ただ漫然と時間をやり過ごさなければならないのは、生き地獄そのものだ。
黒板に映る『自習』という言葉を目にしてから、視線を窓の外へと向けた。真夏へ真夏へと潮のように光の波を加えてゆく空の色を眺めながら、何気ない彼女の言葉を思い返していた。
──
モモ・ベリア・デビルークが提案した、あまりにも突拍子もない計画。
一夫多妻制──昔の王や将軍たちが築いた後宮や大奥のように、美しい女性たちを囲い、自由気ままに愛を育む理想郷。
モモは、それをリトを中心に実現させようとしているらしい。
しかし、直感的な感想として──無茶苦茶としか言いようがなかった。
そもそも日本では一夫多妻制は認められていない。
特定の社会的背景がない限り、法改正される見込みもない。
それに、現代日本の価値観においては、結婚は「一対の男女が愛し合い、ゴールインするもの」とされ、美しいものとして認識されている。
複数人を娶るなど、一般的な倫理観では到底受け入れ難いはずだ。
──それに、そもそもリトさんの気持ちが……
(……現段階だと、リトさんが西連寺先輩のことを好きなら無理だろうな)
把握している限り、リトは中学時代からずっと西連寺春菜に想いを寄せている。そして、その気持ちは今も変わっていないことを龍生は知っていた。リト自身が望まない限り、ハーレムなど作りようがない。
──ふと、ある記憶が蘇る。
彩南ウォーターランドでの出来事。
あの日、リトは間違いなく、西連寺春菜に告白しようとしていた。
どれだけ周囲に振り回されようとも、彼は揺るがなかった。
彼なりの覚悟があったのだろう。
しかし、それは未遂に終わった。
それでも──彼の気持ちは、今も変わらず彼女に向いているはずだ。
そんな状況で、ハーレム計画なんて成立するのだろうか?
ふと、隣から静かな声が聞こえた。
「そんな難しいお顔をされて、どうしたのですか?」
モモだった。
龍生は軽く肩をすくめ、ぼそりと答える。
「……柄にも無くお前が言った方法が叶うのか考えてただけだ」
「まあ」と何故か嬉しそうに目を輝かせている。
だが、龍生は現実を突きつけた。
「しかし、無理じゃないか? 倫理観的にもリトさんの気持ち的にも」
「それがですね」
モモはなぜか誇らしげに胸を張る。
……って、いや、それは強調しなくていい。
龍生は一瞬、視線をそちらに持っていかれそうになり、慌てて顔を背けた。しかし、女性はそういう視線には敏感なようで──
「うふふ、触ってみますか?」
「ばっ、お前な!」
思わぬ発言に、龍生の声が教室全体に響き渡る。
次の瞬間、教室中の視線が一斉にこちらに集まった。
──終わった。
羞恥で顔が赤くなるのが自分でも分かる。
慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「すみません、お騒がせしました」
クラスメイトの視線は徐々に散らばり、ようやく元の空気に戻る。
その横で、モモがクスクスと笑っていた。
「……後で覚えとけ」
「ふふっ、いつでもお待ちしております」
益々血が昇りそうになるが、相手のペースに踊らされるだけだ。ため息を一つ吐き出し、彼女の続き話を促す事に決めた。
元はと言えば、自分の下心により招いてしまったものだ。
「それで、さっきの続きだけど、何か解決方向があるのか?」
「はい。リトさんをデビルーク王にしてみたらいかがでしょう?」
「……うん? 何だって?」
思わず目を白黒させる。
「デビルーク王です。お父様の後継者となれば、側室は幾らでも持てますから♪」
──デビルーク王。
その単語から、龍生はある男の顔を思い浮かべた。
一度だけ見たことのある、目つきの悪い男。
そして、あの巨大な宇宙船と、地球の破壊宣言。
まさか、リトさんにあれになれと……?
「百歩譲ってリトさんを崇め奉ったとして、そんな簡単に王なんかになれるもんなのか?」
「お姉様と婚約致せば、必然的にリトさんは王の最有力後継者候補になります。それに、以前からお父様も後継者を探しているようでしたので、時期的にもぴったりな気がします」
「……いや、そもそもリトさんがその星の王様って全然想像できないんだが」
王──それは国を統べる者。
器の大きさ、威厳、決断力が求められる。
……リトが?
リトが、そんなキャラになるのか?
「……くっ、だめだ。面白すぎる……っ!」
「一体どんなご想像をされたのですか」
声を押し殺しながら肩を震わせる龍生に、モモは呆れたようにため息をついた。
「──でも、やっぱりそれも難しいだろうな」
「どうしてですか?」
「そもそも今のリトさんは、そんなものを望んでないだろう? 本人にその気がない以上、無理強いはできない」
「はい。勿論、重々承知の上です──」
「ですが──」とモモの声が静かに響いた。
ふと彼女の顔を見ると、どこか儚げな表情を浮かべている。
「お姉様には、幸せになって欲しいです」
「……まあ、そうだな」
その想いの根底には、姉を想う純粋な気持ちがあった。
龍生は、小さく笑いながら言った。
「まあ、そうなるように少しの努力はしてみるか」
「良いのですか?」
「正直面倒ではあるけど」
「そこは本音を隠されては……」
呆れたようにため息をつくモモに、龍生はいたずらっぽい笑みを返した。
「みんな俺の、大切な人たちだからな」
「そ、そうですね……」
何故か焦ったように明後日の空に向き直るモモを不思議に思いながらも、龍生はこれからやるべきことに思いを馳せていた。
「……大切な人、ですか」
クルクルと自分の髪を指で遊びながら、真っ赤になっているであろう顔を、外に向けるモモだった。
退屈な授業がようやく終わり、時計の針は12時を少し過ぎていた。
途端に、龍生の腹が情けない音を立てる。
くぅー……
誰も聞いていないことを祈りつつ、鞄に手を伸ばし、きれいに包まれた弁当箱を取り出した。
最初の頃は学食を利用していたが、ここ一ヶ月、食堂に足を運ぶことはなくなった。
──原因は、モモ。
彼女が日常に入り込んできたことで、龍生の食生活は一変した。
朝も、夜も、そして昼も。
モモ特製の弁当。
栄養バランスを考慮しながらも、抜群の味付け。
お世辞抜きで、学食とは比べ物にならない美味しさだった。
結果として、彼は完全に胃袋を掴まれてしまったのだった。
それは、退屈な学校生活の中で、唯一の楽しみとも言えるものだった。
弁当箱を片手に席を立ち、中庭のベンチへ向かおうとすると──
視界の端に、クラスの男たちに囲まれるモモの姿が映った。
彼女はこの学園のマドンナ的存在だ。
その人気ぶりは、学校内で非公式のファンクラブまで結成されるほど。
「V・M・C(ヴィーナス・モモ・クラブ)」なる組織が存在し、彼らは日々モモの動向を観察しているらしい。
今、彼女に群がっているのも、そのファンクラブの会員なのだろう。
──さて、どうするか。
彼女を救出するべきか否か。
龍生は一瞬だけ迷ったが、すぐに別の声に思考を遮られた。
「あ、あの、北風君?」
「うん?」
呼びかけたのは、モモではなく、別の女子だった。
顔を向けると、そこにいたのは神崎綾子。
肩につくかつかないかのミディアムな黒髪に、整った顔立ち。
性格は明るく社交的で、男子人気も高い。
彼女はサッカー部のマネージャーを務めており、「神崎目当てでサッカー部に入った」男子も多いと聞く。
しかし、龍生と彼女にこれまで接点はなかった。
「良かったら、その……」
綾子は頬をうっすら朱に染め、視線を伏せながら、小さな声で言葉を紡いだ。
「い、一緒にお昼とか……どうでしょうか?」
後半にいくにつれて、声が小さくなる。
──これは、まさかの誘いか?
異性を誘うという行為に、彼女自身も戸惑っているのだろう。
その姿はどこか可愛らしくもあった。
ランチは普段モモと一緒に食べるのが習慣になっているが、特に「一緒に食べる」と約束しているわけではない。
つまり、今日だけ別の相手と食べても問題はないはずだ。
──それに、交友関係を広げるのも悪くない。
龍生の交友関係は決して広くない。
2年の知り合いを除けば、同学年で話せる相手はモモとナナのみ。
それも、モモと関わることで、男子から妬みの視線を浴びるようになったせいだろう。
同性の友人は、悲しいことに一人もいなかった。
そんな状況を考えれば、綾子の誘いに乗るのもアリかもしれない──
そう思った瞬間、鋭い視線を感じた。
──何だ、この寒気。
嫌な予感を覚えながら、その視線の主を探す。
そして、目が合った。
「うふふ♡」
モモが、小首をかしげていた。
可愛らしく微笑みながら、含みなんて何もありませんよ、という完璧な淑女の表情。
しかし──
目が笑っていない。
周囲の空気が凍りつくような錯覚を覚える。
その場にいたモモの取り巻きたちも、「も、モモさん?」と戸惑ったように声をかけていたが、彼女は無反応。
そのただならぬ気配に、龍生は本能的にヤバいと察知した。
「そ、その、ごめん、今日は先約があるんだ」
言葉を絞り出すように、綾子へと伝える。
「そ、そっか……相手はモモさん?」
「そうだね……」
綾子は残念そうに頷くと、「また誘うね」と小さく微笑み、席を離れた。
龍生は何となくモモに声をかけず、そのまま席を立とうとした。
──が、甘かった。
「皆さん、申し訳ありませんが、私は
モモの柔らかな声が、教室中に響いた。
しかし、その口調とは裏腹に、周囲への牽制と威嚇がこれでもかと詰め込まれていた。
……いや、ほぼ威嚇に全振りしていた気がする。
「さあ、龍生さん、行きましょうか」
「ちょ、おま、くっつくな!」
モモが腕に絡まり、スタスタと教室を出ようとする。
──その瞬間、背中に無数の視線が突き刺さった。
男たちの殺意のこもった視線が、龍生に注がれていた。
──勘弁してくれ。
そんなことを思いながら視線を移すと、先ほど綾子がいた席で、彼女とその女友達がこちらを睨んでいた。
特に綾子は、先ほどの柔らかい雰囲気とは正反対の、むすっとした表情。
「お、おい、お前なんか睨まれてるぞ!」
「そのようですね」
「そのようですねって……いいのかよ」
「はい。このまま何時もの場所までいきましょう♪」
「いや、でもよ……」
龍生が言葉を紡ごうとした瞬間、モモの瞳が真っ直ぐに彼を捉えた。
「──私にも、譲れないものがありますから」
その一言に、思わず言葉を失う。
何だ、その妙にカッコいい台詞は。
「……はあ、なんか、女って怖いな」
「ふふっ、同感です」
「いや、お前もがあっ!?」
モモの肘鉄が龍生の脇腹に突き刺さる。
──こうして、また波乱の昼休みが始まるのだった。
「モモ、お前教室で何したんだ?」
「どうして私なのよ……」
昼休憩になり、いつものように中庭のベンチに向かおうとしたものの、容赦ない夏の日差しに断念。代わりに、涼しさの残る空き教室へと足を運んだ。
モモ特製の弁当を口いっぱいに頬張っていたところ、突然ナナと遭遇する。
彼女は私用で午前中の授業を抜けていたらしく、教室に戻った際に、クラスメイトの女子たちから龍生とモモの関係について問い詰められたらしい。
そこで思ったのが──
モモがまた何かやらかしたのではないか?
礼儀作法や教養については、普段はモモがナナを嗜める立場だ。そんな彼女がクラスメイトの話題の中心になっているとは、どう考えても妙だった。
「オマエが何かやらかさない限り、クラスの連中はあんなんにならないだろ」
「わ、私は別に……」
「リュー生にも迷惑かけてどうするんだ?」
核心を突かれたのか、モモの表情が一瞬強張る。
「うっ、それは……」
言い淀みながら、彼女は手に持っていた箸と弁当箱を机の上にそっと置いた。
そして、龍生へと向き直る。
「龍生さんっ──ごめんなさい!」
突然の謝罪。
それも、誠心誠意を込めた、深々と頭を下げる謝罪だった。
「……え?」
予想外の展開に、龍生は思わず目を見開く。
「いつも龍生さんとお昼をご一緒しているので……その、少し心が乱れてしまいまして」
──つまり、龍生が他のクラスメイトにランチに誘われたことが、彼女の感情を乱す引き金になったということか。
思い返せば、確かにモモの態度はいつもとは違っていた。
普段の彼女は、男受け抜群でありながらも、女子から反感を買わないように細心の注意を払っていた。
あれでは、明らかに彼女にとっても不利益な行動だったはずだ。
それでも、彼女にとって、この時間は特別だったのだろう。
「……お、お許しいただけないでしょうか」
恐る恐る、上目遣いで伺うモモ。
反省しているのは分かるが、いつも散々からかわれている身としては、ここで簡単には許さないと態度を示すのもアリだろう。
──だが、そんな気にはならなかった。
「はあ、モモ。頭をあげてくれ」
「は、はい」
彼女の反省のこもった瞳と向き合い、龍生は少しだけ息をつく。
「ハンバーグ」
「えっ?」
「今日の夕飯はハンバーグ作ってくれ。それでチャラな?」
その瞬間、
パァッと、モモの瞳が輝く。
「は、はい! 精一杯愛情を込めてお作りしますね♪」
ニコニコと満面の笑みを浮かべるモモ。
そのあまりの幸福そうな表情に、龍生は一瞬、見惚れてしまう。
気恥ずかしくなり、視線を逸らしたその先に──ニヤニヤと八重歯を覗かせるナナの姿があった。
「ホント、オマエら仲良いよなぁ」
「な、なんだよ」
「別にぃ、ただ、仲良いんだなって思っただけだって」
ニヤニヤと口元を緩ませるナナに、モモが微妙に眉をひそめる。
「ちょっとナナ、何よその含みのある言い方は」
「別に他意はないって。ただ姉として、猫被りのオマエが──」
ナナがサラリと放ったその瞬間、
──ピクン。
モモの肩がわずかに動いた。
「むっ」
「ちゃんと恋できるのか心配──っ!!!??」
次の瞬間、桃色の髪が風を切り、モモの白く細い腕が伸びる。
ナナの尻尾を、ぎゅっ──と掴んだ。
「なあに? ナナ。言いたい事はそれだけかしら?」
にっこりと微笑むモモ。
だが、その表情には明らかに悪魔的な何かが滲んでいる。
「も、モモッ……し、尻尾は……ッ!!?」
ナナの声が途端に掠れる。
──やめろ。
龍生がそう言い放とうとしたその瞬間、
ぎゅっ
「やっ……んっ、あぁっ……や、やめ──っ!!」
モモの指がさらに強く尻尾を握り込む。
ナナの口から、乙女の甘い声が漏れた。
その声が教室内に響くや否や、モモの表情が妖艶なものへと変わる。
「うふふ、あなたがいけないんでしょう? ナナ……」
モモが艶やかに囁くと、ナナの体がピクリと硬直した。
そして──「はむっ」
「ふぁああぁ──っ!?」
ナナの尻尾の先端を、モモがその柔らかな唇で包み込んだ。
ナナの体が弾かれたように跳ね、甘い嬌声が教室内に響く。
──……アウトだ。
龍生は確信した。
これは、見てはいけないやつだ。
モモは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ナナの尻尾に舌を這わせる。ナナの膝がガクガクと震え、耐えきれないように机の端を掴む。
さすがに、このままでは色々とマズい。
「お、おい、モモ! 流石に──」
「こ、この──っ!!」
龍生の静止を無視するかのように、ナナが反撃に出た。
ぎゅっ──!!
「──えっ……ひゃぁああっ!?」
ナナの手が、モモの尻尾をしっかりと掴む。
モモの体が一瞬ビクッと震え、力が抜ける。
「おっ、おかえしだーっ!」
「ちょ、ちょっとナナ! いい加減に……はぁっ、んっ────っあぁあああぁっ♥」
──待て待て待て!!!!
龍生は慌てて叫んだ。
しかし、ナナは止まらない。
まるで勝ち誇ったように、モモの尻尾をぎゅっと握り締める。
「はぁ……はぁ……龍生さぁんっ、はぁああっんっ──っ♥」
「りゅ、リュー生ぃっ……ひゃああぁっん」
──なぜ俺の名前を呼ぶ!?
とろんとした瞳で、猫なで声を作りながら甘く龍生の名前を呼ぶモモとナナ。
明らかに、龍生に「止めろ」と訴えているのだろう。
──が、当の龍生は、もはや罪人のような気分だった。
「わ、わかった、わかったから!! 止めるからそこで俺の名前を呼ぶのはやめてくれ!」
必死に手を伸ばし、二人を引き剥がそうとしたその瞬間──
「うわっ!?」
ナナの足が、龍生の足に直撃。
体勢を崩した龍生は、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
──結果。
龍生は、モモとナナの上に覆い被さる形になってしまった。
……最悪だ。
「……す、すまんっ! 2人とも大丈夫……っえ?」
慌てて起き上がろうとしたが、両手に奇妙な感触を覚えた。
──左手。
指の間から伝わる、柔らかく弾力のある感触。
まるでプリンのように、手のひらに吸い付くような心地よさ。
──右手。
妙に平坦で、さらりとした手触り。
まるで、ぺたんとした木の板を撫でているような感覚。
脳内で瞬時に、触れているものの正体に気付く。
龍生の顔は、一瞬で青ざめた。
「あ、いや、これは誤解だ、違うんだって!」
慌てて両手を離し、電車内で冤罪を訴える中年男性のように、両手を上げる。
恐る恐る目線を向けると──
モモが、ぽかんとした表情で龍生を見つめていた。
……そして、数秒の沈黙の後、
「もう、龍生さんったら、大胆なんですね♡」
「な、何でちょっと嬉しそうなんだお前は……」
ホッとしたのも束の間。
視界の端、もう一人の少女がいた。
ナナは、プルプルと肩を震わせていた。
──やばい。これは噴火前の火山だ。
胃がぎゅっと縮み上がるような、圧倒的な怒気が滲み出ている。
思わず天を仰いだその時──
「──助けてくれぇえええ!!」
突如、窓の外から悲鳴のような男の声が聞こえた。
龍生がその声に反応するよりも早く、ナナが瞬時に窓へと駆け寄る。
「……リト?」
ナナの声が驚きに染まる。
龍生も遅れて窓の外を覗き込む。
──そこには、必死に逃げ惑うリトの姿があった。
彼は中庭を全速力で駆け抜けている。
その表情は切迫し、普段のドジで間抜けなものではなく、本気で命の危機を感じているものだった。
そして、その背後には──
「……おいおい、何かヤバそうなことになってるぞ。」
龍生が目を凝らすと、リトを追いかけている集団の中に、見知った顔があった。
──猿山たち。
リトの同級生で、普段はバカな悪ノリばかりしている連中。
だが、今の彼らは明らかに異常だった。
「何やってんだ?」
「またララさんの発明品でなんかされてんじゃねえか?」
ナナが困惑しながら尋ねると、龍生は苦笑混じりに答えた。
──が、モモだけは違った。
「いえ、ですがあれは……」
彼女は、何かを懸念するような眼差しで、じっと猿山たちを見つめていた。
──そして、モモの不安は、的中する。
リトが転びそうになりながらも、必死で彼らの攻撃をかわす。
だが、その瞬間、地面が抉れた。
「……え?」
それを目撃した瞬間、龍生の思考がフリーズする。
ただの高校生である猿山たちの拳が、地面に叩きつけられた衝撃で、コンクリートが砕け、深くえぐれていた。
──人間離れした力。
彼らは、大きく口を開け、両目が真っ白に染まっている。
まるで理性を失った変異者のような姿に、龍生、ナナ、モモの三人は言葉を失った。
「あいつら……ヤバいってレベルじゃないぞ」
龍生の背中に嫌な汗が滲む。
リトが限界に近づいているのは、見ればわかる。
だが、次の瞬間──彼は助かると確信した。
──金色の闇。
様々な戦場を駆け抜け、命がけの任務を遂行し、「宇宙一の殺し屋」とまで呼ばれた少女。
かつてリトを殺すために地球へやってきたが、今はその目的も曖昧になり、この街で静かに暮らしている。
今の彼女なら、間違いなくリトを助けてくれるはず。
龍生は胸を撫で下ろし、ヤミの動向を見守ろうとした──が、次の瞬間、全身に戦慄が走る。
──猿山たちが、標的をヤミに変えたのだ。
「今度はオレらとォォ、遊ぼうぜェエェ!!!」
悪意をむき出しにした猿山が、ヤミへと飛びかかる。
その速度は、龍生の想像を超えていた。
──が、ヤミは微動だにしない。
彼女は、ただ静かにたい焼きを食べていた。
しかし、猿山の拳が届く直前、
「ふぅ……」
ヤミは軽く息をつきながら、ふわりと跳躍した。
次の瞬間──
ガシャアァァァン!!
猿山の拳が、彼女が座っていたベンチを粉砕した。
飛び散る木片と砂埃。
そこに残ったのは、砕けたベンチと、地面に転がるたい焼きだけ。
「何ですか、あなた達は」
ヤミは、淡々とした声で言った。
その表情に、焦りも驚きもない。
ただ、静かに、冷たい怒りを宿しているだけだった。
「ぁぉあああ!!!」
猿山たちは、彼女の警告を聞く耳も持たず、再び飛びかかる。
「これ以上近寄るなら、痛い目を見ますよ?」
警告はした──が、彼らは止まらない。
ヤミは溜息をつきながら、次の行動を考えていた。
──殺せ、と言われれば、一瞬で終わる。
彼女の戦闘能力ならば、今ここで人間数人を消し去ることなど、まったく難しくない。
しかし、彼らはただの一般人。
恐らく、何かの力に操られているだけであり、本来の意志ではないのだろう。
無駄な殺生は、望ましくない。
ならば、どう動くべきか……。
そのわずかな迷いを狙うように──
猿山たちの動きが、さらに加速した。
ヤミが対応を決めかねている間に、彼らの距離が詰まる。
そして──
「──っ!」
ヤミの腕が、一人に捕まれた。
その瞬間、身体が縛られたように動きが鈍る。
別の男が、後ろから抱きすくめるように腕を押さえる。
──このままでは……。
1人の男の手が、ヤミの胸元へと伸びる。
胸元付近の戦闘服をぎゅっと引きちぎろうとする事で、彼女の乳房が顕になった。
形の良い乳頭と若い張りのある胸部の露出に、龍生は思わず吸い込まれるように見てしまう。
「……お、おお、な、なんというかその「み、見るなこのケダモノーっ!!」 うぉぉおおお、目がっ、目が燃えるように痛いィィッ!!」
「モモ、早く行こう!」
「えっと……龍生さん、ごめんなさい! 少しここで待っていて下さい!」
背中から黒い悪魔の翼を出すなり、ナナはヤミとリトを救出しに窓の外へと飛び出した。
目を抑え悶絶する自分をどうしようというモモの優しさと迷いを感じとり、少し救われる龍生だった。
──一体誰がこのような事を……
闘牛士のように凡そ人間の力とは思えない拳を難なく交わしながら、モモはこの事態を引き起こした人物について逡巡する。
人の精神をコントロールし支配する能力は勿論、支配した人間の能力さえも強化してしまう能力から、かなりの使い手である事は間違いない。
目的は恐らくヤミである事から、彼女と何かしら接点がある人が関わっているのだろう。
彼女は「宇宙一の殺し屋」とまで言われるほどに、宇宙でも彼女の存在を知らない者はいない。
裏で生きる者なら尚更に、彼女の事を知ってる者は多いはず。
彼女を狙うということは、以前暗殺対象だった者の報復なのだろうか。
「アァァァァッ!!!」
「──っ!?」
勘のようなものが不穏なサインを送ってくる。
咄嗟に顔を左に傾ければ、男の拳が髪を掠めた。
(明らかに動きが早くなってる……対象に何らかしらのアクションを起こせずにいたから焦ったのかしら……という事はここら辺で見ている……?)
疑念はポンポンと頭に浮かぶが、益々速くなる動きに、避ける事で精一杯になる。
危機感の水位が急上昇した。
背後にはリトが控えている。
まだ距離はあるが、後ろに下がれば下がるほどに、リトへの危険度も跳ね上がる。
流石にやむを得ない。
そう判断したモモは、隠し持っていた携帯をかぱっと開く。
──転送システム“デダイヤル“
(──転送!!)
ボタンを押すなり、地面から地割れが何箇所かに起きる。
自然災害によるものではない。
突然、大人1人分ほどの横幅の植物の茎なようなものが出現する。
明らかに意思を持ったソレは、周りにいた男どもの腰に絡まるなり、空中へと持ち上げた。
バタバタと男達は抵抗を試みるも抜け出せない様子から、無力化に成功する。転送を解除しない限り、彼等が地上に降りてくる事はない。
チラリとナナとヤミに目を向ければ、ヤミは己の変身能力により彼女の金髪の髪を拳のような形にし、男達を圧倒していた。
一度不覚をとっても、さすがは宇宙一の殺し屋と呼ばれているだけはある。飾りだけの名ではないことがわかる。
ナナもモモと同じ様にデダイヤルから、巨大な猪を出現させて、男どもを宇宙の彼方まで飛ばしていた。
明らかな過剰防衛にも思う部分もあるが、取り敢えず一件落着だ。
肩の荷が下りたようにほっとする。
そう思った矢先だった。
「──モモっ、後ろっ!!!」
リトの絶叫が鼓膜に伝播する。
反射的に後ろを振り返れば、迫り来る男の影があった。
涎を垂らしながら、本能に赴くまま、男は地面を蹴るなり、真っ直ぐにモモの身体目掛けて飛んでくる。
(──くっ、避けれないっ!?)
モモの表情が凍り付いた。
彼等の男の本能剥き出しのままの攻撃は、明らかに服を破るなどの破廉恥なもの。醜態を晒してしまうそんな危機が、自分にも迫っている。
もうこれは抗いようがないものだと悟った。
こんな経験を前にもした記憶がある。
記憶が、ともし火の消えるときのように、つかの間生き生きとモモの脳裏に燃え上がってきた。
地球に来てから数日後のあの日。
自分に迫り来るものを一度感じたことがあった。
それはどうにもならない──運命的なもの。不思議な暗い力に引っぱられるみたいに、抗えないもの。
決して諦めたわけではなかった。でも、どうしようもないものだと悟った。
──無事で良かった。
でも、未来は変わった。半分夢のような、耳の底で優しく囁かれてるような声が、抗えないものを『いつか』に捻じ曲げてくれた。弧を描く様に何もかもを包み込んでくれるような少年の笑顔に救われた。
──大丈夫。オレが何とかするから。
よその星の貴公子など、地位や名誉を手にした男とのお見合いは何度行っても、モモが気を許す事はなかった。上辺だけの下心に満ちた男など、不快なだけ。何度もそうやって猫を被ってきた。
それなのに、あの日からよそからの心を拒絶していた胸に、桃色の花弁が張りついたほどのささやかなぬくもりが湧いたのだ。
だから、彼以外の前で裸など晒したくない。
そう思えば思うほど、いましたが来る現実に、身を震わせて厭うほどおぞましかった。瞳から溢れるものがあった。
いつから自分はこんなに弱くなってしまったのだろう。
「いや……っ!」
心の中だけで抱えていることができなくなった感情が、言葉になって漏れ出した。だが、モモの弱々しい表情すらニヤリと下衆の笑みを浮かべて、男が手を伸ばす。
真っ直ぐに、彼女の胸元に向かって。
(龍生さん──っ!)
受け入れなければならない現実に、ぎゅっと唇を噛み締めた。
見たくない現実に思わず目をつぶった。
だが──男の手が届く事はなかった。
「──この子に何のようですか、先輩方」
感じたのは全身を抱きしめてくれるような、優しい温もりと、温かい怒りの声だった。その優しさを求めるように目を開ければ、まるで全て知ってたように。颯爽と現れた王子様のような彼がそこには居て。
「龍生……さん……っ」
「──っ!? 無事で良かった」
その低く穏やかな声は、彼女の心の中の嵐を静め、まるで波間に漂う小舟を穏やかな海へと導くかのようだった。
心臓の鼓動が静かに共鳴する。
ほのかに香るシャンプーの香りが鼻をくすぐった。その香りがモモを安らぎへと誘う。胸の奥で緊張がほぐれ、心がふわりと軽くなる。
彼の腕の中にいると、まるで全ての不安が遠ざかり、世界が二人だけのものになるように感じた。
「少し待っててくれ」
「ぐがっ!?」
男の手を掴んだまま、龍生は彼の溝打ちあたりに蹴りを繰り出した。そして男は前のめりに倒れ込み、ピクピクと身体を震わせた。
完全にグロッキー状態な男は起き上がる事はなかった。
「えっ──?」
モモは思わず目を見開いた。
たったの一撃でこの男を無力化した龍生の脚力に。
一体何が起こったのか、頭が混乱したモモに構わず、彼女の目尻に溜まった涙を龍生は指先で拭った。
「もう大丈夫だから。怖かったろ? 良く、1人で頑張ったね」
ヨシヨシと子供の頭を撫でるように、彼は優しく頭を撫でてくれる。そんな陽だまりのような愛情を受けながら、頭を一撫でされて、モモは気持ちよさそうに目を細めた。
からだがカッとするほどの幸福感が押し寄せてくる。
しばらくして、ふと龍生の手が止まった。
「……あっ」
彼を見上げる形で、思わず名残惜しい声が漏れてしまった。
赤面した可憐きわまる女の顔になるモモだが、龍生の顔を見て、乙女の顔が引っ込んだ。
彼はどこか神妙な顔で校舎を眺めていた。
それが無性に気になり、彼の視線を辿る。
彼が見ていたのは、自分たちの教室。
しかし、追う様に彼の視線を見遣るが、特に誰かの痕跡はない。
「龍生さん?」
『──やはり、誰1人息の根を止めてはいないか……』
不思議に思ったモモの問いかけに応える前に、不気味な声が割り込んでくる。
辺りを見回しても、ここにいる人以外に、人影は見られない。
どうやらソイツは、操った者達の口から、遠隔で言霊を飛ばしているようだ。
『──地球で牙を抜かれたという情報は本当のようだな』
「……誰ですか」
ヤミの問いかけに、ふっとその者は笑う。
『──本当の君を知る者だよ。目を覚ませ、金色の闇。ここは君のいるべき場所じゃない。そう、君の本質は闇。殺戮以外に生きる意味のない存在。地球人と仲良くできるはずがない。甘い夢など、終わらせるべきだ……』
ヤミの心の奥深くに眠る何かに囁く様だった。
こんな所で油を売ってる場合ではない。
兵器としての役割を思い出せ。
結城リトを抹殺しろ、と。
どうやら彼女の深淵を理解し、同調できる存在であるみたいだ。
「ターゲットが側にいるのだから……」
「──待てよ、逃げんな」
「りゅ、龍生さん?」
今し方そのまま消えゆく声に、待ったをかけたのはすぐ隣にいる龍生だった。
「何者かは知らないが、姿も現さないで、こんなの卑怯だとは思わないのか? 1人の、女の子を泣かせてっ」
『……若いな、それがどうした?』
「テメェな……っ!」
「……龍生さん」
自分のことを思って怒ってくれている。
それだけでこの上なく心が躍ってしまう。
龍生は、ゆっくりと深呼吸をした。
「それに、あんた勘違いしてるぞ」
『……』
「存在意義なんて、いろんな人と出会って、関わって、自分の知らない体験をして。そうやって積み重ねてきたものからヤミ自身が決めるべきものだ。よくわからない根拠で、アンタが決めるべきものじゃない」
『……くだらない戯言だな』
「戯言かどうか試してみろよ。少なくとも彼女がこの先どうなろうが、リトさん筆頭に俺たちはヤミを見捨てる気はないぞ」
『……そうか』
「おれっ!?」
そのまま気配が消えた気がした。
裏の正体はわからない。
ただ、ヤミを何かしらの形で利用しようとしていることだけは、ここにいる者達は理解した。
ひぐらしの鳴く声が、静かに夕暮れの訪れを告げる。
オレンジ色に染まった薄い雲が、空にぼんやりと広がる。
その下を、龍生はゆっくりと歩いていた。
頭の中で、さまざまな思考が浮かんでは消えていく。
今日の騒動──リトを襲った異常な力を持つ猿山たち、そして彼らを一蹴したヤミ。
だが、それ以上に龍生の心に引っかかっているのは、あの騒動を窓辺から静かに眺めていた一人の少女の姿だった。
──黒咲芽亜。
赤髪の三つ編みが特徴的な、美しい少女。
どこか人を寄せ付けない不思議な雰囲気をまとい、普段からほとんど口を開かない。
クラスメイトとも打ち解けておらず、龍生自身も関わったことはない。
もし彼女がたまたま騒動を目撃していたのなら、そこまで気にはならなかった。
──だが、彼女の目は違った。
まるで、科学者が実験動物の反応を観察しているかのような、冷徹な眼差し。
何を考えているのか、その深淵を覗こうとすると、背筋が凍るような不気味さがあった。
彼女はこちらと目が合うなり、すっと姿を消したが、確信があった。
──彼女は、ただの傍観者ではない。
まるで爆弾魔が、爆発の瞬間を楽しむように、状況を見守っていたのではないか。
芽亜がヤミを元の「殺し屋」に戻そうとしている可能性があるのなら、これは決して軽視できない。
リトを狙っていた頃のヤミは、龍生の目から見ても、まるで感情を捨てた殺戮機械のようだった。
今の彼女は、間違いなく「地球での暮らし」によって変化している。
その変化を歪めようとするのなら──
この日常を守るためにも、警戒を怠るわけにはいかない。
そんなことを考えながら歩いていると、隣を歩くモモがふと立ち止まった。
遅れて、龍生も足を止める。
「……龍生さん」
「モモ?」
龍生が振り向くと、モモはなぜか少し視線を落とし、ためらうような仕草を見せた。
「今日は……助けてくれて、ありがとうございました。……その」
なぜか言い淀む。
普段の彼女なら、甘い口調でさらりと言いそうなものなのに。
龍生は訝しげに首を傾げた。
彼女の顔を見ると、頬がほんのりと赤く染まっている。
夕陽のせいか──
いや、違う。
モモは、照れているのだ。
何かを決意するように、彼女はぎゅっと胸元で拳を握る。
そして、少しだけ震える声で言葉を紡いだ。
「……すごく、カッコよかったです……!」
龍生の思考が、一瞬止まった。
「お、おう……」
戸惑いながらも、どうにか返事をする。
だが、モモは続ける。
「本当に、素敵でした……っ」
その声は、震えているようで、けれどしっかりとした響きを持っていた。
まるで、迷いのない本音を伝えようとするように。
静かだったはずの夕暮れの中で、龍生の耳には彼女の声だけが鮮明に響いた。
──嘘じゃない。
彼女の言葉には、何の飾りもなかった。
からかいでもなければ、社交辞令でもない。
モモは、本心からそう思ってくれている。
……それが分かった途端、龍生の心がじんわりと温かくなる。
同時に、照れ臭さが込み上げ、思わず視線を外した。
もう一度、ちらりと彼女を見遣る。
その瞬間、目が合った。
「……!」
お互い、反射的に視線を逸らす。
何とも言えない、甘酸っぱい空気。
どちらともなく、何を話せばいいのか分からず、沈黙が流れる。
気まずいわけじゃない。
ただ、どうしても、照れくさい。
何度か、ちらちらと目が合い、そのたびに視線を逸らす。
そんなやりとりを繰り返していたが──
やがて、痺れを切らしたように、モモがふいに歩き出した。
「さ、さあ、帰りましょうか♪」
「そ、そうだな」
龍生も、少しぎこちなく歩き出す。
──が、モモが何やらじっと龍生を見つめていることに気づく。
「りゅ、龍生さん、お顔が真っ赤ですよ?」
「お、お前こそ真っ赤じゃねえか」
「こ、これは夕陽のせいですよぅ」
「どうだかな」
互いに言い合いながらも、頬の熱は収まらない。
「……ふふっ、龍生さんッ♡」
「だ、だからお前くっつくなって!」
唐突に腕に絡みついてくるモモ。
龍生が慌てて身を引こうとするが、モモは甘えるようにぴたりと寄り添う。
彼女の温もりが、妙にリアルに伝わってくる。
それが余計に恥ずかしくて、龍生は夕焼け空に向かってため息をついた。
──夕陽が、金色の矢のように大気を貫く。
重なった二人の影が、静かに地面へと伸びていた。