが、ハイリスクだってことくらい承知してるもんだと思ってたが。お前さん、馬鹿なんだね」

「ばっ――!?」

 

三十路を過ぎて馬鹿と面罵されることの衝撃たるや、筆舌に尽くしがたいものがあった。長じた分だけの積み重ねてきた経験やら知識やらが、子供でも用意に繰ることが可能な雑言によって揺るがされる。

女の両目が眼鏡の奥で、いびつな弧を描いた。

 

「アタシはメイ」

「――加茂修次郎だ」

「知ってるよ。よろしくね」

 

この出会いが、不幸の始まりとなることを、この時の私はまだ知らない。

 

 

 

<続>

 

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