アゼンダとの交戦から2日後。
例え殺し屋との戦闘があっても、いつもと同じ朝がやってくる。彼が少女の命を救ったとて、地球の自転周期が変化するはずもない。
煩いアラームを止めて、寝室から一階へと降りる。
リビングに行くと、既にエプロン姿のモモが朝食の準備を始めていた。
「〜〜っ♪」
彼女は鼻歌を口ずさみながら、朝食の準備をしている。
目覚めたばかりの龍生には、その光景があまりにも眩しく見えた。
学校へは、まだ早すぎる時刻。
朝食を作り、食べ、後片付けをしても、まだ余裕がある時間帯だった。
(珍しいな……こんな時間に)
不思議に思った龍生は、楽しげに料理をする彼女に向かって声をかける。
「おはよう、モモ」
「おはようございます! 龍生さん♪」
「お、おう」
龍生に応えるよう、くるりと踵を返す彼女。
いつも通り可愛らしいピンクを基調としたエプロンを身に纏った彼女は、天使のようにゆったりと微笑みかけてくれる。朝からの随分な破壊力に、龍生は気圧されてしまった。
「どうかしましたか?」
不思議そうに可愛らしく小首を傾げるモモに、慌てて龍生は首を振った。
「いや、何でもない。こんな時間に起きるなんて珍しいなと思っただけだ」
「はい。今日は偶々早く目が覚めてしまったので。少し、張り切っちゃいました!」
「張り切った……?」
可愛らしく拳を握りしめる彼女は、まるで演説する政治家のようだった。不思議そうに首を傾げながら、彼女の方へと近づけば、徐々に油のような香りが強くなる。
キッチンのトレーには、揚げたての唐揚げや天ぷらがずらりと並んでいた。
色鮮やかな黄金色の衣をまとったそれらは、手間暇がかかる料理ばかりだ。
(……朝からこんなに作ってくれたのか)
申し訳なさを感じながら、龍生は口を開こうとした。
「…………いつも作ってもらってばっかでわるんっ──!?」
「ふふっ、いけませんよぅ? それは言わないお約束です♡」
不意に、人差し指をそっと唇に押し当てられる。
すぐ目の前にある、彼女の甘く微笑む顔。
距離が近すぎるせいで、彼女の呼吸さえ感じてしまいそうだった。
ドキリと心臓が跳ねる。
「龍生さんから美味しいって言葉を頂けるだけで、私にとっては十分なんですから♡ あまり気にしないで下さいね?」
彼女の紫色の瞳が、ゆったりと微笑んでいる。
まるで龍生の心の奥まで見透かすように。
(……くそ、またこのペースだ)
言葉に詰まりながらも、彼女の指がそっと離れると、龍生は小さく頷いた。
「…………なんというか、凄い世話焼きなのな」
「私は尽くしたい人に尽くしてるだけですから♪」
「ど、どういう意味で言ってんだよ」
「ふふっ……どういう意味だと思いますか?」
悪戯っぽく上目遣いで見つめられる。
夢の中でさえ魅了されるような、どこか妖艶な瞳。
顔が熱くなるのを感じ、龍生は慌てて視線を逸らした。
「知らん」
「あら、その割には……お顔が真っ赤ですよぅ?」
「う、うるさい!」
「龍生さんは本当に純情ですね〜。可愛らしいお方。うふふっ♡」
可愛らしく笑う彼女に、もう耐えきれなくなった龍生は、無言で洗い物に取り掛かった。
「ありがとうございます。助かっちゃいました」
「バカ言うなよ。いつも美味いもん作って貰ってんだから。コレくらいはさせてくれ」
洗い物を終え、彼女の手伝いをしようとしたとき、不意にモモが呼びかける。
「龍生さん。洗い物のお礼というわけではないですけど、少し味見しますか? えっと……ここら辺のお芋の天ぷらでしたらそれほど熱くないと思うので」
モモは柔らかく微笑みながら、箸で芋の天ぷらを摘み、龍生の口元まで差し出した。
つややかな衣をまとったそれは、黄金色に輝いていて、揚げたて特有の香ばしい匂いが漂う。
「……えっ?」
思わぬ展開に、龍生は動きを止める。
自分の手で取るならまだしも、他人に食べさせてもらうというのは、どこか気恥ずかしいものがあった。
モモはくすくすと笑みをこぼしながら、優しく囁くように言った。
「はい、あ~ん♡」
「自分で食べれるって」
「まあまあ、そう仰らずに」
じっと見つめられる。
その瞳は、どこか甘えるような色を含んでいた。
(……これは、試されてるのか?)
拒否するのも変に意識してるみたいだし、かといって大人しく受け入れるのも妙な気がする。
……いや、そもそもこれは単なる味見だ。
無駄に意識する方が負けな気がする。
「……あむ」
「ふふっ、素直でよろしいです♪」
頑なな彼女に折れる形で咀嚼すれば、サクリと衣の絶妙な歯触りと芋の甘さが口いっぱいに広がった。
揚げ加減と言い、コレは絶品だ。ほっぺたがどんどん落ちてほっぺたがいくつあっても足りないくらい美味い。
「う、美味い……っ! めちゃくちゃ美味いぞ!!」
「それは良かったです!」
龍生は思わず感嘆の声を漏らし、行儀が悪いとは分かりつつも、2個、3個と手を伸ばしてしまう。
噛みしめるたびに広がる至福の味に、顔一面に幸福の色がにじむ。
「ふふっ、相変わらず龍生さんは作り甲斐のある反応をしてくれますね。なんだか私まで幸せになってしまいます♡」
「──っ」
そんな龍生の姿を見て、モモは心底嬉しそうに笑った。
その可憐な笑顔に、龍生は思わず息を呑む。
(……やめろよそれ)
普段の小悪魔的な笑みとは違う、純粋な喜びを浮かべた表情。
その無垢な可愛らしさに、不意を突かれたように胸の奥がざわつく。
「べ、別に、美味いから普通の反応してるだけだって」
「でも、その美味しそうに食べるお顔が見たくて、また作りたくなってしまうんですもの。ホント……罪な殿方ですね♡」
「だから普通の反応しただけだっての! 妙な言い方はやめろ!……どっちかと言ったらお前の方が罪大きいと思うんだけど」
そもそも、朝からこんなに揚げ物を用意する時点で、彼女の献身ぶりは尋常ではない。
龍生は照れくささを紛らわすように、くるりと踵を返し、何気なくテーブルの上に視線を移した。
「ん、何だこれ」
ふと、テーブルの端に置かれた水色を基調としたブレスレットのような物体に気づく。
無骨なデザインで、どこかメカニカルな雰囲気を漂わせていた。
「……随分とゴツいな」
手に取ると、見た目よりもずっしりと重い。
金属製らしく、冷たい感触が指先に伝わる。
これまでモモが身につけているところを見たことはないし、彼女の華奢な腕には明らかに不釣り合いなサイズ感だった。
「なあ、モモ。これって──」
龍生が問いかけた瞬間──
「龍生さんっ、それはダメです──っ!」
モモが慌てたように叫ぶ。
「うおっ──」
驚いて手が滑り、誤って機械のスイッチを押してしまった。
直後、装置が低く唸るような電子音を発し、まるで生き物のように龍生の腕へと絡みついてくる。
「な、なんだこ──」
瞬間、視界が真っ白に染まった。
閃光──。
強烈なフラッシュが部屋中に広がり、龍生は反射的に目を瞑る。全身を包み込むような光の圧力に、身体が一瞬宙に浮いたような錯覚を覚えた。
(……なんだ、これ……!?)
耳鳴りがする。
頭の中で鈍い振動が響く。
やがて、閃光が収まり、ゆっくりと目を開けると──
サラサラの黒髪は、夜空の天の川の如く美しい輝きを放っていた。
銀河に揺蕩う一対の瞳は静かな華やかさと威厳を備え、宇宙に君臨する太陽と月の光に勝るとも劣らぬ荘厳さを醸し出している。
「美しい……」
魂を抜かれてしまったかのような呟きは、聞く者の耳に届く前に空気の中に霧散した。
視線を別の場所に移せば、そこは一転、力に溢れた躍動する四肢が描く、生命力の活動が見て取れた。
発展途上どころか、まさに発展の出発点である無垢なる姿は、無限の可能性を秘めているという点に於いて、この世のあらゆる芸術品をも凌駕する美しさの極みに達しているようだ。カモシカのようにしなやかで、それでいて百合の花のようにたおやかな足。 天使の翼のように軽やかで美しいのに、豹のように蠱惑的で鋭く閃く腕。 何よりも、めまぐるしい変化をこの世のどんな万華鏡よりも美しく、薔薇よりも華やかに、牡丹よりもたおやかに、桜のようにはかなげに映し出すその表情たるや、千の音楽と万の詩編を用いても、到底表すことなどできはしまい。
「うふふふふふ」
彼女がそのすべてに心奪われ、周囲が見えなくなったとて誰が責めることができようか。
「あ、あの……モモさん」
「うふふふ」
「モ、モモ、もうちょっと声落として……」
「えへへへへ」
心どころか、命までも囚われているのかもしれない。
「も、モモ、正気になれ!」
「ふえっ!? ど、どうかしましたか?」
龍生の声に、モモは邪悪な笑みを浮かべた顔からようやく我に返った。
「な、なんかちょっと怖いぞ?」
「ご、ごめんなさい! ……うふっ♡」
「お、おい?」
「えへへへ、何ですかぁ?」
怯えた瞳を向けたことで、かえって彼女を陶酔させるトリガーとなったようで。モモは顔一面に法悦の笑みを浮かべている。
それを見た龍生は、足元から悪寒が駆けのぼってくるのを感じた。
「あ、あんまこっち見ないでもらっても……?」
「そんな怖がらないでくださいよぅ。じゃあ、龍生さんは……コチラにお座りくださいね♡」
「ちょっ、おいっ、子供扱いするなぁ!!」
モモは龍生の両脇に手を伸ばし、軽々と彼を持ち上げる。いわゆる高い高いのポーズである。
ジタバタとむちむちの腕で抵抗を試みるも、羽毛のように軽いこの体では難なくモモの膝の上にすっぽりと納まる形で座らされた。弾力のある女の柔らかさに嗅ぎ慣れそうにない彼女の香りがより強くなるが、龍生は別の角度に対して抗議した。
「流石に
「そう遠慮なさらずに……はい、あーん♡」
「くっ……」
小さく切られた卵焼きを器用に摘んで、彼女は口を開けろと申し出てくる。渋々はむっと一口口に含めば、じゅわっとしみでるダシの風味の何ともいえない和風の味を感じる。思わずにやけてしまう程にそれは美味しかった。
「あぁ、美味しい……」
「やぁんもうかわいいいい♡」
「ごばっ!?」
ぎゅーっと後ろから抱きしめられ、危うく喉に卵焼きがつっかえそうになる龍生。問答無用とばかりに後頭部に盛り上がった乳房が押しつけられるが、そのマシュマロのような柔らかさを感じる余裕はなかった。
「はあぁぁっ、どうしましょう……もういっそのこと食べちゃおうかしら……っ!」
「ゴホゴホッ……殺す気か! ったく、早く食べないと学校遅刻するぞ!」
「うふふ、じゃあ、次はどれにしましょうか?」
「いや、だから自分の分食べないと遅刻するぞ?」
「私は朝の味見などでお腹いっぱいですので」
「だとしても別に1人で食べれるって……じゃあ魚」
「はーい♪」
次々龍生の要望に応えるよう、彼女は朝食のメニューを口元に運ぶ──餌付けが始まった。
龍生は天ぷらを咀嚼しながらこうなってしまった元凶である、腕に巻かれたブレスレットを見下ろす。
「余りにも迂闊だった……まさかこんな姿になるなんて……なあ、これ本当に戻るんだよな?」
あの眩いフラッシュに包まれた後、あろうことかいつもと目線の高さが違うことに龍生は気づいた。何事かと自分の身体を見れば、2、3歳程度にまで身体が退化してしまっていたのだ。
無論、あれから幾度となく外そうと試みたが、どうにも効力が切れない限り、外れないらしい。物理的に腕を引きちぎれば解除は可能だが、そんな残酷な手段を行使することはないし、させてももらえないだろう。
そんな不安げな龍生を慰めるように、モモはクセのない黒髪を撫でた。
「勿論元に戻りますから、ご安心ください。お姉様によれば、1日程度あれば戻るそうです。 それに……もし何かあっても私がお側にいますから♪」
「1日か……余りにも長すぎる……」
丁度バランス感覚が養われてくる頃なのか、走ったり飛び跳ねたりできるが、食事、トイレ、着替えなどの基本的な生活スキルが失われ、彼女のようなある程度な大人の助けがなければ何もできない。それが1日も続くとは余りにも無力と言わざるを得なかった。
「って撫でるな! 子供扱いするなよ!」
「まあまあ、そう仰らずに……はい、龍生さん。お口を大きく開けてくださいねー。あーん♡」
「……あむ……なあ、お前、なんか楽しんでねえか?」
まるで子供を労るような、いつも以上に丁寧な彼女の言葉遣いに違和感を覚えた龍生がそう尋ねれば、ぎくっとモモの肩が跳ねる。
「い、嫌ですよぅ、元に戻らないと困るに決まってるじゃないですかぁ」
「いや、お前が大体猫撫で声の時って誤魔化してるとき──んぐっ!?」
「さあさあ! 良い子にしてご飯食べちゃいましょうねー」
「も、もぐっ(こ、このっ)!」
ムキーっと龍生はジタバタと対抗するが、何の効力もなく終始彼女に餌付けされる。
そして歯磨きを終えて──無論、彼女に磨かれ、洗い物をするモモの後ろ姿に声をかけた。
幼児化したとは言え、あれだけ美味しいものを作ってもらった以上、何も手伝わない選択肢はなかったのだ。
それが龍生なりの誠意だった。
「何か手伝えることあるか?」
「うーん、そうですね。…………では、あちらの料理酒を冷蔵庫に閉まっていただけますか?」
「ん? わかった」
人差し指を顎に当てて少し考える素振りをした彼女の頼み事は、至ってシンプルなものだった。
一瞬妙な笑みを張り付けたような気がしたが、料理酒を手に取る。
そして、冷蔵庫の前まで辿り着き、その実現がほぼ不可能であることを悟った。
(……このっ! おらっ!)
扉を開けて、身長よりはるか高い冷蔵庫にぴょんと跳ねていつも置いてある場所に収納を試みるが、やはり届かない。
次第に冷蔵庫から無機質な警告音が鳴り始めた。
普段余り聞くことのない音なだけはあり、無性にムキになった龍生は果敢に何度もぴょんぴょん跳ねるが、やはり到達することはなかった。
おまけに体力も衰えたのか、ぜえぜえと荒い息を吐いてしまう。子供というのは不憫で仕方がない。龍生は妙に落胆してしまう。
(…………しょうがない、モモにたの「カシャッ」──えっ?)
突然のシャッター音で龍生は金縛り状態に陥ったように動きが止まった。
えっ、と何事かと振り返れば、何やらカメラを片手にこちらを覗き込んでいる姿のモモを捉える。
レンズ越しに瞳が交わったであろうモモは、ギクッと肩が跳ねた。
どうやらまんまと乗せられたらしい。そう悟った龍生は、スッと目を細めた。
「おい、その手に持ってる物はなんだ」
「え、えーっと、なんのことでしょう?」
今の彼の睨みなど迫力のない可愛らしい疑眼でしかないが、モモの目が物凄く泳いでいた。
「それで切り抜けられると思ってるのか!? ……さてはお前、わざとこんな難易度の高いもの押し付けたな?」
「い、いえっ、これはその…………是非可愛いお姿を宇宙に広めたくて!」
「お、お前な……考えて捻り出した結論がそれなのか…………取り敢えず早く手伝ってくれ」
「はーい♡」
宇宙に広めるとは、彼女は一体何をする気なのだろうか。
呆れながら渋々抱きかかえられる形でミッションをクリアしたところで、ふとモモに問いかける。
「そういえばそろそろ学校行く時間じゃないのか?」
「はい。そこでなんですけど、龍生さん」
「なんだ?」
「ちょっとだけリビングで待っててもらっても良いですか?」
「ん? いいけど何する──ってはやっ!」
龍生を地面に置くなり、猛スピードでリビングを去っていく彼女に驚くこと数分。
彼女はなぜか、丁寧に畳まれた幼児服を数着持って戻ってきた。終いには、新しい悪戯を思いついた子供のように目がキラキラ光っている気がした。
「さあ、龍生さんもお着換えして、一緒に学校にいきましょう♪」
「は? いやいや何言ってんの? こんな容姿で行けるわけないだろ? 第一な、幼児が高校の授業受けるってどう考えても頭おかし──」
「──えーと、資料集の14ページの上の図を見てください」
淡々とした教師の声が、無機質なラジオのように教室に響く。静かな午前、窓の外では陽光が鈍く揺れ、風に乗って微かに木々の葉擦れの音が届く。だが、それらの風景が持つ爽やかさとは裏腹に、教室の空気は重たく、どこまでも眠気を誘うものだった。
机の上に広げられた資料集に視線を落とす。白黒の図表が無造作に並び、どれもこれも既視感のあるデータばかり。まぶたがじんわりと重くなり、あくびを噛み殺すも、喉の奥に眠気がじわじわと絡みついて離れない。
「温室効果ガスの排出割合なんだが、まぁ、図の通り二酸化炭素がほとんどで……」
とりわけ産業革命以降、代表的な温室効果ガスである二酸化炭素やメタンのほかフロンガスなど人為的な活動により大気中の濃度が増加の傾向にあるという。
教師の言葉を聞きながら、意識の端で思う。聞いたことのある話だ。教科書にも、ニュースにも、至る所に転がっている情報。新鮮味など欠片もない。
──地球人であれば、確実に。
「それで地球はこんなに暑いのですねえ」
頭上から降ってきた、どこか感心したような声音。向こうの世界では、このような現象は存在しないのかもしれない。そんな思考がよぎると同時に、ふと現実に引き戻された。
「……なあ、モモ」
「はい、何でしょう?」
彼女の笑顔は、あまりにも自然体で、優しげな色を帯びていた。それが無性に腹立たしい──いや、正確には、自分のこの状況が、だ。
「なんで俺は……」
言葉を続けると、胸の奥で煮えたぎるものがあった。それは羞恥か、憤りか。
「お前の膝の上で、授業を受けてるんだろうな……?」
「うふふ。それはですね〜……」
「なんだよ」
「龍生さんが、こ・ど・もなんですもの……♡」
「こ、コイツめッ……!」
結局、龍生はモモ達の不要な気遣いの結果、前代未聞の「幼児が高校の授業を受ける」という事態にまで発展してしまった。
流石に門前払いを食らうと踏んでいた分、すんなりと受け入れられたことが意外だった。
ましてや、膝の上で授業を受けるという羞恥プレイがセットとは、頭痛のする思いだった。
「…………しかも、よりにもよって何でモモの膝の上なんだよ」
幼児とはいえ、中身は高校生男子。
膝の上に座るという行為そのものが、なんとも落ち着かない。
彼女のスカート越しに伝わる温もり、女の子特有の柔らかさ、そしてほんのり香るフローラルな匂い──。
……心臓に悪すぎる。
こんな環境で授業に集中しろと言う方が無理な話だった。
そして、彼女はそんな心情を知ってか知らずか、じっと微笑を浮かべながら、からかうように囁く。
「座り心地はいかがですか?」
上機嫌な声色に、無性に悔しくなった。
「…………別に」
「ふふっ、なら良かったです」
「俺まだ何も言ってないんだが?」
「お顔に書いてあります」
「…………じゃあ聞くんじゃねえよ」
不貞腐れたようにそっぽを向く龍生に、モモはくすくすと楽しそうに笑った。その笑い声は鈴のように軽やかで、どこか心地よい響きを持っている。だが、龍生にとってはそんな余裕たっぷりの態度が、どうにも癇に障った。
こっちはこの状況に適応するだけでも必死なんだぞ。
思わず口を尖らせながら、彼女の膝の上に座るという異様な状況を再認識する。柔らかく、温かく、心地よい。彼女のスカートの布地が肌に触れるたびに、まるでふわふわのクッションに包まれているかのような安心感を覚える。
(……ダメだ、慣れたら終わりだ)
そう思いながらも、すでに抗う気力は失われつつあった。彼女の膝上という限定された世界は、あまりにも快適すぎる。
「何だか龍生さんが膝の上にいるなんて……とても新鮮ですね! 降って湧いた幸運とはこのことでしょうか」
「何が降って湧いた幸運だ。そう何度もあってたまるかよ。色々大変なんだぞこの身体は」
愚痴るようにぼやくが、モモは気にする様子もなく、むしろ頬を緩ませている。まるで龍生が苦労している姿すら楽しんでいるように見えてしまい、内心ますます不機嫌になる。
「うふふ♡ 必死になって歩いたり階段登ったりする姿は何とも見てて癖になると言うか天……はっ、いけないいけない。次はお絵かきでもしましょうか!」
「お前やっぱ楽しんでない?」
「へっ? い、嫌ですよぅ、勿論早く戻ってほしいに決まってるじゃないですかぁ。あ、絵本とかいかがですか?」
「なんでそんなもん学校に持ってきてんだよ!」
彼女の言動はどこまでも可愛らしく、無邪気を装っているが、龍生には見抜けてしまう。モモの口元がどこか愉快そうに歪んでいるのだ。
こんな状況でどう楽しめというのか。そう苛立ちを覚えつつも、次の瞬間、龍生は妙な違和感を覚えた。
教室の空気が、どこかざわついている。
視線を感じる。まるで無数の矢がこちらへ向けられているような、圧のある視線。
龍生が察したとき、すでに周囲ではヒソヒソとした声が飛び交っていた。
──あぁ、今日のモモ様はなんとも慈悲深いお顔で……
──ホントに天使のようだ。
どうやら鼻歌でも歌ってそうなほどに上機嫌なモモに理由があったらしい。彼女が何気なく笑っただけで、この騒ぎである。周囲の男たちはモモの姿をひたすら眺め、ただそれだけで幸せそうな顔をしている。
「モモ、もっと自重しろ。目立ってるぞ」
「へっ? 私ですか?」
「…………あのなぁ」
心当たりがないときょとんとしたモモに、龍生はため息を吐いた。
確かに幼き龍生の見た目は、女の子に近い雰囲気を持っており、その愛くるしさから常に女子生徒から好意的な視線を集めていた。
だが、保護者であるモモもまた同様、龍生を抱えて歩く彼女が通るたびに、通りすがる生徒は皆そろって、時が止まったように瞬き一つせずに固まっていた。
彼女が幸せそうな笑顔を振りまいたが故だろう。
それは余りにも既視感のある光景だった。
彼女がこの学園に来た時も、まるで倭絵の中から抜け出してきたような若殿の姫が現れたためか、多くの男からの視線を独占していたのだ。
彼女が歩けば、人々の視線が吸い寄せられる。
彼女が微笑めば、誰もが心を奪われる。
続けざまに龍生の脳内には、告白したい者が列をなしていた光景が浮かび上がってくる。
不思議とそれはめっきりなくなったが、今日はどことなくそんな彼女を一目見ようと野次馬が集まりそうな予感がした。
ふと龍生の心の奥底に、妙な感情がわき上がってきた。
(……なんか、ムカつくな)
自分でも理解しがたいその感情。
それは、苛立ちか、不快感か、それとも──
龍生がその正体を探ろうとした矢先、一時間目の終わりの休憩時間になり、事態は一気に動き出した。
「──モモさん、今日のお昼って暇ですか?」
清潔感のある好青年──中田雅紀が、モモへと声をかけた。
テニス部のエースにして、校内でも人気のある男子生徒。
彼の登場とともに、周囲の空気がわずかに変わる。
「お昼ですか?」
「はい、も、もし良かったから一緒にどうですか?」
控えめながらも、期待に満ちた声。
それを皮切りに、周囲の男子たちが次々と口を開く。
「お、俺も!! 俺も一緒に良いですか?」
「俺も俺も!」
「つ、ついでに連絡先なんかも……」
「て、テメェ、抜けかけはずりぃぞ!!」
「俺にも連絡先を!」
「お、おいそれはVMCの規則を破ることになるぞ!」
「バカ言え! こんなチャンス滅多にないんだぞ!!」
モモを巡る騒動が、まるで戦場のように熱を帯びていく。
(……やっぱムカつく)
同じ言葉が、また龍生の頭をよぎる。
だが、今度は確信していた。
これは、ただの苛立ちではない。
もっと別の感情が、胸の奥底で渦を巻いている。
そんな龍生の葛藤をよそに、モモはふわりと微笑み、ゆっくりと口を開いた。
「ごめんなさい。私携帯持ってないんです。それに、今日はこの子とお弁当を食べる予定があるので」
(いや、お前携帯持ってるだろ……)
龍生は思わず心の中でツッコミを入れる。
だが、その一言で、彼の胸に広がっていた妙なモヤモヤが、すうっと消えていった。
(……あれ?)
たったそれだけのことなのに、なぜか心が落ち着く。
モモが自分を選んでくれた──
そんな些細な事実が、龍生にとって想像以上の意味を持っていたのかもしれない。
しかし、それでも騒動は終わらなかった。
「ま、まあ良いじゃんたまにはさ! そこの子は……ほら、ナナちゃんにでも預けて」
「そうだよ、もしくはそんな子保健室に預けといてさ、俺たちと飯行こうぜ」
「い、いえ私はこの子と一緒に──」
「──絶対俺たちといた方が楽しいって!」
「そうそう! どうせあいつも居ないんだし! 今日くらい俺たちといようぜ!」
次々と押し寄せる誘いの声。
もはや強引にでも彼女を連れて行こうという意図が透けて見える。
話によると、どうやら龍生の存在が、これまで彼らの接触を阻んでいたらしい。
最近、他クラスの男が彼女へ関わることが減ったのは、その影響だろう。
そんな護衛が今日は不在。
だからこそ、ここぞとばかりに動き出したのだ。
だが、モモの返事は変わらない。
むしろ、彼女の表情はどこか煩わしさを滲ませているようにも見えた。
それでも彼らは引き下がる気配がない。
口説き落とせず平行線のまま、焦りと苛立ちを募らせたのか、ついに言葉の端々に悪意が滲み始める。
「そもそも、席が隣だからってアイツ調子乗り過ぎじゃね?」
「確かに。なんか彼氏でもねえのに気取ってるもんなあ。噂によれば女を引っ掻き回してるらしいぜ。この間も隣のクラスの笹川が餌食になったらしいし」
「そうだな……。モモさん、嫌だったら俺からアイツに言うからな?」
「そうそう! ストーカーされてるなら俺たちが守るから!」
「我々ファンクラブ一同、アイツの好きにはさせません!」
龍生の胸の奥が、嫌な冷たさを帯びる。
──真実は違う。
彼女とは、一度だけ校舎裏に呼び出されて告白を受けただけ。
好きでもなかったために断ったところ、泣きじゃくってその場から逃走してしまった。
ただそれだけのことだ。
だが、気づけば人の口の端にかかり、いつの間にか「女を引っ掻き回す男」に仕立て上げられていた。
(……無責任で悪意に満ちた噂だな)
別に自分が悪く言われるのは構わなかった。
昔から、こういうことはよくあったし、慣れっこだった。
だが──今度は違う。
この現状は、どうしても回避しなければならない。
ただ悪く言われるだけならいい。
だが、モモの周囲に影響を及ぼすのは許せなかった。
(……ナナ、どこだ)
取り合えず、この場の流れを変えるにはナナの助けが必要だと判断し、彼女の姿を探す。
だが、すでにナナは、こちらへ向かって歩み寄ってきていた。
(……助かった)
ナナは異性に対しても物怖じしない。
こういう揉め事の仲裁にはうってつけの人物だ。
しかも、彼女の姉御肌な性格は、クラスメイト、特に女子からの評価が高い。
そのため、彼女の後ろにはすでに女子たちが構えている。
つまり──この男どもにとって、一番敵に回したくない存在がナナというわけだ。
ナナが口を開けば、彼らはすぐに引き下がるだろう。
だが──
ふと、ナナの足が止まった。
龍生は眉をひそめる。
ナナの表情が、みるみる青ざめていく。
まるで、生まれたての子鹿のようにブルブルと震え始めていた。
(……えっ?)
何事かと彼女を凝視していると──途端に背後から心臓を握られるようなプレッシャーを感じた。──ん?
「────言いたいことはそれだけですか?」
「へっ? も、モモ、さん?」
「も、モモ?」
反射的に彼女の名を呼んでしまうが、それを気にする者などこの場にはいない。
先ほどの柔らかい声音とは打って変わった、これ以上冷ややかには言えないと思えるほどの響きが、この場を支配していた。
「先程から妙な戯言を述べてますけど、私はあくまで私が好きで龍生さんと一緒に居るだけですので。あなた達にとやかく言われる筋合いはありませんが?」
「え、い、いや、お俺たちはその…………」
「それに、今日はこの子とお昼ご飯を食べると──そう、言いましたよね?」
「は、はい……っ」
(まずいまずい! ば、ばか、落ち着け!!)
徐々に葬式みたいな雰囲気になりつつある周囲の空気に、龍生は焦燥感に駆られた。最早彼女の怒りは噴火する直前だ。
そのプレッシャーに当てられた周りの男達も、地球のように顔が真っ青になっている。
「お、オマエらっ、さ、流石にもうやめといた方が……モモも、な? コイツラも反省して──ひっ」
ナナが慌てて制止しようとするが、モモの鋭い視線を浴びた瞬間、まるで小動物のように怯え、しゅんと縮こまった。
ナナの瞳が必死に訴えかけてくる。
(りゅ、リューセイがなんとかしてくれ!)
(ば、バカ言うな! どうやれってんだこの状況で!!)
ナの無言の懇願に龍生は頭を抱えた。
姉の権力が弱すぎる!
いや、これはもう権力云々ではなく、動物的な本能が彼女を沈黙させているのだろう。
くそ、どうする、と逡巡する。
この状況を乗り切るには──どうすれば良い。
この身体でこの状況を乗り越えるには──どうすれば良い。
(──っ!?)
ふと、打ち上げ花火みたいに頭にアイデアが閃いた。ただ、同時に二度と払拭できないような羞恥を覚える。
──けど、やるしかない。
羞恥を虫けらのように押しつぶす。
身体を方向転換し、彼女に抱きつくような形で、甘えた声を絞り出した。
「ま、まぁまぁ〜。お、怒んないでぇ」
ああ……
死にたい……
何だこの羞恥プレイ
辺りが静まり返った。
逃げ場のない濃密な静寂が苦しい。
くっ、これでもダメなのか?
ここまでしたのに?
恐る恐る彼女を見上げると。
「か…………」
「か?」
「かわいいぃぃぃぃぃ──────────っ♡」
「ふぎゃぁっ!?」
羞恥のあまり潤んだ龍生の瞳。
それは意図したものではなかったが、まるで庇護を求める子供のようで、モモの心にズキューンと突き刺さった。
彼女は歓喜のあまり、細い腕で龍生をぎゅううっと抱きしめた。
その圧力に耐えきれず、龍生の口から奇妙な悲鳴がこぼれる。
「はぁぁあんっ♡ もうどうしましょう、どうしましょうっ♡。なんて可愛い……はぁあ♡」
「も、モモおぢづげ、ぐるじいっ」
「はっ、ご、ごめんなさい!」
龍生の生命の危機に気づいたモモは、慌てて力を緩める。
だが、すでに頬は桜色に染まり、恍惚とした表情を浮かべていた。
「と、とりあえずごめんなさい。えっと、お昼はこの子とご飯を食べる約束をしてますので」
「は、はいっ」
ぞくっとするほど艶かしいモモの色気に当てられた周囲の男達は、揃ってトマトのように赤面していた。勢いよく散り散りに撤退していった。
──なんとか、危機は脱したらしい。
ほっと息をついた瞬間、背後からクスクスと笑い声が聞こえた。
「りゅ、リューセイオマエ……ま、ママって……っ! ──ぷっ、アハハハッ!!」
「うふふ、龍生さんは甘えるのがお上手なんですよぅ。ねっ、龍生さん♡ もう私は可愛すぎて身も心も捧げてしまいそうですっ♡」
「…………」
──ああ、やってしまった。
同い年のモモにママ呼びして、抱きついて、甘えた声を出した自分。
さぞや事情を知っているナナからすれば、腹を抱えて笑える事案だろう。
龍生は遠い目をしながら、現実逃避するようにそっと瞳を閉じた。
どうやら龍生を一目見ようと、学年を問わず生徒たちがクラスに押し寄せていたらしい。
まるで客寄せパンダだな、などと呑気に考えながらも、当の本人はその喧騒に気づくことなくぐっすり眠っていた。
そして迎えた昼休み。
心地よい眠りから目を覚ました龍生は、まだボーッとしたままの状態で、いつの間にかモモの膝の上に乗せられていた。
(……ん? なんか、やたらと眠い……)
小さなあくびをひとつ。
眠気の残る頭でぼんやりと状況を確認すると、どうやら空き教室にいるようだ。
窓から差し込む午後の日差しが優しく室内を照らし、静かな時間が流れている。
ふと、机をひとつ挟んだ向かい側で、じっとこちらを見つめる視線に気がついた。
つり目の少女──ナナ。
普段はやんちゃな彼女が、なぜか今日は妙に優しげな眼差しをこちらに向けていた。
「……なんだ?」
「あ、ようやく起きたのか。随分ぐっすり寝てたぞ」
「…………なんか無性に眠いんだよなぁ」
うーん、と目を軽くこすりながら、ナナに応える。
そんな龍生に、モモは柔らかい笑みを浮かべる。
「ふふっ、仕方ないですよぅ。そのお身体でしたら、私たち以上に睡眠が必要なはずですもの」
「そうか、だからねむ……ってだから頭撫でるな!」
いつの間にかモモが丁寧に龍生の髪を撫でていた。
指先がふわふわとした髪の毛をすくい上げるたびに、くすぐったい感覚が広がる。う。
「ふふっ、可愛いですね♡」
「うぐっ……」
思わず反論しようとするも、モモの表情があまりにも満ち足りていたため、妙な気恥ずかしさを覚えて言葉を飲み込む。
されるがまま数分後──
ようやく満足したのか、モモはそっと手を離した。
……なんだか、少しだけ物足りない気がするのは、気のせいだろうか。
そんな龍生の気持ちを察したのかどうか、ふと視線を感じて振り向くと、ナナがこちらをチラチラと伺っていた。
妙にソワソワしている。
何か言いたげなのだが、どうにも言い出せずにいるようだった。
「な、なんだよ」
「えっ? あ、いや、別に……なんでもない……」
目をそらし、ふいっとそっぽを向くナナ。
だが、またすぐにチラチラとこちらを盗み見る。
(……なんだ、この妙な視線は)
龍生が首を傾げていると、モモがふっと意味深な笑みを浮かべた。
「あら、ナナも龍生さんに興味あるのかしら?」
「うえっ!? べ、別にそんな事ない…………というか、その……か、可愛いなって」
「ふふっ、そう。じゃあ、龍生さん。少し移動しますね?」
「は? ちょ、おいまて! 俺に拒否権は!?」
龍生の抗議などお構いなしに、モモは「よいしょっ」と軽々しく持ち上げた。
そのままナナと向き合う形で、彼女の膝上へと座らされる。
「…………なぜこの向き」
眉間にシワを寄せ、不満を全身で表現する龍生。
しかし、そんな彼の表情とは裏腹に、ナナの顔はみるみる蕩けていく。
「か、かわいい……!」
ナナの瞳に恍惚とした光が宿る。
まるで仔猫を愛でるように、そっと龍生の頭を撫でた。
「…………あ、頭撫でるな」
龍生は顔を赤らめ、ふいっとそっぽを向いた。
しかし、その仕草すらも「子供っぽさ」に拍車をかける結果となり、ナナはますます愛しげな表情を浮かべる。
「か、かわいいぃぃ♡ な、なあ、抱っこしていいか?」
「い、いや、だからだめに決まって──」
「──ええ、良いわよ」
「ホントかっ!?」
「──ちょ、だから俺の許可は!? お、おいこら! だから俺の許可なく抱きつくな!!」
龍生の抗議は虚しく、次の瞬間にはナナの腕の中へと収まっていた。
幼児を抱くようにしっかりと胸に抱えられ、逃げ場がない。
「よしよし、いい子だぞ〜〜〜」
「こ、コノヤ……ち、近いっ」
ジタバタと暴れてはみるものの、ナナの腕の中は思った以上に心地よかった。
柔らかな抱擁と、ゆっくりと背中をトントンされるリズムが、妙に落ち着く。
まるで上質な毛布に包まれているような安心感があった。
(くそっ、なんか悔しい……!)
ナナの手慣れた仕草に、無意識のうちに身体の力が抜けてしまう。
どうやら動物好きな彼女の母性が発揮されているらしい。
こうなると、もはや抵抗など無意味だった。
「龍生さんは本当に甘えん坊さんですね♡」
「…………うるさい」
モモのくすくすとした笑い声に、龍生は顔をさらに背けた。
──そうこう甘やかされること数分。
ふと、背筋にゾクリと寒気が走る。
視線を感じた。しかも、ただの視線ではない。
刺すような、どこか怨念めいた感情を伴った視線だった。
「ん? どうかしたのか?」
ナナが不思議そうに首を傾げるが、龍生はすぐに首を振る。
「…………いや、なんでもない」
一瞬のことだった。
振り返っても、今はもうその気配は消えている。
ただの気のせいだろうか?
なんとなく胸の奥に引っかかるものを感じながらも、今はそれを気にしている場合ではなかった。
ちょうどそのタイミングで、ぐぅぅぅ……と、お腹が情けなく鳴る。
「じゃあ、龍生さん。そろそろお昼にしましょうか」
待ってましたとばかりに、モモが机の上に弁当箱を広げる。
視線をそちらに向けた瞬間、ナナが不満そうに唇を尖らせた。
「えー、もう少しだけ良いじゃん」
「ナナ。愛でたい気持ちは痛いほどわかるけど、ちゃんとお昼ご飯食べて午睡しないと龍生さんの成長に悪影響よ?」
「保育園の先生か! まてまて、この姿今日一日だけだからな? 2人共わかってる?」
「いっそ姉上に言ってずっとこのままでいれるか聞いてみよっかなぁ」
「そうねぇ、でも私としてはちょっと複雑ね」
「アホ言ってねぇで早くお昼にするぞ。あと35分しかない」
龍生は無事にモモに回収され、彼女の膝の上に「着地」する。
……もはや何を言っても無駄だと悟り、抗うことを諦めた。
とにかく、ご飯だ。
それに頭を切り替えれば、今までの苦労が少しは報われる気がした。
モモが丁寧に包まれた弁当を広げる。
しかし、龍生は弁当の「ある違和感」に気づいた。
「今日のお弁当は、こちらになります」
「おお…………っておい、弁当箱おかしくねえか?」
目の前の弁当箱。
表面には昔好きだった特撮ヒーローの絵が、やや掠れた状態で描かれている。
さらに、ご丁寧にも子供用のフォークやスプーンまで添えられていた。
「お義母様が綺麗に保存してくれていたようで、今朝教えてもらったんです♪」
「か、可愛いなぁ~」
(なんで俺の母親の連絡先を知ってるんだ……)
思わず突っ込みたくなったが、今はとりあえず弁当の中身を確認することにする。
蓋を開けると、そこには今朝の天ぷらや豚肉のアスパラ巻き、卵焼き、焼き魚などが、小さく小分けにされてバランスよく詰められていた。
──空腹の身としては、実に食欲をそそる光景だ。
「サイズ感と言いツッコミたい事沢山あるんだけど。めちゃくちゃ美味そうだな」
「ふふっ、ありがとうございます」
「へぇ、相変わらずモモが作ってんのか」
「ええ」
感心した様子のナナに、モモが鷹揚に頷く。
「このフォーク使うの恥ずかしいんだけど。とりあえず頂きます」
「はい。召し上がれ♡ あ、龍生さん」
若干の抵抗を感じながらも、フォークを手に取ろうとすると、モモに取り上げられる。
(……これはまさか)
「はい、あ~ん♡」
案の定だった。
自分で食べるという選択肢は最初から存在しないらしい。
小さく切った卵焼きを口元まで運ばれ、観念して口を開く。
その瞬間──
龍生の口は、至福に包まれた。
ふんわりとした食感、優しい甘み、そして控えめながらもしっかりした味付け。
胃に負担のかからない、滋味あふれる味わいだった。
この身体のことを考慮して作られているのだろう。
「美味い! 相変わらず美味いな!」
「ふふっ、ありがとうございます!」
満足そうに顔をほころばせて思わず顔を上げる龍生に、目があったモモは嬉しそうに笑った。
そんなほっこり空間を作り出した龍生の幸せそうな顔に、目の前のナナも顔が蕩けている。
「なぁ、次はアタシがあげても良いか?」
「ええ、いいわよ」
「やった!」
ナナはニコッと満面の笑みで、フォークを手に取る。
「あ、あーん」
やや緊張気味に、ナナが芋の天ぷらを差し出す。
「うん、美味い」
「そ、そっかそっか。良かった」
「なんでお前が安心してるんだよ」
そうやって、龍生はモモとナナに交互に餌付けされる昼休みを過ごし、話題は自然とモモの料理の話へと移っていった。
「そういえば、5歳くらいの時いきなり料理学び始めたよな」
ナナが思い出したように問いかけると、モモは微笑を浮かべながら頷いた。
「ええ。お料理に興味が湧いたから」
「でも余りにも急じゃなかったか? 確か王級の料理人に何かの作り方教えてもらってからだったような……あの時はレシピがわからないやらで大騒ぎしてたっけ。あれ、でも──」
「──な、ナナ。恥ずかしいからやめて」
ナナが記憶をたどりながら話を続けようとすると、モモは慌てて制止した。
彼女にとって、それはあまり触れてほしくないエピソードだったのだろう。
頬をうっすら朱に染めるモモの姿は、どこか新鮮だった。
(意外と、モモのことって知らないんだよな……)
龍生はふと、そんなことを考えた。
特に、彼女がなぜ姉やナナと共に暮らさず、龍生の家に住むことを選んだのか。
長く一緒にいるのに、根本的な部分はあまり知らない。
聞いてもはぐらかされるのがオチではあるが、それでも気になった。
「こっちに来てからも美柑に教えてもらってたみたいだし。なんかきかっけあったのか?」
「そうねぇ」
モモは、ふと視線を落とした。
彼女のラリーを黙って聞いていた龍生だったが、その視線を感じて見上げると、どこか意味ありげな目がこちらを覗き込んでいた。
その瞳には、深い思索が宿っているようにも思えた。
「まぁ、元々興味あったのよ。いずれにしろ、覚えておいて損はないと思ったから」
その言葉はどこか曖昧だった。
彼女は、あえて明確な答えを避けている。
話したくないことなのか、それとも単に説明しづらいのか。
いずれにせよ、龍生はそれ以上追及しなかった。
「損?」
「ええ。誰かのお嫁さんになった時に必要なスキルだもの。ね、龍生さん」
「…………ここで俺に同意を求めるな」
「で、でもそんなの料理人に任せれば良くないか?」
ナナが首を傾げながら疑問を呈する。
王族ともなれば、一流の料理人が常に付き添っているのだから、確かにその必要性は薄いはずだった。
「ええ。それでもいいと思うけど──自分の作った料理で、愛する旦那さんに美味しいって言ってもらう幸せは格別よ。ね、龍生さん♡」
「だ、だから俺に振るなっての!!」
──龍生さんから美味しいって言葉を頂けるだけで、私にとっては十分なんですから♡
突如として脳内に蘇った記憶が、龍生の思考を焼き尽くす。
顔がリンゴのように真っ赤になった。
「うーん、でもなぁ」
「あら、あなたもリトさんに作ってあげたらきっと喜ぶわよ?」
「な、なんでここでリトが出てくるんだよ!」
「別に深い意味はないけど…………顔が少し赤いわよ?」
「べ、別に赤くなんかなってないし! 何であのケダモノで赤くならなくちゃいけないんだ!」
「そうかしら?」
「そうだって!」
姉妹の軽妙なやりとりをBGMに、龍生は弁当を食べ終える。
食後には、いつものようにモモお手製のクッキーを頬張る。
そんな時だった。
「あれー、こんなところにいたんだ!」
教室の入り口から、快活な声が響く。
「ん? 姉上?」
「お姉様?」
その声の主は──ララだった。
ナナとモモは、ほぼ同時に驚いたように顔を上げる。
「おい、ララ。いきなり止まってどうし──あれ、モモ達、ここでお昼ご飯食べてるのか?」
続いて現れたのはリト。
噂をすれば何とやら。まさかのタイミングで、本人が登場する。
長年の経験からか、龍生の胸の奥に嫌な予感がムクムクと膨れ上がる。
「はい」
リトの問いかけにモモが反応する。
「お外は暑いですから。それに──」
そう言って、彼女は再び視線を落とす。
そして、膝の上にちょこんと座る龍生を見つめ、微笑んだ。
その視線を見たリトは、すぐに納得したように頷く。
「あ、あー、そういうことか。確か龍生が小っちゃくなっちゃったんだっけ」
「そうそう。ごめんねー、私の発明品のせいで」
申し訳なさそうに眉を下げるララに、龍生は小さく首を横に振った。
「いえ、ララさんの発明品に触れたら最後だと失念してただけなので、自業自得です」
「にしても、本当に子供なんだなぁ。2、3歳くらいかな」
「ほんとだねー。あ、子供のお弁当箱だ! 可愛いー!」
「あ、ララ。走ると危ないぞ」
ララは興味津々といった様子で、小走りに駆け寄ってきた。
後ろから、仕方なさそうな顔でリトもついてくる。
じっと龍生の弁当箱を眺めるララに、モモが微笑む。
「龍生さんのお母様が大切に保存されていたのをお借りしたんです」
「そっかぁ…………ふふっ、やっぱ近くで見るとホントに可愛いね」
前かがみになったララは、優しく目を細めて笑う。
胸元が緩んだことで見えた白い肌と谷間のチラリズムに、龍生は慌てて視線を逸らした。
「…………そりゃどうも」
「子供ってこんなにぷにぷにしてるんだねぇ──あれぇ?」
ララが、唐突に首を傾げた。
「な、なんです?」
ぷにぷにと人の脂肪を弄んだかと思えば、少しアホっぽい声とともにきょとんと彼女は首を傾げた。
「ん──、この顔どっかで見たことあるような気がして」
彼女は記憶をたどるように龍生を見つめる。
その様子に、龍生は怪訝な顔を返した。
(何言ってるんだ?)
単に幼児化しただけなのだから、面影は残っていて当然だ。
しかし、なぜか彼女の言葉には妙な引っかかりを覚えた。
すると、ナナが苦笑しながら皆の心を代弁する。
「あ、姉上。リューセイが幼児化した姿だから見たことあるんじゃないか?」
ナナの言葉を受け、ララは「うーん」と首をかしげながら考え込む。
その様子は、まるで記憶の奥底に引っかかる何かを必死に思い出そうとしているようだった。
「ん──、それはそうなんだけど…………そうなのかなぁ?」
「いや、俺に聞かれても」
龍生が呆れたように肩をすくめると、ララは数秒悩んだ後、パッと表情を明るくして手を叩いた。
「まあ、いっか! リトもリューセイと遊ぼう! 可愛いよー?」
どうやら自己完結したらしい。
気になりはしたが、ララのことだ。何か突拍子もないことを考えていたに違いない。
龍生は、それ以上深く考えることをやめた。
すると、ララは再び龍生の頬をぷにぷにと指で押し始める。
どうやら彼女の興味は完全に龍生の幼児化した身体に向いてしまったようだった。
(なんだったんだ、さっきの妙な間は……)
違和感を覚えつつも、ララの突飛な言動を考察することに意味はないと悟り、龍生はため息をつく。
そんな折、ララの呼びかけに応じたリトが、一歩前に出る。
「へぇ、どれどれ──うわっ!?」
しかし、次の瞬間だった。
リトの足元が突然空を切った。
どうやら踏み出した瞬間に、何かにつまずいたらしい。
まるで漫画のバナナの皮を踏んだかのように、彼はバランスを崩し、背後へと倒れ込んでいく。
だが、その瞬間──。
「んっ!?」
リトは咄嗟に、目の前にあったララの尻尾を掴んでしまった。
次の瞬間、ララの身体がビクリと大きく震えた。
まるで電流が走ったかのように、彼女は悶えるように身をよじり、甘い声を漏らす。
「あぁっ、ん、リトぉ~、そこは敏感なんだから尻尾はだめぇ~~……っ」
「ご、ごめんっ!」
リトは慌てて手を離したが、時すでに遅し。
ララの身体は力が抜けたように傾き、そのままリトの上へと覆いかぶさる形で倒れ込んだ。
そして──。
むにゅっ。
何とも言えない、柔らかい音が響いた。
龍生は思わず眉をひそめる。
(……嫌な予感がする)
その予感は、見事に的中した。
リトは地面に尻もちをついた状態で、ララの体重を真正面から受け止める形になっていた。
そして、彼の両手は──見事にララの胸の上に着地していた。
完全なるラッキースケベの完成である。
「んっ、リト、くすぐったいよぅ」
「ご、ごめん!」
顔を真っ赤にしたリトが、慌てて手を離そうとする。
だが、焦りすぎたのか、逆にララの服の布地を掴んでしまい、さらに胸を揉みしだくような形になってしまう。
ナナの顔が、一瞬で怒りに染まった。
「あ、姉上に何やってんだっ! このケダモノ──っ!!」
「ち、違う! 誤解だ────っ!!」
だが、ナナの拳が振り下ろされる前に、龍生はそっと立ち上がり、静かにモモに声をかけた。
「なんというか、相変わらずのラッキースケベだな。取り敢えず逃げよう。巻き込まれる」
「そうですね。でも、龍生さんも、朝方寝ぼけてる時は情熱的なんですから♡」
「うん? は? まて、それってどういう事?」
「ふふっ、ひ・み・つです♡」
「いやいや、凄い気になるんだけど!?」
「2人とも助けてくれぇーー!!」
「まてっ! このっ、ケダモノーーっ!!」
こうして騒がしいお昼は過ぎていった。
昼食を食べ終えた頃、モモはふと自分の時間割を思い出した。次の授業は音楽だった。
それに気づき、腕の中にそっと目を落とす。
そこには、すやすやと寝息を立てる龍生の姿があった。
まるで安心しきった子猫のように、彼は小さな身体をモモの胸に預け、無防備な寝顔を晒している。
──なんて愛らしいのかしら。
そう思った瞬間、モモの表情はとろけるように和らぎ、胸の奥がふわっと温かくなった。
長い睫毛、ふっくらとした頬、小さく上下する唇。
全てがまるで、天使の人形のように愛らしい。
(はぁぁっ、なんて可愛らしい……っ)
恍惚としたため息がこぼれそうになるのを堪え、モモは自分を戒めるように軽く頬を叩く。
(って、それどころじゃないわね。どうしようかしら)
このまま授業に行くとなると、彼をどうするかが問題だ。
起こすべきか、それとも他に預けるべきか──だが、彼の寝顔を見ていると、どうしても起こす気にはなれなかった。
「なぁ、リュー生のやつどうするんだ?」
隣を歩くナナが、ちらりと龍生を見やりながら問いかける。
その表情には、どうにかしてやりたいという気持ちが滲んでいた。
「そうねぇ」
モモは考え込みながら、そっと腕の中の重みを抱き直す。
こんなにも心地よさそうに寝ている彼を、わざわざ起こすのは忍びない。
かといって保健室に預けるという手も、今日は使えない。
御門は昼頃から出払っており、龍生を託す宛がなかったのだ。
(いっそのこと授業をサボって、ずっと彼の面倒を見ていようかしら)
そんな考えが頭をよぎるが、校則違反となると、さすがに避けたいところだ。
どうしたものかと悩みながら廊下を歩いていると、背後から柔らかな声が響いた。
(あれ……?)
春菜は二年生のはずだ。
ならば、もうすぐ授業が始まるこの時間に、わざわざ一年の階にいる理由は……?
「モモさん」
背後から柔らかな声が自分を呼び止めた。
振り返った先には、青色ショートカットの髪型に、ヘアピンでおでこを出している少女――春菜の姿だった。その瞬間、ふと疑問に思うことがあった。
「あれ、こんなところで何してんだ?」
「龍生くんのことで」
モモの心が、わずかに揺れる。
(龍生くんの……ことで?)
彼女はすぐに言葉を続けた。
「私が龍生くんを預かろうか?」
「――えっ」
モモは思わず息を呑んだ。
それは予想もしなかった申し出だった。
けれど、それ以上に、モモは彼女の瞳の奥にある"何か"を感じ取った。
──結城リトに向けるものとは違う、特別な感情。
それが気のせいなのか、それとも確かなものなのか、モモにはわからなかった。
だが、その一瞬の曖昧な感覚が、モモの胸をざわつかせる。
龍生を預けるのは理に適っている。
春菜ならば、彼のことを優しく見守ってくれるだろう。
それは頭では理解できる。
でも──。
「おーい、モモ。授業始まるぞ」
「え、ええ……そうね」
先ほど感じていたしなやかな重さが今この手の中にないこと。
それが胸がきゅっと締め付けられるような気分だった。