桃色と女の園   作:yuykimaze

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3話

 

 

 

 ブラインドの隙間から、朝の光が縞になって顔の上に落ちてくる。

 その一本が瞼をなぞったところで、モモは目を覚ました。

 猫が伸びをするみたいに、音もなく上体を起こす。寝癖のついた髪をかき上げ、小さなあくびをひとつ。目尻に浮いた雫を、袖でぐしぐしと拭った。

 実のところ、モモは朝に弱い。

 輪郭のぼやけた頭のままでは、いつもの彼女は出てこない。だから浴室へ向かう。

 二度寝の誘惑に何度か足を掴まれながら、冷たいシャワーを頭から浴びた。うなじを叩く水が、少しずつ意識の芯を起こしていく。

 タオルで身体を拭き、鏡を覗く。今日も調子は悪くない。制服に着替え、ダイニングへ。

 エアコンの設定を確かめてからエプロンを結び、朝食の支度にかかる。

 だしパックでとった出汁に、味噌を溶く。透明だった汁が、渦を巻きながら濁っていく。

 それを眺めているうちに、昨日の声が耳の奥で再生された。

 

 ――本当の君を知る者だよ。目を覚ませ、金色の闇。ここは君のいるべき場所じゃない。君の本質は闇だ。殺戮以外に生きる意味を持たない存在。地球人と仲良くできるはずがない。甘い夢は、終わらせるべきだ。

 

 あの囁きは、彼女のどこまで届いたのだろう。

 龍生の言葉ではなく、あちらを選んだのなら。

 元の巨悪が戻ってきて、この日常は跡形もなく崩れる。

 多少の戦闘経験を積んだところで、ヤミ相手に自分は届かない。彼女に並ぶ力を持つ者など、銀河を探しても数えるほどしかいないのだから。

 

 ――やはり、あの子をハーレム計画に引き入れるしかない。

 

 最後の手段として父に泣きつく道もある。ただ、それはモモにとって具合が悪かった。この日常は、できる限り自分たちの手で守りたい。

 となれば、ヤミの心をリトへ向ける。それが最優先の案件になる。

 勘だが、ヤミもまたリトに惹かれている一人だと思う。ならば彼女をリトの虜にしてしまえば、話は全部繋がる。

 

「うふふ。でも、まだまだその道は遠そうね」

 

 お玉で味噌汁を少し掬い、口に含む。塩気を足して、火を止めた。

 そろそろ、彼を起こす時間だ。

 リビングを出て、忍び足で階段を上る。エアコンの届かない廊下はもう温い。

 扉の前で、一度だけ深呼吸。ゆっくりとノブを回した。

 案の定、ベッドで眠っている。

 気配を殺して近づき、まじまじと覗き込んだ。

 通った鼻筋。雪国の生まれだと言われても納得しそうな白い肌。薄い唇。閉じているせいで判らないが、開けば大きい瞳。眉の形まで、丁寧に引かれている。

 どこを取っても、整いすぎているくらい整った顔だ。

 その寝顔を眺めていると、昨日の場面が勝手に立ち上がってくる。

 

 ――もう大丈夫だから。怖かったろ? よく、一人で頑張ったな。

 

 思い出しただけで、頬が熱を持った。

 胸の中では心臓が、木の橋を渡る馬の蹄みたいな音を立てている。

 正直、卑怯だと思う。

 助けてほしいと思ったその瞬間に、間に合ってしまうところ。

 猫の肉球みたいに柔らかい言葉で労うところ。

 頭を撫でるところ。

 自分のために怒るところ。

 細く見えるくせに、腕が思ったより硬かったところ。

 彼の声も、仕草も、体温も、モモのいちばん薄い部分に届いてキンキン鳴る。心が酔って、こんないいことがあっていいのかとまで思う。

 その裏で、彼のずるいところや鈍いところを数え上げると、息が詰まるほど腹が立つ。

 他の誰に対しても、ここまで振れない。振れ幅の大きさが、そのまま気持ちの大きさなのだと思う。

 

「ホント、罪な人……♡」

 

 こちらが絶賛お悩み中だというのに、当人はすやすやと眠っている。

 頬をつついても起きる気配がない。

 

「龍生さん、龍生さーん、起きて下さーい」

「むりぃ……むにゃ」

「か、可愛い……っ♡」

 

 心臓がまた跳ねた。手持ちのものを全部あげてしまいたくなるような、無防備きわまりない顔。

 今まで生きてきた中で、いちばん尊い。

 このまま寝顔を眺めていたい。が、それでは遅刻する。

 こうしてずっと彼の寝顔を見れるのなら、別にそれでも遅れても構わないが。

 

「起きないと、イタズラ……しちゃいますよ?」

「――今すっごい起きました!!」

 

 兵隊みたいに、かばっと跳ね起きる龍生。

 

「あらら……ザンネン♡」

「お、オマエな、もうちょっとマシな起こし方ないの?」

「いつまでもお寝坊さんがいけないのでは?」

「……それを言われると何も返せん」

 

 反撃の狼煙は、今朝も上がらないらしい。

 

「⋯⋯今日は何もないんですか?」

「やかましいわ!!」

 

 これが最近の、彼女の日課だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――二手に分かれよう。

 

 モモと相談した末の結論が、それだった。

 彼女が女性陣の外堀を埋め、龍生はリトの思考回路に「ハーレム」という単語を植え付ける。

 ……明らかに、モモの担当のほうが重い。

 当の本人は、遠足の前日みたいな顔で目を輝かせていたが。

 止める理由もないし、止める手段もない。

 特に、ヤミの意識改革が緊急案件だという。どんな手を考えているのかは知らない。あいつのことだ、こちらが聞くより先に「うふふ、実はですね♡」と得意げに説明してくる。

 龍生は目を閉じ、息を吐いた。頭の中の雑音を沈めていく。

 だが、沈めきれないものがひとつ残った。

 

 ――黒咲芽亜。

 

 リトの意識をどうこうする以前に、今朝から彼女の姿を目で追ってしまっている。理由は自分でも掴めない。警戒か、それとも。

 

「モモ、リュー生。新しいトモダチを紹介するよ!」

 

 接点は、思いがけない形で向こうからやってきた。

 

「初めまして。黒咲芽亜です。ヨロシクね――っ!」

 

 にっこりと笑う。

 その笑顔には、影がない。どこをどう見ても、無邪気な少女にしか見えない。

 しかし。

 

「……北風龍生だ。よろしく頼む」

「モモ・ベリア・デビルークです。よろしくお願いしますね、メアさん」

 

 名乗った二人に、メアはわずかに目を細めた。

 その瞳が、じっとこちらを見ている。

 初対面の興味では、ない。中身を検分する目つきだった。

 

「どうした?」

「ううん、何でもない!」

 

 あっけらかんと笑って返される。

 そこから、モモとメアとナナの談笑が始まった。

 内容は他愛もない。それでも龍生は落ち着かなかった。

 気づけば、メアが時折こちらへ微笑みかけてくる。

 ずっとではない。周りに怪しまれない程度に、さりげなく、控えめに。

 その加減が、かえって秘密の共有めいて見える。

 昨日の件を、知っている。

 こちらの反応を測っている。

 それだけは、はっきりした。

 

 

 

 

 

 

 

 昼食を終えた廊下で、赤い三つ編みが視界を横切った。

 

 ――偶然か?

 

 龍生の足が、勝手に止まる。

 

「……追うべきか」

 

 ストーカーまがいの真似は気が引ける。とはいえ、ここまで来て見送るほうがリスクは高い。

 距離を取って、後をつけた。

 彼女が向かったのは中央階段。

 

(どこに行く気だ)

 

 一階から二階。二階から三階。さらに上へ、上へ。

 

 ――屋上か。

 

 この時季の屋上は、日向ぼっこには向かない。焼けたコンクリートが陽炎を吐いているだけだ。

 扉の前で息を整え、静かに押し開ける。

 そして、目を見開いた。

 

「……誰もいない?」

 

 足を踏み入れ、見回す。給水塔の影にも、フェンス際にも、人影はない。

 ほんの数秒前まで、確かにここへ向かっていたはずだった。

 

「……幽霊でも追いかけてたのか」

 

 風の音がしない。蝉の声も、なぜか遠い。

 背筋に、じわりと冷たいものが上ってきた。

 その時。

 

「……どうしたの?」

 

 背後から、声。

 

「――っ」

「こんなところまで来て」

 

 囁きが、耳のすぐ後ろで転がる。

 声を出そうとして、喉が動かないことに気づいた。首筋を、汗が一滴だけ落ちていく。

 

「ふふっ、昨日マスターに歯向かったでしょう?」

 

 薄い刃を背骨に当てられたような感覚。

 ――逃げろ。

 そう命じても、足が根を張っていた。

 

「……やっぱり、お前がやったのか」

 

 どうにか、声を絞り出す。

 

「うーん、半分正解」

 

 メアが、からかうように笑った。

 

「やったのは私じゃないよ。でも、よく気がついたね。素敵!」

 

 言い終えた途端、纏わりついていた圧が、すっと引いた。

 代わりに残ったのは、人懐っこい笑顔。

 その切り替えの速さが、龍生にはいちばん怖かった。

 

「何が目的だ」

「あれ? マスターが言ってなかった?」

 

 くるりと回って、メアは声を落とす。

 

「――ヤミお姉ちゃんを、元に戻すの」

「……何のために」

「それはナイショ」

 

 いたずらがバレた子供の顔。

 だが、龍生にはわかった。この子の背後に「マスター」がいて、この子を動かしている。

 メアは、駒だ。

 

 ――問題は、駒の側にどれだけ意志が乗っているか。

 

 聞けることは聞いた。茨の茂みに踏み込んでいくような手触りが、直感に警報を鳴らしている。

 これ以上は愚策だ。踵を返そうとした、その瞬間。

 

「――逃げないでね?」

 

 足が、止まった。

 さっきまでの淡々とした声とは、温度が違う。含みのある、甘ったるい響き。

 

「これから少し、アナタの中身を見てみたいから」

 

 ――何を言っている。

 

「はあ? 一体何言って――っ」

 

 首筋に、衝撃。

 

「っ……!?」

 

 視界が傾ぐ。膝から力が抜けていく。足の裏の感覚が、遠くへ運ばれていく。

 

 ――あれ。立てない?

 

 考えようとしても、思考が形にならない。声も出ない。

 誰かに電源を落とされたみたいに、暗転が広がっていった。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた。

 眠りと覚醒の中間地帯というものが、まるごと省略されていた。瞼を開けた時にはもう、頭は普段どおりに回っている。

 見えたのは、自室の天井。

 ――屋上にいたはずだが。

 疑問が浮かぶより先に、違和感のほうが先に立った。

 静かすぎる。

 窓の外で、蝉が鳴いていない。車も通らない。

 壁の時計を見た。秒針が、同じ位置で震えている。

 

「ひやぁ……やぁ♡」

「へ──っ!?」

 

 寝かされた身体の上にまたがるようにして、赤毛の女の姿。パジャマの前のボタンが全て外され、若くて先の優しい尖りを持った乳房が露わになっている。

 加えて自身の右手がその柔らかな乳房に触れている。あろうことか、妙に硬くなり出した先端をぎゅっと摘んでいた。

 摘んだことで、乙女の甘い声が部屋に充満した。

 

「く、くすぐったいよぅ……」

「す、すまん!」

「わっ」

 

 慌てて身体を起こし立ち上がる龍生に、身体を起こされたことで、馬乗りになっていた彼女はバランスを崩した。

 

「やだなぁ、いきなり……」

 

 乱暴しないでくださいとそう伝えてくる彼女に、謝罪をしかけて飲み込んだ。

 

「な、なんで、おまえがこんな格好して家にいるんだよ!」

「ここはアナタの夢の中だよ──」

「夢ってどういう──っ!?」

 

 言葉を紡ぎかけて、ハッと自身の違和感に気づいた。

 控えめながらも形の整った彼女の乳房に、きゅっと締まったウエスト、雪の様に白い肌。性的興奮を呼びかけるには十分すぎる素材に、剛直が盛り上がっていた。

 あろうことか、ボクサーパンツ一丁の姿からのその盛り上がりは、彼女の丁度顔付近の高さで、この上なく目立っていた。

 メアは何故かそれを見て、キラキラした瞳を向ける。

 

「……ケダモノ!」

「ど、どこみてんだよっ!!」

 

 慌てて手で息子を優しく覆うが、返って彼女の好奇心を逆撫でする。

 

「男の人ってそうなるんだね!! もう少しよく見せて!!」

「ちょ、お前こっちくるんじゃねえ!!」

「なんだか身体が熱くなってきた! これがえっちい気分なのかな?」

「知るかそんなの! ──えっちぃ?」

 

 妙な言い回しに、ぴくりと龍生のセンサーが反応するが、瞳に獰猛な獣を宿わせて、未知の世界への止みがたい歩みを続けようとする全裸の彼女に、思考回路が正常に働かない。

 

「な、なんで人の家に入り込んでんだよお前!」

「あぁ、それはね、私達の心が今繋がってるから」

「こ、ココロが繋がってる?」

 

 突拍子もない乙女チックな発言に、龍生の眉がひそめられる。

 

「そう。夢は記憶から生み出されるイメージの世界。わたしがこうして夜更にアナタを襲おうとしてるのは、強いイメージの影響──」

「強いイメージの影響……」

 

 何かひどく引っかかる言葉だ。

 まるで、龍生自身の意識が無意識のうちに呼び寄せたかのような言い回し。

 

「つまり、女のコ、夜這い、えっちぃ気分。最近こんなシチュエーションでビックリするようなことがあったんじゃないかな?」

 

 ──龍生さん

 

 その言葉に呼応するように、記憶の奥底から浮かび上がる映像。

 まるで、今そこにあるかのように鮮明で、艶やかなワンシーン。

 甘く囁く声。

 透き通るように白く、研ぎ澄まされた肢体。

 細く引き締まったウエストに、弾けるように張りのある胸と腰。美しすぎるほど均整の取れた曲線美。

 まるで神が造り上げた芸術のような裸体。

 

「……っ!!」

 

 思い出した瞬間、身体の奥底から抑えきれない衝動が湧き上がる。

 それに呼応するように、すでに硬直していた龍生の下腹部がさらに膨張する。

 焦りと羞恥が全身を駆け巡る。

 

「わあ、もっと大きくなってる!」

「ぬぉぉおお!! だから見るんじゃねえ!!」

 

 とっさに布団を引き寄せるが、メアは好奇心に満ちた眼差しで覗き込んでくる。

 

「何があったのかなあ……」

「お、おまえ、ホントに近寄るなって!!」

 

 龍生は跳ね起きて、ドアへ走った。

 ノブが回らない。蹴りつけても、衝撃が返ってこない。殴った手応えごと、どこかへ吸い込まれていく。

 

 ――現実じゃない。

 

 確信が、冷たい塊になって腹の底に落ちた。

 

「もう。逃げちゃダメだって言ったのに」

 

 背後から、絡みつくような声。

 次の瞬間、天地が入れ替わった。

 背中が床に叩きつけられ、両手足が何かに縛られている。細く、しなやかで、無数にあるもの。

 赤い髪だと気づいた瞬間、血の気が引いた。

 

「お、おまえ……この能力」

 

 ヤミと、同じ。

 何度も見せられた変身能力。世界で彼女だけのものだと思っていた力を、目の前の少女が使っている。

 

「あたしはヤミお姉ちゃんの妹のメア。何も驚くことないよ?」

「嘘つくな。アイツに身内はいないはずだ」

「それはヤミお姉ちゃんが知らないだけ。現に、そっくりでしょ?」

 

 ――そっくり、じゃない。

 

 完全に一致している。それだけで、この子が出鱈目を言っているわけではないと理解してしまった。

 

「昨日のは、凄かったね? わたし久しぶりに感動しちゃった! もっと地球人は脆いと思ってたから」

「……な、何だよ」

 

 龍生を縛ったまま、メアがゆっくりと四つん這いで這い寄ってくる。

 乳房を垂らしながら、無邪気な笑みを浮かべて。

 その視線は、まるで新しい「おもちゃ」を見つけた子供のように輝いていた。

 

「気になるなぁ、アナタの中身♡」

 

 眼下に迫り来る彼女の声が艶かしく耳を襲う。

 色気のない瞳でも、見上げられたそれはどこか蠱惑的で。

 ぴたりと隙間なく密着してくる。

 胸元に押し付けられる柔らかな感触。

 肌が直に触れ合い、熱がじんわりと伝わる。

 逃げようと身を捩るが、赤い髪の拘束から逃れられない。

 内側がもぞもぞと波立つのを感じる。

 

「もっと見せて」

 

 その瞬間。

 頭の芯に、細い指を差し込まれた感触がした。

 視界が、剥がれる。

 部屋が退き、代わりに知らない色が流れ込んできた。

 

 ――否。知っている。全部、自分のものだ。

 

 薄暗い脱衣所で悲鳴を上げた朝。味噌汁の湯気。夕暮れの通学路。腕に絡みついてきた重み。

 それらが、勝手に引きずり出されて、宙で開かれていく。アルバムのページを他人の指がめくっていくみたいに。

 

 「わあ。この子のことばっかりだね」

 

 メアが、楽しそうに笑った。

 

 ――やめろ。

 

「泣いてる。ここ、いちばん濃い。撫でてあげてるんだ、ふうん」

 

 指が、いちばん奥のページに触れた。

 その一枚に、他人の指がかかった瞬間。

 龍生の中で、何かが音を立てて据わった。

 恋なのかどうかは、正直わからない。付き合っているわけでもない。

 それでも、この一ヶ月で重ねてきたものは、他の何とも取り替えがきかなかった。あいつの顔、声、仕草。全部に、言葉にならない愛しさがくっついている。

 

「……触るな」

「え?」

「それは、アイツと俺のだ。お前が値踏みしていいもんじゃない」

 

 髪の拘束が、ぎしりと軋む。

 

「――今すぐ、そこをどけ」

 

 まっすぐ、射抜くように。

 その瞬間。

 

「えっ!? うそっ!?」

 

 メアの輪郭が、光に浸食された。

 この世界そのものが、彼女を吐き出そうとしているみたいに。

 

「そんなっ、なんでっ!?」

 

 抗う声を、光が押し流していく。

 龍生自身にも、何が起きているのかはわからなかった。

 ただ、ひとつだけ確かに感じる。

 

 ――守れた。

 

 意識が薄れていく。

 最後に浮かんだのは、桃色の髪だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 弾き出された、という感覚だった。

 

「……?」

 

 メアはしばらく、状況に追いつけないまま突っ立っていた。

 やがて視線を落とす。そこには何事もなかったように、穏やかな寝息を立てる男。

 

「……ふぅ」

 

 胸を撫で下ろして、それから眉を寄せる。

 いまのは、完全に想定の外だ。

 対象の「拒絶」で、空間そのものから追い出される。そんなことは一度も起きたことがない。

 

 ――そもそも、可能なの?

 

 夢の世界は、いつだって思いのままだった。

 相手が「これは夢だ」と気づいて、多少もがくことはある。けれど意志の力だけで術者を排除するなんて、聞いたこともない。

 

「……取り敢えず、色々喋りすぎちゃったかなぁ」

 

 返す者はいない。屋上に、規則正しい寝息だけが落ちている。

 まあ、いずれバレることだ。それに、ここは彼の夢。覚えている可能性のほうが低い。

 そう思いながら、メアは踵を返す。

 

 ――だが、どうしても離れない。

 ――今すぐ、そこをどけ。

 

 あの瞬間の顔。迷いのない目。魂の底から押し出されたような、混じり気のない拒絶。

 あんなに真っ直ぐ拒まれたのは、初めてだった。

 胸の底に、見慣れない感情が芽を出している。

 甘くて、厄介なもの。背骨を、ぞくりと何かが駆け上がった。

 

「北風龍生くん、ね」

 

 拾い上げた記憶の断片を、指先で転がす。

 中身は、ほとんどモモとの記憶だった。

 そのなかで一等おもしろかったのが、彼とモモが『ハーレム計画』なるものを立てて動いているという事実。

 

「……ふぅん?」

 

 ヤミをリトのハーレム候補に据えて、恋心を芽生えさせる。それが彼らの目的。

 つまり――こちらの「ダークネス計画」と、真正面からぶつかる。

 

「――どっちが思い通りにできるかな……」

 

 彼を屈服させられるのか。

 それとも、あの男はモモの側に立ったまま、道を塞ぎ続けるのか。

 

 ……なんて、素敵♡

 

 記憶を弄んでいたはずが、気づけば弄ばれていた気分だった。

 それが妙に癪で、けれどそれ以上に――

 メアは、この状況を面白いと思わずにいられなかった。

 

 

 

 瞼を開けると、ぼやけた視界に大きな影があった。

 光量に目を細める。輪郭が定まっていくにつれ、空いっぱいに広がる夕焼け雲が見えてきた。赤い鳥の羽を撒き散らしたような雲だった。

 その橙の下に、見知った顔がある。

 

 ――モモ。

 

 長い睫毛が頬に細い影を落とし、静かに眠っている。

 

「……嘘だろオイ」

 

 起き上がろうとして、身体が言うことを聞かないことに気づく。

 後頭部に当たっているのは、焼けたコンクリートではない。柔らかくて、温かい。

 

 ……いや、まさか。

 

 視線を巡らせて、確認してしまった。膝枕である。

 

「……っ」

 

 血の気が引いた。慌てて記憶を手繰る。

 メアを追って屋上へ来た。そこから先が、繋がらない。

 夢を見ていた気はする。内容が思い出せない。薄暮に溶けていく稜線みたいに、輪郭だけが残っている。

 夕焼けの空。長く伸びた影。

 

 ――授業、丸ごと飛ばしたな。

 

 ため息をついて、もう一度モモの寝顔を見た。

 宇宙人とはいえ、どういう配合をすればこうなるのか。

 顔のどこにも余白がない。大きな瞳、形のいい鼻、桜色の唇。

 

 ――この距離で直視するのは、危険だ。

 

 わかっているのに、目が離せない。

 と、睫毛がふるりと震えた。

 ゆっくり瞼が開き、輪郭のぼやけた紫の瞳がこちらを向く。

 

 ……なんだ、この無防備さは。

 

 いつもの小悪魔はどこにもいない。ただぼんやりと、こちらを見ているだけの顔。

 

「……おはよう」

 

 その一言で、モモの顔が色を変えた。

 

「――っ!?」

 

 事態を理解するなり、両手で顔を覆う。

 

「いやいや、今更遅くないか?」

 

 苦笑すると、手の隙間からじとりと睨まれた。

 

「も、もう、起きたのなら声を掛けてください」

 

 頬を膨らませたまま、むにゅっと龍生の頬をつねってくる。

 

「わるかったよ……それより、他に誰かいなかったか?」

「? 私が来た時には、もう誰も」

「そうか……」

 

 逃げ足が早い。というより、こちらの目覚めが遅すぎたのだろう。

 

「でもビックリしました。まさか龍生さんが、こんな所で倒れてるなんて」

「いや、それは俺もビックリというか……」

「お昼寝でもされていたのですか? すやすや眠っておられましたけど」

「……まあ、そうかもな」

「?」

 

 言えるわけがない。

 何かをされた気がするのに、証拠がひとつも残っていないなんて。

 納得はいかないが、ただの寝坊ということにしておくのが妥当な着地だった。

 

「にしても、よくこんな所で寝てられたな。夏なのに、妙に涼しいんだけど」

 

 炎天下に何時間も転がっていれば、普通は熱中症だ。それなのに肌はひりついてすらいない。

 

「それはお姉様の発明品、これのお陰です♪」

 

 モモが掲げたのは、スノードームに似た小さな機械だった。

 

「……大丈夫かその発明品」

 

 毎度ろくな目に遭っていない身としては、洒落た起爆装置にしか見えない。

 

「効果はあったと思いますよ? 現に、今も涼しいですし」

「どういう効果なんだ」

「このボタンを押すと、半径三メートルくらいを透明なドームで半日包んでくれるそうです。中は涼しくて、日焼けもしないとか。夏には欠かせませんね」

「あの人、そんなマトモなもん持ってたのか」

「ふふっ、お姉様はああ見えて、すごく頼もしいんです」

 

 ああ見えて、という前置きが引っかかるが、確かに珍しく実用的な代物だった。

 

「そういえば、結構な時間こうしててくれたのか?」

「いえいえ、ほんの一、二時間程度です」

「……まじか。なんかすまん」

「うふふ、大丈夫ですよ。可愛らしい寝顔を沢山見られましたから♡」

 

 真っ直ぐな瞳を向けられて、龍生は視線を外した。

 仕舞いには、髪まで撫でてくる。労わりの手つきが、どうにもくすぐったい。

 このままではまずいと判断し、彼は情けない真実を告げることにした。

 

「その、労わってもらってばかりで悪いんだけど。なんか身体に力が入らないから、前みたいに飛んで家まで運んでくれないか」

「えぇっ!? だ、大丈夫ですか?」

「いや、まあ、平気なんだけど……マジで何しやがったんだあいつ」

 

 赤い三つ編みが脳裏をよぎり、龍生は深々とため息をついた。

 

「はっ、まさか何か、身体の力が抜けてしまうような夢を♡」

「だからどこ見て言ってんだお前は! ……とにかく、男として非常に情けないが、いつまでもこうしてられないだろ。少し運んでくれ」

「えっと、それがですね……」

「すまん、やっぱり重いか?」

「いえ、そうではなくてですね。……この効果が切れるまで、外に出られないみたいです」

「おい、やっぱりバカだろあの人」

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