桃色と女の園   作:yuykimaze

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6話

 

 

 眩しい午後の陽光がカフェテラスを包み込み、柔らかく降り注いでいる。

 季節は初夏に差し掛かり、心地よい風が通り抜ける中、美柑とヤミはテーブルを挟んで向かい合っていた。

 美柑の目の前には、3段重ねの巨大アイスクリーム。

 チョコレートソースやホイップクリーム、カラフルなトッピングが散りばめられ、もはや原型を留めていないほどに飾り立てられている。

 

「ん〜っ、美味しい! やっぱここのアイスは最高だねえ。この芳醇な味わいとサッパリした後味が」

「そうですか」

 

 スプーンが運ばれるたび、美柑の目が輝く。グルメリポーターみたいに語り倒す姿を眺めながら、ヤミは自分のぶんを一口だけ舐めた。舌の上で溶けて、甘さより先に冷たさが喉へ落ちていく。

 

「どう? 美味しい?」

「美柑と一緒なら何を食べても美味しいです」

「もう、ヤミさん大袈裟」

 

 ヤミの言葉に頬を少し赤らめながら、美柑は照れ隠しのように再びアイスにかじりついた。

 アイスの冷たさが、熱を持った頬をひんやりと冷ましてくれる。

 ふと、思い出したように、美柑はヤミに問いかける。

 

「そう言えば、ヤミさん。学校の方はどう?」

「どう、とは?」

「友達とかできたのかなって」

 

 ヤミは少し考えた後、淡々と答えた。

 

「いえ、トモダチは美柑がいれば十分です」

「もう、ヤミさん。それは嬉しいけど、ちゃんと友達とか作るんだよ? せっかく高校に通ってるんだし」

「はい。善処します」

 

 その返事を聞きながらも、美柑は苦笑する。

 ──きっと彼女は、友達作りなどしないだろう。

 それがヤミという存在なのだ。

 

「ヤミさん妙なところで頑固だからなぁ……」

 

 呆れた声には、隠す気もない優しさが混ざっていた。無表情のままアイスを削り続ける横顔を、美柑はしばらく見ていた。

 今日は久しぶりに、二人で街を歩いた。プリクラを撮って、クレープを分けて、どうでもいいことで笑った。普段よりずっとはしゃいだ自覚はある。

 楽しすぎて、少しだけ怖いくらいだった。

 

「ずっとこんな日々が続けば良いのにね」

 

「……そうですね」

 

 返事に、わずかな遅れがあった。ほんの半拍。それを美柑は聞き逃さなかった。

 

(――ヤミさん、なんか悩んでるのかな)

 

 薄々は気づいていた。何かを抱えている。だから転入を勧めた。それでもこの人は、口を割らない。たぶん、こちらに気を遣っている。

 だったら、こちらから言うしかない。

 

「ヤミさん」

「はい」

「私はいつでもヤミさんの味方だから。困ってることがあったら、何でも協力するから。……一人で抱え込まないでね?」

 

 まっすぐ向けられた眼差しに、金色の瞳がかすかに揺れた。

 

「……どうして分かるんですか?」

「うーん、ナイショ!」

「……なんですかそれは」

 

 眉は寄っているのに、口元だけがほどけている。

 この子には何も隠せない。お手上げだという気持ちと、胸の底が温まる感覚が、同じ場所から同時に湧いてくる。

 

「あ、そうだ! ヤミさん、これあげる!」

 

 買い物袋から取り出された小さな包み。

 

「これは?」

「たい焼きのストラップ!」

 

 手のひらに載ったそれを、ヤミはまじまじと見つめた。指先ほどの大きさで、焼き色の塗装が少しだけ雑だ。

 美柑がもうひとつ袋を掲げて、にっと笑う。

 

「ジャーン! お揃いだよ!」

 

 いたずらの成功した子供の顔だった。

 

「ありがとう、美柑」

「ううん。これが初めてのお揃いだね!」

 

 もらったストラップを、ヤミはそっと胸元へ寄せた。

 

 ――手放したくないものが、また増えた。

 

 この子といると、世界に色がつく。

 このまま続けばいい。願わずにはいられなかった。

 姉妹めいた二人を、電柱にとまった一羽の鳥が、じっと見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──一体何が起きている。

 

 ひぐらしの鳴く声にうながされ、オレンジ色に染まった薄い雲の中。

 目の前の出来事を俄かに信じきれず、アゼンダは呆然と眼下の光景に立ち尽くしていた。

 金色の闇。

 復讐すべき相手として、幾度となく彼女の痕跡を辿った。親の仇に巡り合うみたいに必死に探し回った。

 そうして漸く、彼女の情報をキャッチした。

 地球という辺鄙な星であっても、こうして目的を果たす為に来た。わざわざメッセージまで残してやった。それなのに──

 

「ヤミさん。はいこれ。あーん」

 

「じ、自分で食べれます」 

 

「良いじゃん! はい、ヤミさん!」

 

「……はむ」

 

「どう? 美味しい?」

 

「はい。ただ……少し恥ずかしいです」

 

「ふふっ、可愛い、ヤミさん」

 

 彼女は殺戮兵器だ。

 まるで生物を殺す事を躊躇わない、心の底に氷のような冷たさがある冷徹な雰囲気。眼差し。無機質な声。

 一度たりとも忘れたことはない。

 まるで映画の抽象的なシーンのみたいに繰り返し繰り返し彼女の頭に浮かんでくる。

 だからこそ。

 

「な、なぜ……」

 

 眼下に映るのは、目を逸らしながら恥じらう少女の姿。それは側から見ても、そこら辺にいる、有りふれた地球人となんら変わらない。

 彼女の表情は乏しくとも、この上なく雰囲気が優しい。観音様みたいに白くて優しく、溶けてしまいそうに甘い。

 殺し屋であった以前の面影など、微塵もなかった。

 あまりの光景に、アゼンダは発するべき言葉が浮かばず、口をぱくぱくと動かすだけだった。

 そんな心情を察するように、1羽の烏が何の前触れもなく肩に現れる。

 

『驚いたろう?』

 

「どうなっている……あれが、金色の闇だと?」

 

『そうだ。生温い環境に身を置いた、彼女の成れの果てだ』

 

「……ふざけるなっ!」

 

 現実とのギャップに、苛立った憤りがじりじりと胸の奥に食い込む。

 

「何の為に……ここまできたと思っている……っ、私がどれほど屈辱を味わいっ、生きてきたと思っている──っ!!」

 

 やるせない込み上げてくる怒りに、激しい怒声を発した。

 

『そう怒るな、アゼンダ』

 

 くくく、と烏が嗤うように喉を鳴らす。

 

『なら、貴様が、奴の闇を呼び覚ませば良い』

 

「……なに?」

 

『見ての通り、ヤツは生温い環境に腑抜けている。だが、殺し屋としての心は沈んでいるに過ぎん。ヤツの奥底は根本的に闇。ならそれを引き出して──殺せば良い』

 

「……引き出して、殺す」

 

『そうだ。ヤツの闇を引き出して、今度こそ完膚なきまでに叩き潰せば良い』

 

「……」

 

 生物の言葉が、自然と頭の中にするりと入ってくる。それは暗黒な前途を照らす光明のようだった。

 

「良いだろう。貴様の話に乗ってやる」

 

 応えることはなく烏の姿は消えた。

 アゼンダはヤミと共にいる少女を見つめ、ニヤリと唇を釣り上げる。

 切羽詰まった絶望感が、爆発的な殺意に変わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえマスター。彼女、大丈夫なの?」

 

 遠ざかる背中を見送って、メアは小さく息を吐いた。

 言ってから、その言葉が自分の胸にも引っかかっていることに気づく。

 他人の行く末を案じる。これまでの自分には、なかった回路だった。

 

『仮にも名を馳せた殺し屋だ。何かしらの成果は出るだろう』

「ふうん。名を馳せた殺し屋ねえ」

 

 他人事の調子で返しながら、違和感だけが残る。

 確かにアゼンダは銀河で知られた名だ。ただ、何人もの暗殺者を見てきたメアの目には、凄みが足りない。技術はある。積み重ねが浅い。

 マスターもそれを承知だからこそ、捨て駒と呼んでいる。

 でも。

 もし、ヤミが負ける未来があるとしたら。

 

 ――そのとき、ナナちゃんは、悲しむのかな。

 

 視線がベンチのほうへ滑った。あちらでは、二人がまだじゃれ合っている。

 胸の奥が、ちくりとした。

 

(……私、何考えてるんだろう)

 

 軽く首を振る。余計なことは考えるな。そう言い聞かせた、そのとき。

 

 ――へぇ、メアって言うのか。ヨロシクな!

 

 浮かんできたのは、あの日の声だった。屈託がなくて、遠慮がなくて、やたらと眩しい。

 

(あの温かさに触れて変わった人を、羨ましいと思ったの?)

 

 それとも、自分もぬるい空気に当てられただけなのか。

 問いは次々に生まれ、答えの形になる前に、霧が晴れるように消えていく。

 

『――メア。貴様も、生温い感情を持ったか?』

 

 声が、静かに、鋭く落ちた。

 息が止まる。ただの音のはずなのに、冷たい手で首を掴まれた感触がした。背中に汗が滲む。

 

「う、ううん。ちょっと気になっただけ」

 

 できるだけ普段どおりの声で、首を横に振る。

 どこまで見えているのか。

 

『そうか。目的を忘れるなよ』

「うん! わかってるよ」

 

 明るく。疑いの余地なく。

 

 ――それでいい。

 

 短く息を吐いた瞬間、気配が消えた。

 烏は影ごと掻き消えている。最初からいなかったみたいに。

 毎度この調子だ。あの人自身が、闇に溶けている。

 目を閉じると、風が頬を撫でた。

 

 ――私の変化は、伝わったのかな。

 

 どちらにせよ、あの人の疑念は一度生まれたら消えない。それだけはよく知っている。

 なら、私はどうする。

 ヤミお姉ちゃんみたいに、誰かに愛されたいの?

 それとも。

 目を開ける。夜の帳が下りはじめ、月明かりが水面みたいに地面を撫でていた。

 

「さて。貴方はどう動くのかしら……龍生くん」

 

 呟きは、誰の耳にも届かず闇に溶けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕飯の追加の買い出しに出かけた美柑の帰りが遅い。

 陽はすでに沈み、街は闇に包まれ始めていた。リトは、胸の奥に不穏なざわめきを感じながら、ヤミと共に美柑が向かったであろうスーパーの方へと歩いていた。

 スマホを握りしめたまま、龍生にもメッセージを送ったが、返信はない。一体どこをほっつき歩いているのか。リトの心配は膨らむばかりだった。隣を歩くヤミも、普段の冷静な表情の奥に、わずかに影を落としている。

 

「美柑、いないですね」

 

「そうだね……き、きっと、龍生のところにいるのかもしれないな。もしくは親父のところに」

 

「そうですか」

 

 以前も似たようなことがあったからそうヤミに励ましを入れるリトだが、まるで自分にも言い聞かせているようだった。

 30分前に一度着信があり、リトは電話に出れなかった。

 着信は美柑からだった。

 コール時間は着信限界時間の90秒。リトは余計な金のかかる留守番電話サービスには加入していないし、携帯電話本体の伝言メモ機能にも、メッセージは吹き込まれていない。

 美柑はこちらが電話に出られない状態である場合には、メールで必ず連絡するはずだ。

 そんな彼女が限界時間まで発信を続けたというのは明らかに異常自体というべきだろう。

 何度も連絡しても、彼女は呼びかけには応じない。

 益々不安は募る一方だった。

 

「美柑……」

 

 何か彼女は良からぬ事に巻き込まれているのだろうか。

 そんな不安から思わず言葉がこぼれる。

 その時だった。

 

「!!」

 

 ヤミは明確な殺気に顔をあげる。

 地球だろうが鍛えられた勘というものはなかなか衰えるものではない。こと、命に関わることでは。

 だから突如としてその黒い人影が、殺気を放出しつつヤミめがけて日本人ではあり得ない速度で間合いを詰めて来た時、すぐに身構えることができた。

 リトを地面に叩きつける。

 髪の毛をトランスで拳に変えて、人影に向けて振るった。

 ソイツは拳をまともに受けるが、後方にあった電柱の柱に軽やかに着地する。

 

「ちょっ!?」

 

 リトの視界いっぱいにヤミのスカートの中が映り込んだが、そんなことを気にする余裕はなかった。

 

 ──次の瞬間、鋭い音を立てて何かが空を裂いた。

 

 ヤミは即座に反応し、再びトランスした髪を盾にする。

 

 キィィン!

 

 衝撃がぶつかり合い、火花が散る。

 それは、しなやかに振るわれたムチだった。

 ヤミは瞬時に後方へ跳躍し、リトを抱えて安全な位置へと移動する。

 優しく彼を地面に降ろし、視線を敵へ向けた。

 

「暴虐のアゼンダ……」

 

 月光が差し込み、暗闇の中から姿を現す。

 

 赤銅色の肌。

 長い銀髪。

 豊満な肢体。

 

 ニヤリと唇を歪めるその顔には、邪悪な愉悦が滲んでいた。

 

「嬉しいねぇ……まさか覚えててくれるとは。これで心置きなく貴様に報復できそうだ」

 

 リトの背筋に冷たいものが走る。

 

「アイツは……」

 

 問いかけるリトに、ヤミが静かに答える。

 

「以前倒した殺し屋です。高速のムチとサイコキネシスの使い手です」

 

「お静ちゃんみたいな?」

 

「はい。しかし村雨静ほど強力じゃない。ムチでの攻撃が彼女の戦法──トランス能力の敵ではありません」

 

 クックックっとアゼンダが愉快そうに笑う。

 

「確かに私のサイコキネシスは強力ではない。ただね──」

 

 くいくいっと人差し指を動かす。

 

 ──その瞬間、空気が凍りついた。

 

 暗闇の奥から、もうひとつの影がゆっくりと浮かび上がる。

 ヤミとリトの視線が、その場に釘付けになる。

 

「美柑……っ」

 

 そこにいたのは──宙に浮かぶ美柑だった。

 目を閉じ、意識を失ったまま、まるで操り人形のように漂っている。

 ヤミの目が、大きく見開かれる。

 

「そんな……!」

 

 見たところ、直接的な危害は加えられていないようだ。

 だが、彼女の小さな身体は、まるで重力を無視するかのように浮遊している。

 

 ──サイコキネシス。

 

 地球人である美柑が、自力で宙に浮かぶはずがない。

 つまり、アゼンダの能力によって、完全に操られているのだ。

 リトの拳が、無意識に震える。

 

「美柑………!」

 

 ヤミの驚愕と絶望を湛えた瞳に、アゼンダは暗い笑みを浮かべる。

 

「意識のない地球人をマリオネットにするのは簡単でね……」

 

 その声は、ひどく愉悦に満ちていた。

 アゼンダは、ゆっくりと微笑む。

 

「──さあ、復讐を始めようか。」

 

 不吉な言葉が、静寂の夜に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リトからのメッセージを読み取ってから龍生は一応折り返して電話を入れるが、30秒ほどで留守番電対応の電子メッセージが流れて来た。

 2度、3度と繰り返すが結果は同じ。

 不安に駆られて今度は、ザスティンの番号を呼び出し電話をかける。

 数コールの後に、やはり留守番電話の対応が響き、龍生は舌打ちしながら電話を切った。

 

「くそっ!」

 

 苛立ちと焦りが入り混じり、思わず舌打ちをする。

 リトだけでなく、美柑の消息もつかめない。何かが起きている──確実に、普通の状況じゃない。

 ザスティンが使えないのは予想していたが、まさかここまで繋がらないとは……。恐らく、リトも何らかの形で巻き込まれているのだろう。

 とにかく、じっとしている場合じゃない。

 直接探しに行くしかない。

 だが、手がかりがない。場所の特定もできていない。ただ闇雲に走り回るのは無駄かもしれないが、動かないよりはマシだ。

 龍生は素早く周囲を見渡し──ふと、掃除用具が詰め込まれた押入れに目を留めた。

 

「何も持ってかないよりかはマシだろ……」

 

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 リトからのメッセージを読み取ると、龍生はすぐに折り返しの電話をかけた。

 

 しかし、30秒ほどコールが続いた後、無機質な電子音が流れ、留守番電話に繋がった。

 

 「……出ないのかよ」

 

 眉をひそめながら、再び発信する。

 2度、3度と繰り返すも、結果は同じ。

 嫌な予感が膨らんでいく。

 次に、ザスティンの番号を呼び出し、発信ボタンを押す。

 数コールの後──またしても留守番電話。

 

「くそっ!」

 

 舌打ちとともに、電話を乱暴に切る。

 ますます悪い予感が募る。

 恐らく、リトも何らかのトラブルに巻き込まれているのだろう。

 ザスティンは、リトの父親の仕事の手伝いでもしているのかもしれないが……こういう時に限って全く役に立たない。

 龍生は苛立ち混じりに息を吐く。

 場所は特定できていないが、街を走れば何か掴めるかもしれない。

 素早く部屋を見渡し、目に留まったのは掃除用具が詰まった押入れ。

 

「……何も持たないよりはマシだろ」

 

 そこから、モップを手に取る。

 その瞬間。

 

「りゅ、龍生さん? こんな時間に床掃除ですか?」

 

 不思議そうな声が背後から響く。

 振り返ると、そこにはパジャマ姿のモモ。恐らくシャワーを浴びたばかりなのだろう。少し濡れた髪が肩にかかり、ほのかに石鹸の香りが漂ってくる。

 無防備すぎる姿に、思わず心臓が跳ねた。

 

(……慣れねぇな、こういうのは)

 

 苦笑しつつ、龍生はモップを握りしめたまま、くるりと踵を返す。

 

「……ああ、まあその、ちょっと出てくるわ」

 

「ええっ? も、モップを持ってですか?」

 

 龍生は一瞬言葉に詰まるが、すぐに真面目腐って答えた。

 

「邪魔者を掃除しに行ってくる」

「邪魔者……それって龍生さん……あ、ちょっと龍生さん!」

 

 モモの問い詰めを振り切り、龍生は玄関へと駆け出す。

 

 ドンッ!!

 

 勢いよくドアを開け、親の許可も取らずにママチャリに飛び乗った。

 しばらく乗っていないが──まぁ、なんとかなるだろう。

 ペダルを踏み込むと、錆びついたチェーンがギシリと悲鳴を上げる。しかし、龍生の燃え上がる闘志に応えるかのように、ママチャリは勢いよく走り出した。

 まるで古の騎馬兵のようにモップを構え、警察に見咎められないよう裏道を走りながら疾走し始めたのだった。

 

「待ってろ、美柑っ……ん? あ、あれ、ちょっと待て……ぶ、ブレーキが……っ」

 

 ギャアアアアッ!!

 

 前輪が悲鳴を上げ、ママチャリが暴走を始める。

 街灯の明かりが流れる。風が全身を叩きつける。

 そして、龍生の絶叫が、夜の街に響き渡った──。

 

 

 

 

 美柑の拳が来る。

 身をひねって外す。次も、同じように。

 力は強い。だが、そこにあの子の理知はなかった。ただ振り回されるだけの拳。殴ることだけが目的になった動き。この単調さなら、自分でなくとも避けられる。

 後ろへステップを刻みながら、位置を入れ替えていく。

「おいおい、どうした。避けるだけかい?」

 応じない。美柑の動きだけを見る。

 反撃すれば、この子の身体が壊れる。それだけは選べない。操られていようと、目の前にいるのはリトの妹で、自分にとっても――。

 だが、防戦一方では削られるだけだ。気絶させたところで、術が解けなければまた起き上がる。根本は何ひとつ片付かない。

 ならば。

 大きく跳んで距離を作り、地を蹴る。まっすぐアゼンダへ。

 風が裂ける。髪が拳へ変わる。

 これで終わる。そう思った瞬間。

 

「っ」

 

 息が止まった。

 拳の軌道上に、美柑が割り込んでいた。両腕を広げ、あの女を庇う姿勢で。

 当然だ。あの女は自分の弱点を知っている。狙われることも、そしてヤミが止まることも、全部読んでいた。

 

「……なに拳を止めてんだよ――っ!」

 

 鞭が来る。

 詰めすぎた。逃げ場がない。

 肩口が鳴った。二打、三打。布が裂け、皮膚が裂けていく。

 その拍子に、小さなものが宙を舞った。

 

 ――これが初めてのお揃いだね!

 

 その一言が甦った瞬間、身体は勝手に跳んでいた。落ちていくそれへ、手を伸ばす。

 

 ――しかし。

 

「がはっ!?」

 

 膝が、鳩尾に深く刺さった。

 息が入らない。胃液がせり上がる。崩れた目の前で、ストラップが土の上に転がった。

 

「そんなに友達が大事ってわけかい」

 

 アゼンダがため息まじりに吐き捨てる。その視線は、美柑へ向いていた。

 

 ――ならば貴様が、奴の闇を呼び覚ませばいい。

 

 この娘が消えれば、あの女は元に戻るのではないか。

 思いつきが確信に変わるのと同時に、鞭が振り上がった。

 

「っ!?」

 

 だが、それが美柑に届くことはなかった。

 金色の髪が伸び、間に割り込む。

 鞭が肌を裂き、痛みが背骨まで走る。それでもヤミは退かなかった。

 膝が落ちる。それでも立つ。

 

(ごめんなさい、美柑。巻き込んでしまって)

 

 自分がいるから、この女が来た。自分と関わったから、この子が渦に落ちた。

 どれだけ切られても、痛むのは別の場所だった。

 

(でも、貴方だけは助けます。命に代えても)

 

 ふと、美柑を見る。傷ひとつない。それだけで息がつけた。

 その美柑の手が、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。

 

 ――罠だ。

 

 わかっている。

 それでも、瞳がわずかに揺れた気がして。助けを求めているように見えて。

 

 ――また、あの笑い方が見たい。

 ――また、あの声が聞きたい。

 

 ヤミは、反射で手を出した。

 

「あぁっ!?」

 

 手首を掴まれ、逆へ捻られる。激痛。

 返す刀の手刀が、顔面を打ち抜いた。

 

「はぁ……情けないねえ」

 

 崩れ落ちる身体を、アゼンダが見下ろす。

 

「昔、私はアンタに負けて地獄を見た。迫害されて、身も心もズタボロさ」

 

 白刃を、懐かしむように眺める。

 

「そして今度は、アンタのせいでこの娘が死ぬ。アンタに関わる奴はみんな不幸になるんだよ」

「っ」

 

 息が詰まった。

 積み上げた屍。奪った命。自分を狙う者は、宇宙にいくらでもいる。

 このままでは、また美柑が。

 やはり自分は、ここにいてはいけないのではないか。

 

 ――ごめんなさい、美柑。私が、あなたと一緒にいたいなんて思ってしまったから。

 

「勝手なこと言うな!!」

「っ!?」

 

 倒れたままのリトが、喉を裂くように叫んだ。

 

「美柑とヤミは不幸なんかじゃない! お前なんかと一緒にするな!」

 

 アゼンダが鼻で笑う。

 

「不幸に決まってるだろう。現にこの子が巻き込まれている。アイツには殺し屋がお似合いなのさ」

「ヤミは確かに、昔は殺し屋だったのかもしれない! でも、そのことで苦しみながら、地球に来て少しずつ変わってきたんだ! 美柑だってそれを全部知った上で、今のヤミが大好きなんだ! 何も知らないお前が口出しするな!!」

「結城、りと……」

「地球のボーヤ。どうやら先に死にたいらしいね」

「い、いけません、逃げて――っ!?」

 

 叫んで起き上がろうとしたヤミを、美柑が押さえ込む。

 アゼンダが迫る。

 リトは動けず、目を閉じた。

 その瞬間。

 

「しねぇぇええ地球じ「マズイマズイ止まれぇぇぇええええっ!!」かぺっ!?」

 

 チリンチリン、と場違いに軽やかなベル。

 轟音。土埃。ゴムの焼ける匂い。

 リトが咳き込んで目を開ける。

 埃の向こうに、地面に叩きつけられた虫のように伸びているアゼンダと、

 

「ひ、人を轢いちまった……リトさん、どうしよう」

 

 薄汚れたモップを握りしめ、呆然と立ち尽くす龍生がいた。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自転車は原形をとどめず、ただの金属屑になっている。ブレーキの確認を怠ったのは、確かに自分の落ち度だ。

 だが、それより深刻な事態が目の前にあった。

 

「あ、あの……だ、大丈夫ですか」

「ち、近づいてはダメです!」

「えっ、ヤミ、それってどういう……何その状況」

 

 振り向けば、ヤミの上に美柑が馬乗りになっていた。

 

「美柑は今そいつに操られてるんだ! だから、そいつを何とかしないと!」

「そ、そういうことか!」

 

 龍生は後方へ跳ぶ。

 つまり、目の前の女がアゼンダ。ヤミの同業者。美柑は、その能力で意志を抜かれている。

 同情の必要はない。判断は一秒で済んだ。

 アゼンダがゆっくり起き上がる。時速それなりの鉄塊を頭で受けたはずなのに、けろりとしている。

 ただ、頭頂部にタイヤ幅の溝が刻まれ、髪が見事に真っ二つに割れていた。

 

「くそっ……いきなり何だったんだ……ほぉ、地球のボーヤが増えたじゃないか」

 

 髪をひらひら散らしながら、余裕たっぷりに立つ。

 

(笑うな。絶対に笑うな。あいつは殺し屋だ。落武者じゃない)

 

 背後からくすくす漏れる音に、危うく釣られかける。

 しかし、龍生は必死に目の前の敵へと意識を集中させた。

 戦場では、慢心こそが命取り。

 たとえ、世紀末のような髪型をしていようと、相手は殺し屋なのだ。

 なるべく頭を見ないようにと、彼女の視線を下に落としたその瞬間──。

 警戒心は霧散した。

 

「ちょっ、お前!!」

「あん? 何だいボーヤ」

 

 龍生の怒声に、不敵な笑みを浮かべるアゼンダ。

 だが──。

 

「む、むね! 胸隠せっ!」

「あ? ひゃうんっ!?」

「なんだそのウブな反応っ!?」

 

 促されるまま、アゼンダは自身の胸へと視線を落とす。

 どうやら何らかしらの原因で彼女の服が破けたようで、赤銅色の肌と共にどの子供にも十分な食料を提供しうる大きな乳房が露わになっていた。乳房の先には、黒い、大きな乳嘴が突き出ている。

 事態を飲み込み、顔が首の付け根まで朱を注いだように真っ赤になりながら、慌てて彼女はその場にしゃがみ込んでしまった。

 百戦錬磨感を漂わせといて、可憐な少女のような反応に、龍生は困惑してしまう。

 

「……ど、どうしたものか」

 

 困ったようにチラリと彼女を見遣れば、怒気を孕んだ瞳でこちらを睨め付けていた。隠すようにギュッと自身の腕に押し付けて形が変わる大きな胸に、何とも言えない男のロマンが詰まっている。

 無性に髪の毛が残念なことで、性欲は引っ込んだが。

 

「せ、責任を取れ……っ」

「ん?」

「わ、私の裸を見たんだ。貴様には、責任をとってもらうぞ!」

「は、はあ? 一体何言って──っうぉ!?」

 

 巨大なメロンを片手で抑えながら、突如迫り来るナイフに慌てて、腰を落とした。ナイフは龍生の肉塊を切り裂くことはなく、空を切る。

 すかさず振り下ろされるナイフを間一髪でを交わし、逃げるように後ろに跳躍する。

 

「いきなり何すんだ!」

「や、やるじゃないか……さ、流石は私を抱く男なだけはある」

「だ、抱く? まじでさっきから何言ってんだよアンタ」

「私の裸を見たんだ……大人しく抱かれろぉぉおお──っ!!」

「そ、それが意味わかんねえって言ってんだろうがぁ!!!」

 

 再び迫る切先。

 しかし、雑念が入り混じった乱雑な大振りに、龍生は難なく交わし続ける。よくわからない雄叫びで迫り続ける彼女に、流石に面倒になった龍生は、詰められた距離を再び跳躍。

 程よい間合いで、龍生はモップの先をびしりとアゼンダに指す。

 

「マジで何を言ってるか意味わからねえけど、とりあえず状況的にアンタを敵と認識するからな。女でも美柑たちを巻き込んだんだ。容赦はしないぞ!」

「何っ!」

 

 龍生は一瞬にしてアゼンダの懐に飛び込んでいた。

 

「くっ!」

 

 振るわれたモップの柄を身を屈めて避けようとするが、今度は毛だらけのよく分からない黒いゴミが大量にこびりついたヘッド部分を顔目がけて繰り出され、慌てて身を引く。まるで棒術のように柄とヘッドを素早く繰り出してくる龍生に驚くアゼンダ。

 彼の猛攻にようやくナイフで受け止めるが、まるで豆腐を切ったかのように、モップの柄が切断される。

 

「なっ!? やばっ」

 

 刹那逡巡するも、体操選手のタンブリングのように二度三度と回転しながら、アゼンダと距離を取る。

 

(マズイな……武器がない……)

 

 リーチの長さが売りだったモップも真っ二つになった今では使い物にならない。感謝を込めながら、その場に残骸を置いた。

 

「驚いたかい? 生憎このナイフは特別性でね──」

 

 妙に熱心ながらに自分のナイフを詳細に語る彼女を無視しながら、龍生はどう彼女と戦うべきか考える。

 あの様子からヤミは恐らく美柑で手一杯だ。戦闘復帰は難しい。リトも自分同様地球人である以上、彼女に敵う可能性は低い。

 なら、と龍生はポケットから携帯端末のようなものを取り出した。

 

「しょうがない、とっておきを使うか」

 

 かぱっと携帯端末を開き、モモとの会話を思い返す。

 

 ──良いですか、龍生さん

 ──ん? 

 ──これは、お守りとしてお使い下さい。

 ──これってモモが持ってるやつ? 

 ──はい。お姉様と相談して、龍生さん仕様にしていただいたんです。

 ──俺使用? 

 ──はい。龍生さんが念じたモノを、一度だけ呼ぶことができるそうです。それは物に限りません。生物、つまり人でも良いそうです。夜中に、私を呼んでくれても良いんですからね♡

 

 メアとの接触直後に、モモが自分にもし何かあった場合に備えて用意してくれた、専用の転送システム。

 些かあの殺し屋に使うのは癪だが、背に腹は変えられない。

 イメージするのはこの逆境を覆すほどの最強。

 すぐさま思い浮かんだのは剣士。

 人類はこれまで数多くの武器を発明したが、中で最もクールかつ絶大な人気を誇る武器といえば「剣」だろう。

 剣は銃に比べて射程は短く、持っているだけで強力な兵器ではない。しかし、使いこなすために相当の技量を要し、その道を極めるためには長く厳しい戦いの世界を生き抜く必要がある。

 そんな幾たびの戦場を駆け抜けた最強の剣士を龍生は身近で一人知っている。 

 

 ──転送システム“デダイヤル“

 

(──来い、ザスティン!!)

 

 願うのは鎧を纏った1人の屈強な戦士。

 中身は非常に残念であっても、彼の技量があればこの窮地を救える。

 願いを込めて、右手を空に掲げた。

 期待を込めて、ボタンを強く押下。

 しかし、何も変化がない。

 

(ん? あれ?)

 

 押下。

 押下。

 押下っ!

 押下ァァァァあああっ!!

 何度ボタンを押下しても、この場にザスティンが現れない。

 

「つ、つっかえねぇぇぇえええええっ!!」

 

「りゅ、龍生?」

 

 転送ダイヤルを地面に叩きつけた。

 どうすると、背筋に冷たい汗を流しながら考える。

 幸い、アゼンダはまだ何かを熱弁しているために、考える余地はある。

 彼らを連れて一旦体制を立て直すか。

 はたまた、この女と戦うのか。

 頭をフル回転させていると、妙な音が鼓膜に届く。

 

「────!!」

 

 しかしそれは、かなり微弱なもの。

 本当に耳を澄ますか地獄耳な人しか聞こえない。

 一本の糸のように漂っている音。

 妙に気になり、どこからだ、と音に意識を傾けるていると、

 

「────!!」

 

「そ、空……?」

 

 上を見上げるが、初夏の空が青く澄んで絹のように光る星達が見えるのみで。それ以外何も確認できないが、確かに、何枚かのフィルターを通したみたいな小さくくぐもった音が聞こえる。

 ただ耳を澄ますほどに、それは不快な音な気がして、身体中の血が凍るような悪寒に襲われる。

 

「──────!!」

 

「な、なんだ?」

 

「ん?」

 

 アゼンダとリトも、遅れて空を仰いだ。

 音が膨らむ。地鳴りに変わる。

 そして。

 

「あ“が“が“が“が“が“が“が“が“が“が“っ!?」

 

「「「ぎゃぁぁぁああああああああ!!」」」

 

 突然この世のものとは思えない絶叫が耳に届き、釣られて三者三様腹の底から悲鳴を上げた。

 猛スピードで迫り来る黒い影に、リトを抱えて後方へと跳躍する。

 そして、衝撃と凄まじい突風。

 距離を取ってもなお激しい突風に耐えきれずに、吹き飛ばされた龍生は後ろの雑木林の木に背中を打ちつけた。

 

「くっ……しまっ!?」

 

 猛烈な激痛に顔を歪めリトを手放してしまうが、何とか木の枝にぶら下がって生存していた。

 ホッとしながら、体に鞭を打って音のする方に向かう。

 たどり着くなり、そこは真っ新な更地からクレーターのように地面が抉れていた。

 街灯も壊され、薄暗くて全体を確認できないが、まるで隕石が落ちてきたような随分と酷い有様だった。

 

「アレは……」

 

 ふと、しばらく眺めていると、月下に照らされて、クレーターの中心部に垂直に何かが突き刺さっている事を確認する。

 さながら、中世の騎士道物語「アーサー王伝説」に出てくる伝説の剣を彷彿とさせるような光景だ。

 そう思った瞬間の神々しさに、思わず固唾を飲む。

 どうやら自分は、とんでもない代物を現世に顕現させてしまったらしい。

 これなら目の前の悪を滅ぼせると、剣(?)に向かって勇ましく歩こうとするが、ぴたりと直ぐに龍生の足が止まった。

 

「えっ……」

 

 すぐさまその剣(?)に異変が起きる。

 垂直に神々しく突き刺さっていたソレは、突然、剥いたバナナの皮のように、或いはゴボウを天に向かって端っこから持った時のように、奇妙にしなり出したのだ。

 次第に釣り上げられた魚のようにピクピク動いているようにも見える。まるで意思を持ってるかのように。

 そこはかとない薄気味悪さが感じられ、思わず立ち止まっていると、身体がふわっと宙に浮く。咄嗟に受け身を取ろうとするが、

 

「さあ、抱いてもらおうじゃないか」

 

 気づけば仰向けに寝かされ、眼下には残念美女が馬乗りになっていた。彼女は獰猛な瞳を宿し、じゅるりと涎を拭っている。彼女の目には既に性的な欲望が渦を巻いていた。

 思わず舌打ちが漏れた。

 

「お、おいやめろっ!」

 

 あまりの悪寒に、威力が込められなくとも拳を握りしめて彼女に放つが、呆気なく受け止められる。そして、あろう事かそれを自身の胸元まで持っていく。

 その巨大なメロンを鷲掴みするように配置し、自身の手を重ねて揉んでいく。

 

「往生際が悪いぞ……あんっ」

「はっ? はぁあっ!?」

「あっ……んっっ……っ♥」

 

 龍生の狼狽などお構いなしに、アゼンダは手を止めない。

 彼女の口から矯正が漏れた。その声音には、明確な色がはっきりと込められている。陶酔にも似た感情──性的な快楽に、己の全てを委ねた者が得られる悦びだ。

 慌てて手を引っ込めようにも、押さえつけている彼女の強さは桁違いで、手がびくとも動かない。まるで赤子と大人くらいの差がある。

 されるがまま、マシュマロのような柔らかさを掌で直に感じ取り、少なからず奥底に熱を浴び始める。

 

「ここがっ……気持ちいいんだろっ」

 

 次第に馬乗りの彼女は、剛直付近に跨っては、その突起物に擦り付けるように動き始める。自分からいやらしく腰を振り始めたのだ。

 

「っ……あぁっ、ん、ふぅ…… ♥」

 

 快楽に陶酔する彼女の表情は、淫らに蕩けきっていた。

 精神的には多少の余裕があるはずなのに、身体は言うことを聞かない。

 何度も身を捩るが、まるで見えない鎖に絡め取られたように動けない。

 じりじりと土俵際へと追い詰められ、絶体絶命のその瞬間――。

 

「──一体、何をされているのでしょうか」

 

 突如として、空気が一変した。

 心臓を握りつぶされるような、強烈なプレッシャーが辺りを支配する。

 普段の猫撫で声とは違う、凍てつくような冷ややかな声。

 全身が震えた。

 金縛りにあったように、身体が動かない。

 

「も、もも……」

「こんばんは、龍生さん」

 

 か細い声を振り絞る龍生の前に、普段と変わらぬ笑みを浮かべるモモが佇んでいた。

 しかし、その笑顔の裏には鋭い威圧感が滲んでいる。

 アゼンダの背後で立ち尽くすモモ。

 彼女の視線を追うと、紫色の瞳は何トーンも暗く沈み、冷たく光っていた。

 整った容姿がかえって恐怖を煽る。

 

「貴方が、アゼンダさんですか?」

「はぁ……ちっ……邪魔が入ったか……そういう貴様は何者だ」

「私はモモ・ベリア・デビルーク。デビールク家の第3王女です」

「なに……あのデビールクのか」

「ええ……ところで、いい加減、私の龍生さんから離れてくれませんか?」

「あ? 何を言ってがあっ!?」

 

 モモの白くか細い手が、アゼンダの後頭部を掴んだ。

 その腕のどこにそんな力が秘められているのか、アゼンダの頭蓋骨がきしむ音が響く。

 激痛に声すら出せない。

 

「随分と羨ましい真似をしてくれますね。私もまだ、あのように淫らな寵愛は頂けてないのですよ?」

「な、何を言ってあがっ!?」

「うふふ。残念ながら、龍生さんの初めては有り難く私が頂戴いたします。……貴方の存在は邪魔なんです」

 

 虫ケラを見るような瞳で彼女を見下ろしながら、アゼンダの後頭部を離した。

 

「では、さようなら。──暴虐の、アゼンダさん」

 

 その言葉とともに、手刀がアゼンダの首元へと突き刺さる。

 ボキッと骨が砕ける音が響き、彼女はゴミのように後方へと投げ飛ばされた。

 軽く放ったように見えたその一撃。

 しかし、アゼンダの身体は砲丸のような猛烈な勢いで吹き飛ばされ、視界から消えていった。

 呆然とする龍生の前に、モモが静かに歩み寄る。

 

(お、怒ってる……? やばい、死んだかも……)

 

 冷や汗を流しながら上体を起こし、恐る恐る目を閉じた。

 

「も、モモ……?」

 

 届いたのは、衝撃でも冷気でもなかった。

 甘い花の匂い。柔らかい体温。

 抱きしめられていた。

 

「もう……心配、したんですよ?」

 

 腕が、かすかに震えている。息が首筋にかかって、それでようやく、この子がここまで走ってきたのだと気づいた。

 ――本当に、心配させたんだな。

 

「……悪い」

「あの時、お声をかけてくだされば良かったのに」

「……お前、風呂上がりだったろ。その、あんな格好で出歩かせるわけには」

 

 まるで娘を気遣う父親のような発言に「ぷっ」とモモは吹き出した。

 

「着替えれば済む話じゃありません?」

「うぐっ、そ、それはそうなんだが……」

 

 バツが悪そうにする龍生を見て、モモはくすくすと笑う。

 

「まさかそこまでお家での私の姿を、特別に思っていただけてるなんて」

「うっせ……」

 

 反論の材料がない。不貞腐れる龍生から、モモはゆっくり身体を離した。

 紫の瞳が、まっすぐこちらを見る。

 

「ですが、少しくらいは頼ってください。これでもデビルーク星の王女なんですから」

「わ、わかってるよ。善処する」

「むっ。こう見えて戦闘経験もあるんですからね? 少なくとも、龍生さんをお守りするくらいは」

「……まあ、そうなんだろうけど」

 

 言葉を選ぶのに、少し時間がかかった。

 

「でも、王女ならなおさら、戦場になんか行かせられないだろ。……モモを、危ない場所に連れてきたくなかったんだ。どっちかっていうと、男が女を守るもんだろ」

「っ!?」

 

 ――お父様。

 その言い草に、モモの中で古い引き出しが開いた。

 ――どうしてそんなに鍛錬されるのですか? もう十分お強いのに。

 ――ああ? バカ言え。いざって時に動けるようにだ。

 ――お父様より強い方などいないと思いますけど。それに、私たちもいざとなれば戦えます。

 ――アホか。セフィと同じだ、お前たちが戦場に出ることは俺が許さん。黙って俺の陰に隠れてろ。男は、女を守るもんだ。

 

 あの古風な男の顔が浮かんで、モモは困ったようにため息をついた。似ている。まったく似ていないくせに、こういうところだけ。

 

「な、なんでほっぺつねられてるの」

「ふふっ、困った誰かさんに、少しお仕置きを」

「しょうかい……」

 

 抗う気力もない。痛みもないので、しばらく好きにさせておくことにした。

 

「ところで龍生さん」

「えっ? な、なに?」

 

 急に声音に冷たさが宿ったように気がして、龍生の背筋に冷や汗が流れた。

 

「アゼンダさんに、何をしていたんですか?」

 

 含むところなんてありませんよ、と可愛らしく首を傾げている。

 

「えっ? い、いや、アレは別に俺のせいじゃないと言うか……」

「むぅ、どうして私にはあんな風に意地悪してくれないのですか?」

「怒るところってそこか!? それにあれは不可抗力であってだな! 流石にお前にやったらおかしいだろ!」

「私には、魅力はありませんか……?」

 

 拗ねたのかと思ったら、何処かしゅんと落ち込んだ彼女に、思わず狼狽する。

 

「いやいや、なんでそうなる! モモはその……魅力的だから困ると言うかだな」

「本当ですか……?」

「ほ、本当だって!」

 

 恥ずかしそうに視線を泳がせる龍生に、モモは「そうですか」と納得したような様子になる。そんな様子を見てホッとするも、モモは少し胸元をはだけさせて、美しい鎖骨と真っ白い素肌を晒した。淡いピンクのレースの下着も見えている。

 

「では、少しだけ……さ、触ってみますか?」

「は?」

 

 口をあんぐりと開けたままの龍生に、モモは少し恥じらいながらも、妖艶な笑み湛えてみせる。

 

「アゼンダさんより小ぶりかもしれませんが……」

「お、おい……っ」

 

 優しく龍生の手を取った。先程のアゼンダ同様に、ゆっくり自分の胸元に手を持ってくる。

 モモの柔らかい果実まで着地し、彼女の重ねた手で優しく揉んでいく。

 まるで龍生のアゼンダとの行為を上書きするかのようだ。

 

「んっ……あんっ…… ♥」

「お、おい……そ、それ以上は……っ」

 

 彼女から乙女の甘い声が生まれる。

 掌から感じる彼女の柔らかい胸の感触と、触れば触るほど乱れる彼女の妖艶な姿に、言葉を失う。

 

「っ……あぁっ、んっ♥ うふふ」

 

 彼女の口から嬌声が激しく漏れる。更なる快楽を求めるように、モモが馬乗りになった。

 彼女の色香に、急に、身体の温度が上がり、耳の後ろが熱で軋んだ。この未熟な身体に、コントロールできない熱が宿ってしまう。

 それに呼応するように、己の剛直が盛り上がった。

 それが跨ったままのモモの秘部に接触し、ビクッと彼女の身体が震える。

 

「ひゃぅっ!? ……まあっ♡」

 

 自分の誘惑で龍生から物理的にも獣の男を感じ、モモは思わず歓喜の声を上げる。

 桃色の瞳に浮かぶ快楽の渦に、ゴクリと龍生は息を呑んだ。

 

「うふふ。龍生さんも、立派な殿方ですね♡」

「お、おまえな……っ」

「かわいい……♡」

 

 慌てふためく龍生を見つめるモモの瞳は、蕩けた甘さを含んでいた。

 まるで龍生の反応を楽しむかのように、ゆっくりと距離を詰める。

 

 ──私には、魅力はありませんか……?

 

 囁くような言葉と共に、彼女の吐息が微かに肌を撫でた。

 その姿はまるで妖艶な妖精のようで。

 普段の無邪気さとは異なり、今のモモはまさに“女”の色気をまとっていた。

 冷徹な殺し屋とは天と地ほどの差がある。

 彼女の放つフェロモンは、龍生の理性を試すかのように揺さぶる。

 

 耐えねば。

 

 そう思っても、耳にかかる髪を掻き上げながら、彼女がさらに近づくと、龍生も引き寄せられるように顔を近づけた。

 

「「っ!!」」

 

 パキッ。

 

 枝を踏みつける音が響き、二人は慌てて距離を取った。

 モモは正座、龍生は剛直を隠すためにうつ伏せの体勢。

 雑木林の奥から、人影がゆっくりと近づいてくる。

 

「あ、いたいた、龍生……ってなにやってるんだ? それにモモもいるのか?」

「は、はい こんばんは、リトさん、美柑さん、ヤミさん♪」

「……俺の事は気にしないで下さい」

 

 現れたのはリト、美柑、ヤミ。

 矛を収めるのに必死な龍生とは対照的に、モモは何事もなかったかのように、優雅な微笑を浮かべた。

 龍生は公然わいせつ罪で捕まる寸前だったのでは……。

 そんな思いでモモを恨めしげに睨みながら、リトに向き直る。

 

「でも、良かったよ、美柑も無事だったんだな」

 

「う、うん、私は大丈夫なんだけど……ヤミさんが」

 

 美柑の言葉に、龍生はヤミへと目を向けた。

 彼女の全身には擦り傷があり、衣服はボロボロだった。

 特に胸元の布地がざっくりと裂け、彼女は右手でそれを押さえている。

 妙な色香を感じながらも、彼女の鉄拳を幻視し、慌てて視線を逸らした。

 

「いえ、私は大丈夫です」

「ほ、本当に何があったの?」

「……少し転びました」

「ええっ!? そ、そうなの?」

「はい。結城リトにいやらしい事をされたので」

「ええっ? おれっ?」

「ふふっ、嘘です。本当に転んだだけですから。美柑が無事で良かったです」

「わ、私は無事なんだけど……」

 

 どう見ても転んだだけでは済まない傷。

 しかし、ヤミは特に気にしている様子もなく、淡々と答える。

 地球人より肉体強度の高い宇宙人ならではのことなのかもしれない。

 また、美柑の表情からして、彼女は事の経緯を覚えていないようだった。

 それを察したヤミは、美柑のために小さな嘘をついているのだろう。

 3人が和やかに会話を交わす姿を見て、龍生は肩の力を抜いた。

 

「……取り敢えず、一件落着だな」

「あら、まだ終わってませんよ?」

「えっ?」

 

 モモが妖艶に微笑みながら、耳元で囁く。

 

「さっきの続きは、お家に帰ってからしましょうね♡」

「ばっ!? お前な!」

「うふふ、興奮してる龍生さん──とても可愛かったです♡」

「……っ」

 

 茹蛸のように真っ赤になる龍生。

 そんな彼を見て、モモは無邪気な子供のような笑みを浮かべる。

 

 本当にこの子は冗談なのか、それとも本気なのか……。

 

 色んな意味で恐ろしい。

 龍生は視線を落とし、さっきまで握りしめていた掌を見つめる。

 柔らかく温かな、モモの胸の感触がまだ残っていた。

 

(……はあ、後でなんとかしねえとだなこれは)

 

 身体の奥底に渦巻くざわつきを抑えきれず、龍生はため息をつく。

 こうして彼らの奮闘の末、アゼンダ撃退の幕が閉じた。

 

「そういえば、龍生さん」

「今度は何だよ……」

「ここに向かう途中で、何やらすごい音がしたんですけど、何かあったんですか?」

「忘れてた……転送システムで呼び出したら変なのが降ってきたんだよ」

「へ、変なの? えっと、何を呼び出したのですか?」

「ザスティンさんだよ。でも、何も来なかったぞ?」

「それは変ですね。いつでも夜這いできるようにしたのに」

「おい」

 

 

 

 

 

 

「アハハハハハ──っ!! りゅ、龍生くんっ、面白すぎるっ!!」

 

 訪れた滑稽な出来事の数々に、メアは腹を抱えて転げ回りながら、大声で笑った。

 彼女の甲高い笑い声が夜空に響き渡る。

 すぐそばで、烏が呆れたようにため息をつく。

 

『もう少し彼女もやると思ったのだがな。期待外れだったな』

「でもでも、マスター。面白いもの見れたから良いじゃん……っ!」

『お前は笑い過ぎだ……』

 

 ゲラゲラと品のない様子で笑い転げるメアに、烏はわずかに目を細める。

 それ以上は何も言わず、ただ真っ直ぐにその黒曜石のような碧眼を、モモと戯れる少年へと向けた。

 

『……面白い』

 

 低く囁くような声。

 

『メア、あの少年の名は何と言う』

「えー? 何度も言ったと思うんだけどなぁ」

 

 メアは笑いの余韻に身を委ねながら、呆れたように肩をすくめる。

 

「北風龍生君だよ。なになに、マスターも興味持った?」

『……少しだけな』

 

 その言葉には、いつもとは違う色が滲んでいた。

 烏の視線は、まるで未知の獲物を観察する猛禽のように鋭く光る。

 それを感じ取ったメアは、悪戯っぽく目を細めながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 大音量の交響曲が響き渡る。深い眠りの底から一気に意識をすくい上げられ、男は床から跳ね起きた。ベートーベン交響曲第五番『運命』、携帯電話が不安をかき立てる旋律を重々しく奏でていた。霞が掛かっている頭を激しく振って、男は眠気を頭蓋の外にむりやり放り出した。緊急用の専用回線であるこの携帯電話が鳴るのは、殆どない

 

「もしもし」

『ザスティンですか? 私、モモです』

 

 相手はデビルーク家の第三王女であるモモだった。

 彼女が秘匿回線からわざわざ電話をかけてくるなど、余程な事情である。内容を聞かずとも、そこにある緊張の響きは十分感じとれた。

 

「モモ様、如何様に?」

『恐らくアゼンダが地球に来ています。それと、龍生さんが彼女を追って外に出てしまったので、私も今追っているのですが、ザスティンの方でも捜索をお願いします……何かあってからでは遅いので』

「わかりました! お任せ下さい」

 

 携帯電話の通話を切り、付近にいた部下に目を向ける。

 

「いいか、お前達。見ての通り緊急案件だ。直ちに急行するぞ!」

「はっ!」

「すみません、緊急案件ですので、一旦抜けてもよろしいですか?」

「お、おう! 気ぃつけてな!」

 

 重苦しい空気を感じとり、リトの父がこくりと頷いた。

 

「よし、ではお前達はここから西にあるこうえ────」

 

 何かを言いかけたその瞬間、髪の毛一つ残さずにザスティンの姿が消えた。

 

 

 

 

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