「そういえば、最近カルコツィク国の軍が来たって言うじゃないか」
たどり着いたクシュヂィの街での食料確保の傍ら、ファルゼイはそんなふうに店主にでも聞いたのだろう。
「おや、お兄さんは知らないのかい。領主サマが変わったんだよ」
「騒ぎとかはあったのですか?」
「うーん、良く知らないねぇ。別に商売やってる上じゃ特になにか変わるってわけでもないし。なぁに?それだけしか買わないのかい?そんなんだから細っちいんだよ、おまけしてやるからたんと食べな!」
そのような感じで買ったものを、ファルゼイは特に妨げられることもなくヴォール公使館に持ち込むことができた。見張りの銃を持った番兵に咎められることを想定していたファルゼイにとって、これはかなり意外であった。
『すみません、陸軍中尉のファルゼイです。電信室を使わせてもらえますか?あとこれ皆さんでどうぞ、食べきれないので』
みすぼらしいとまでは言わないまでも、髪や目の色にわざわざ注意を払わなければ道に迷って聞きに来たのだろうかとでもいうような地味な格好であったファルゼイは、その流暢なナクゥド語の発音も相まってしばらく受付の相手と押し問答を繰り返したそうだ。
「……確認しました。こちらに使用目的を」
身分証明書を見せてやっと信頼された後、差し出された紙に記入しながらファルゼイはあたりを見渡した。混乱や恐怖の色は見えず、むしろ今までと同じ弛緩と無精が空間に漂っていた。
「……街がカルコツィク国の支配下に入ったという話を聞きましたが」
「ええ」
「ここは攻撃などを受けなかったのですか?」
「ファルゼイさんはこのあたりに慣れていないのですね」
そう言う、おそらく現地雇用である人物を見てファルゼイは首をかしげた。
「そりゃまあここの人でヴォールびいきはあまりいませんけど、すぐに町長に対してそれなりの便宜を図りましたからね。それにヴォールの品が入らなくなったら困るのは向こうですし」
「……はぁ」
このあたりは、今日の読者にとってもわかりにくいところが大きいだろう。当時のファルゼイはヴォールの基準であればかなり東方学に精通した人物であったが、それでも納得するのは難しかったのだ。
まず、ナクゥド国という意識自体が当時は薄かった。その広い国土は、さらにそれを分断するようなロイハム荒地の存在によってかなり分断されていた。
竜がいなくなったことによって、かつて存在した統治や流通の手法は徐々に失われ、そして各地は国家の一部ではなく都市とその周辺地域としての側面が強くなっていった。
これは帝笏の下に統一されているヴォール国や、大衆の投票とそれに伴う統一感によってまとまっているフェナゾン国、あるいは高度な官僚制度が確立された東方のリーバイ国とはまた違ったところだろう。
ファルゼイの知識は、良くも悪くもこのような列強国に基づいたものであった。そのため、読み違えのようなことが発生したのである。
とはいえ、これを事前に予測しろというのも難しい話だった。クシュヂィの街から少し離れた地域ではもう少し名誉を重んじるような風潮があったため、町長が変わるにあたって流血は避けられないだろうと見ていた人も多かった。
このような形で支配者が変化したのは、擁立された新しい町長がクシュヂィの街の人々にとって馴染みのある人物であったというのもあるだろう。その彼はもともとカルコツィク国との貿易で財を成していた、少しは名の知れた男であった。
彼のさらなる名誉欲か、はたまたカルコツィク国の後押しか、結局彼はこのクシュヂィの街の統治者となった。奇しくも、これはナクゥド国がある程度国策として行った地方統治の強化のために行政を整えていたからこそ成し得たことだ。
このことはファルゼイにとってかなり驚くべきことだったようで、ヴァドキンス大佐に送られた通信においてもその事が強調されている。
支配者が誰であれ、安定をもたらすのであれば評価されるのだ、と。
後の歴史を知る読者であれば、彼のこの報告は前半部分だけが読まれ、後半は無視されたことを知っているだろう。ヴォール国の軍が行ったことは、少なくとも安定をもたらすものではなかった。
『で、ファルゼイ先生はどうするんだよ』
宿に戻ったファルゼイを、駱駝乗りの少年であるイザットが迎えた。ちなみに悪くない宿を取ったので、イザットは年頃の子供らしく好奇心に目を輝かせてかなり興奮していたらしい。
『そうだなぁ、旅を続けるよ』
『バーント先生のところに来たのは、仕事をちゃんとしてるか見張るためだったろう?』
『それは目的の一つさ、今しか見れない色々なものがありそうだし』
時代は、少しづつ変化していた。クシュヂィの街にカルコツィク国の軍が来たことは、街の人々にとっては顔の見えない街の支配者が変わったことにしか過ぎなかった。
ただ、ナクゥド国にとっては自国の主権の侵害以外の何物でもない。ヴォールを後ろ盾とした要求が電信線を走り、外交官の衝突がゆるやかに始まっていた。
鉄道が大陸を横断しても、それは世界を一つに繋ぐことを意味しなかった。そもそも、鉄道自体が軍を高速で輸送することを前提として作られていたものである。
──それを、我々は様々に呼ぶ。抗争であったと。災厄であったと。惨禍であったと。
ただ、それが地上に存在する十四の国全てに影響を与えたものであったことは間違いない。あらゆる国が何かを失い、数多の人命が失われ、燃え盛った憎悪の火を止めるためには十年を要した。
火砲や飛船が、それが本来狙うべきであった獲物よりも脆弱で、そして強い記憶と意志を持つ人間に向けられるようになった。多くの人が、ここでも読み違えをして、敵の性質を誤解したのだ。
ファルゼイの旅は、こういった各地で火花が飛んでいた時代に行われたものだ。だからこそ、彼のような旅はそれ以前には行われなかったし、今することもできないだろう。
電信と列車が大陸を繋ぎながらも、まだ世界が様々な色で塗られていた──そういう頃の、旅の記録だ。