イングラ・エイストンの仮説 一
西方に張り巡らされた鉄道は、ファルゼイをあっけないほど短い期間でヴォール国の首都デルトミアまで運んだ。歩いても駅馬車でも相当の時間がかかっただろうが、技術の進歩はファルゼイから旅の間の楽しみを奪ってしまったのかもしれない。
目的地に到着したファルゼイは図書館ではなく、きちんと陸軍本部に向かった。少なくとも日程と切符を見る限りではそうだ。
「……一年と少し、か」
執務室でヴァドキンス大佐はそう言ってファルゼイに葉巻を勧めたが、ファルゼイは立ったまま小さく首を振って断った。
「調査の結果については、ある程度まとめてあります」
ファルゼイの報告は、ヴォール国が持っていた当時の各国の情勢を学者の視点から補完するものであった。
「よろしい。では、君の旅の出資者として少し話をしようか」
「
「今の国際情勢を踏まえればそちらのほうが良いかもしれないな。座りたまえ」
まだ表情から若さは失われていなかったものの着実に経歴を積んでいた彼は、机の上にあった新聞をファルゼイに渡した。
「国際情勢は緊張を解こうと苦労しているところだ。外交での結果を内政に反映するためには時間がかかる」
「そして時間がかかりすぎれば、軍の出番になりかねない……」
平和を導く会議の成功が大規模に報道される横で、小さくいくつかの地域の軍事衝突について書かれている記事をファルゼイは見つけていただろう。奇しくも、それらの地域はファルゼイにとって決して馴染みのないものではなかった。
「我々はしばらくは待機だ。今の情勢では、どの国が敵となるかすらわからん」
「基本的に、我が国は仮想敵国として南のフェナゾンを想定していたのではありませんでした?」
「条約と利害関係は今日複雑なものとなっている。まあ、我々がそうしたのだが」
当時のヴォール国が行っていた外交政策の一つは、地域勢力の均衡を取ることであった。ただ、それは後に連鎖的な破滅を引き起こすことになる。
「……火薬の詰まった弾のようになっているわけですか」
「そうだ。それもいつ爆発するかわからない、な」
「今こそ、大佐のような人が主導的に行動をするべきではないでしょうか?」
「馬鹿かね?」
ヴァドキンス大佐はファルゼイ中尉に強い視線を向けた。
「……いえ、現状を踏まえた上での発言です。あなた以上におそらくは国家間の機微を掴んでいる人はいません」
「外務大臣を飛び越えて行動するだと?外の敵より先に自ら殺し合うことになるぞ」
「……駄目ですか」
「ああ」
ヴァドキンス大佐は小さく呟き、葉巻の煙を深く吐いた。
この時点で、ヴァドキンス大佐は最悪の場合全ての国を巻き込むことになるような衝突を予見していたと考えて良いと考えている。近年の証言会で彼はそれを否定していたが、僕個人としては彼は嘘をついているように思う。
ただ、誠実な嘘吐きこそが対外情勢の分析と外交に必要なのだ、という観点から僕はこれ以上のことを言わないことにしておこう。
「君も、旅で疲れただろう」
「いえ、元気ですよ」
「しばらくは故郷の空気を吸いに行くといい」
「……わかりました。そういう事ですね」
「しばらくは君に暇を与える暇がある、ということだ」
「一応、暇を取って旅をしていたはずなのですがね?」
ファルゼイの苦笑いに、ヴァドキンス大佐も悪巧みをするような笑みを返した。
「国外には行くなよ、連絡が取れなくなる」
「……何かあれば、すぐに動けるようにするべきだと?」
「今後の情勢が読めないからな、そうしてくれ。それと、イングラ女史によろしく頼む」
「そういえば伯母と会うのは久しぶりですね」
「君の恩師だろう?」
「一度巣を離れた鳥は、なかなか戻らないものですよ」
そんな会話を交わし、ファルゼイは列車を乗り換えて懐かしの故郷、ダーセバラに向かった。
ダーセバラは北に海が面する漁業で知られた地区であり、ファルゼイが生まれ育った場所でもある。交通の便がそこまで良いわけでは無いが、なかなかいい場所だ。
僕もこの本を書くにあたって初めて訪れたが、務めある人間として学ぶことが多い場所でもあった。特に文化的な側面で言うと、ヴォール国内で先駆けて美術分野の一般に公開される施設が作られたことは特筆するべきだろう。
そのようなダーセバラの中心区から少し歩いた場所に、ダーセバラ男爵荘はある。決して大きいわけでは無いが、良く手入れされた庭と小さな池には感じの良さというものがある。
「……ファルゼイか」
屋敷に入った彼を出迎えたのは、ファルゼイの兄であるその時のダーセバラ男爵であった。
「戻ったよ、兄さん」
ダーセバラ男爵の顔は、僕の知るファルゼイを少し神経質にして、鼻の下にたっぷりの髭を生やさせたようなものであった。
「ヴァドキンスの爺さんの小間使いだったか?」
「言い方が悪いよ。東方学の見聞としても非常に良い体験ができた。学会で色々と発表することもできるだろうし」
「そうか。まあ詳しいことは知らないが、大量の荷物が届いている。物置きに纏めてあるからな」
「ありがとう。あとで土産物を渡すよ」
「何があるんだ?」
「ナクゥド国の香水であったり、キイノギン国風の指輪であったり」
「貰って使うわけでもなし、誰に渡すというんだ。むしろ君こそ誰かに渡すべきではないか?」
「奥方に、とか?」
「……最近機嫌が良くなくてな、それも良いかもしれん」
そういう会話をしながら、ダーセバラ男爵はファルゼイを物置となっている部屋まで案内した。
この倉庫の中の資料をあまり整理されないまま、ファルゼイは僕に鞄を押し付けて列車に乗ってしまった。丁寧に掃除されていたために埃こそ積もっていなかったものの、未整理の状態では扱いにくかったために学院との繋がりや東方学会の関係者からの紹介などを使い、若い人を集めて分類や目録の作成を手伝ってもらった。
その中には、僕に宛てようとしていたらしい手紙の書き損じもあった。実際の所、彼が僕に何かを送ったが届かなかったのか、そもそも送れなかったのかは定かではない。少なくとも、僕は学院を卒業してから彼に数度顔を合わせたが、手紙をもらったことはない。
手紙の内容と言っても、そこまで面白いものではない。旅の内容であったり、そこで見たものであったりといったものだ。途中で書くのが止まっているのは、書く内容が軍機に触れないかどうかを考えて調べようとして忘れたとか、どうせそんなところだろう。