逃げろ。
逃げろ。
脇目も振らず必死に走っていたが、十メートルも行かないうちに捕まえられた。
「おっと。すばしっこいけど、まだまだだな」
少年はせめてもの抵抗で身をよじってみたが、手首を掴んだ女はびくともしない。大人の手は絶望するほど大きく、幼い手首を握ってもまだ指が余っている。そして、いきなり拳が飛んできた。
鈍い音と共に顔が横を向く。少し遅れて痛みがやってきた。皮膚をさくような痛みが左の頬にひりひりと広がる。
二発目は足蹴りだった。動けないまま立っていると、鳩尾の辺りに女の爪先が入った。
激痛に耐えられず、少年はその場で腰を落とす。胃の中のものが全部出てきそうだった。
「これ以上、要らん手間掛けさせんなよ」
手首を放し、今度は髪の毛を鷲みにした。手首を握られているだけなら抵抗もできるが、髪の毛では抗う術もない。引き千切られる痛みで足がそっちの方向に向かう。
頭頂部でぶちぶちと音がした。激痛が走ったが声は出さなかった。
「ホントにお前は強情だな。泣きでもしたらちっとは可愛げがあるっていうのによ」
口の中で鉄の味がする。さっき殴られた際、内側を切ったらしい。しかし少年は泣かなかった。殴られてもいい。血を流してもいい。しかし、泣くことはこの女に屈服したことになるので、それだけは絶対に嫌だった。
そんな少年の抵抗を感じとったのか、女の視線が鋭くなる。冷たい視線はぞっとするほど異様な迫力に満ちていた。
「まあ、いい。どの道情報を話せないのなら──死ね」
悲鳴を上げそうになったが、なぜか声は出ず、身体も動かない。気づけば混沌とした意識のなか、気管からヒューッと空気が漏れただけだった。斜めに傾いてゆく視界にアスファルトの地面に突き刺さった血まみれのガラス片が見える。
──何だ? 何が起こった?
パニックの波が起こるより早く、少年の意識は再び黒く塗りつぶされていく。
草木も眠る……と言われる『丑三刻』。
夜霧はアスファルトの上までおりて来ている。
アスファルトの道路に、ゴンと重い音を立てて首が落ち、糸が切れた操り人形のように、少年がくたくたと倒れる。
女は路肩の小石でも見るような冷たい眼差しで一瞥し、濃密な血の匂いを感じとる。屍となったことを確認し、任務の終わりを告げた。
あれから幾度と、与えられた任務をこなした。
何十、何百、何千の命を奪った。それでも心の底にわだかまっている怨恨は晴れない。
──貴方がアゼンダ?
忌々しき金髪幼女を思い出し、奥歯を噛み締める。
あの日、彼女に敗北した事で、暗殺者としての名は地に落ちた。
屈辱、屈辱……屈辱──思索の壁は屈辱という、ちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。心の一角に悪い衝動が、夏の雲のように立ち現れたかと思うと、みるみる心の空全体に広がっていく。
そう。全ては──
──金色の闇を、殺す事……
墨のような闇に浸される景色を眺め、毒蛇のような殺気だった心を女はポケットにしまい、その場を去ろうとした時、まるでタイミングを見計らったかのように、一羽の烏が首のない少年の死体にとまった。漆黒の羽根に覆われたその身体は、奇妙に滑らかで平坦だった。角度によっては、厚みのない、ただの折り紙のようにも見える。特段めずらい鳥ではないが、不吉な何かを感じた。
じっとこちらを観察するような、べったりとした瞳。
女は警戒を露わにし、腰を落とす。
切先を烏に向けた。
「──何者だ」
生き物が喋ることなどない。
女はその霊的生物の裏の存在に話しかけていた。
『金色の闇は、地球にいる』
「何? ……貴様、なぜそれを知っている」
くくく、と烏が嗤うように喉を鳴らす。
『貴様の闇を、知る者だよ』
「……私の闇だと? 貴様何者だ」
烏が応える事はなく、闇の中に溶け込んで消えた。
一体どれほど探しても、彼女の尻尾は捕まらなかった。
それなのにこの生物は、彼女の存在を知っている。
それを自分に態々こうして伝えて来た。
ヤツの思惑は何だというのだ。
「地球……」
唯一わかる事は、彼女は地球という星にいるという。
以前一度だけ殺し屋として行った事があるが、生温い平穏な地と記憶している。なぜ彼女がその地にいるのかは不明だが、思わず唇が吊り上がる。
殺し屋である以上、情報は命だ。
出処の知らない。得体の知れない生物からの情報など、大いに出鱈目である可能性が高い。
それなのに、不敵な笑みを溢さずにはいられない。
彼女の直感が告げていた。
金色の闇は、地球にいるのだと。
「良いだろう……」
完膚なきまでに、彼女を叩きのめす光景を幻視して。
女は愉快な足取りでその場を去った。
「──なるほど。それは厄介ですね」
食後のまどろみを破るように、リビングに響く電子音。
液晶モニターに映し出されたのは、デビルーク王室親衛隊隊長の鎧の男──ザスティンだった。
「暴虐のアゼンダか……」
龍生が眉をひそめる。
その名を聞いた瞬間、モモも表情を硬くした。
『はい。何やら地球に向かっているという情報をキャッチしたので』
「何でまたそんなやつが……」
『さあ、我々もそこまでは……』
首を傾げるザスティンに、使えないな、と言う言葉を飲み込む。
──暴虐のアゼンダ。
赤銅色の肌と長い銀髪を持つ「暴虐」の二つ名を持つプロの殺し屋。過去に金色の闇に敗北したことで名声を失い落魄していたが、近頃不穏な動きを見せているそうで、地球に来る可能性があると言うのが、彼の忠告だった。
ヤミ同様、リトを暗殺するために仕掛けられた刺客なのだろうか。
「ザスティンは戦った事があるのですか?」
モモの問いかけに、ザスティンはやらせなさそうに首を振った。
『いえ、直接剣を交えた事はないので何とも言えません。ですが、情報によると、生物を操る能力があるとかないとか』
「……生物を操る能力、ですか』
──生物を操る能力。
その言葉が落ちた瞬間、龍生の脳裏に鮮烈な記憶がよみがえる。
──学校での、猿山達の異変。
理性を失い、狂ったように暴れ回った生徒たち。
もしも、あれと同じ現象が、もっと広範囲に、もっと強大な形で引き起こされたら……?
──最悪だな。
『……情報が少なく面目ありません。ですが、近々地球に来るというのは本当です。地球で不穏な事が起きた場合、十中八九ヤツの仕業だと思います。リューセイ殿、モモ様。我々も周囲の警戒は怠りませんが、くれぐれもお気を付けください』
「分かりました、ご忠告ありがとうございます」
彼はデビルーク星最強の剣士で、「イマジンソード」という光子剣(フォトンブレード)を帯剣している。剣の切れ味は非常に鋭く、地割れを引き起こすほどの威力を誇るそうだ。自称純粋な戦闘力なら、ナナ、モモの双子より上である。
彼が目を光らせてくれているのは、有り難く心強い一方、己自身、警戒は十分に必要だろう。彼の目が届かぬ所では、自分の身は自分で護るしかない。
「それはそうと、ザスティン、何だか疲れてませんか?」
モモが不思議そうに尋ねる。
確かにザスティンの顔は疲弊しているように思う。目の下にクマがあるような気もする。
『えっ? あ、ああ、これはですね……あっ、ちょっ──』
『────こんばんは、龍生さん』
ザスティンの言葉を遮るよう、目も魂も吸われるほど美しい美女が鎧の男を遮って画面に映った。ピンク色のロングヘアーと紫色の瞳が特徴の女性。どこかモモの容姿と似た女は、紛れもなく彼女の母親──セフィ・ミカエラ・デビルーク。
宇宙一美しい容姿と声を持つ少数民族"チャーム人"の最後の末裔。種族を問わずあらゆる生物を魅了するその美しさは「能力」の域に達しており、その顔を見た男性はどんな紳士でも心奪われケダモノになってしまう。また、その声を聞いた者はその美しい声に魅了され、清らかな心を持つようになる。顔を隠せばチャーム人の特性はある程度抑えられるため、普段はヴェールで顔を隠している。
生憎、龍生は彼女のチャームを前にしても、正気を保てなくなるなんて事はない数少ない男。寧ろ、おっとりとした口調の中に、濃密な女の気配を感じて、背筋がゾッとする思いだった。
龍生はあからさまに不快感を露わにした顔つきになりながら、ザスティンの疲労の根本原因が彼女であることを瞬時に理解する。
「なんで貴女がそこに……」
『あらあら、随分と容赦のないご挨拶ではござません? 私はこんなにも貴方にお会いしたいと言うのに……っ』
シクシクと悲しげな嘘芝居を作る彼女に、龍生は益々顔を引くつかせた。そして、やり場のない怒りの矛先を、画面外の鎧の騎士に向けた。
「ザスティンさん! アレほど内密に連絡取ってくれって言いましたよね!?」
『め、面目ない……』
『あらあら、そう怒鳴りなさらないの。ご存じかしら? 愛さえあれば、何でも可能なのですよ?』
「お、大袈裟な……愛なんてそんなもん──」
『──1万9147回』
「えっ?」
『今日の貴方の、瞬きの回数です♡』
「……」
神経に悪寒が走って心の中まで青ざめる。
細めた紫色の瞳から逃れるよう、本能的にその場から逃げようと試みる前に、桃色の髪がふわっと動く。龍生を守るように、テレビと龍生の間に人影が割り込んだ。
「お母様、その辺にしていただけませんか?」
『あら、モモ。貴方もお元気そうで何よりです』
まるでそこにいたのね、と言わんばかりの発言に、モモはピクリとこみかめをひくつかせた。
『ええ、お母様。相変わらず、龍生さんと
『あらあら────そう』
「うふふ────はい」
口元に淑女の笑みを浮かべる2人だが、目が笑ってない。
二人の視線は絡みついたように、空中にじっと交錯したまま挑み合っていた。なんだか火花が散ってるような気がする。
龍生はその場を撤退したい衝動に駆られた。
「因みにですが、龍生さんのはご立派ですよ」
『あらあら、それは楽しみねぇ』
「何の会話してんだあんたら!!」
しばらくして、根負けしたように彼女の瞳が龍生へとスライドする。
『ところでリューセイさん』
「……なんですか」
『今度、私とデートをしてくれませんか?』
「……は?」
世界が一瞬、静止した気がした。
──デート?
誰と?
この宇宙一の魔性と?
もはや、龍生の脳がバグを起こしかけた。
『モモ達の行いを観察する為に、今度そちらに伺うのですが。その時に是非、また貴方のお顔を見たいのです♡』
「いえ、是非とも断ります」
『何でも地球では、カフェというのがあるそうですね』
「……全然人の話聞いてねえじゃねえか……まあ、そうですね」
「是非そこに連れてってください」
「……はあ、まあ、気が向いたら」
『まあっ♡ 約束ですよ?』
「はいはい。わかってますよ」
『そうですか! それではもし約束を破ったら──』
「あー、はいはい。守ります。守りますから」
『──この紙に著名と印鑑を』
「命に変えても守りましょう」
脅迫まがいな婚姻届をチラつかされては、どうしようもない。
満足そうに彼女は笑って、テレビ画面が暗黒に切り替わる。
去った嵐にホッとしたのも束の間、一難さったらまた一難。
ちょこんと服を引っ張られる。
「龍生さんは、お母様とはおデートなさるのですね」
すぐ隣で、モモがぷくっと頬を膨らませる。
「も、モモ?」
「……私もデートしたいのに」
「い、いや、アレは脅迫であってだな。別に俺は……」
「むぅ」
上目遣い。
つんとした口元。
可愛い。
だが、それ以上に厄介。
「わ、わかった。明日休みだから、明日行こう」
「ほ、ホントですか!? ふふっ、楽しみです♡」
──結局、龍生はモモのペースに巻き込まれるのだった。
翌日の祝日。
空が抜けるような青さに澄み切った天気の中、モモとデート当日がやってきた。
待ち合わせに遅れたくはないので早く出たが、既に太陽は中天に差しかかりそうで、容赦ない日差しを地上に投げかけている。
日陰の駅の柱に背中を預けながら、お腹がかすかに、くぅーっと情けない音を発する。腕時計を確認すれば、時刻は待ち合わせ時間の正午をあと少しで指そうとしていた。駅構内で販売されている甘いお菓子の匂いに空腹を覚えながらも、待つ事数分。
「龍生さん! お待たせしました!」
自分を呼ぶ音に目を向ければ、人混みから小走りでこちらに寄ってきた少女の姿に見惚れるほどの美しさがあった。
素材で初夏の爽やかさを演出する、この夏流行の白を基調とした、両腕両肩がむき出しのサマードレス。スカート丈も膝上まで。素足に、ヒールの高いサンダル。髪もいつも以上に整えられており、ほんのり化粧もしているように見える。
普段とは違うモモの色香に吸い寄せられて、目が離せなかった。
龍生はまだ未成熟な心に、一つの真理を刻み込んだ。世の中には、決して慣れることのない美が存在すると。
「化粧、してるんだな……それに髪型も」
「っ!? は、はい! 少しだけですけど……その、どうですか?」
上目遣いで見上げてくる瞳には、不安と期待が入り混じっていた。最早その仕草でも、こちらの心臓を加速させていく。
「……す、すごく可愛いと思う」
「あ、ありがとうございます♪」
緊張のあまり声が掠れたが、少しはにかみながらモモは言葉を受け取る。
「龍生さんも、凄く素敵です……っ♡」
「あ、ありがとう……」
季節のせいだろうか。
向日葵のような笑顔だと思った。
そして、賞賛の言葉を受け取るなり、待ち受けていたのは沈黙だった。
1ヶ月以上同居してるとはいえ、普段味わう空気感とは違う、初々しさのある雰囲気に、妙な緊張を覚える。
だが、このままここに突っ立っているわけにもいかない。
幸いなことに、恐らく彼女の美貌に吸い寄せられて立ち止まったであろう男たちが視界に映り込む事で、龍生は正気を保つことができた。
普段なら迷惑な人混みも、思わぬ形で役にたったようだ。
「お、お腹空いたろ? そろそろご飯にしよう」
「はい!」
彼女もそれに同意し、目的地に方向に歩き出す。ただ、隣に歩く彼女が何の躊躇いもなく腕を組んでくる。
必然的に、吸い寄せられるように彼女の谷間に右腕が密着した。
「お、おい! ……あ、当たってるって」
「うふふ、当ててますから♡」
「こ、この小悪魔め……っ」
無邪気に甘えるその姿に、どうすることもできない。
歩きづらさもあるが、それ以上に腕から伝わる柔らかい感触が、理性を削り取っていく。
それでも、機嫌よく鼻歌でも歌い出しそうな彼女を振り払うこともできず、龍生はただ必死に自分を抑えるしかなかった。
昼食は若者に人気のイタリアンレストラン。
なかなか予約が取れない店だが、偶々本日1席だけキャンセル枠があり、勝ち取ることができた。
テレビでも有名な料理研究家が絶品するほどの店だ。デートのランチとしては、無難な一手だろう。龍生自身も心躍る気持ちではあった。
「まさか、本当に予約取れるとはな」
「はい♡ まさか私も龍生さんから、予約取れたなんてメッセージが入るとは思わなかったです」
「俺もめちゃくちゃ驚いたよ。ネットだと受付終了してて、ダメ元で偶々電話したから取れたらしいな」
「流石は龍生さんですね♡」
「まあ、運が良かっただけだよ……というより、そもそも何で昨日急遽リトさんの家に泊まったんだ?」
なんだか気恥ずかしくなった龍生は話題を変えるために、ふと、思い出しように問いかける。
「男女のデートは、待ち合わせから勝負だと地球で教わりましたので♪」
「なんだその待ち合わせから勝負って……」
「うふふ、デート気分になれましたか?」
悪戯が成功した子供のような笑顔を向けてくるモモに、龍生は苦笑を漏らした。
「……なるほど。それで同じ家からじゃなくて、別の家から待ち合わせというシチュエーションを再現したわけか」
「はい! それで、いかがでしたか?」
こちらに向かって小走で駆け寄ってくれる彼女を思い出す。
確かに、デートが始まるワクワク感や緊張感は味わえるのかもしれない。
どうやら彼女はそんな新鮮さを再現したくて、手を込んだようだ。
好奇心を込めた瞳で上目遣いの彼女に、照れ臭さで頰をかきながら、
「……まあ、良かったよ。ありがとう」
「うふふ♡ こちらこそありがとうございます♪」
嬉しそうに満面の笑みを咲かせる彼女。
実際今もデート中である事は、否応なく彼女が腕を組んでいる事から脳裏に叩き込まれている。
これも彼女が何らかしらの教材で学んだ事なのだろう。
初デートの割には少し選ぶ教材を間違えている気がしなくもないが、暫く彼女と雑談に講じていれば、妙な視線を集めていることに気づいた。
──おい、なんだあの可愛い子……。
──す、すげえ可愛い……。
──……カッコいい。
──……ねえ、今あの子見て顔赤くなってなかった?
──え、あ、いや、そんなことないって!
どうやら彼女の無自覚ながらに咲かせている笑顔が、通行人の足を止めているらしい。
あまりにも可憐な少女の姿に、衝撃が走ったのだろう。
隣で歩く龍生自身もそれを痛感している。天女とか女神とか美の化生とか、そういう空想上の存在ではないかという疑いが拭えない程に、今日の彼女は可憐であった。
そして、同伴者がいる場合、魂を抜かれたような顔でモモに見とれる恋人(どういう種類の恋人かは一概に言えない)の足を踏みつけたり脇腹に肘鉄を入れたり背中を抓り挙げたりと。とそんな暴挙も見られるが。
──悪意の視線はない……取り敢えず、俺もしっかりしないとな。
プリンセスをエスコートできる王子様になれるかは不安だが、せめて彼女が楽しめるようにと龍生も気合を入れる事にした。
絶品の昼食を食べ終え向かった先は、映画館。
ド定番かもしれないが、龍生自身も悩んだ挙句、王道に従うことにした。テレビCMなどで流れていた、お互い見たいと思った映画をチョイスし、時刻を確認すると、昼食を食べ終えた時間と丁度良い時間に空きがあった為に、それを見ることにした。
お互い飲み物を買い、指定された座席へと腰を下ろす。
席に座るなり、隣で妙に興奮した様子のモモが小声で話しかけてくる。
「なんだか映画館ってワクワクしますね♪」
「そうだな。あれ、来るのって初めてだっけ?」
「はい♪ 今日が初めてです。……また、私の初めてが奪われてしまいましたね♡」
「誤解を招くような言い方をするな」
まもなくして照明が降りて、映画が始まった。
舞台は1990年代のニューヨークで、自分の持つ強力なサイコキネシスを隠しながら生きていた少女が平凡な少年と会って恋に落ちるというのが大まかなストーリだった。秘密と恋心の板挟みで苦しむ少女と、心の裡を見せてくれない彼女をもどかしく思う少年の、それぞれの想いが丁寧に描かれていて、流石は大ヒットしただけはあるなと思った。悲劇的な結末だったにも拘わらず見た後は爽やかな気持ちにされた。
なかなか見応えがあったと思う。
隣に座るモモも悲劇的な結末に涙をほろほろと流しながらも、終始食い入るように見ていた事から、さぞ楽しめたのだろう。
2時間程の映画が終わり、映画の感想をお互い述べながら、駅ビルのショッピングを楽しむ事にした。
女性が買い物好きというのは宇宙人でも変わらない、常識とも言える傾向だろう。ただ女の子によってショッピングの行動パターンは三つに分かれると思われる。
一つ目は、本命の買い物を真っ先に済ませるパターン。
二つ目は、本命の買い物を最後に取っておくパターン。
三つ目は、多分これが一番多いと思われるが、本命がありながらあちこちに目移りして行きつ戻りつするパターン。
意外にも、モモは一つ目のパターンだった。
普段から服装などに気を使う彼女の為に、てっきりアレやこれやと店に駆け込むイメージだったが、特段そうではないらしい。
彼女は今現在履いている夏物のワンピースをもう何着か欲しいようだ。
なぜそう何着も欲しいのか気になり聞いてみたところ、
「うふふ。いつもと反応が違うようなので、次のデートに着て行こうかなと思いまして♡」
主語はない。それでも自分に向けられていることだけはわかる。
色々とこちらの趣味嗜好が筒抜けであることに、その場を去りたい程の羞恥に駆られながらショッピングを続ける。
そしてふと、とある店のマネキンに飾られた服を見て、彼女が立ち止まる。
今、モモが身につけている物とは随分方向性の異なるデザインだが、何だが彼女に似合いそうな気もする。そうマネキンを見て思う龍生だが、一方のモモは龍生と同じものを見て、少し怯んだ表情を見せた。いや、厳密に言えば同じ物ではない。モモが見ていたのは、マネキンに着せられたサマードレスに付いている値札だった。
何となく察していたが、低価格をウリにした量販店でも中堅レベルの服飾店でもなく、ここの店は中々の高級品店だ。
品物の殆どが、一般の高校生の懐事情をぶち壊すような値段ばかり。
どういうわけか、お姫様であるモモも、ザスティンから手渡されるお小遣いは決して多いわけではなく、平均的な額になっているようだ。そこら辺の教育は抜かりない様で、彼女の身につけているものは意外と庶民的なものだったりする。
ただ、彼女の物欲しそうな顔に、龍生は柔らかい笑みをこぼして言う。
「モモ、ここは俺が払うから。中に入ろう」
「えっ!? で、でも」
「いつも家事やって貰ってるからそのお礼というか、プレゼントってことでどうだ? 金額のことは気にしなくて良いから」
「で、でも……先ほども映画代とか払って貰ってますし……」
「まあ、俺が無理に出させなかっただけだしな。普段だらしない分、こう言う時くらいカッコつけさせてくれ」
「そ、そんな! ふ、普段から十分カッコいいと思いますけど……」
「お、おう……」
「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えても良いですか? その代わりと言ってはなんですが、これからも美味しいご飯を作れるように精進いたしますね♡」
「ありがとう。じゃあ、行こうか」
実際問題、懐事情で言えば、龍生は恐らく高校生ではありえないほどの額を所持している。理由は単純で働いているわけではないが、使わないから。
両親がかなり稼ぐ事で、貰う金額も高校生にしては多額となっており、加えて物欲があまりない龍生は、ほぼ全額貯金していた。懐に貯まる一方なのだ。
このお店に展示されてる物をある程度買えるくらいの財力を秘めている自負はある。それに、高いといっても所詮はヤング、ティーン向けのプレタポルテだ。
そんな余裕綽々の龍生に、遠慮しすぎてはかえって失礼だと思ったのか、踏ん切りがついた様子で店の中へと入っていく。
プレゼントだからか、それとも高価なものだからか、店の服を1着1着妙に真剣に吟味するモモに苦笑しながら、一通り店をぐるっと見て回る。
3点ほど気になった服を見つけ、試着をしたいという彼女の依頼に、店員は満面の笑みで頷いた。それが単なる営業スマイルに留まるものではないように見えたのは、もしかしたらモモを店のPRに使いたいという意図が潜んでいるのかもしれない、と龍生は思った。
彼女ほどの美貌なら、その手の下心が向けられるのは珍しいことではないだろう。
案の定、試着室に入ったモモを確認し、その隙間時間をどう待つか考えながら店内をウロウロしていた時、斜め前に、先程の店員が彼の顔色を窺うような目つきで立っていた。
「えっと、どうかされましたか?」
相手が話し掛けてくるまで待っていても良かったが、明らかに同伴者を待っているというポーズの客(正確にはその付き添い)に話し掛けるのは、接客マナーをしっかり叩き込まれている店員ほど難しいだろう。そう思って龍生の方から水を向けてみることにしたのだった。
「お客様にチョッとご相談が……」
承諾の印に龍生が軽く首を縦に振ると、店員の顔から隠していた緊張が取れた。 やけに顔が赤い気もするが。
「もし当店の商品がお客様のお眼鏡に適いましたら、お買い上げいただいたドレスをそのままお召しになっていただけませんでしょうか」
「こちらのワンピースを着て歩き回って欲しい、と言うことですかね?」
「はい。その分、お値段は勉強させていただきますが」
どうやら店員の方も、龍生が自分たちの目的に気づいたと覚ったようだ。
すかさず値引きを持ちかけてくるあたり、この女性店員は若さに似合わず中々の商売人らしい。
ディスカウントは龍生にとってそれ程魅力のある提案ではなかったが、こうしてわざわざ提案をしてくれていることを無碍にはできなかった。
それに、恐らく恋人であること前提で、この提案を龍生に持ちかけている。その誤解から解かなければならない。
「すみません。彼女とは恋人ではないので、彼女にも了承を頂いてからでも良いですか? それにまだ買うとも決まってませんし」
「さ、左様でございましたか! 申し訳ございません。では、お連れ様のご試着が終わりましたら、再度お声掛けさせていただきます」
「すみません、それでよろしくお願いします」
店員との相談が一段落ついたところで、別の店員が龍生の許へやって来た。モモが呼んでいるとのことだ。
「龍生さん、どうでしょうか……?」
試着室の扉は開いていた。背中も見られる等身大の三面鏡(隠し撮り防止の為、こういう場所にカメラは使用されない)をバックに、モモがはにかみながら問い掛ける。彼女が身に着けているのは淡いグレーを基調としたジャンパースカート。
シンプルに似合うと思った。だが今日着ていたワンピースの方が華やかで彼女に似合うだろう。
「えっと、よく似合ってるんじゃないか?」
「ふふっ、ありがとうございます。……もう少し、華やかな方が良いでしょうか?」
「そ、そうかもしれないな……」
まるでこちらの好みを伺う様に、彼女は問いかけてくる。
そして、その心までも見透かした様に話しかけてくる彼女に、龍生は思わず頬をかいてしまう。
そんな龍生に、くすくすと笑みをこぼしている。
「じゃあ、次の試着しますね♡」
「お、おう」
そう言って扉を閉める。微かに聞こえる、衣擦れの音。無音の間は、裾や髪を整えているのか。
それだけでもドキドキしてしまうのは男のサガなのか。
「お待たせしました。こちらはいかがですか?」
今度の衣装はチェックのキャミソールワンピース。首許から肩が全てむき出しだ。初々しさの中にも眩暈がしそうな艶かしさがある。
「……その、なんだ……す、すごい可愛いと思う」
「……あ、ありがとうございます」
龍生の不器用ながらもストレートな感想に、モモも顔を赤らめた。
「つ、次のに着替えてきますね!」
龍生の返事を待たずに再度繰り返される着替えのプロセス。
今度のサマードレスは、露出度で言えば最初の物と二番目の物のちょうど中間くらい。ただウエストを絞ったデザインで胸と腰のラインを強調するシルエットになっている。
「ど、どうですか……?」
現れた彼女に対して、龍生は瞬間的に目を奪われた。
二番目のワンピースより露出は少なくても、セックスアピールはこちらが上だ。着てみてそれが解るから、モモも少し恥ずかしそうにしているのだろう。胸や腰回りのボリュームがなければ不格好になってしまうデザインだったが、よく似合っていた。さっきのキャミソールワンピースとは別種の、おそらくこの年頃特有の、アンバランスな色香を醸し出していた。
「…………」
「りゅ、龍生さん?」
「あ、ああ」
少し不安そうな響きの声に、フリーズしていた龍生が元に戻る。
龍生の中では、1番このワンピースがしっくりくると思っていたし、何より抜群に龍生の好みだった。
ただ、それをどう伝えるべきなのか頭の中で逡巡する。
色っぽいと直接的に伝えてしまって良いのだろうか。
それとも、可愛いというフレーズを連発してしまっても良いのか。
はたまた、似合っているとありきたりな言葉を選べば良いのか。
悩みに悩んだ挙句、彼が出した結論が──
「その……あ、アレだな……」
「は、はい……っ」
「り、理性を失いそうだな」
「っ!?」
顔を更に真っ赤にしたモモが、無言で更衣室の扉を閉めた。
彼のフレーズを聞いた歳上の店員でさえも、耳まで顔が真っ赤だった。
彼の発言は決して不正解ではない。
ただ、正解でもないのかもしれない。
龍生は、込み上げまでくる羞恥に耐えながら、彼女が更衣室から出てくるのを待った。
今いる建物は若い女性向けのファッションビル。洋服だけでなく靴や帽子、アクセサリーや小物、季節ものの浴衣や水着、そういう商品を扱う店舗が一階から十四階まで軒を並べているビルだ。飲食店も若い女性向けの軽食やスイーツを出す店ばかり。男性にはいささか敷居の高い雰囲気が漂っていたが、女性とカップルであれば話は別だ。実際はカップルではないが、龍生の腕に自分の腕を絡めて嬉しそうに寄り添うモモの姿は、どう見ても恋人に甘える少女の姿だ。
「すみません、結局3着も買っていただいてしまって……」
今日着ていたワンピースのモモが、申し訳なさを前面に上目遣いで言う。龍生は「気にしないで」と柔らかく微笑みを返した。
結局値引き交渉に応じる事なく、買った服はそのまま買い物袋に入れることになった。
とは言え他に気に入った服を購入したことで、店側もホクホク顔だった事から、お互い損はないだろう。
そんなこんなで洋服選びに時間を費やしたとは言え、時刻は3時前。
次はどこに行こうかとお互い話し合っていれば、モモが「あっ」と小さく声を挙げる。
その時、一瞬、彼女の笑顔が人の悪い、邪悪な笑顔を浮かべたのは気のせいだろうか。
「龍生さん。少し寄りたいところがあるんですけど、宜しいですか?」
「ん? ああ、良いよ」
それを気のせいだと判断し、彼女に案内されるまま向かった先で、それを後悔することになる。
辿り着いたのは、ピンク色の空間。ランジェリーショップ。所謂、女性の下着売り場だった。どうやらこの悪女は、とんでもない場所に連れてきた様で、龍生はその場に呆然と立ち尽くす。
「お、おい……ここって」
「ふふっ、さあ! 行きましょう、龍生さん♪」
「ちょ、おい! さすがにまずいって!」
「大丈夫ですよぅ、他にお客さんも居ませんし♡」
グイグイと老犬を引っ張る飼い主の様に、龍生を下着売り場へと引っ張り込むモモ。
確かに他にお客さんはいない事から、多少なりともデリケートな問題は解消されているが、それでも問題が山のようにある気がする。が、されるがまま、華やかな世界に突入する事となる。
「うふふ、龍生さんは、どれがお好みですか?」
「あ、あのな、お前マジで何考えてんのよ……」
「男性の好みがわからないので、龍生さんにお聞きしたいと思いまして」
「そ、それなら別に俺じゃなくても良くないか?」
「あら、そんな事ないですよ。龍生さんの好みが聞きたいんです♡ これなんて如何ですか?」
色鮮やかな下着が満遍なく揃っているこの空間は、最早視線の逃げ場すらない。店を一周するなり、終始困り果てた龍生に、彼女は淡いパウダーピンクのランジェリーを見せてくる。オマケにタグ表記の「D78」という文字も視界に移ってしまった事で、咄嗟に視線を明後日に向ける。向けたところで、必ずランジェリーが目に入ってしまうが。
「に、似合うと思うけど」
「ふふっ、ありがとうございます! では、これと……」
なんだかんだ感想を述べてくれる龍生に対して、嬉しそうにモモは微笑み、吟味した何点か手に取る。
そして、試着室へと案内される。
彼女が試着中の間は、流石にこの店内で待つと言う手段はない。というより、今すぐにでも立ち去りたい一心でしかない。
まだ、若干15歳の自分には、ここはあまりにも居心地が悪すぎる。
店内を出ようと踵を返しかけた時、案内した店員が何故かコチラに気遣う様な視線を向けていた。
「お客様、お連れ様もご一緒に如何ですか?」
「……はい?」
「まあ♡」
要らぬ気遣いに、最早絶句である。二の句が告げないとはまさにこの事だろう。
反対に何故か嬉しそうなモモに促されるまま、強制連行された。
頭が追いついた時にはすでに、彼女と更衣室という密室にいる自分に気づいた。
「お、おい! 流石にこれはヤバ……す、すまんっ!」
タイミング良く眼下で服を脱ぎ始めた彼女に、慌てて後ろを向く。
後ろから聞こえてくる、衣擦れの音。ふんわりと香る、彼女の甘い匂い。
パチっと服を脱いだ音ではないものが聞こえてくる事で、彼女が下着のホックを外している事すら把握できてしまう。
身体の中に、異様な緊張が満ち溢れてしまう。
(マズイマズイマズイ! 流石にコレはまずいって!!!)
出ようにも彼女は只今お着替え中。この更衣室の扉を開けるわけにはいかない。最も、彼女の下着姿を他の者に見せる事すら、龍生にとっては、抵抗はあるだろうが。
今はそれを考える余地はない。
できる事としては、雑念を追い払う事ぐらいだ。
邪な妄想が浮かんでくるたびに大急ぎで頭を振る。
そんなことを繰り返しているうちに、
「りゅ、龍生さん。コチラを向いてもらっても良いですか?」
背後から、気恥ずかしさを含んだような声がかかる。わかりやすく動揺が声音に表れている。
流石の彼女も恥ずかしいという思いはある様だ。
それを感じ取ったからこそ、なんでここまで引っ張ってきたという疑念が浮かぶが。龍生は断固としてその誘いになるわけにはいかなかった。
「む、向けるわけねえだろ!」
「むう……えい♡」
「──ぅえっ?」
龍生の喉から間抜けな声が漏れた。
背中越しに妙な弾力のある何かが押し付けられる。そして彼女の細い手が腰に巻き付いてきた。
「見てくれないと、イタズラ……しちゃいますよ?」
「も、もうしてるじゃねえか! わ、わかったから離れろって!」
囁くように怪しい言葉を並べてくる彼女に、性的な欲望が渦を巻いていた。慌てて振り解こうとした事で、咄嗟に彼女の尻尾を掴んでしまう。ぎゅっと力強く握った事で、ビクッと彼女が震えた。
「あぁっ、はぁんっ♥」
「す、すまん! 大丈ぶ……か……」
彼女の放つ嬌声──それが甘い吐息と共に試着室を包んだ事で、慌てて手を離し振り返る。全身から力が抜けたように、もたれかかってくる彼女を、慌てて受け止める。
そして、目の前の光景に、絶句する。
現れたのは、あられもない半裸の姿。美しい鎖骨に、思わず凝視してしまうような豊かな胸。淡いピンク色に薄いレースの縁取りの下着を添えて、男がむしゃぶりつきたくなるほど怪しいまでに白い肌が、否応なく飛び込んでくる。男を狂わせずにおかない魅惑が、モモの姿態には満ちていた。
「りゅ、りゅうせいさん……」
先程の快感に当てられて、乱れた呼吸で艶っぽい声を出す彼女。
モモの端正な美貌が、信じられないほど近くから龍生を覗き込んでいた。
周囲から音が消えた気がする。
自分の心音だけが聞こえてくる。
上目遣いで、蕩けた瞳を向けてくる彼女の妖艶な姿に、何も考えられなくなる。何かが始まりそうになるその瞬間──
「お、お客様! えっと、その……」
若い女の声が、2人だけの世界に亀裂を入れる。
脊髄反射のようにビクッと我に返った2人が慌てて佇まいを整える。
助かったと思う反面、ふと、店員が妙に言いずらそうにしているのに気づき、互い顔を見合わせた。2人して、顔が真っ赤になる。
「だ、大丈夫です……っ!」
「は、はい! ……ご、ごゆっくり? ……きゃっ♡」
モモのか細い声が、益々店員に誤解を植え付けたようで、パタパタとどこかに向かう足音が聞こえてくる。
「……で、出れねえぞこれ」
「そ、そうですね」
恥ずかしさのあまり、しばらく試着室に閉じこもる2人だった。かえってそれがまた誤解を招くのだが。
「……落ち着くな」
時刻は4時過ぎ。勤め先から家に帰るサラリーマンのように疲れながら、砂糖とミルクを飽和寸前までぶち込んだ甘ったるいコーヒーを啜った。
半日ぶりに摂取するカロリーが、飢えた身体にじんわりと染み渡る。
「取り敢えず、他に買うものってある?」
「いえ、もう大丈夫です! お付き合いいただいて、ありがとうございます♪」
モモは満足げに微笑みながら、自分のカップを両手で包み込むようにしていた。
それを見て、龍生は微苦笑を浮かべる。
「まあ、ちょっと疲れたけどな」
「龍生さんは、本当にお優しいです」
「え?」
「色々、私のワガママに付き合わせてしまったのに、私を責めずに言葉を選んでくれるので」
「い、いや、俺は別に……」
「本当にありがとうございます。今日1日、凄く楽しかったです♡」
目を伏せ、少し頬を染めながら礼を言うモモ。その仕草が妙に艶やかで、龍生は一瞬視線を外した。
「まあ……無事買えたのなら良かったよ。なんだかんだ俺も楽しかったし」
ビルの中は女性向けの店舗ばかり。特に目的がない限り──恋人あるいは恋人にしたいガールフレンドのご機嫌を取る為の貢ぎ物を選ぶという目的が大半を占めると思われる──男性の興味を引く場所ではない。常にそういう事を考えている若い男性であれば、楽しいかどうかは別にして、有意義な時間を過ごせる場所かもしれないが、少なくとも龍生はその手のタイプではない。
しかし龍生は、服などを真剣に眺めるモモに、嫌な顔一つ見せず付き合っていた。──下着売り場は別だが。
見て目を輝かせたり不満げに眉を顰めたりするモモの姿は、どこかホッコリするものがあった。
常に楽しかったのは、龍生も同じなのだ。
「ふふっ、下着姿も見られてしまいましたし♡」
「見せてきたんだろお前が!」
「本番……楽しみにしてて下さいね♪」
「だーっ、それをやめろ!」
──あの悪戯っぽい笑顔には、いつも翻弄される。
買い物を終えた後、カフェで一息つくことになったのは、単純に歩き疲れたのもあるが、龍生の精神的ダメージを回復させるためでもあった。
ショーケースの中には可愛らしい自家製チョコレートや焼き菓子たちが、お行儀良く並べられていて、穏やかな時間が流れる店内。
それにコーヒー一杯の値段は安くないが、席と席とのあいだに距離がとられているので、他人の耳を気にせずに話をすることができる落ち着いた雰囲気になっていた。女性客で賑わっていても、龍生も思わず一息つけるような場所ではあるが。
「……にしても、相変わらず注目されていると言うか、モモの人気も大したもんだな」
カフェの中を何気なく見回しながら言う。
遠くのテーブルやカウンター席から、ちらちらと視線がこちらへ向けられている。
「どちらかと言うと龍生さんの方に目が向けられてる気がするんですけど……」
「俺? なんで?」
「えっと……」
モモは何かを言いかけたが、すぐに口を噤んで困ったような笑顔を浮かべる。
龍生は眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。
「そ、そう言えば、ヤミさん。転入してきましたね」
突然の話題転換に龍生は一瞬唖然とするが、すぐに頷いた。
「なんだそのあからさまな話題晒しは……まあ、これでリトさんとの関係も良好になりやすくなるんじゃないか?」
提案を受けた次の日から、ヤミはモモ達と同様に同じクラスで転入してきた。この展開はやはり、龍生にとっても好都合だった。ハーレムを作る上でもそうだが、彼女と言う起爆剤がどうメアに影響を与えるのか、観察しやすくなった。
「フフッ そうですね。案外すんなりリトさんのトリコになってしまうかもしれませんし♪」
「だと良いんだけどな……それに黒崎メアの問題もある」
その名を出した瞬間、モモの微笑がピタリと止まった。
「黒崎メアさん、ですか……」
どこか冷ややかな色を帯びた声色に、龍生は内心で肩をすくめる。
モモはメアを警戒している──いや、敵視している。
──その理由は、おそらく龍生自身にある。
メアと接触した翌朝、龍生は意識を失っていた。
何をされたのかは記憶にない。
だが、それがモモの心をざわつかせるには十分な出来事だったのだろう。
「……あまりご無理はしないでください。心配、するんですからね?」
「わ、悪い」
静かに、だが確かな温度を持った声でモモが言う。
紫色の瞳が、不安げに揺れていた。
確かに学校の生徒とは言え、迂闊だったと思わざるを得ない。
危機管理を今一度脳裏に叩き込む。
そんな時ふと、隣の人の会話が微かに耳に届いた。
声量は抑えられているが、地獄耳の龍生には聞こえてくる。
──ねえねえ、聞いた?
──えっ、なになに。
──なんか、ついさっき彩南町で殺人事件があったらしいんだけど。
──うん。
──頭部がなかったんだって
──なにそれ……こわっ。
──なんか、物騒だよね。
カフェの中では、些か物騒な会話だった。
だが、龍生は思わず思案する。
(頭部のない死体……)
「モモ、少し携帯弄ってもいい?」
「えっ? は、はい、どうぞ?」
わざわざ確認を取る必要がなさそうな許可取りに、モモが少し首を傾げる。
龍生は、すぐに携帯端末をポケットから取り出して、『彩南町』、『殺人事件』2つのキーワードから検索結果でヒットした殺人事件を調べた。
直近で1時間前に、頭部のない遺体が彩南町の公園で発見されている。記憶によれば、寂れた遊具が置かれた、あまり人気のない公園だったはず。周囲も廃工場など住宅があまりない工業団地なために、人の目がそこまでない。
「ごめんモモ、ちょっとそっち行っても良い?」
「へっ!? は、はい」
予期せぬ提案に、モモから上擦った声が返ってきたが、龍生は気にした様子なく彼女の隣に腰掛けた。幸い4人席に案内されていたために、モモの隣のスペースは空いている。
席の間隔は空いていても、一応食事どころであることも考慮し、敢えて隣に腰掛けることを選択したのだ。
「これ、読んでみて」
「は、はい」
隣とはいえ、隙間なく座ったわけではないが、モモが少し緊張気味に答える。存外龍生からのアプローチには弱いのだ。
「……これって」
だが、その記事を読み、彼女の表情が引き締まる。
「ザスティンが言ってた事ってこれのことか?」
「……そうですね。十中八九何か起きたら、アゼンダの仕業である可能性が高いと警告してましたし。ただ、殺し屋と名乗る以上、証拠は残すのでしょうか?」
「確かに俺だったら証拠は残さないだろうな」
「……逆に、敢えてその場に証拠を残した可能性もありそうですし」
「なるほど……」
お互いの意見を重ね合っても、憶測の域を出ない。
それに、遺体にメッセージが残されているのだとしても、警察でない以上、それを知る術はない。
ただ、妙に胸に忍び寄る黒い雲を感じる。
「──暴虐のアゼンダ……ヤミみたいな物分かりのいい人だと助かるんだけどな」
この町での自分の静かな生活がアゼンダという殺し屋によっておびやかされているように感じる。それは楽章のはじめで象徴的に提示される不協和音のように──龍生の穏やかな夏に、不吉な予感のしみを与えてくる。
──美柑が買い物から帰ってきてないんだけど、龍生の家にいる?
自宅に帰るなり、自分の部屋でリトから送られてきたメッセージ。
読み上げるなり、激しい焦燥感に駆られた。