「あんまり変わらないですね」
「まあ、でかい買い物したわけでもないしな」
扉を開けた瞬間、鼻が先に思い出した。日焼けした畳と、埃をかぶった漫画の匂い。
結城リトの部屋。二年ぶりだった。
見回しても、家具の位置ひとつ動いていない。変わっていないという、それだけのことが妙に胸に来る。
龍生は息をつき、ベッドの縁を背もたれにしてカーペットに腰を下ろした。この座り方まで、身体が覚えている。
「こうやってベッドを背もたれにして、ゲームしてましたよね」
「ははっ、そうだな。美柑も一緒だったっけ」
「よく俺たちに負けて、悔し泣きしてましたよね」
小さな手でコントローラーを握りしめ、負けるたびに「もう一回!」と涙声で食い下がってきた背丈。
思い出しただけで、二人とも自然に頬が緩んだ。
「あんな小さかった美柑も、もう小六ですもんね。早いなあ」
「ホントになぁ。今なんか俺よりしっかりしてるよ」
「相変わらず、美柑に起こしてもらってるんですか」
「えっと、それはまあ……」
視線を泳がせ、ポリポリと頬をかくリト。
龍生は自虐まじりに笑った。
「まあ、俺も人のこと言えないんですけどね」
「そっか。二人とも仲良くなって良かったよ」
柔らかく笑うだけで、それ以上は突かない。この人はいつもそうだ。だから龍生も、この部屋では余計な鎧を着なくて済む。
そこから先は、中身のない話ばかりだった。学校の些事。リトの苦労話。どちらも深まらず、ただ長さだけが延びていく。
どこにも記録されず、明日には消えているような話。龍生は、リトとのそういう時間が好きだった。
「そういえば、なんか話があるって言ってなかったっけ」
「ん? ああ、そうですね……」
頭の中のメモを、ぺらりとめくる。
今日ここへ来たのは、
学校の空き時間でもよかったが、あの話題を人目のある場所で切り出す度胸はなかった。
「リトさんはやっぱり、西蓮寺先輩が好きなんですか」
「えっ!? きゅ、急に何だよ!」
肩がびくんと跳ねる。
「相変わらずなのかなあって。ここには誰もいませんし、恋バナということで」
「うっ……いや、その……」
ゴニョゴニョと口の中で言葉が転がる。
それだけで、もう答えは出ていた。
「まぁ……好き、だよ」
やはり変わらない。中学の頃から、矢印はずっと同じ方向を向いている。
「それって、付き合いたいってことですよね」
「ま、まあ、そう、だね……」
「ですよね。陰からこっそり覗いたり、ストーカーみたいなことしてましたもんね」
「ストーカー言うな!」
「じゃあ、ララさんのことはどう思ってるんですか」
「ララは……」
空気が、一段沈んだ。
リトが視線を落とす。言葉を探している顔だった。
――迷っている。
龍生は急かさなかった。沈黙のほうが、たいてい正直だ。
「やっぱり俺は、西蓮寺のことが好きだから。だから、ララとは付き合えないって言ったんだ」
そこははっきりしている。
「でも、ララは……その……」
「それでもいい、って言われた感じですか」
「ま、まぁ、そんな感じ、かな……?」
ララの意志は一貫している。リトの気持ちがどこを向いていようと、彼女の側は揺れない。
そして「みんなでリトを好きになればいい」という発想も、たぶん彼女の中では自然に通っている。それをリトが頑として突っぱねていることも、龍生には見えていた。
――こいつを崩すのは、相当骨が折れるな。
内心でため息をついた、そのとき。
「……彩南プールのこと、覚えてるか?」
声の色が変わっていた。
「はい。リトさんが告るの失敗したやつですよね」
わざと軽く返す。リトの顔が引き攣り、視線が逸れた。
「ま、まあ、そうなんだけど……」
初夏の話だ。
彩南ウォーターランドで、リトは春菜に告白しようとした。デートに誘ってムードのある場所を選ぶという当たり前を飛ばして、わざわざプールを選んだのは、けじめのつもりだったのだと思う。
結果は、その場の全員に向かって「好きだ」と叫び、慌てて「プールが好きなんだ!」と言い直して終わった。
――それを今さら、なぜ持ち出す。
「あの時さ……好きだって伝えようとした時……ララの笑顔が浮かんだんだ」
龍生は目を見開いた。
「ララさんの、笑顔ですか」
小さく頷く。
「うん……だから、勇気振り絞った手前、結構言い淀んじゃって……」
本人が自分の困惑を持て余している顔だった。
――ただの友情か。それとも。
春菜に振り切れていたはずの天秤が、わずかに反対側へ傾いている。
厚い霧の向こうに、薄い明かりの輪郭が見えた。そんな感触だった。
「リトさん」
龍生は、言葉を選んで置いた。
「二人とも娶るのはダメなんですか」
「――へっ!? は、はあぁっ!? だ、ダメに決まってるじゃんか!」
部屋中に響く声。跳ね上がるように身を起こす。
窓も扉も閉まっている。下には届いていないはずだ。
「モモから聞いたんですけど、リトさんがデビルーク王になれば、側室を持てるそうですよ。そうすれば、全部片付くんじゃないですかね」
「で、デビルーク王って、あのララ達の?」
顔がわかりやすく強張った。
この人にとってデビルーク王とは、地球を壊すと言い放った男だ。いい思い出のはずがない。
「……まあ、お互い苦い記憶はありますけど、はい。想像どおりの人です。そこを継いで即位して、ララさんと西蓮寺先輩と結婚すれば、何の問題も――」
「――い、いやいや! ちょっと待ってくれ! いきなり過ぎて頭が追いつかないんだけど!」
立ち上がって頭を抱えるリト。
「俺も詳しくは知らないんですけど、後継者を探してるらしいですし。この際どうかなって」
「いやいや、俺に王なんて無理だって! そもそも、は、春菜ちゃんとララと結婚なんて、そんな……無責任なことできないよっ!」
必死に首を振る。その決意は、やっぱり固い。
――本当に、真面目な人だ。
その真面目さに付け込もうとしている自分に、うっすら嫌気がさす。悪徳商法の口上を並べている気分だった。
それでも、これでみんなが幸せになれるのなら。
「もし、二人がそれを望んだらどうします」
「ええっ!? そ、そんなこと――」
「――ないとは、言い切れないですよね?」
龍生はリトの目を捉える。
「ララさんの考えに西蓮寺先輩が乗ったら? そうなったら、リトさんはどうするんですか」
リトが詰まった。
そこへ、龍生は笑みを添えて畳みかける。
「お二人に、あんなことやこんなことされちゃいますよ」
「あ、あんなことやこんなことって……っ」
「西蓮寺先輩は意外と大胆かもしれませんし、ララさんは案外初々しいかもしれませんねえ」
「だ、大胆……っ、初々しい……っ」
顔が耳まで赤くなっていく。
視線は宙に固定され、口の中で何かの単語を反復している。
龍生には、この人の脳内が透けて見えた気がした。たぶん西蓮寺先輩が指を絡めてきて、ララが真正面から抱きついてきている。その二枚が交互に再生されて、リトの処理能力が焼き切れている。
笑いが漏れた。
「何を想像したんですか」
「べっ、別になにもっ!?」
バッと顔を背けて取り繕う。
「はははっ、やっぱりリトさんって反応いいですよね。すみません、つい」
「い、いや、別にいいけど……」
苦笑して頬をかく。この程度のからかいで機嫌を損ねる人ではない。
――モモは、そういうところを全部わかっている。
だから姉の恋を応援できるのだろう。
と、そこでふと引っかかった。
あいつは今、リトのことをどう思っているんだろう。
姉の婚約者、という枠に収まっているのか。それとも――自分もその輪の中に入る可能性を、勘定に入れているのか。
胸の内側で、濁ったものがゆっくり広がる。
考えても答えが出ないとわかっているのに、離れてくれない。
「ど、どうした? 龍生」
リトの声で我に返った。心配そうにこちらを見ている。よほど険しい顔をしていたらしい。
「い、いえ、なんでもないです」
「そ、そっか。ならいいけど」
相槌を打ちながら、内側の引っかかりは残ったままだった。
そのとき。
「――龍兄、リトー、ちょっと買い出し行ってきてくれない?」
階下から美柑の声。
このタイミングで割り込んでくるあたり、妹の勘は侮れない。
「わかったー」
リトが立ち上がる。
「じゃあ、行きますか」
言いながら、龍生の足が止まった。
気づいたリトが首を傾げる。
「ん? どうした」
龍生は振り返り、まっすぐ目を合わせた。
「少し話を戻しますけど……もし、複数の女の子を好きになったら、言ってください」
「えっ?」
「俺、いつでも手伝いますから」
「ふ、複数って……そ、それは、その……」
直球すぎたのか、リトの言葉が途切れる。
龍生はわずかに笑って、続けた。
「お互いがそれを望むなら、不純でも何でもないと思います」
「……」
「それに、実現する手も一応ありますし」
「じ、実現って……」
困惑が顔いっぱいに広がる。
それでも、龍生の声だけは真面目だった。
「どんな形でも、どんな決断でも。俺はリトさんの味方です」
「龍生……」
たじろぎながらも、リトは視線を伏せて――やがて、小さく頷いた。
「じゃあ、一緒にリトハーレム作りましょう!」
「何その悪趣味な軍団っ!?」
即座にツッコミが飛んでくる。赤くなった顔を手で覆い、後ずさるリト。
龍生はくすくす笑った。
「俺は途中で抜けますからね」
「何で最初入ってたの!?」
胸の奥のモヤは残したまま、龍生はこの人の心をどう動かすかを考えていた。
トン、トン、トン。
包丁がまな板を叩く音が、夕暮れのキッチンに規則正しく落ちていく。
油の跳ねる音と、笑い声。橙の光が、ステンレスの縁でちらちら折れていた。
いつもならモモが一人でやる作業も、今日は美柑がいる。手が二組あるだけで、工程が面白いほど流れていった。
ハンバーグのたねを整えながら、美柑が顔を上げる。
「じゃあモモさん、お味噌汁お願いしていい?」
「はーい」
出汁を取り、具を落とす。味噌をお玉の腹で溶き、静かに回す。
立ち上る湯気に、甘みの混じった香りが乗った。
うまくいった。そう報告しようとして、美柑が笑っているのに気づく。
「モモさん、見ない間に料理上手くなってる」
「えっ? そ、そうですか?」
「うん! いつも龍兄に作ってるからかな」
「ええっと、お料理自体好きなので……その、はい」
じっと見つめられて、頬が熱を持った。
自覚はある。あの人のために作る時間が、自分にとって少し特別になっていることは。
美柑の笑みが深くなる。
「好きなんだね、龍兄のこと」
「美柑さん。意地の悪いお顔してません?」
「ごめんなさい、なんだかモモさんが可愛くって」
「……もう」
唇を尖らせながら、結局こちらも笑ってしまう。
この子のからかいには棘がない。だから、まいってしまう。
「美柑さんは、意中の殿方はいらっしゃらないんですか?」
美柑が目を丸くした。
「えっ? 私?」
「はい♪ やはり、リトさんですか?」
「リトっ!? いやいや、リトは普通の兄妹だから!」
慌てて手を振る。
「ホントですかぁ?」
「ホントだよ! 第一、恋愛感情が兄に向いたら可笑しいから!」
「では、他には?」
「う、うーん……いないかなあ」
少し考えて、肩をすくめる。
年齢を思えば当然かもしれない。ただ、この子は同年代の男の子より二段は大人びている。釣り合う相手のほうが見つからないのだろう。
――そういえば、一人だけ。
「では、龍生さんは?」
「りゅ、龍兄? うーん……」
美柑はたねを丸めながら、しばらく黙った。黄土色の瞳が、手元を通り越したどこかを見ている。
「龍兄も、どっちかっていうと、もう一人の兄って感じかなぁ」
「もう一人の、お兄さん」
「うん。だからね、わかるんだ」
引き出しをひとつずつ開けるみたいに、彼女は続けた。
「龍兄ね、モモさんと一緒になってから、すごく明るくなった気がするんだよね」
「そ、そうですか?」
「うん。リトもララさん達と会ってからそうだけど……」
そこで、表情がほどけた。
「龍兄は昔からリトより年下なのに、どこか大人びてて。楽しそうにしてても、ちゃんと楽しんでない感じがしてたんだ。だからちょっと心配してたんだけど――」
言葉を切って、笑う。
「モモさんといるときの龍兄、楽しそうだから。すごく安心した」
「美柑さん……」
胸の奥に、じんわりと湯が満ちていく。
この子は、ずっと見ていたのだ。兄のことも、あの人のことも。
そして、彼が少しずつ変わっていくのを、心から喜んでいる。
「だから、モモさん」
美柑が、まっすぐこちらを見た。
「龍兄のこと、よろしくお願いします」
「ふふっ、まだお付き合いとかしてませんよ?」
「いずれ、ね」
「そうなれるのなら……嬉しいです」
モモは、頬を赤らめながらも、そっと微笑んだ。
彼女のその言葉に、美柑は安心したように、にっこりと微笑み返す
。
「でも少なくとも龍兄も異性のモモさんと一緒に住む事を許してるんだし、もう少しな気もするんだけどなあ」
「私もそんな気がするんですけど、夜な夜なベッドに潜り込んでも襲ってくれないんです」
「モモさんそんな事してたの!? 順番間違ってない!? あ、あれ、でも一緒に住んでるから良いのかな?」
モモの常識に、混乱をきたす美柑だった。
夕焼けの商店街は、まだ人の声で温まっていた。
揚げ物の匂い、氷を掻く音、店先の呼び込み。シャッター通りになりつつある街が多いなか、ここだけは血が通っている。
顔を出せば、たいてい何かを持たされる。
現に今、龍生とリトの手には、店主にもらったたい焼きが一個ずつあった。買い出しの袋は反対の手に提げている。
その先に、金髪が見えた。
「あれってヤミだよな」
「ですね……すごい量のたい焼き」
袋を抱えて淡々と歩く後ろ姿。中身の膨らみ方が尋常ではない。
龍生が頬を引き攣らせている横で、リトは何の躊躇もなく近づいていった。
「ヤミ!」
「結城リト……と、北風龍生ですか」
「こんなところで何してるんだ?」
「たい焼きを買ってました」
「そ、そっか……」
「はい」
「……」
「……」
周囲はやかましいのに、この一角だけ音が抜け落ちた。
(えっ、声かけといて終わりっ!? リトさん嘘だろっ!?)
ヤミとの会話は、基本こちらが投げ続けるキャッチボールだ。向こうから話しかけてくることは滅多にない。
それを勘定に入れず突撃したリトに、龍生は内心で頭を抱えた。
仕方なく、糸口を探す。手元の袋と、今夜の献立が目に留まった。
美柑は今日、気合いを入れると言っていた。一人増えたところで、量的には誤差だろう。
「ヤミ、この後予定ある?」
「いえ、特には」
「リトさん、この際ヤミも一緒に飯どうですか」
「ん? ああ、いいね! 美柑も喜ぶし! ヤミはどう?」
「私がいてはお邪魔では」
「そんなことないって! ヤミがいたら美柑だって喜ぶよ!」
「……美柑が? ……では、お言葉に甘えます」
美柑が喜ぶ。その一言があれば、この子はどこへでも行くらしい。
半ば呆れながら、リトが電話をかけるのを待つ。
「うん、わかった! じゃあすぐ帰る……美柑も喜んでたよ。一緒に行こうか」
「わかりました。ですがその前に――」
「「むぐっ!?」」
言い終わる前だった。
金の髪がしなり、手の形を取る。掴んだたい焼きが、そのまま二人の口へ押し込まれた。
「美柑のご飯が入らないといけないので、あなた達も食べてください」
――理不尽だっ!?
言い返す口が塞がっている。抗議は咀嚼に変換された。
気づけば、二人合わせて六個。胃はすでに定員だった。
それでも美柑の夕飯を残すわけにはいかない。龍生とリトは、隙間を作るべく歩きながら軽く跳ねた。傍から見れば完全に不審者である。
その最中、ヤミがぽつりと言った。
「北風龍生」
「ん?」
「以前、何者かに襲撃された時。あなたが言ったことを、考えるようになりました」
「俺が言ったこと?」
「はい」
猿山たちが襲ってきた、あの日か。
引き出しを開けた途端、随分と偉そうな口を利いた記憶が煙みたいに立ち上ってきて、龍生は首の後ろを掻いた。
「な、なんというかその、偉そうなこと言ってすまん」
「いえ。ただ、あの日からよく考えます。兵器としてではない、私の存在意義について」
「兵器以外の……」
「はい。ただ、答えは見つかりません。それに最近、自分の心もわからなくなりました。……変ですよね。自分の心が、自分でわからないなんて」
兵器としての自分と、たい焼きを抱えて歩く自分。
その二つの間で、彼女は宙吊りになっている。
龍生は、ふっと笑った。答えは案外、足元に転がっている気がした。
「自分の心なんて、案外わからないもんじゃないか?」
「――え?」
ヤミの足が止まる。
「俺だってわからない時あるし……リトさんもありません?」
「そ、そうだな。俺なんか、美柑とか周りの人のほうが詳しかったりするし」
「そういうものですか」
「そういうもんだろ。自分の気持ちが全部くっきり見えてたら、誰も悩んでない」
ヤミがゆっくり瞬きをした。
納得しきってはいないだろう。それでも、目の奥の霧が少し薄れた気がする。
リトが柔らかく笑った。
「そうそう。だから、悩んだら今みたいに誰かに話すといいよ。自分にはない答えが返ってくることもあるからさ。それこそ美柑とか。ヤミは一人じゃないんだから……あ、ごめん、偉そうなこと言って」
「いえ。参考になりました。ありがとうございます、結城リト……と、北風龍生」
俺はオマケなのね。
苦笑しつつ、龍生は隣の男に感嘆していた。やっぱりこの人には敵わない。少しだけ、複雑に。
食卓は、想像の一段上をいっていた。
唐揚げ、ハンバーグ、焼き魚、色とりどりの副菜。テーブルの木目が見えない。味噌汁の湯気が、天井の照明の下でゆらゆらしている。
――これ、食べきれるのか。
龍生はリトを見た。互いの胃には、たい焼き三個分の重石が入っている。
それでも、目の前の皿を見ていると、そんな事情が薄れていく。
「うわー! いっぱい作ったねー! 早く食べよう!」
「あっ、姉上! 抜け駆けはずるいって!」
ララが弾けるように席へ着き、ナナが慌てて椅子を引く。
龍生も端の席に腰を下ろした。
すると当然のような顔で、モモが隣に座る。動作に一切の迷いがない。
「いただきます」
まず唐揚げに箸を伸ばした。
噛んだ瞬間、衣が乾いた音を立てて割れる。遅れて肉汁。下味が芯まで通っていて、噛むほどに濃くなる。
――うますぎる。
「これ、モモが作っただろ」
口が勝手に動いていた。隣の少女が、嬉しそうに顔を上げる。
「うふふ、はい! 愛情たっぷり込めました♡」
ウインクつきの満面の笑み。
不覚にも、胸が跳ねた。
「……まあ、その、ありがとう」
視線を逸らしながら礼を言う。
向かいで、美柑が頬杖をついてにやりと笑った。
「ふうん、龍兄、モモさんの味付けわかるんだあ……へぇ」
「おい美柑。何だその含み笑いは」
「別にぃ〜」
警戒していると、今度はモモが身を乗り出してくる。
「じゃあ、このお味噌汁はどちらが作ったと思いますか?」
「ふふっ、わかるかなぁ?」
「何でお前まで乗り気なんだよ……」
二択。しかも全員の視線が集まってくる。逃げ道が順番に塞がれていく。
渋々、龍生は木の椀を持ち上げた。
全員に注視されながら味噌汁を飲む。どういう羞恥プレイだ、これは。
覚悟を決めて、一口。
ほんのり甘い。塩気の角が丸く、喉を過ぎてから身体の芯が温まる。
その温度に、いつもの食卓が重なった。二人分の椀と、隣の席と。
――愛情たっぷり込めました♡
技術の差なんてわからない。それでも、この味には覚えがある。
理屈より先に、身体が答えていた。
「モモで合ってる?」
「はい! 正解です♡」
両手を合わせて喜ぶモモ。
美柑が目を丸くした。
「おお、すごい! 味だけでわかっちゃうんだ」
実際のところ、舌ではなく別のところで受け取っただけだ。
正解できた安堵と、居心地の悪さが同時に来る。
「なんか、当たっても外れても居心地悪いんですけど……」
温かい視線から逃れようと、龍生は斜め右へ顔を向けた。
――そこで、異変に気づく。
リトの前に置かれた椀。
その水面に、たい焼きが一尾、垂直に突き刺さっていた。周囲には黒い塊が沈んでいる。
(……なんだあれ)
見ているだけで喉の奥が甘くなる。当のリトは顔面から色が抜けていた。
「も、モモ……あれは何だ」
小声で尋ねる。
「ええっと、ヤミさんがリトさんにお料理を振る舞われたそうで……その、毒は入っていないと思うんですけど……」
「……いや、毒の問題じゃなくて、見た目が……」
龍生の呟きをよそに、リトが椀を手に取った。
ヤミの視線がそこに固定されている。逃げ場がないと悟った顔だった。
震える手で、一口。
――止まった。
時間が凍る。
次の瞬間、リトは何かを諦めたように、一息で流し込んだ。味を感じる前に胃へ落とす。おそらくそういう作戦だ。
口の端からたい焼きの尻尾を垂らしたまま、彼は必死に頷いてみせる。
「……お、美味しい、よ……?」
魂は抜けていたが、頷きだけは本気だった。
ヤミが満足そうに目を細める。
「そうですか。それは良かったです」
龍生は心の中で戦友に敬礼を送り、息を吐いた。
「そういえば、なんでヤミが料理なんて」
「ヤミさんが美柑さんに文化のことを尋ねたそうで。お料理を勧めたら、リトさんに作る流れになったみたいです」
「なるほど」
「ただ、ヤミさん、随分と熱心に作っておられたので。思っていたよりリトさんに惹かれているのかもしれませんね♡」
全員に振る舞うのではなく、リトにだけ作る。
昔のヤミなら、ありえない光景だ。自覚するのも、そう遠い話ではないだろう。
と、そこへ美柑が絶妙な角度から球を投げた。
「そういえばヤミさん。文化を学ぶなら、モモさん達みたいに転入したらどう?」
「転入」
「そうそう。日本の学生生活も立派な文化だし。高校なら修学旅行とか、色々楽しいと思うよ」
龍生とモモが、テーブルの下で黒い笑みを交わす。
「確かに、高校生活はいいかもな。色々経験できるし、将来の財産になると思う」
「そうですよ! 私たちがフォローしますし!」
「お、いいじゃん! ヤミも転入しなよ! トモダチもできるし!」
「……そうですね。考えておきます」
打算まみれの二人と、混じり気なしの声。
どちらにも同じように頷くヤミを見て、龍生はその日が近いことを悟った。
夕食のあとゲームに興じているうちに、時計は十時を回っていた。
さすがに引き上げようと、龍生とモモは結城家を出る。
夜風が涼しい。昼間あれだけ賑わっていた商店街も、今はシャッターの列に変わっていた。街灯の下で虫が舞い、遠くでひぐらしが鳴いている。
「なるほど。そんなことを」
「ああ。ちょっと意外だった。ゴリ押せば可能性は見えてきたけど、まだララさんと西蓮寺先輩だけだしな。ルンやナナや古手川先輩だっているし」
「ヤミさんをお忘れでは?」
「ああ、確かに」
神妙に頷く。
「リトさんのために料理するなんてな。正直びっくりした」
「うふふ、どんどんハーレムが増えますね♡」
「……その分、苦労も増えそうだけどな」
あの人が背負うことになる未来を想像して、龍生はげんなりした。
その顔を見て、モモがくすりと笑う。
胃に穴が開くような日々が待っているだろう。だがそれも本人が選ぶことだ。何もしないよりはいい。
――そこまで考えたところで、腹の底に沈めていたものが浮いてきた。
「なあ、モモ」
「? どうかされました?」
言葉が喉で引っかかる。気づけば足が止まっていた。
モモも立ち止まり、覗き込んでくる。
「りゅ、龍生さん?」
「い、いや、その……なんだ」
視線が泳ぐ。それでも、内側の何かが背中を押した。
「モモは、その……リトさんの側室に加わるのか?」
「へっ?」
紫の瞳が二度、三度と瞬く。数秒、彼女の思考が止まった。
――しまった。言わなきゃよかったか。
後悔が押し寄せるのと同時に、モモの唇が悪戯っぽい形に変わる。
「ふふっ、もしかして、ヤキモチを焼いてくださったんですか?」
「なっ!? べ、別にそんなんじゃねえよ!」
「ホントですかぁ?」
「ほ、ホントだっての!」
ぷいとそっぽを向く。
モモはくすくす笑った。動揺そのものが答えだと、わかっているくせに。
だが、その笑みがすっと引く。
「昔、美柑さんにお料理のコツを教わったことがあるんです」
「りょ、料理のコツ?」
脈絡のなさに戸惑いながら聞き返すと、彼女は「はい」と頷いた。
油を薄く塗ったような星が、頭の上に散っている。それを見上げながら、モモは続けた。
「お料理は、相手のことを想って作るのが一番おいしくなるコツなんだそうです」
「……相手のことを、想って」
「ええ。当時はよくわかりませんでした。毎日作るうちに、ようやく意味がわかってきて」
その言葉が、じわりと沁みてくる。
モモがゆっくりとこちらを向いた。
大きな紫の瞳が、夜の中で光を集めている。
音が遠のいた。虫の声も、遠くの車も、どこかへ引いていく。
「確かにリトさんは、お優しくて、とても素敵な方だと思います。お姉様たちが恋焦がれるのも納得です」
静かに、けれど輪郭のはっきりした声で。
「――ですが。私は、いつも周りを気にかけていて、美味しいって料理を沢山食べてくれて、誰よりも頼もしい殿方を、他に知っていますから」
夏の風が、彼女の髪を横へ流す。
耳にかかる分を押さえながら、モモははにかんだ。
「もし私が
一語ずつ丁寧に置かれた言葉が、胸の底まで降りてきて、そこで温まった。
さっきまで濁っていたものは、頭上の空と同じくらい澄んでいる。
「さ、さあ、帰りましょうか!」
名前は、ひとつも出なかった。
それでも、宛名のない手紙が誰に向けて書かれたのかは、封を切るまでもない。
スカートを翻し、何事もなかった顔で歩き出す背中。
龍生は小さくため息をついた。
「……はあ。ホント、参ったな」
胸の奥が熱い。くすぐったいような、燻るような何かが渦を巻いている。
――これは、なんなんだろうな。
整理がつかないまま、彼はその背中を追った。
眼下に、街の夜景が広がっている。
平らな鋳型に流し込まれた、どろりとした光。あるいは、大きな蛾が金粉を撒き散らしていった跡。
「聞いてください、マスター」
深い闇の中、ここにいるのは自分だけだ。人の気配はない。返事が返るはずもない。
それを気にする素振りもなく、少女は淡々と街を映したまま続けた。
「私、初めてトモダチができたんですよ。素敵でしょ?」
『……まさかお前まで、ぬるい生活で本来の目的を忘れてはいないだろうな――メア』
漆黒の鳥が一羽、宙に現れる。
空気の質が変わった。爪先で軽く蹴れば、街ごと崩れ落ちそうな張り方をしている。
背中を、冷たいものが一筋伝った。
それでもメアは、口調を崩さない。
「ふふっ、まさか。ちゃーんと覚えてますよぉ――ヤミお姉ちゃんを元に戻す。そうでしょ?」
『そうだ。今の金色の闇では、私の目的の役には立たん。本来の姿へ戻ってもらう必要がある。そのための方法は、ひとつしかない――』
――金色の闇自身による、結城リトの抹殺。