アルガジャ=ディナレツがその生涯に描き、『竜』と題して自らの署名と作品番号を入れた絵は二百七点。細線凹銅版による精緻な描写は、まだまともな写真もなかった時代に彼の目と筆によってのみ成し得た奇跡であるとも呼ばれている。
「……小さいですね」
ファルゼイが以前見たのは、かなり巨大なものであった。絵によって大きさは異なるが、身長ほどの高さのある紙いっぱいに書かれた竜の姿はたとえそれが実物よりもかなり小さいものであったとしても畏怖を呼ぶ起こすのは十分である。
「これは素描です。おそらくは作品とする前の」
薄紙に挟まれた木炭画を確認したファルゼイは、似た構図のものを見たことを思い出していた。
「ディナレツはフェナゾン国の画家ですよね、その下絵がなぜここに?」
「彼の描いた竜は、その多くが新大陸のものでした」
「そうか……いえ、失念していました」
アルガジャ=ディナレツはもともと博物学者として名を馳せた人物である。彼の観察眼によって、それまでの花弁の構造に基づいて行われていた分類はより精緻なものとなった。古代生物の研究にも名を残している。ただ、彼の成したことの多くは裏方としての仕事であったため、その分野の専門家以外が彼の名を知ることは当時でも少なかった。
その彼が、滅ぼされつつある竜のことを知ったのは三十五歳の時である。フェナゾン宮廷植物園の上席研究員の席を職を辞し、画家としての生活を始めたのだ。
「これらは、おそらく今のアルナガバクスで残したものだと考えられます」
そう言いながら、図書館員は紙を広げた。火を吐いて要塞を狙う様子。砲で狙われ、空にもがく様子。解体され、資源となる様子。
「……ええ、これはおそらくルギナの街です。詳しいことはきちんと地理的な精査が必要ですが、時代からしてもミドゥリシュカ大公が築いたものと見ていい気がします」
「なぜわかるのですか?」
「先日見てきたところで」
「ああ、なるほど」
本来であれば美術的価値のある完成品とはみなされないものであるが、歴史学者としてのファルゼイにとっては多くの重要な情報が含まれていた。
「……これは、見たことのない道具ですね」
ファルゼイは解体者が持っている棒状のものを指した。
「大手鉤と呼ばれる道具ですね。切り出しや運搬に利用します」
「詳しいですね」
「私も竜が専門というほどではないですが、色々と調べているので」
「……なるほど」
素描の横には、汚い走り書きも残されていた。アルガジャ=ディナレツの悪筆は美術家も頭を抱えるものであり、その解釈で議論がいくつかできるほどである。ただ、ファルゼイが読み取れた限りでは鱗色や匂いなど、絵では直接表現しきれない部分についての記録であった。
「では、本題の方に行きましょう」
そう言って、図書館員は本棚と呼ぶには大きな棚に寝かされていた大きな本を取り出した。それは文字通りに大きく、ファルゼイより少し小柄だったであろうと考えられる図書館員が両手を一杯に広げて掴むように運ぶしかなかったものだ。
「持ちますよ」
そう言ってファルゼイは駆け寄り、棚の側を持った。装丁は上等なものではなかったが、頑丈さと耐久性を意識したものだったのだろうとファルゼイは分析している。
「すみませんね……」
そうやって机の上に置かれたそれは、一見は木の板のようにも見えるものだった。それが表紙だったのである。傷をつけないように軽くファルゼイが指の腹で叩いたが、その重厚さは見た目以上のものであった。
「……なるほど、寄贈品ですか!」
なぜそれだけの良い状態で、分かたれずに保存されていたのか、ファルゼイはようやく合点がいった。
「ええ、調査に協力した対竜委員会──今日では組織再編を繰り返した結果我が国トグンバルの地理自然省管轄になっていますが、そこに贈られたものです」
「……状態は、かなりいいですね」
完璧であるとは言えなかったが、決して短くない時間を過ごしてきたことを踏まえれば十分よく保存されていることをファルゼイは認めた。ホコリは払われたのだろうが、そもそもあまり開かれた形跡すらなかった。
「これは本当に偶然ですね。かなり密閉された場所に、除湿された状態で永らく置かれていたのです」
「……そういえば、ここはかなり過ごしやすいですね」
ファルゼイはそう言って部屋を見渡した。最小限度の窓と、そこまで湿っているわけではない空気。外の熱と湿気を思えば、紙のためとはいえ相当苦労していることが伺えた。
「除湿剤の活用と、空気の流れの制御、そして機械的な調温を用いています。このような設備を導入している地域は少ないですが、いずれは世界でも主流となるかと」
この言葉を聞き、ファルゼイは自国の資料保存の努力の欠如を悔しがったという。事実、近年トグンバル国で設立された空調会社が各国の図書館や文書館に専用の設備を納入している。
「……上質な東方紙だ」
本の横の部分を確認し、ファルゼイはアルガジャ=ディナレツがどこまで考えてこの本を作ったのかと思いを馳せた。
「画材も劣化しにくいものを選んでいたものと思われます。表紙をめくりたいので、協力をお願いできますか?」
「ええ、もちろん」
二人の協力にちょって、板がめくられた。
「……っ」
ファルゼイは驚いて、思わず表紙を持った手を緩めてしまった。
竜が鉤爪を伸ばし、鱗ばった皮膚を見せ、獲物を射止める目線を絵の向こうに向けていた。背筋を走る本能的な恐怖心が、かつて人類が洞窟に隠れ住んでいた時の記憶がファルゼイの脚を一瞬ではあるがすくませた。
「大丈夫ですか?」
「……以前、見たことがあるのですが、それとはこう、なんて言うべきか」
落ち着いてファルゼイが息を整えると、そこには非常に細かい線で描かれた全体の陰影と手作業で着色された重い緑色があった。博物学的資料としてのみならず、美術品としても価値が高いと言われる所以である。
「無理に言語化しなくても構いませんよ」
「いえ、おそらくこうやって読むために書かれたのだろう、と思いまして」
「……その視点はありませんでした」
図書館員はそう言って、ファルゼイの隣に回った。