ただ漫然と時間をやり過ごさなければならないのは、生き地獄そのものだ。
黒板に映る『自習』という言葉を目にしてから、視線を窓の外へと向けた。真夏へ真夏へと潮のように光の波を加えてゆく空の色を眺めながら、何気ない彼女の言葉を思い返していた。
──
モモ・ベリア・デビルークが持ち出したのは、そういう名前の企みだった。
要するに一夫多妻。昔の王だの将軍だのが囲った後宮、大奥。美しい女たちに囲まれて気ままに愛を育む、男の妄想を煮詰めたような理想郷。
それをあの子は、リトを中心にして本気で建てようとしている。
いや、待て。こっちが協力を仰ぎたいくらいだが、それ以前の問題として――無茶苦茶だろう。
日本で一夫多妻は認められていない。よほどの社会的事情でも起きない限り、法が変わる見込みもない。おまけに現代日本の常識では、結婚は男女ひと組が愛し合ってゴールインするもので、そこに美しさが宿るとされている。複数人を娶る? 倫理観という壁が分厚すぎる。
それに。
(……そもそもリトさんが西連寺先輩を好きなら、話は始まりもしないよな)
龍生の知る限り、リトの気持ちは中学の頃から一貫して西連寺春菜に向いている。今も、たぶん。本人にその気がなければ、ハーレムなんて砂上どころか空中の楼閣だ。
ふいに、彩南ウォーターランドの光景が浮かんだ。
あの日、リトは間違いなく告白しようとしていた。周りにどれだけ引っ掻き回されても、あの人だけは揺れなかった。ちゃんと覚悟していたのだと思う。
結果は未遂に終わったけれど。
それでも矢印の向きは変わっていない。
そんな状況で、ハーレム計画?
「そんな難しいお顔をされて、どうされたのですか?」
隣から、静かな声。
モモだ。龍生は肩をすくめる。
「……柄にも無くお前が言った方法が叶うのか考えてただけだ」
「まあ」
なぜか目が輝いた。嬉しそうにするな。
「けど無理だろ。倫理的にも、リトさんの気持ち的にも」
「それがですね」
モモが誇らしげに胸を張る。
……いや、そこは強調しなくていい。
視線が引っ張られかけて、龍生は慌てて顔を背けた。が、女という生き物はこの手の視線に対して異様に鼻が利くらしい。
「うふふ、触ってみますか?」
「ばっ、お前なぁ!」
声が教室に響き渡った。
一拍遅れて、クラス中の視線が集まる。
――終わった。
顔が熱い。自分でも赤くなっているのがわかる。龍生は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「すみません、お騒がせしました」
視線がぱらぱらと散り、空気が元に戻る。横ではモモがくすくす笑っていた。
「……後で覚えとけよ」
「ふふっ、いつでもお待ちしております」
また血が上りかける。が、乗ればこいつのペースだ。息をひとつ吐いて、話の続きを促すことにした。元はといえば、自分の下心が招いた事故でもある。
「で、さっきの話だけど。何か手はあるのか」
「はい。リトさんをデビルーク王にしてみてはいかがでしょう?」
「……うん? なんて?」
「デビルーク王です。お父様の後継者となれば、側室は幾らでも持てますから♪」
デビルーク王。
その響きで、龍生の頭には一人の男の顔が浮かんだ。一度だけ見た、目つきの悪い男。それから、空を覆った巨大な船と、地球を壊すという宣言。
あれに、リトが。
「百歩譲ってリトさんを崇め奉ったとして、そう簡単に王になれるもんなのか」
「お姉様と婚約なされば、必然的にリトさんは最有力の後継者候補になります。お父様も以前から後継者を探しておいででしたし、時期としても悪くないかと」
「……いや、あの人がどこかの星の王様って、まるで想像できないんだが」
王。国を統べる者。器量、威厳、決断力。
……それが、リトに?
シャツの襟を正して玉座に座り、家臣に囲まれ、そのまま何かにつまずいて誰かの胸に顔から突っ込む王。
「……くっ、だめだ、面白すぎる……っ」
「一体どんなご想像をされたのですか」
肩を震わせる龍生に、モモが呆れたようなため息をこぼした。
「――でもやっぱり、それも難しいだろうな」
「どうしてですか?」
「今のリトさんは、そんなもの望んでないだろ。本人にその気がないのに、無理強いはできない」
「はい。勿論、重々承知の上です――」
ですが、と続いた声が、少しだけ低くなった。
顔を見ると、そこには儚さの混じった表情がある。
「お姉様には、幸せになって欲しいんです」
「……まあ、そうだな」
根っこにあるのは、姉を想う気持ちだけ。それだけ。
龍生は小さく笑った。
「そうなるように、少しは努力してみるか」
「良いのですか?」
「正直、面倒ではあるけど」
「そこは本音を隠していただかないと……」
「いや、こんな馬鹿げた計画考えるなんて骨が折れるに決まってるだろ」
「まあ、でも」といたずらっぽい笑みが返る。
「お前含めてみんな俺の、大切な人たちだからな」
「そ、そうですね……」
なぜか焦ったように明後日の方向を向いたモモを不思議に思いながら、龍生はこれからやるべきことに思いを馳せていた。
「……大切な人、ですか」
指先で髪をくるくると弄びながら、真っ赤になっているであろう顔を窓の外へ逃がすモモだった。
退屈な午前が終わり、時計の針は十二時を少し過ぎた。
途端に腹が鳴る。
くぅー……。
誰にも聞かれていないことを祈りつつ、龍生は鞄から布に包まれた弁当箱を取り出した。
最初の頃は学食に通っていたが、ここ一ヶ月、食堂には足を運んでいない。
――原因はモモ。
こいつが日常に入り込んできたせいで、龍生の食生活は根こそぎ変わった。朝も、夜も、昼も。
栄養バランスを計算し尽くしたうえで、味付けが抜群。世辞抜きで学食とは比べ物にならない。
つまり彼は、見事に胃袋を握られた。退屈な学校生活の中で、そこだけが楽しみになっている自覚もある。
弁当箱を片手に席を立ち、中庭のベンチへ向かおうとして――視界の端に、男どもに囲まれるモモの姿が引っかかった。
こいつはこの学園のマドンナ的存在だ。非公式のファンクラブまである。「V・M・C」――ヴィーナス・モモ・クラブとかいう組織が実在していて、会員たちは日々モモの動向を観測しているらしい。天体観測か。
――さて、どうするか。
救出するべきか否か。迷ったのは一瞬で、思考は別の声に断ち切られた。
「あ、あの、北風君?」
「うん?」
声の主はモモではなかった。
神崎綾子。肩につくかつかないかの黒髪に、整った顔立ち。明るく社交的で、男子人気も高い。サッカー部のマネージャーをやっていて、「神崎目当てで入部した」男子が何人もいると聞く。
龍生とは、これまで一度も接点がなかった。
「良かったら、その……」
頬をうっすら染めて、視線を落として、綾子は言葉を絞り出す。
「い、一緒にお昼とか……どうでしょうか?」
語尾にいくにつれて声が細くなった。
――誘い、か?
異性を誘うという行為に、本人がいちばん戸惑っているらしい。それがどうにも可愛らしく見えた。
昼はモモと食べるのが習慣になっているが、約束を交わしたわけじゃない。今日だけ別の相手と食べたところで問題はないはずだ。
それに、交友関係を広げるのは悪くない。
龍生の人間関係は、控えめに言って狭い。二年の知り合いを除けば、同学年で話せるのはモモとナナだけ。モモと関わるようになってから男子の視線が妬みを帯びたせいもある。同性の友人は、悲しいことにゼロ。
だったら乗ってみるのも――
そう思った瞬間、うなじの辺りがひやりとした。
なんだ、この寒気。
視線の出所を探して、目が合う。
「うふふ♡」
小首をかしげたモモ。可愛らしく微笑んで、含みなんて何ひとつありませんよという完璧な淑女の顔。
ただし、目が笑っていない。
周囲の空気が数度下がった気がした。取り巻き連中が「も、モモさん?」と戸惑いの声をかけているが、反応なし。
本能が警報を鳴らす。
「そ、その、ごめん。今日は先約があるんだ」
「そ、そっか……相手はモモさん?」
「そうだね……」
綾子は残念そうに頷いて、「また誘うね」と小さく笑い、席へ戻っていった。
龍生は声もかけずにそのまま立ち去ろうとして――甘かった。
「皆さん、申し訳ありませんが、私は
柔らかな声が教室に通る。
口調とは裏腹に、中身は牽制と威嚇でぎっしり詰まっていた。というか、ほぼ威嚇だけで構成されていた気がする。
「さあ龍生さん、参りましょうか」
「ちょ、おま、くっつくな!」
腕に絡まったまま、スタスタと教室を出る。
背中に無数の視線が突き刺さった。男どもの、殺意の混じったやつが。
勘弁してくれ。
視線をずらせば、さっきまで綾子が座っていた席で、彼女と女友達がこちらを睨んでいる。特に綾子は、あの柔らかい雰囲気が嘘みたいなむすっとした顔だった。
「お、おい、お前すごい睨まれてるぞ!」
「そのようですね」
「そのようですねって……いいのかよ」
「はい。このままいつもの場所まで行きましょう♪」
「いや、でもよ……」
言い募ろうとした龍生を、モモの瞳が真っ直ぐに捉えた。
「――私にも、譲れないものがありますから」
言葉が喉に詰まる。
なんだ、その妙にカッコいい台詞は。
「……はあ。女って怖いな」
「ふふっ、同感です」
「いや、お前もがあっ!?」
脇腹に肘鉄。
こうしてまた、波乱の昼休みが始まった。
「モモ、お前教室で何したんだ」
「どうして私なのよ……」
中庭のベンチは、容赦のない夏の日差しに早々に諦めた。代わりに選んだのは、まだ涼しさの残る空き教室。
モモ特製の弁当を頬張っていたところで、ナナと鉢合わせした。
彼女は私用で午前を抜けていたらしく、教室に戻るなり女子連中に龍生とモモの関係を問い詰められたという。
で、真っ先に浮かんだのが――モモがまた何かやらかしたんじゃないか、という線だ。
礼儀作法や教養に関しては、普段はモモがナナを嗜める側にいる。そのモモがクラスの話題の中心になっているのは、どう考えても妙だった。
「オマエが何かやらかさない限り、クラスの連中があんなふうになるかよ」
「わ、私は別に……」
「リュー生にまで迷惑かけて、どうするんだ?」
「うっ、それは……」
核心を突かれたのか、モモの表情が強張る。
言い淀んだまま、彼女は箸と弁当箱を机にそっと置いた。それから、龍生へ向き直る。
「龍生さんっ――ごめんなさい!」
深々と、頭を下げられた。
「……え?」
「いつも龍生さんとお昼をご一緒しているので……その、少し、心が乱れてしまいまして」
つまり、他のクラスメイトに誘われたのが引き金だったわけだ。
思い返せば、確かに今日のモモは違った。普段の彼女は、男受けを保ちながら女子の反感を買わない位置に、綱渡りみたいな精度で立っている。あんな真似は、本人にとって不利益でしかない。
それでもやった。この時間が、そういうものだったのだろう。
「……お、お許しいただけないでしょうか」
恐る恐る、上目遣い。
反省しているのはわかる。散々からかわれてきた身としては、ここで簡単に許さないという態度を見せる手もある。
――が、そんな気にはならなかった。
「はあ。モモ、頭を上げてくれ」
「は、はい」
反省の色を浮かべた瞳と向き合って、龍生は息をつく。
「ハンバーグ」
「えっ?」
「今日の夕飯、ハンバーグ作ってくれ。それでチャラだ」
その瞬間、モモの瞳がぱあっと明るくなった。
「は、はい! 精一杯、愛情を込めてお作りしますね♪」
満面の笑み。
あまりに幸福そうなその顔に、龍生は一瞬、見惚れた。
気恥ずかしくなって視線を逸らした先に、八重歯を覗かせてニヤニヤしているナナがいた。
「ホント、オマエら仲良いよなぁ」
「な、なんだよ」
「別にぃ。ただ、仲良いんだなって思っただけだって」
緩みきった口元に、モモが眉をひそめる。
「ちょっとナナ、何よその含みのある言い方は」
「他意はないって。ただ姉として、猫被りのオマエが――」
――ぴくん。
モモの肩が、わずかに動いた。
「むっ」
「ちゃんと恋できるのか心配――っ!!?」
桃色の髪が風を切る。
白い腕が伸びて、ナナの尻尾を掴んだ。
「なあに、ナナ。言いたいことはそれだけかしら?」
にっこり。ただし笑顔の奥に、明らかに悪魔的な何かが滲んでいる。
「も、モモッ、し、尻尾はッ!? ……、離せ! 離せってば!」
ナナが机にしがみつく。膝がガクガクしている。
尻尾はデビルーク人の弱点だ。知ってはいたが、ここまで効くのか。
「うふふ。あなたがいけないんでしょう?」
「こ、この――っ!!」
反撃。ナナの手が、今度はモモの尻尾を掴み返す。
「――ひぁっんっ、ナナ! いい加減にっ」
「おっ、おかえしだーっ!」
弁当箱が机の端でカタカタ鳴る。姉妹喧嘩というより小型の台風だった。
「わかった、わかったから、二人とも落ち着け!」
止めに入って、手を伸ばした瞬間。
「うわっ!?」
ナナの足が、龍生の足を払った。
視界が傾く。床が近づく。
――結果。彼は二人を巻き込んで、盛大に転がった。
右手には柔らかい極上のマシュマロ。
左手はまな板。
……最悪だ。
慌てて身を起こす。両手を、電車内で冤罪を訴える中年男性みたいに真上へ掲げながら。
「あ、いや、これは事故だ、事故だからな!?」
恐る恐る目線を向けると、モモがぽかんとした顔で見上げていた。
数秒の沈黙。それから。
「もう、龍生さんったら、大胆なんですね♡」
「な、なんでちょっと嬉しそうなんだお前は……」
安堵したのも束の間。視界の端で、もう一人の少女が肩を震わせていた。
――噴火前の火山だ。
胃がきゅっと縮む。思わず天を仰いだ、そのとき。
「――助けてくれぇええええ!!」
窓の外から、男の悲鳴。
龍生が反応するより早く、ナナが窓へ飛びついた。
「……リト?」
遅れて覗き込む。
中庭を全速力で駆け抜けるリトがいた。表情が違う。いつものドジで間抜けなやつじゃない。本気で、命の危機を感じている顔だ。
その背後には――
「おいおい、なんかヤバそうなことになってるぞ」
目を凝らして、見知った顔を見つける。猿山たち。リトの同級生で、普段はくだらない悪ノリばかりしている連中。
だが今日のあいつらは、どう見てもおかしい。
「何やってんだ?」
「またララさんの発明品でなんかされてんじゃねえか」
困惑するナナに、龍生は苦笑まじりに答えた。
――が、モモだけは違った。
「いえ、ですが、あれは……」
何かを疑うような眼差しで、じっと猿山たちを見ている。
そして、その懸念は当たった。
リトがつまずきかけながら攻撃をかわす。次の瞬間、地面が抉れた。
「……え?」
思考が止まる。
ただの高校生の拳が、コンクリートを砕いて、深い穴を穿っていた。
人間の力じゃない。
猿山たちは大きく口を開け、両目が白濁している。理性という語彙をどこかへ落としてきたような顔だった。
龍生も、ナナも、モモも、言葉を失った。
「あいつら……ヤバいってレベルじゃないぞ」
背中に嫌な汗が伝う。リトが限界に近いのは見ればわかった。
だが次の瞬間、あの人は助かると龍生は確信する。
――金色の闇。
数多の戦場を渡り、宇宙一の殺し屋とまで呼ばれた少女。かつてリトを殺すために地球へ来て、今はその目的も輪郭を失い、この街で静かに暮らしている。
今の彼女なら、必ず。
胸を撫で下ろした、その直後。全身に鳥肌が走った。
――猿山たちが、標的をヤミに切り替えた。
「今度はオレらとォォ、遊ぼうぜェエェ!!」
飛びかかる速度は、龍生の想像を軽く超えていた。
ヤミは動かない。
たい焼きを、静かに齧っていた。
拳が届く寸前。
「ふぅ……」
息をひとつ吐いて、ふわりと跳ぶ。
ガシャアァァァン。
拳がベンチを粉砕した。木片が舞い、砂埃が上がる。あとに残ったのは、割れた座板と、地面に転がったたい焼きだけ。
「何ですか、あなた達は」
淡々とした声。焦りも驚きもない。あるのは、冷えた怒りだけ。
「ぁぉあああ!!」
警告は聞かれず、彼らは再び飛びかかる。
「これ以上近寄るなら、痛い目を見ますよ」
言葉が届かないことを、たぶん彼女も知っていた。
ヤミはため息をつく。
殺せと言われれば、一瞬で終わる。人間数人を消し去るのに、彼女の能力なら苦労のうちにも入らない。
だが彼らはただの一般人だ。おそらく何かに操られているだけで、本人の意志ではない。
無駄な殺生は望ましくない。ならば、どう動くか。
その一瞬の逡巡を、連中は逃さなかった。
距離が詰まる。
「――っ」
腕を掴まれる。背後からもう一人が羽交い締めにする。
伸びてきた手が、戦闘服の襟を掴んで、引き裂いた。
服の隙間から柔らかそうな素肌と2つの果実が露わになる。
「見るなこのケダモノーっ!!」
ナナの怒号と同時に、龍生の視界は真っ暗になった。モモの手のひらが、目を塞いでいる。
「うぉぉっ、目が、目が痛いィィッ!」
「モモ、早く行くぞ!」
「えっと……龍生さん、ごめんなさい! 少しここで待っていて下さい!」
黒い翼を広げ、ナナが窓の外へ飛び出す。
目を押さえて悶絶する彼を最後まで気にかけていた、その一拍の迷い。それが妙に、救いだった。
――一体、誰がこんなことを。
闘牛士のように拳をいなしながら、モモは考えていた。
人の精神を支配するだけでなく、支配した人間の身体能力まで底上げしている。相当な使い手だ。
狙いがヤミである以上、彼女と接点のある誰かが関わっているのだろう。宇宙一の殺し屋。その名を知らぬ者は宇宙にいない。裏側で生きる者ならなおさらだ。
かつての暗殺対象からの報復、という線もある。
「アァァァァッ!!」
「――っ!?」
勘が不穏な信号を送ってきた。咄嗟に首を傾ける。拳が髪を掠めた。
(明らかに速くなってる……対象に手を出せていないから焦った? ということは、この辺りで見ている……)
疑念が次々に浮かぶ。が、加速していく攻撃を捌くだけで手一杯になった。
背後にはリトが控えている。距離はまだあるが、下がるほど彼の危険は跳ね上がる。
やむを得ない。
隠し持っていた携帯を、かぱりと開く。
――転送システム“デダイヤル”。
(転送!)
地面が数箇所、裂けた。
自然現象ではない。大人ひとり分ほどの太さの、植物の茎に似た何かが噴き上がる。明確な意思を持ったそれが男たちの腰に絡みつき、まとめて空中へ吊り上げた。
バタバタともがくが、抜け出せる気配はない。転送を解かない限り、地面には戻れない。
ちらりと視線を送れば、ヤミは金色の髪を巨大な拳へ変え、男たちを圧倒していた。一度不覚を取っても、この立て直しの速さ。飾りの二つ名ではないらしい。
ナナはナナで、デダイヤルから呼び出した巨大な猪に男どもを宇宙の彼方へ吹き飛ばしていた。過剰防衛という言葉が頭を掠めるが、ひとまず一件落着だ。
肩の力が抜けた。
その矢先だった。
「――モモっ、後ろっ!!」
リトの絶叫が鼓膜を打つ。
振り返れば、涎を垂らした男が地面を蹴り、真っ直ぐこちらへ跳んでいた。
(――避けられないっ)
本能のままの攻撃。狙いは服。晒される醜態。
抗いようがないと、悟ってしまった。
似た記憶が、消えかけた灯が一瞬だけ強く燃えるみたいに、脳裏で息を吹き返す。
地球に来て数日後のあの日。
どうにもならないものが、自分に向かって近づいてくる感触。暗い力に袖を引かれるような、覆せない何か。
諦めたわけではなかった。それでも、どうしようもないと知っていた。
――無事で良かった。
なのに未来は変わった。半分夢のような、耳の底で優しく囁かれるような声が、覆せないはずのものを『いつか』へ捻じ曲げた。何もかもを包み込む弧を描いて、少年が笑っていた。
――大丈夫。オレが何とかするから。
よその星の貴公子だろうが、地位も名誉も持つ男だろうが、見合いを重ねてモモが心を許したことは一度もない。上辺だけの下心なんて不快なだけだ。何度でも猫を被ってきた。
その拒絶で固めた胸に、あの日、桃色の花弁がひとひら張りついたようなぬくもりが灯った。
だから、彼以外の前で肌を晒したくない。
願うほどに、迫る現実が身の毛もよだつものに変わる。まつげの先が滲んだ。
いつから自分は、こんなに弱くなったのだろう。
「いや……っ」
抱えきれなくなった感情が、言葉になって零れた。
その弱さすら、男は下衆な笑みで受け取り、手を伸ばす。
(龍生さん――っ)
唇を噛んで、目を閉じた。
――だが、手は届かなかった。
「――この子に何の用ですか、先輩方」
背中を包んだのは、温かい怒りの声だった。
目を開ける。全部わかっていたみたいな顔で、彼がそこに立っている。
「龍生……さん……っ」
「――っ! 無事で良かった」
低く穏やかな声が、胸の中の嵐を凪がせていく。小舟が、荒れた波間から静かな海へ運ばれるみたいに。
鼓動が、静かに重なった。
シャンプーの香りが鼻先をくすぐる。緊張がほどけて、体が軽くなる。
「少し待っててくれ」
「ぐがっ!?」
男の手首を掴んだまま、龍生の膝が鳩尾へ沈む。男は前のめりに崩れ、痙攣したきり動かなくなった。
「えっ――?」
一撃。たったの一撃で。
目を見開いたモモに構わず、龍生の指が目尻の涙を拭う。
「もう大丈夫だから。怖かったろ? よく、一人で頑張ったな」
子供をあやすみたいに、頭を撫でられる。
陽だまりみたいな手のひらに、モモは目を細めた。
体の芯がかっと熱くなるほどの幸福が、押し寄せる。
やがて、手が止まった。
「……あっ」
名残惜しい声が、勝手に漏れた。
赤面したその顔は、乙女そのもので――けれど、龍生を見上げて、すっと引っ込んだ。
彼は神妙な顔で校舎を眺めている。
気になって、視線を辿った。自分たちの教室。だが、誰の姿もない。
「龍生さん?」
『――やはり、誰一人息の根を止めてはいないか』
問いに答えが返る前に、不気味な声が割り込んだ。
見回しても人影はない。操った者たちの口を借りて、遠隔で言霊を飛ばしているらしい。
『地球で牙を抜かれたという情報は、本当のようだな』
「……誰ですか」
ヤミの問いに、そいつはふっと笑った。
『本当の君を知る者だよ。目を覚ませ、金色の闇。ここは君のいるべき場所じゃない。君の本質は闇だ。殺戮以外に生きる意味を持たない存在。地球人と仲良くできるはずがない。甘い夢は、終わらせるべきだ』
彼女の奥底で眠る何かに、囁きかけるような声。
こんな所で油を売っている場合ではない。兵器としての役割を思い出せ。結城リトを抹殺しろ。
ヤミの深淵を理解し、そこに同調できる存在なのだと、聞いていて肌でわかった。
「ターゲットは、すぐ側にいるのだから――」
「――待てよ。逃げんな」
「りゅ、龍生さん?」
消えかけた声に待ったをかけたのは、隣の彼だった。
「何者かは知らないが、姿も見せないで――こんなの、卑怯だとは思わないのか。女の子一人、泣かせておいて」
『……若いな。それがどうした』
「テメェな……っ」
「……龍生さん」
自分のために怒ってくれている。
それだけで、モモの心が跳ねてしまう。
龍生は、ゆっくり息を吸って、吐いた。
「それに、あんた勘違いしてるぞ」
『……』
「存在意義なんてのは、いろんな奴と会って、関わって、知らない体験を積み重ねて、そのうえでヤミ自身が決めるものだ。よくわからん根拠でアンタが決めていいもんじゃない」
『くだらない戯言だな』
「戯言かどうか、試してみろよ。少なくとも彼女がこの先どうなろうが、リトさん筆頭に、俺たちがヤミを見捨てることはない」
『……そうか』
「おれっ!?」
気配が、す、と消えた。
正体はわからない。
ただ、ヤミを何かの形で利用しようとしている。それだけは、この場の全員が理解した。
ひぐらしが鳴いて、夕暮れの到来を告げる。
橙に染まった薄い雲が、空にぼんやり広がっていた。その下を、龍生はゆっくり歩く。
考えが、浮かんでは消える。
リトを襲った異常な力。それを一蹴したヤミ。
だが、いちばん引っかかっているのは別のものだった。
――黒咲芽亜。
赤髪の三つ編みが目を引く少女。人を寄せつけない空気をまとって、ほとんど口を開かない。クラスにも馴染んでおらず、龍生自身、話したことは一度もない。
騒動をたまたま目撃していただけなら、気にもしなかった。
だが、あの目は違った。
実験動物の反応を記録する科学者みたいな眼差し。奥を覗こうとすると、背筋が凍る。
目が合った瞬間、彼女はすっと消えた。それで確信した。
あれは、傍観者じゃない。
爆弾魔が爆発の瞬間を待つみたいに、見ていたのではないか。
芽亜がヤミを元の殺し屋に戻そうとしているなら、軽く見ていい話じゃない。
リトを狙っていた頃のヤミは、龍生の目から見ても感情を捨てた機械みたいだった。今の彼女は、地球での暮らしで確実に変わっている。
その変化を歪めるつもりなら――
この日常を守るためにも、警戒を緩めるわけにはいかない。
そんなことを考えて歩いていると、隣のモモがふと立ち止まった。
遅れて、龍生も足を止める。
「……龍生さん」
「モモ?」
振り向くと、彼女は視線を落とし、ためらう仕草を見せていた。
「今日は……助けてくれて、ありがとうございました。……その」
言い淀む。
普段なら、甘い口調でさらりと言ってのけるくせに。
顔を見れば、頬がほんのり赤い。
夕陽のせいか。
いや、違う。
照れているのだ。
何かを決めるように、胸元で拳を握る。少しだけ震える声が、続いた。
「……すごく、カッコよかったです……!」
龍生の思考が止まった。
「お、おう……」
どうにか返事を絞り出す。だが、モモは止まらない。
「本当に、素敵でした……っ」
震えているのに、芯のある響き。飾りのない本音を、そのまま置きにきたような。
静かな夕暮れの中で、その声だけが耳に残った。
――嘘じゃない。
からかいでもない。社交辞令でもない。本心から、そう思ってくれている。
それがわかった途端、胸の奥がじんわり温まった。
同時に、照れ臭さが込み上げて、視線を外す。
もう一度、ちらりと窺う。
目が合った。
「……!」
反射的に、二人とも顔を背けた。
何とも言えない空気。何を話せばいいのかわからず、沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。ただ、ひたすら照れくさい。
ちらちらと目が合っては、そのたび逸らす。その繰り返し。
やがて、痺れを切らしたようにモモが歩き出した。
「さ、さあ、帰りましょうか♪」
「そ、そうだな」
龍生もぎこちなく続く。
が、モモがじっとこちらを見ていることに気づいた。
「りゅ、龍生さん、お顔が真っ赤ですよ?」
「お、お前こそ真っ赤じゃねえか」
「こ、これは夕陽のせいですよぅ」
「どうだかな」
言い合っても、頬の熱は引かない。
「……ふふッ♡」
「お、おいっ、くっつくなって!」
「なんでですかぁ?」
「だから当たって⋯⋯しらん」
「ふふっ、お陰様で、ここ最近成長したんです」
「⋯⋯なんの話だよ」
「なんの話だと思いますか?」
「⋯⋯知らん。何も知らん」
「うふふ♡ そういう人には更にこうしちゃいますよぅ?」
龍生は夕焼け空に向かって、ため息をついた。
夕陽が、金色の矢のように大気を貫く。
重なった影が、二つぶんの長さで地面に伸びていた。