逃げろ。
逃げろ。
脇目も振らず必死に走っていたが、十メートルも行かないうちに捕まえられた。
「おっと。すばしっこいけど、まだまだだな」
少年はせめてもの抵抗で身をよじってみたが、手首を掴んだ女はびくともしない。大人の手は絶望するほど大きく、幼い手首を握ってもまだ指が余っている。そして、いきなり拳が飛んできた。
鈍い音と共に顔が横を向く。少し遅れて痛みがやってきた。皮膚をさくような痛みが左の頬にひりひりと広がる。
二発目は足蹴りだった。動けないまま立っていると、鳩尾の辺りに女の爪先が入った。
激痛に耐えられず、少年はその場で腰を落とす。胃の中のものが全部出てきそうだった。
「これ以上、要らん手間掛けさせんなよ」
手首を放し、今度は髪の毛を鷲みにした。手首を握られているだけなら抵抗もできるが、髪の毛では抗う術もない。引き千切られる痛みで足がそっちの方向に向かう。
頭頂部でぶちぶちと音がした。激痛が走ったが声は出さなかった。
「ホントにお前は強情だな。泣きでもしたらちっとは可愛げがあるっていうのによ」
口の中で鉄の味がする。さっき殴られた際、内側を切ったらしい。しかし少年は泣かなかった。殴られてもいい。血を流してもいい。しかし、泣くことはこの女に屈服したことになるので、それだけは絶対に嫌だった。
そんな少年の抵抗を感じとったのか、女の視線が鋭くなる。冷たい視線はぞっとするほど異様な迫力に満ちていた。
「まあ、いい。どの道情報を話せないのなら──死ね」
悲鳴を上げそうになったが、なぜか声は出ず、身体も動かない。気づけば混沌とした意識のなか、気管からヒューッと空気が漏れただけだった。斜めに傾いてゆく視界にアスファルトの地面に突き刺さった血まみれのガラス片が見える。
──何だ? 何が起こった?
パニックの波が起こるより早く、少年の意識は再び黒く塗りつぶされていく。
丑三つ刻。
夜霧が、アスファルトの高さまで降りてきている。
ゴン、と重い音を立てて頭が落ちた。少し遅れて、身体が糸を切られたように崩れる。
女は路肩の小石でも見るような目でそれを一瞥した。
血の匂いが濃くなる。それを確認材料にして、任務の終わりとした。
あれから何度、同じことを繰り返しただろう。
何十、何百、何千。それでも底に沈んだものは、ひとつも溶けない。
――貴方がアゼンダ?
忌々しい金髪の幼女を思い出し、奥歯が鳴った。
あの日の敗北で、暗殺者としての名は地に落ちた。
屈辱。屈辱。屈辱。思索の壁は、ちかちかと寒く光るその色で一面に塗り潰されている。心の隅に湧いた悪い衝動が、夏の雲みたいに膨れ上がって、空全体を覆っていく。
全ては――
――金色の闇を、殺す。
墨を流したような景色に背を向け、その場を離れようとした時だった。
首のない死体に、一羽の烏がとまった。
漆黒の羽根に覆われた身体は、妙に滑らかで、平坦だった。角度によっては厚みがない。折り紙を鳥の形に折っただけのものにも見える。
珍しい鳥ではない。それでも、女の指が柄にかかった。
こちらを観察する、べったりとした瞳。
腰を落とし、切先を向ける。
「――何者だ」
生き物は喋らない。女は、その向こう側に話しかけていた。
『金色の闇は、地球にいる』
「何? ……貴様、なぜそれを知っている」
くくく、と喉が鳴る。
『貴様の闇を、知る者だよ』
「……私の闇だと。貴様、何者だ」
答えはなかった。烏は輪郭から闇に溶けて、消えた。
どれだけ探しても尻尾を掴めなかった相手を、この生物は知っている。そのうえ、わざわざ教えに来た。
狙いは何だ。
「地球……」
一度だけ、仕事で降りたことがある。生温い星だと記憶している。
なぜあの女がそこにいるのか。理由はわからない。
殺し屋にとって、情報は命だ。出処の知れない、得体の知れない生物からの話など、出鱈目である公算のほうが高い。
それなのに、唇が勝手に吊り上がった。
直感が告げている。金色の闇は、地球にいる。
「良いだろう……」
あの女を叩き伏せる光景を思い描きながら、女は上機嫌な足取りで夜を出ていった。
「――なるほど。それは厄介ですね」
食後のまどろみを、電子音が破った。
リビングのモニターに映ったのは、デビルーク王室親衛隊隊長、ザスティン。
「暴虐のアゼンダ、か」
龍生が眉を寄せる。その名を聞いた瞬間、モモの表情からも柔らかさが抜けた。
『はい。地球へ向かっているという情報を掴みまして』
「何でまたそんなのが……」
『さあ、我々もそこまでは……』
首を傾げる隊長に、使えないな、という言葉は飲み込んだ。
暴虐のアゼンダ。赤銅色の肌に、長い銀髪。二つ名どおりの手口で知られたプロの殺し屋。金色の闇に敗れて名声を失い、落ちぶれていたはずが、最近になって動きが不穏になっているという。
「ザスティンは戦ったことがあるんですか」
『いえ、直接剣を交えたことはないので、何とも。ただ、情報によると、生物を操る能力があるとか』
「……生物を、操る」
その言葉が落ちた瞬間、龍生の頭に猿山たちの白い目が浮かんだ。
理性を失って暴れ回った生徒たち。あれがもっと広く、もっと強く起きたら。
――最悪だな。
『情報が少なく面目ありません。ですが、地球に来るというのは確かです。何か不穏なことが起きた場合、十中八九ヤツの仕業とお考えください。リューセイ殿、モモ様。我々も警戒しますが、くれぐれもお気をつけを』
「わかりました。ありがとうございます」
この男はデビルーク星最強の剣士で、イマジンソードという光子剣を帯びている。地割れを起こすほどの切れ味だという。本人いわく、純粋な戦闘力ではナナやモモより上らしい。
目を光らせてくれるのは心強い。とはいえ、その目が届かない場所では、自分の身は自分で守るしかない。
「それはそうと、ザスティン。何だかお疲れではありませんか?」
モモが首を傾げる。
言われてみれば、鎧の隙間から覗く顔には影が差している。目の下の色も濃い。
『えっ? あ、ああ、これはですね……あっ、ちょっ――』
『――こんばんは、龍生さん』
鎧の男を押しのけるように、画面が別の顔で埋まった。
ピンクのロングヘアに、紫の瞳。モモの面立ちを二十年ぶん熟成させたような女性――セフィ・ミカエラ・デビルーク。
宇宙一の美貌と声を持つ少数民族、チャーム人の最後の末裔。その美しさは能力の域に達していて、顔を見た男はどんな紳士でもたちどころに理性を手放す。だから普段はヴェールで顔を隠している。
龍生は、そのチャームが効かない数少ない男だった。
むしろ、おっとりした口調の裏にある濃度に、うなじが冷える。
そして、ザスティンの疲労の原因を一秒で理解した。
「なんで貴女がそこに……」
『あらあら、随分と容赦のないご挨拶。私はこんなにもお会いしたかったのに……っ』
シクシクと嘘泣きの芝居。龍生は頬を引き攣らせ、怒りの矛先を画面の外へ向けた。
「ザスティンさん! 内密に連絡くれって、あれほど言いましたよね!?」
『め、面目ない……』
『そう怒鳴らないの。ご存じかしら。愛さえあれば、何でも可能なのですよ?』
「お、大袈裟な。愛なんてそんなもん――」
『――一万九一四七回』
「えっ?」
『今日の貴方の、瞬きの回数です♡』
「……」
神経の裏側を、冷たいものが走った。
細められた紫の瞳から逃げようと身を引きかけた、その前に。
桃色の髪がふわりと動いて、画面との間に割り込んだ。
「お母様。その辺にしていただけませんか」
『あら、モモ。貴方もお元気そうで何より』
今そこにいたのね、と言わんばかりの間。モモのこめかみが、ぴくりと動いた。
「ええ、お母様。相変わらず、龍生さんと
『あらあら――そう』
「うふふ――はい」
どちらの口元にも淑女の笑みがある。どちらの目も笑っていない。
視線が空中で組み合ったまま、ほどけない。
龍生は、この場からの撤退を真剣に検討した。
「ちなみにですが、龍生さんは寝顔もご立派ですよ」
『あらあら、それは楽しみねぇ』
「寝顔の話だよな!?」
しばらくして、根負けしたようにセフィの視線がこちらへ滑ってきた。
『ところでリューセイさん』
「……なんですか」
『今度、私とデートをしてくださらない?』
「……は?」
世界が一拍、止まった。
デート。誰と。この宇宙一の魔性と。
『モモ達の様子を見に、近々そちらへ伺うのです。その時にぜひ、貴方のお顔を見たくて♡』
「いえ、是非とも断ります」
『地球にはカフェというものがあるそうですね』
「……人の話を一ミリも聞いてねえ……まあ、ありますけど」
『ぜひ、そこへ連れて行ってください』
「……はあ。まあ、気が向いたら」
『まあっ♡ お約束ですよ?』
「はいはい、わかってますよ」
『そうですか! それではもし破ったら――』
「あー、はいはい。守ります。守りますから」
『――この紙に、ご署名と捺印を』
「命に代えても守りましょう」
婚姻届を人質に取られては、勝ち目がない。
満足そうな笑みを最後に、画面が黒く落ちた。
嵐が去った、と息をついた矢先。裾を、ちょこんと引かれる。
「龍生さんは、お母様とはおデートなさるのですね」
隣で、モモが頬を膨らませていた。
「も、モモ?」
「……私もデートしたいのに」
「い、いや、あれは脅迫であって。別に俺は……」
「むぅ」
上目遣い。つんと尖った口元。
可愛い。そして、それ以上に厄介だ。
「わ、わかった。明日休みだし、行こう」
「ほ、ホントですか!? ふふっ、楽しみです♡」
結局、いつもどおり彼女のペースだった。
翌日は、抜けるような晴天だった。
遅れたくなくて早めに出たものの、太陽はもう中天にかかろうとしている。
日陰になった駅の柱に背中を預けると、腹がくぅーと情けない音を立てた。構内のクレープ屋から流れてくる甘い匂いが、それを煽ってくる。
腕時計の針が正午に触れる少し前。
「龍生さん! お待たせしました!」
声のほうを向いて、龍生の呼吸が半拍止まった。
人混みを縫って小走りに来る少女。白を基調にしたサマードレスは肩も腕も出ていて、丈は膝上。素足にヒールのあるサンダル。髪はいつもより丁寧に整えられ、うっすら化粧の気配がある。
この世には、何度見ても慣れないものがある。龍生は、そのことを今日はじめて知った。
「化粧、してるんだな。……髪型も」
「っ!? は、はい! 少しだけですけど……その、どうですか?」
見上げてくる瞳に、不安と期待が同じ量だけ入っている。それだけで心拍が上がる。
「……す、すごく可愛いと思う」
「あ、ありがとうございます♪」
声が掠れた。モモははにかんで、その言葉を丁寧に受け取った。
「龍生さんも、すごく素敵です……っ♡」
「あ、ありがとう……」
向日葵みたいに笑う、と思った。季節のせいかもしれない。
そして訪れたのは、沈黙だった。
一ヶ月以上同じ家にいるくせに、今日の空気だけが違う。初対面のような、妙な硬さがある。
立ち尽くしているわけにもいかない。
視界の端で、モモに見惚れて足を止めた男が二人ほど電柱にぶつかった。おかげで龍生は正気を保てた。人混みも役に立つことがある。
「お、腹減っただろ。飯行こう」
「はい!」
彼女もそれに同意し、目的地に方向に歩き出す。ただ、隣に歩く彼女が何の躊躇いもなく腕を組んでくる。
必然的に、吸い寄せられるように彼女の谷間に右腕が密着した。
「お、おい! ……あ、当たってるって」
「うふふ、当ててますから♡」
「こ、この小悪魔め……っ」
無邪気に甘えるその姿に、どうすることもできない。
歩きづらさもあるが、それ以上に腕から伝わる柔らかい感触が、理性を削り取っていく。
それでも、機嫌よく鼻歌でも歌い出しそうな彼女を振り払うこともできず、龍生はただ必死に自分を抑えるしかなかった。
昼はイタリアン。予約の取りにくい店だが、たまたま一席だけキャンセルが出ていた。
「まさか、本当に取れるとはな」
「はい♡ 龍生さんから予約取れたってメッセージが来たとき、驚きました」
「俺もだよ。ネットは受付終了になってて、ダメ元で電話したら空いてたらしい」
「流石です♡」
「運が良かっただけだって。……というより、なんで昨日いきなりリトさんの家に泊まったんだ?」
照れ隠しに話題を投げると、モモは得意げに人差し指を立てた。
「男女のデートは、待ち合わせから勝負だと地球で教わりましたので♪」
「なんだそれ」
「うふふ。デート気分になれましたか?」
いたずらの成功を確信した子供の顔だった。
「……なるほど。同じ家から出ないで、わざわざ別々に待ち合わせたわけか」
「はい! それで、いかがでした?」
小走りに駆け寄ってきた姿が浮かぶ。
確かに、あの数分の待ち時間には、同居していたら絶対に生まれない緊張があった。
龍生は頬をかいた。
「……まあ、良かったよ。ありがとう」
「うふふ♡ こちらこそ、ありがとうございます♪」
満面の笑み。
どこで仕入れた教材なのかは知らないが、初デートにしては選書を間違えている気がしなくもない。
そのうち、周囲の視線に気づいた。
――おい、なんだあの子……。
――す、すげえ可愛い。
――……ねえ、今あの子見て顔赤くなってなかった?
――え、あ、いや、そんなことないって!
どこも同じらしい。連れのいる男が足を踏まれたり、脇腹に肘を入れられたりしている。
――悪意のある視線はない。よし。俺もしっかりしないとな。
王子様の役が務まるかは怪しい。それでも、この子が楽しめるようにはしたい。龍生はそう腹を決めた。
絶品の昼食を食べ終え向かった先は、映画館。
ド定番かもしれないが、龍生自身も悩んだ挙句、王道に従うことにした。テレビCMなどで流れていた、お互い見たいと思った映画をチョイスし、時刻を確認すると、昼食を食べ終えた時間と丁度良い時間に空きがあった為に、それを見ることにした。
お互い飲み物を買い、指定された座席へと腰を下ろす。
席に座るなり、隣で妙に興奮した様子のモモが小声で話しかけてくる。
「なんだか映画館ってワクワクしますね♪」
「そうだな。あれ、来るのって初めてだっけ?」
「はい♪ 今日が初めてです。……また、私の初めてが奪われてしまいましたね♡」
「誤解を招くような言い方をするな」
まもなくして照明が降りて、映画が始まった。
舞台は1990年代のニューヨークで、自分の持つ強力なサイコキネシスを隠しながら生きていた少女が平凡な少年と会って恋に落ちるというのが大まかなストーリだった。秘密と恋心の板挟みで苦しむ少女と、心の裡を見せてくれない彼女をもどかしく思う少年の、それぞれの想いが丁寧に描かれていて、流石は大ヒットしただけはあるなと思った。悲劇的な結末だったにも拘わらず見た後は爽やかな気持ちにされた。
なかなか見応えがあったと思う。
隣に座るモモも悲劇的な結末に涙をほろほろと流しながらも、終始食い入るように見ていた事から、さぞ楽しめたのだろう。
2時間程の映画が終わり、映画の感想をお互い述べながら、駅ビルのショッピングを楽しむ事にした。
女性が買い物好きというのは宇宙人でも変わらない、常識とも言える傾向だろう。ただ女の子によってショッピングの行動パターンは三つに分かれると思われる。
一つ目は、本命の買い物を真っ先に済ませるパターン。
二つ目は、本命の買い物を最後に取っておくパターン。
三つ目は、多分これが一番多いと思われるが、本命がありながらあちこちに目移りして行きつ戻りつするパターン。
意外にも、モモは一つ目のパターンだった。
普段から服装などに気を使う彼女の為に、てっきりアレやこれやと店に駆け込むイメージだったが、特段そうではないらしい。
彼女は今現在履いている夏物のワンピースをもう何着か欲しいようだ。
なぜそう何着も欲しいのか気になり聞いてみたところ、
「うふふ。いつもと反応が違うようなので、次のデートに着て行こうかなと思いまして♡」
主語はない。それでも自分に向けられていることだけはわかる。
色々とこちらの趣味嗜好が筒抜けであることに、その場を去りたい程の羞恥に駆られながらショッピングを続ける。
そしてふと、とある店のマネキンに飾られた服を見て、彼女が立ち止まる。
今、モモが身につけている物とは随分方向性の異なるデザインだが、何だが彼女に似合いそうな気もする。そうマネキンを見て思う龍生だが、一方のモモは龍生と同じものを見て、少し怯んだ表情を見せた。いや、厳密に言えば同じ物ではない。モモが見ていたのは、マネキンに着せられたサマードレスに付いている値札だった。
何となく察していたが、低価格をウリにした量販店でも中堅レベルの服飾店でもなく、ここの店は中々の高級品店だ。
品物の殆どが、一般の高校生の懐事情をぶち壊すような値段ばかり。
どういうわけか、お姫様であるモモも、ザスティンから手渡されるお小遣いは決して多いわけではなく、平均的な額になっているようだ。そこら辺の教育は抜かりない様で、彼女の身につけているものは意外と庶民的なものだったりする。
ただ、彼女の物欲しそうな顔に、龍生は柔らかい笑みをこぼして言う。
「モモ、ここは俺が払うから。中に入ろう」
「えっ!? で、でも」
「いつも家事やって貰ってるからそのお礼というか、プレゼントってことでどうだ? 金額のことは気にしなくて良いから」
「で、でも……先ほども映画代とか払って貰ってますし……」
「まあ、俺が無理に出させなかっただけだしな。普段だらしない分、こう言う時くらいカッコつけさせてくれ」
「そ、そんな! ふ、普段から十分カッコいいと思いますけど……」
「お、おう……」
「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えても良いですか? その代わりと言ってはなんですが、これからも美味しいご飯を作れるように精進いたしますね♡」
「ありがとう。じゃあ、行こうか」
実際問題、懐事情で言えば、龍生は恐らく高校生ではありえないほどの額を所持している。理由は単純で働いているわけではないが、使わないから。
両親がかなり稼ぐ事で、貰う金額も高校生にしては多額となっており、加えて物欲があまりない龍生は、ほぼ全額貯金していた。懐に貯まる一方なのだ。
このお店に展示されてる物をある程度買えるくらいの財力を秘めている自負はある。それに、高いといっても所詮はヤング、ティーン向けのプレタポルテだ。
そんな余裕綽々の龍生に、遠慮しすぎてはかえって失礼だと思ったのか、踏ん切りがついた様子で店の中へと入っていく。
プレゼントだからか、それとも高価なものだからか、店の服を1着1着妙に真剣に吟味するモモに苦笑しながら、一通り店をぐるっと見て回る。
3点ほど気になった服を見つけ、試着をしたいという彼女の依頼に、店員は満面の笑みで頷いた。それが単なる営業スマイルに留まるものではないように見えたのは、もしかしたらモモを店のPRに使いたいという意図が潜んでいるのかもしれない、と龍生は思った。
彼女ほどの美貌なら、その手の下心が向けられるのは珍しいことではないだろう。
案の定、試着室に入ったモモを確認し、その隙間時間をどう待つか考えながら店内をウロウロしていた時、斜め前に、先程の店員が彼の顔色を窺うような目つきで立っていた。
「えっと、どうかされましたか?」
相手が話し掛けてくるまで待っていても良かったが、明らかに同伴者を待っているというポーズの客(正確にはその付き添い)に話し掛けるのは、接客マナーをしっかり叩き込まれている店員ほど難しいだろう。そう思って龍生の方から水を向けてみることにしたのだった。
「お客様にチョッとご相談が……」
承諾の印に龍生が軽く首を縦に振ると、店員の顔から隠していた緊張が取れた。 やけに顔が赤い気もするが。
「もし当店の商品がお客様のお眼鏡に適いましたら、お買い上げいただいたドレスをそのままお召しになっていただけませんでしょうか」
「こちらのワンピースを着て歩き回って欲しい、と言うことですかね?」
「はい。その分、お値段は勉強させていただきますが」
どうやら店員の方も、龍生が自分たちの目的に気づいたと覚ったようだ。
すかさず値引きを持ちかけてくるあたり、この女性店員は若さに似合わず中々の商売人らしい。
ディスカウントは龍生にとってそれ程魅力のある提案ではなかったが、こうしてわざわざ提案をしてくれていることを無碍にはできなかった。
それに、恐らく恋人であること前提で、この提案を龍生に持ちかけている。その誤解から解かなければならない。
「すみません。彼女とは恋人ではないので、彼女にも了承を頂いてからでも良いですか? それにまだ買うとも決まってませんし」
「さ、左様でございましたか! 申し訳ございません。では、お連れ様のご試着が終わりましたら、再度お声掛けさせていただきます」
「すみません、それでよろしくお願いします」
店員との相談が一段落ついたところで、別の店員が龍生の許へやって来た。モモが呼んでいるとのことだ。
「龍生さん、どうでしょうか……?」
試着室の扉は開いていた。背中も見られる等身大の三面鏡(隠し撮り防止の為、こういう場所にカメラは使用されない)をバックに、モモがはにかみながら問い掛ける。彼女が身に着けているのは淡いグレーを基調としたジャンパースカート。
シンプルに似合うと思った。だが今日着ていたワンピースの方が華やかで彼女に似合うだろう。
「えっと、よく似合ってるんじゃないか?」
「ふふっ、ありがとうございます。……もう少し、華やかな方が良いでしょうか?」
「そ、そうかもしれないな……」
まるでこちらの好みを伺う様に、彼女は問いかけてくる。
そして、その心までも見透かした様に話しかけてくる彼女に、龍生は思わず頬をかいてしまう。
そんな龍生に、くすくすと笑みをこぼしている。
「じゃあ、次の試着しますね♡」
「お、おう」
そう言って扉を閉める。微かに聞こえる、衣擦れの音。無音の間は、裾や髪を整えているのか。
それだけでもドキドキしてしまうのは男のサガなのか。
「お待たせしました。こちらはいかがですか?」
今度の衣装はチェックのキャミソールワンピース。首許から肩が全てむき出しだ。初々しさの中にも眩暈がしそうな艶かしさがある。
「……その、なんだ……す、すごい可愛いと思う」
「……あ、ありがとうございます」
龍生の不器用ながらもストレートな感想に、モモも顔を赤らめた。
「つ、次のに着替えてきますね!」
龍生の返事を待たずに再度繰り返される着替えのプロセス。
今度のサマードレスは、露出度で言えば最初の物と二番目の物のちょうど中間くらい。ただウエストを絞ったデザインで胸と腰のラインを強調するシルエットになっている。
「ど、どうですか……?」
現れた彼女に対して、龍生は瞬間的に目を奪われた。
二番目のワンピースより露出は少なくても、セックスアピールはこちらが上だ。着てみてそれが解るから、モモも少し恥ずかしそうにしているのだろう。胸や腰回りのボリュームがなければ不格好になってしまうデザインだったが、よく似合っていた。さっきのキャミソールワンピースとは別種の、おそらくこの年頃特有の、アンバランスな色香を醸し出していた。
「…………」
「りゅ、龍生さん?」
「あ、ああ」
少し不安そうな響きの声に、フリーズしていた龍生が元に戻る。
龍生の中では、1番このワンピースがしっくりくると思っていたし、何より抜群に龍生の好みだった。
ただ、それをどう伝えるべきなのか頭の中で逡巡する。
色っぽいと直接的に伝えてしまって良いのだろうか。
それとも、可愛いというフレーズを連発してしまっても良いのか。
はたまた、似合っているとありきたりな言葉を選べば良いのか。
悩みに悩んだ挙句、彼が出した結論が──
「その……あ、アレだな……」
「は、はい……っ」
「り、理性を失いそうだな」
「っ!?」
顔を更に真っ赤にしたモモが、無言で更衣室の扉を閉めた。
彼のフレーズを聞いた歳上の店員でさえも、耳まで顔が真っ赤だった。
彼の発言は決して不正解ではない。
ただ、正解でもないのかもしれない。
龍生は、込み上げまでくる羞恥に耐えながら、彼女が更衣室から出てくるのを待った。
今いる建物は若い女性向けのファッションビル。洋服だけでなく靴や帽子、アクセサリーや小物、季節ものの浴衣や水着、そういう商品を扱う店舗が一階から十四階まで軒を並べているビルだ。飲食店も若い女性向けの軽食やスイーツを出す店ばかり。男性にはいささか敷居の高い雰囲気が漂っていたが、女性とカップルであれば話は別だ。実際はカップルではないが、龍生の腕に自分の腕を絡めて嬉しそうに寄り添うモモの姿は、どう見ても恋人に甘える少女の姿だ。
「すみません、結局3着も買っていただいてしまって……」
今日着ていたワンピースのモモが、申し訳なさを前面に上目遣いで言う。龍生は「気にしないで」と柔らかく微笑みを返した。
結局値引き交渉に応じる事なく、買った服はそのまま買い物袋に入れることになった。
とは言え他に気に入った服を購入したことで、店側もホクホク顔だった事から、お互い損はないだろう。
そんなこんなで洋服選びに時間を費やしたとは言え、時刻は3時前。
次はどこに行こうかとお互い話し合っていれば、モモが「あっ」と小さく声を挙げる。
その時、一瞬、彼女の笑顔が人の悪い、邪悪な笑顔を浮かべたのは気のせいだろうか。
「龍生さん。少し寄りたいところがあるんですけど、宜しいですか?」
「ん? ああ、良いよ」
それを気のせいだと判断し、彼女に案内されるまま向かった先で、それを後悔することになる。
辿り着いたのは、ピンク色の空間。ランジェリーショップ。所謂、女性の下着売り場だった。どうやらこの悪女は、とんでもない場所に連れてきた様で、龍生はその場に呆然と立ち尽くす。
「お、おい……ここって」
「ふふっ、さあ! 行きましょう、龍生さん♪」
「ちょ、おい! さすがにまずいって!」
「大丈夫ですよぅ、他にお客さんも居ませんし♡」
グイグイと老犬を引っ張る飼い主の様に、龍生を下着売り場へと引っ張り込むモモ。
確かに他にお客さんはいない事から、多少なりともデリケートな問題は解消されているが、それでも問題が山のようにある気がする。が、されるがまま、華やかな世界に突入する事となる。
「うふふ、龍生さんは、どれがお好みですか?」
「あ、あのな、お前マジで何考えてんのよ……」
「男性の好みがわからないので、龍生さんにお聞きしたいと思いまして」
「そ、それなら別に俺じゃなくても良くないか?」
「あら、そんな事ないですよ。龍生さんの好みが聞きたいんです♡ これなんて如何ですか?」
色鮮やかな下着が満遍なく揃っているこの空間は、最早視線の逃げ場すらない。店を一周するなり、終始困り果てた龍生に、彼女は淡いパウダーピンクのランジェリーを見せてくる。オマケにタグ表記の「D78」という文字も視界に移ってしまった事で、咄嗟に視線を明後日に向ける。向けたところで、必ずランジェリーが目に入ってしまうが。
「に、似合うと思うけど」
「ふふっ、ありがとうございます! では、これと……」
なんだかんだ感想を述べてくれる龍生に対して、嬉しそうにモモは微笑み、吟味した何点か手に取る。
そして、試着室へと案内される。
彼女が試着中の間は、流石にこの店内で待つと言う手段はない。というより、今すぐにでも立ち去りたい一心でしかない。
まだ、若干15歳の自分には、ここはあまりにも居心地が悪すぎる。
店内を出ようと踵を返しかけた時、案内した店員が何故かコチラに気遣う様な視線を向けていた。
「お客様、お連れ様もご一緒に如何ですか?」
「……はい?」
「まあ♡」
要らぬ気遣いに、最早絶句である。二の句が告げないとはまさにこの事だろう。
反対に何故か嬉しそうなモモに促されるまま、強制連行された。
頭が追いついた時にはすでに、彼女と更衣室という密室にいる自分に気づいた。
「お、おい! 流石にこれはヤバ……す、すまんっ!」
タイミング良く眼下で服を脱ぎ始めた彼女に、慌てて後ろを向く。
後ろから聞こえてくる、衣擦れの音。ふんわりと香る、彼女の甘い匂い。
パチっと服を脱いだ音ではないものが聞こえてくる事で、彼女が下着のホックを外している事すら把握できてしまう。
身体の中に、異様な緊張が満ち溢れてしまう。
(マズイマズイマズイ! 流石にコレはまずいって!!!)
出ようにも彼女は只今お着替え中。この更衣室の扉を開けるわけにはいかない。最も、彼女の下着姿を他の者に見せる事すら、龍生にとっては、抵抗はあるだろうが。
今はそれを考える余地はない。
できる事としては、雑念を追い払う事ぐらいだ。
邪な妄想が浮かんでくるたびに大急ぎで頭を振る。
そんなことを繰り返しているうちに、
「りゅ、龍生さん。コチラを向いてもらっても良いですか?」
背後から、気恥ずかしさを含んだような声がかかる。わかりやすく動揺が声音に表れている。
流石の彼女も恥ずかしいという思いはある様だ。
それを感じ取ったからこそ、なんでここまで引っ張ってきたという疑念が浮かぶが。龍生は断固としてその誘いになるわけにはいかなかった。
「む、向けるわけねえだろ!」
「むう……えい♡」
「──ぅえっ?」
龍生の喉から間抜けな声が漏れた。
背中越しに妙な弾力のある何かが押し付けられる。そして彼女の細い手が腰に巻き付いてきた。
「見てくれないと、イタズラ……しちゃいますよ?」
「も、もうしてるじゃねえか! わ、わかったから離れろって!」
囁くように怪しい言葉を並べてくる彼女に、性的な欲望が渦を巻いていた。慌てて振り解こうとした事で、咄嗟に彼女の尻尾を掴んでしまう。ぎゅっと力強く握った事で、ビクッと彼女が震えた。
「あぁっ、はぁんっ♥」
「す、すまん! 大丈ぶ……か……」
彼女の放つ嬌声──それが甘い吐息と共に試着室を包んだ事で、慌てて手を離し振り返る。全身から力が抜けたように、もたれかかってくる彼女を、慌てて受け止める。
そして、目の前の光景に、絶句する。
現れたのは、あられもない半裸の姿。美しい鎖骨に、思わず凝視してしまうような豊かな胸。淡いピンク色に薄いレースの縁取りの下着を添えて、男がむしゃぶりつきたくなるほど怪しいまでに白い肌が、否応なく飛び込んでくる。男を狂わせずにおかない魅惑が、モモの姿態には満ちていた。
「りゅ、りゅうせいさん……」
先程の快感に当てられて、乱れた呼吸で艶っぽい声を出す彼女。
モモの端正な美貌が、信じられないほど近くから龍生を覗き込んでいた。
周囲から音が消えた気がする。
自分の心音だけが聞こえてくる。
上目遣いで、蕩けた瞳を向けてくる彼女の妖艶な姿に、何も考えられなくなる。何かが始まりそうになるその瞬間──
「お、お客様! えっと、その……」
若い女の声が、2人だけの世界に亀裂を入れる。
脊髄反射のようにビクッと我に返った2人が慌てて佇まいを整える。
助かったと思う反面、ふと、店員が妙に言いずらそうにしているのに気づき、互い顔を見合わせた。2人して、顔が真っ赤になる。
「だ、大丈夫です……っ!」
「は、はい! ……ご、ごゆっくり? ……きゃっ♡」
モモのか細い声が、益々店員に誤解を植え付けたようで、パタパタとどこかに向かう足音が聞こえてくる。
「……で、出れねえぞこれ」
「そ、そうですね」
恥ずかしさのあまり、しばらく試着室に閉じこもる2人だった。かえってそれがまた誤解を招くのだが。
「……落ち着くな」
時刻は4時過ぎ。勤め先から家に帰るサラリーマンのように疲れながら、砂糖とミルクを飽和寸前までぶち込んだ甘ったるいコーヒーを啜った。
半日ぶりに摂取するカロリーが、飢えた身体にじんわりと染み渡る。
「取り敢えず、他に買うものってある?」
「いえ、もう大丈夫です! お付き合いいただいて、ありがとうございます♪」
モモは満足げに微笑みながら、自分のカップを両手で包み込むようにしていた。
それを見て、龍生は微苦笑を浮かべる。
「まあ、ちょっと疲れたけどな」
「龍生さんは、本当にお優しいです」
「え?」
「色々、私のワガママに付き合わせてしまったのに、私を責めずに言葉を選んでくれるので」
「い、いや、俺は別に……」
「本当にありがとうございます。今日1日、凄く楽しかったです♡」
目を伏せ、少し頬を染めながら礼を言うモモ。その仕草が妙に艶やかで、龍生は一瞬視線を外した。
「まあ……無事買えたのなら良かったよ。なんだかんだ俺も楽しかったし」
ビルの中は女性向けの店舗ばかり。特に目的がない限り──恋人あるいは恋人にしたいガールフレンドのご機嫌を取る為の貢ぎ物を選ぶという目的が大半を占めると思われる──男性の興味を引く場所ではない。常にそういう事を考えている若い男性であれば、楽しいかどうかは別にして、有意義な時間を過ごせる場所かもしれないが、少なくとも龍生はその手のタイプではない。
しかし龍生は、服などを真剣に眺めるモモに、嫌な顔一つ見せず付き合っていた。──下着売り場は別だが。
見て目を輝かせたり不満げに眉を顰めたりするモモの姿は、どこかホッコリするものがあった。
常に楽しかったのは、龍生も同じなのだ。
「ふふっ、下着姿も見られてしまいましたし♡」
「見せてきたんだろお前が!」
「本番……楽しみにしてて下さいね♪」
「だーっ、それをやめろ!」
──あの悪戯っぽい笑顔には、いつも翻弄される。
買い物を終えた後、カフェで一息つくことになったのは、単純に歩き疲れたのもあるが、龍生の精神的ダメージを回復させるためでもあった。
ショーケースには自家製のチョコレートと焼き菓子が行儀よく並んでいる。コーヒーは安くないが、席と席の間隔が広い。他人の耳を気にせず話せる店だった。
「……にしても、相変わらず注目されてるな。モモの人気も大したもんだ」
店内を見回しながら言う。遠くの席から、ちらちらと視線が飛んでくる。
「どちらかというと、龍生さんに向いている気がするんですけど……」
「俺? なんで」
「えっと……」
何か言いかけて、モモは口を閉じ、困ったように笑った。
龍生は眉を寄せたが、それ以上は突かなかった。
「そ、そういえば。ヤミさん、転入してきましたね」
「露骨な話題転換だな……まあ、これでリトさんとの距離も詰まりやすくなるんじゃないか」
提案した翌日には、ヤミはモモたちと同じクラスに転入してきた。
ハーレム計画の上でも都合がいいが、それ以上に――彼女という起爆剤がメアにどう作用するか、観察しやすくなる。
「ふふっ、案外すんなりトリコになってしまうかもしれませんね♪」
「だといいけどな。……それに、黒咲メアの問題もある」
その名を出した瞬間、モモの微笑が止まった。
「黒咲メアさん、ですか……」
声の温度が二度下がる。
モモはメアを警戒している。いや、敵視している。
――理由は、たぶん自分だ。
あの日、龍生は屋上で意識を失った。何をされたのかは覚えていない。
覚えていないという事実だけで、この子の中をざわつかせるには十分だったのだろう。
「……あまり、ご無理はしないでください。心配、するんですからね?」
「わ、悪い」
静かな、けれど確かな重さのある声だった。紫の瞳が揺れている。
同じ学校の生徒だからと油断した。危機管理を、もう一度頭に刻み直す。
――と、そのとき。
隣の席の会話が、耳に引っかかった。声は抑えられている。地獄耳が拾ってしまった。
――ねえ、聞いた?
――なになに。
――さっき彩南町で殺人事件あったらしいんだけど。
――うん。
――頭がなかったんだって。
――なにそれ……こわっ。
――物騒だよね。
カフェで交わすには、いささか重い話題だった。
(頭部のない死体)
「モモ、ちょっと携帯いいか」
「えっ? は、はい、どうぞ?」
断る必要のない断りに、モモが首を傾げる。
龍生は端末を取り出し、彩南町と殺人事件で検索をかけた。
一時間前。彩南町の公園で、頭部のない遺体が発見されている。
記憶にある場所だ。錆びた遊具しかない、人気のない公園。周囲は廃工場ばかりの工業団地で、住宅も目もない。
「ごめん、そっち行っていい?」
「へっ!? は、はい」
上擦った返事を気にも留めず、龍生はモモの隣に腰を下ろした。幸い四人席だ。
席の間隔は空いているとはいえ、食事の場所である以上、声を張るわけにはいかない。
「これ、読んでみて」
「は、はい」
肩が触れる距離ではない。それでもモモの声が硬い。こういうときだけ妙に弱い。
「……これって」
記事を追う目つきが、すぐに変わった。
「ザスティンが言ってたのって、これか」
「……でしょうね。何か起きたら十中八九アゼンダだと。ただ、殺し屋を名乗る以上、こんな痕跡を残すものでしょうか」
「俺なら残さないな」
「……逆に、敢えて残した可能性もありますね」
「なるほど」
どこまで行っても憶測の域を出ない。仮に遺体に何か仕込まれていたとしても、警察でない自分たちに知る術はない。
それでも、胸のあたりに黒い雲が忍び込んでくる。
――暴虐のアゼンダ。ヤミみたいに話の通じる奴だと助かるんだけどな。
この町での穏やかな夏が、遠くの不協和音に侵され始めている。楽章の頭で提示される、あの不吉な一音のように。
――美柑が買い物から帰ってこないんだけど、龍生の家にいる?
帰宅して自室に入るなり、リトからのメッセージが表示された。文字を追い終えた瞬間、龍生の背中を焦燥が突き抜けた。