物語を進める前に、僕にとってのイングラ・エイストンという人物を話しておこう。
一般的に、あの人が語られる時は外務大臣でもあった父、ダーセバラ男爵の長女としての話から始まるだろう。僕もあの人と出会ったのは社交界でであったし、それを否定するつもりはない。
ただ、僕がイングラ男爵令嬢に出会った時の第一印象は自分と同じような人がいる、というある種の安堵であった。
当時社交会の主流であった装いに反するように飾り気のない服を纏い、その頃既に外務大臣を退いていた父の繋がりであろう若手の官僚たちとかなり活発に議論をしていたのを覚えている。
今以上に女性は政治に関わるべからず、という思想が強かった時期である。その姿が当時閉じ込められたような生活を送り、弟がいないことで次代を任そうとする外圧が強まっていた中の僕にとってどれだけ影響を与えたかについてはあえて詳しくは語らない。
「リスペイン・バードゥロです。父であるサブレンク伯爵の名代として参じました、お見知りおきを」
その頃から父は病に伏せがちで、仕事は緩やかに僕に受け継がれていた。その頃の僕は父の期待に応えようとしながらも、その期待を重く感じていたのは間違いない。
「ああ、ファルゼイのやつから話は聞いているよ。学院の誇る俊英だって?いいことだ。あそこの唯一の欠点は私を入学させなかったことだがね」
当時からファルゼイは僕に良くしてくれた人であったが、彼の家庭教師がイングラ女史であると知って納得したのを覚えている。
「……もしよければ、リスペインと呼んでも?」
彼女のこの言葉は、私以外の上流階級相手の発言であれば相当に挑発的で、場合によっては殴られても仕方がないほどのものであった。爵位もなしに名で呼ぶというのは、かなり親密な関係か、それでなければ挑発か侮蔑かを意味していた。
ただ、イングラ女史の場合には僕の纏う雰囲気から察してかけてくれた言葉だったのであろう。
「いいのですか?」
「家名だのに縛られるのはあまり好みではなくてね、何なら君も私をイングラさんとでも呼んでくれればいい。ファルゼイのやつからはイングラ先生と呼ばれていたがな」
「それであれば、僕も先生、と呼ばせていただければ」
そのような流れの後、僕はイングラ先生の家に招かれてしばしば話をした。どのような分野であってもたちどころに話を返すことのできる彼女の教養は幅広く、学院の教授ぐらいであればこなせるだろうと僕には思われた。
「ファルゼイのやつはな、どうやら悪い教師を持ったらしく東方学なんかに興味を持ってしまったようだ」
ある日、そう言うことをイングラ先生は言い出した。
「意外でした。竜についてではないのですね」
「竜そのものよりも、それにまつわる物語のほうが好きなんだろうよ」
そう言って、彼女は本棚を見た。博物学を中心とする内容は、かつて彼女が専門としていた分野のものだった。
今では竜学と呼ばれる学問の創始者を誰か、と聞いた時に多くの人が様々な名を挙げるだろう。ファルゼイであれば悩んだ末にアラク・アゥ=ウワチの骨格模型を作った今では名を忘れ去られた人物である、と言うかもしれない。
「大記録」の著者である古典時代のイダウトゥ・ガジャンを挙げる人がいるかもしれない。竜の分類学的地位を整理したクラールホルト・ヴェーゲンハイルフ博士と考える人もいるだろう。
ただ、僕個人としては、竜をその周りの自然や環境と相互作用する大きな存在であると捉えたという点において、イングラ・エイストンを竜学の創始者として挙げたい。
「……先生は、そういう彼をどう思いますか?」
「竜そのものは今どきもう見る機会すらないだろう。今更竜について研究しようと思ったら、私より苦難の道を歩くことになるはずさ」
「いえ、そうではなく……あなたの甥として、彼は見られるのではないですか?」
「私がダーセバラ男爵の長女として見られるように、か?」
「……ええ」
外務大臣としてのダーセバラ男爵は、上流階級にあまり歓迎された人物ではなかった。彼の抜擢は実力よりも政治的な意味合いが重視されたし、外交員としてよりも交渉者としての才覚を買われた点も大きい。
それもあって、宮廷や貴族が行う国際的交流とは切り離された外務大臣のダーセバラ男爵はそういった繋がりの薄い新大陸に目を向け、多くの経済的取引を成功させた。
その結果を今の段階で評価するのであれば、多くの産業発展に必要となった物資と市場の確保、そして新大陸からの恨みという形で整理できるだろう。
彼の長女であるイングラ・エイストンにとっては、父に着いていく旅も珍しくなかった。そして、ある時の旅で遠目に見た竜に心を奪われたのだ。
もちろん、そういった興味は彼女が大臣の娘でなければ手に入れることは難しかっただろう経験に基づいてることから考えるとイングラ・エイストンが上流階級やそれに支えられている側面が強い学術界を嫌うのは道理が合わない、と思う読者もいるだろう。僕もそれは否定するものではない。
ただ、彼女にとってこういった問題はそのように簡単に割り切れるものではなかったし、それはそれとしてあるものは活用するという精神が彼女の功績を実現させたのだと僕は考えている。
「そんなことはないと思うな。ファルゼイはいい環境を持っている。学院での学びは実に楽しいらしいし、東方学の知識は竜学なんかに比べても成功を収めやすいだろう。それに、私とは違って君のようないい友人にも恵まれた」
「……僕はそこまで評価されるべき人物ではありませんよ。この身で学院に入れたのは父のおかげですし、その父の跡を継ぐ必要もありますし」
「君の父を説得したのは君の実力だ、と聞いているが。違うのかい?」
「成績が良くとも……あなたが入れなかった学院に僕がいられるのは、父の爵位と関係が無いとは思っていませんよ」
「それでも、歩を進めたのは間違いない。次第に君みたいなやつが、親の肩書もなしに、何なら今どきの学院のやつらよろしくまともな頭脳も無しに入れる時代が来るさ」
「……それは、いいのでしょうかね」
「誰だって学べるということは、たぶんそんな悪いものじゃないさ」
そう言って笑ったイングラ先生の言葉は、僕が教育分野を活動をする時にしばしば思い出すものだ。