アゼンダとの一件から二日。
殺し屋と斬り結ぼうが、少女の命を救おうが、地球の自転周期は一秒たりとも変わらない。翌々日の朝は、いつもと同じ顔で来る。
喧しいアラームを叩き止めて、龍生は一階へ降りた。
リビングでは、もうエプロン姿のモモが動いていた。
「〜〜っ♪」
鼻歌。包丁の音。換気扇の低い唸り。
寝起きの目には、その光景がやけに眩しかった。
時計を見る。学校にはまだ早い。作って、食べて、片付けても、余りが出る時間帯だ。
(珍しいな、こんな時間に)
「おはよう、モモ」
「おはようございます! 龍生さん♪」
「お、おう」
くるりと振り向いた彼女が、ゆったりと微笑む。ピンクのエプロン、ほどけた頬。朝一番に食らうには過剰な火力だった。
「どうかしましたか?」
不思議そうに可愛らしく小首を傾げるモモに、慌てて龍生は首を振った。
「いや、何でもない。こんな時間に起きるなんて珍しいなと思っただけだ」
「はい。今日は偶々早く目が覚めてしまったので。少し、張り切っちゃいました!」
「張り切った……?」
拳を握ってみせる仕草が、街頭演説の政治家に見えた。
近づくにつれ、油の匂いが濃くなる。
キッチンのトレーに、揚げたての唐揚げと天ぷらがずらりと並んでいた。黄金色の衣が、光を弾いてつやついている。
朝から、これを。
「…………いつも作ってもらってばっかでわるんっ──!?」
「ふふっ、いけませんよぅ? それは言わないお約束です」
人差し指が、唇に押し当てられていた。
顔が近い。呼吸の距離だ。心臓が跳ねる。
「龍生さんから美味しいってお言葉を頂けるだけで、私にとっては十分なんですから♡ あまり気にしないで下さいね?」
紫の瞳が、こちらの底まで見透かして笑っている。
(……くそ、またこのペースだ)
指が離れて、龍生はようやく小さく頷いた。
「…………なんというか、凄い世話焼きなのな」
「私は尽くしたい人に尽くしてるだけですから♪」
「ど、どういう意味で言ってんだよ」
「ふふっ……どういう意味だと思いますか?」
悪戯っぽく上目遣いで見つめられる。
夢の中でさえ魅了されるような、どこか妖艶な瞳。
顔が熱くなるのを感じ、龍生は慌てて視線を逸らした。
「知らん」
「あら、その割には……お顔が真っ赤ですよぅ?」
「う、うるさい!」
「龍生さんは本当に純情ですね〜。可愛らしいお方。うふふっ♡」
耐えきれず、龍生は無言で洗い物に取りかかった。
「ありがとうございます。助かっちゃいました」
「バカ言うな。いつも美味いもん作ってもらってんだ。これくらいはさせてくれ」
シンクを片付け終えて、次を手伝おうとしたところで呼び止められる。
「龍生さん。洗い物のお礼というわけではないですけど、少し味見しますか? このあたりのお芋の天ぷらなら、それほど熱くないと思うので」
箸で摘まれたそれが、口元まで運ばれてきた。衣がつやを帯びて、油の香りがまっすぐ鼻に届く。
「……えっ?」
自分で取るならまだしも。
「はい、あ〜ん♡」
「自分で食えるって」
「まあまあ、そう仰らずに」
じっと見つめてくる目には、甘えの色が混ざっていた。
(……これは、試されてるのか)
断れば意識しているみたいだし、受ければ受けたで妙だ。
いや、そもそもただの味見である。意識するほうが負けだ。
「……あむ」
「ふふっ、素直でよろしいです♪」
噛んだ瞬間、衣がさくりと割れた。遅れて芋の甘さが、じわりと舌の上に広がっていく。
「う、美味い……っ! めちゃくちゃ美味いぞ!」
「それは良かったです!」
行儀が悪いとわかっていながら、二つ、三つと手が伸びる。
「ふふっ、相変わらず作り甲斐のある反応をしてくださいますね。なんだか私まで幸せになってしまいます♡」
「──っ」
龍生は箸を止めた。
普段の、含みだらけの笑い方ではなかった。ただ嬉しいという以外の成分が入っていない顔。
そういうものに、この男は弱い。
(……やめろよ、それ)
「べ、別に、美味いから普通の反応してるだけだって」
「でも、その美味しそうに食べるお顔が見たくて、また作りたくなってしまうんですもの。ホント……罪な殿方ですね♡」
「だから普通の反応だっての! ……どっちかっていうと、お前のほうが罪深いと思うんだけど」
朝からこの量の揚げ物を用意する時点で、献身の度が過ぎている。
照れくささを振り払うように踵を返して、龍生はテーブルへ目をやった。
「ん、何だこれ」
端に、水色のブレスレットのようなものが置かれている。無骨で、やたらとメカニカルだ。
「……随分ゴツいな」
手に取ると、見た目よりずっしり重い。金属の冷たさが指に移る。モモが着けているのを見たことはないし、あの細い腕には明らかに不釣り合いだった。
「なあモモ。これって──」
「龍生さんっ、それはダメです──っ!」
「うおっ──」
手が滑った。
指がスイッチを掠める。
装置が低く唸り、生き物のように腕へ絡みついた。
「な、なんだこ──」
閃光。
視界が白く飛ぶ。全身を押し包む圧に、身体が浮いた錯覚。
耳鳴り。鈍い振動。
やがて光が引いて、龍生はゆっくりと目を開けた。
サラサラの黒髪は、夜空の天の川の如く美しい輝きを放っていた。
銀河に揺蕩う一対の瞳は静かな華やかさと威厳を備え、宇宙に君臨する太陽と月の光に勝るとも劣らぬ荘厳さを醸し出している。
「美しい……」
魂を抜かれてしまったかのような呟きは、聞く者の耳に届く前に空気の中に霧散した。
視線を別の場所に移せば、そこは一転、力に溢れた躍動する四肢が描く、生命力の活動が見て取れた。
発展途上どころか、まさに発展の出発点である無垢なる姿は、無限の可能性を秘めているという点に於いて、この世のあらゆる芸術品をも凌駕する美しさの極みに達しているようだ。カモシカのようにしなやかで、それでいて百合の花のようにたおやかな足。 天使の翼のように軽やかで美しいのに、豹のように蠱惑的で鋭く閃く腕。 何よりも、めまぐるしい変化をこの世のどんな万華鏡よりも美しく、薔薇よりも華やかに、牡丹よりもたおやかに、桜のようにはかなげに映し出すその表情たるや、千の音楽と万の詩編を用いても、到底表すことなどできはしまい。
「うふふふふふ」
彼女がそのすべてに心奪われ、周囲が見えなくなったとて誰が責めることができようか。
「あ、あの……モモさん」
「うふふふ」
「モ、モモ、もうちょっと声落として……」
「えへへへへ」
心どころか、命までも囚われているのかもしれない。
「も、モモ、正気になれ!」
「ふえっ!? ど、どうかしましたか?」
ようやく我に返った。顔にはまだ、抜けきらない恍惚が残っている。
「な、なんかちょっと怖いぞ?」
「ご、ごめんなさい! ……うふっ♡」
「お、おい?」
「えへへへ、何ですかぁ?」
怯えた顔が、かえって燃料になったらしい。モモの表情に法悦が広がっていく。
龍生の足元から、悪寒が這い上がってきた。
「あ、あんまこっち見ないでもらっても……?」
「そんな怖がらないでくださいよぅ。じゃあ、龍生さんは……コチラにお座りくださいね♡」
「ちょっ、おいっ、子供扱いするなぁ!!」
モモは龍生の両脇に手を伸ばし、軽々と彼を持ち上げる。いわゆる高い高いのポーズである。
ジタバタとむちむちの腕で抵抗を試みるも、羽毛のように軽いこの体では難なくモモの膝の上にすっぽりと納まる形で座らされた。弾力のある女の柔らかさに嗅ぎ慣れそうにない彼女の香りがより強くなるが、龍生は別の角度に対して抗議した。
「流石に
「そう遠慮なさらずに……はい、あーん♡」
「くっ……」
小さく切られた卵焼きが差し出される。渋々はむりと咥えれば、じゅわりと出汁が滲んだ。うまい。悔しいくらいに。
「あぁ、美味しい……」
「やぁんもうかわいいいい♡」
「ごばっ!?」
ぎゅーっと後ろから抱きしめられ、危うく喉に卵焼きがつっかえそうになる龍生。問答無用とばかりに後頭部に盛り上がった乳房が押しつけられるが、そのマシュマロのような柔らかさを感じる余裕はなかった。
「はあぁぁっ、どうしましょう……もういっそのこと食べちゃおうかしら……っ!」
「ゴホゴホッ……殺す気か! ったく、早く食べないと学校遅刻するぞ!」
「うふふ、じゃあ、次はどれにしましょうか?」
「いや、だから自分の分食べないと遅刻するぞ?」
「私は朝の味見などでお腹いっぱいですので」
「だとしても別に1人で食べれるって……じゃあ魚」
「はーい♪」
次々龍生の要望に応えるよう、彼女は朝食のメニューを口元に運ぶ──餌付けが始まった。
龍生は天ぷらを咀嚼しながらこうなってしまった元凶である、腕に巻かれたブレスレットを見下ろす。
「余りにも迂闊だった……まさかこんな姿になるなんて……なあ、これ本当に戻るんだよな?」
あの閃光のあと、目線の高さが違うことに気づいた。身体を見下ろせば、二、三歳ほどまで縮んでいた。
何度も外そうとした。効力が切れない限り、外れないらしい。腕を引きちぎれば解除できるそうだが、そんな手段は選べないし、選ばせてもらえない。
「勿論元に戻りますから、ご安心ください。お姉様によれば、1日程度あれば戻るそうです。 それに……もし何かあっても私がお側にいますから♪」
黒髪を撫でながら、モモが言う。
「一日か……長すぎる……」
走ることも跳ねることもできる。ただ、食事も着替えも一人では覚束ない。丸一日、他人の手なしでは生きられないというのは、なかなかの無力感だった。
「って撫でるな! 子供扱いするなよ!」
「まあまあ、そう仰らずに……はい、龍生さん。お口を大きく開けてくださいねー。あーん♡」
「……あむ……なあ、お前、なんか楽しんでねえか?」
ぎくり、と肩が跳ねた。
「い、嫌ですよぅ、元に戻らないと困るに決まってるじゃないですかぁ」
「いや、お前が大体猫撫で声の時って誤魔化してるとき──んぐっ!?」
「さあさあ! 良い子にしてご飯食べちゃいましょうねー」
「も、もぐっ(こ、このっ)!」
抵抗は完封された。
歯磨きも――当然のように磨かれ――終えたあと、洗い物をするモモの背中に声をかける。
幼児化していようが、あれだけの朝食をもらった以上、何も手伝わないという選択肢はない。それが龍生なりの筋だった。
「何か手伝えることあるか?」
「うーん、そうですね。…………では、あちらの料理酒を冷蔵庫に閉まっていただけますか?」
「ん? わかった」
顎に指を当てて考える素振り。一瞬、口の端が妙な形に歪んだ気もしたが、龍生は瓶を抱えて歩き出した。
そして冷蔵庫の前で、任務の不可能性を悟る。
(……このっ! おらっ!)
扉を開け、いつもの棚を目指して跳ぶ。届かない。
冷蔵庫が無機質な警告音を鳴らしはじめた。普段あまり聞かない音だ。それが妙に癪で、龍生は何度も跳ねた。
届かない。
息が上がる。子供の肺活量というのは、これほどか。
(…………しょうがない、モモにたの「カシャッ」──えっ?)
シャッター音。
振り返れば、カメラを構えたモモがこちらを覗き込んでいた。レンズ越しに目が合った瞬間、肩がびくりと跳ねる。
龍生はすっと目を細めた。
「おい、その手に持ってる物はなんだ」
「え、えーっと、なんのことでしょう?」
今の彼の睨みなど迫力のない可愛らしい疑眼でしかないが、モモの目が物凄く泳いでいた。
「それで切り抜けられると思ってるのか!? ……さてはお前、わざとこんな難易度の高いもの押し付けたな?」
「い、いえっ、これはその…………是非可愛いお姿を宇宙に広めたくて!」
「お、お前な……考えて捻り出した結論がそれなのか…………取り敢えず早く手伝ってくれ」
「はーい♡」
宇宙に広めるとは、彼女は一体何をする気なのだろうか。
呆れながら渋々抱きかかえられる形でミッションをクリアしたところで、ふとモモに問いかける。
「そういえばそろそろ学校行く時間じゃないのか?」
「はい。そこでなんですけど、龍生さん」
「なんだ?」
「ちょっとだけリビングで待っててもらっても良いですか?」
「ん? いいけど何する──ってはやっ!」
龍生を地面に置くなり、猛スピードでリビングを去っていく彼女に驚くこと数分。
彼女はなぜか、丁寧に畳まれた幼児服を数着持って戻ってきた。終いには、新しい悪戯を思いついた子供のように目がキラキラ光っている気がした。
「さあ、龍生さんもお着換えして、一緒に学校にいきましょう♪」
「は? いやいや何言ってんの? こんな容姿で行けるわけないだろ? 第一な、幼児が高校の授業受けるってどう考えても頭おかし──」
「──えーと、資料集の14ページの上の図を見てください」
淡々とした教師の声が、無機質なラジオのように教室に響く。静かな午前、窓の外では陽光が鈍く揺れ、風に乗って微かに木々の葉擦れの音が届く。だが、それらの風景が持つ爽やかさとは裏腹に、教室の空気は重たく、どこまでも眠気を誘うものだった。
机の上に広げられた資料集に視線を落とす。白黒の図表が無造作に並び、どれもこれも既視感のあるデータばかり。まぶたがじんわりと重くなり、あくびを噛み殺すも、喉の奥に眠気がじわじわと絡みついて離れない。
「温室効果ガスの排出割合なんだが、まぁ、図の通り二酸化炭素がほとんどで……」
とりわけ産業革命以降、代表的な温室効果ガスである二酸化炭素やメタンのほかフロンガスなど人為的な活動により大気中の濃度が増加の傾向にあるという。
教師の言葉を聞きながら、意識の端で思う。聞いたことのある話だ。教科書にも、ニュースにも、至る所に転がっている情報。新鮮味など欠片もない。
──地球人であれば、確実に。
「それで地球はこんなに暑いのですねえ」
頭上から降ってきた、どこか感心したような声音。向こうの世界では、このような現象は存在しないのかもしれない。そんな思考がよぎると同時に、ふと現実に引き戻された。
「……なあ、モモ」
「はい、何でしょう?」
彼女の笑顔は、あまりにも自然体で、優しげな色を帯びていた。それが無性に腹立たしい──いや、正確には、自分のこの状況が、だ。
「なんで俺は……」
言葉を続けると、胸の奥で煮えたぎるものがあった。それは羞恥か、憤りか。
「お前の膝の上で、授業を受けてるんだろうな……?」
「うふふ。それはですね〜……」
「なんだよ」
「龍生さんが、こ・ど・もなんですもの……♡」
「こ、コイツめッ……!」
結局、龍生はモモ達の不要な気遣いの結果、前代未聞の「幼児が高校の授業を受ける」という事態にまで発展してしまった。
流石に門前払いを食らうと踏んでいた分、すんなりと受け入れられたことが意外だった。
ましてや、膝の上で授業を受けるという羞恥プレイがセットとは、頭痛のする思いだった。
「…………しかも、よりにもよって何でモモの膝の上なんだよ」
幼児とはいえ、中身は高校生男子。
膝の上に座るという行為そのものが、なんとも落ち着かない。
彼女のスカート越しに伝わる温もり、女の子特有の柔らかさ、そしてほんのり香るフローラルな匂い──。
……心臓に悪すぎる。
こんな環境で授業に集中しろと言う方が無理な話だった。
そして、彼女はそんな心情を知ってか知らずか、じっと微笑を浮かべながら、からかうように囁く。
「座り心地はいかがですか?」
「…………別に」
「ふふっ、なら良かったです」
「俺まだ何も言ってないんだが?」
「お顔に書いてあります」
「…………じゃあ聞くんじゃねえよ」
不貞腐れたようにそっぽを向く龍生に、モモはくすくすと楽しそうに笑った。その笑い声は鈴のように軽やかで、どこか心地よい響きを持っている。だが、龍生にとってはそんな余裕たっぷりの態度が、どうにも癇に障った。
こっちはこの状況に適応するだけでも必死なんだぞ。
思わず口を尖らせながら、彼女の膝の上に座るという異様な状況を再認識する。柔らかく、温かく、心地よい。彼女のスカートの布地が肌に触れるたびに、まるでふわふわのクッションに包まれているかのような安心感を覚える。
(……ダメだ、慣れたら終わりだ)
そう思いながらも、すでに抗う気力は失われつつあった。彼女の膝上という限定された世界は、あまりにも快適すぎる。
「何だか龍生さんが膝の上にいるなんて……とても新鮮ですね! 降って湧いた幸運とはこのことでしょうか」
「何が降って湧いた幸運だ。そう何度もあってたまるかよ。色々大変なんだぞこの身体は」
愚痴るようにぼやくが、モモは気にする様子もなく、むしろ頬を緩ませている。まるで龍生が苦労している姿すら楽しんでいるように見えてしまい、内心ますます不機嫌になる。
「うふふ♡ 必死になって歩いたり階段登ったりする姿は何とも見てて癖になると言うか天……はっ、いけないいけない。次はお絵かきでもしましょうか!」
「お前やっぱ楽しんでない?」
「へっ? い、嫌ですよぅ、勿論早く戻ってほしいに決まってるじゃないですかぁ。あ、絵本とかいかがですか?」
「なんでそんなもん学校に持ってきてんだよ!」
彼女の言動はどこまでも可愛らしく、無邪気を装っているが、龍生には見抜けてしまう。モモの口元がどこか愉快そうに歪んでいるのだ。
こんな状況でどう楽しめというのか。そう苛立ちを覚えつつも、次の瞬間、龍生は妙な違和感を覚えた。
教室の空気が、どこかざわついている。
視線を感じる。まるで無数の矢がこちらへ向けられているような、圧のある視線。
龍生が察したとき、すでに周囲ではヒソヒソとした声が飛び交っていた。
──あぁ、今日のモモ様はなんとも慈悲深いお顔で……
──ホントに天使のようだ。
どうやら鼻歌でも歌ってそうなほどに上機嫌なモモに理由があったらしい。彼女が何気なく笑っただけで、この騒ぎである。周囲の男たちはモモの姿をひたすら眺め、ただそれだけで幸せそうな顔をしている。
「モモ、もっと自重しろ。目立ってるぞ」
「へっ? 私ですか?」
「…………あのなぁ」
きょとんとした顔に、龍生はため息をついた。
幼くなった自分も、女子生徒からそれなりの視線を集めている。それは自覚がある。
だが本命は隣だ。この子が廊下を歩けば、すれ違う生徒が揃って足を止め、瞬きすら忘れる。
既視感のある光景だった。
彼女がこの学園に来た日も、そうだった。絵巻から抜け出した姫でも歩いているような扱いで、男という男の視線をさらっていった。告白したい者が列をなしていた時期もある。
いつのまにか、それはめっきり見なくなっていたが。
――今日は、また集まりそうな気配がある。
そこまで考えたとき、龍生の胸の底から、名前のつかないものが湧いてきた。
(……なんか、ムカつくな)
苛立ちなのか。不快感なのか。それとも。
正体を探ろうとした矢先、一時間目が終わり、事態のほうが先に動いた。
「──モモさん、今日のお昼って暇ですか?」
清潔感のある好青年──中田雅紀が、モモへと声をかけた。
テニス部のエースにして、校内でも人気のある男子生徒。
彼の登場とともに、周囲の空気がわずかに変わる。
「お昼ですか?」
「はい、も、もし良かったから一緒にどうですか?」
控えめながらも、期待に満ちた声。
それを皮切りに、周囲の男子たちが次々と口を開く。
「お、俺も!! 俺も一緒に良いですか?」
「俺も俺も!」
「つ、ついでに連絡先なんかも……」
「て、テメェ、抜けかけはずりぃぞ!!」
「俺にも連絡先を!」
「お、おいそれはVMCの規則を破ることになるぞ!」
「バカ言え! こんなチャンス滅多にないんだぞ!!」
(……やっぱムカつく)
同じ言葉が、また頭をよぎる。
ただし今度は、もう誤魔化しが利かなかった。これは苛立ちではない。もっと別の何かが、胸の底で渦を巻いている。
その葛藤をよそに、モモはふわりと微笑んだ
「ごめんなさい。私携帯持ってないんです。それに、今日はこの子とお弁当を食べる予定があるので」
(いや、お前携帯持ってるだろ……)
心の中で突っ込む。
それなのに――胸に溜まっていたものが、すうっと引いていった。
(……あれ?)
たったそれだけのことで。
この子が自分を選んだ。その事実が、思っていたより大きな重さを持っていたらしい。
だが、騒ぎは終わらなかった。
「ま、まあ良いじゃんたまにはさ! そこの子は……ほら、ナナちゃんにでも預けて」
「そうだよ、もしくはそんな子保健室に預けといてさ、俺たちと飯行こうぜ」
「い、いえ私はこの子と一緒に──」
「──絶対俺たちといた方が楽しいって!」
「そうそう! どうせあいつも居ないんだし! 今日くらい俺たちといようぜ!」
誘いというより、連行の気配になってきている。
どうやら普段は、龍生の存在そのものが防波堤になっていたらしい。他クラスの男が寄りつかなくなったのも、それが理由か。
その防波堤が、今日は膝の上で縮んでいる。
モモの返事は変わらない。むしろ表情に、隠しきれない煩わしさが滲みはじめていた。
平行線に焦れたのか、言葉の端に悪意が混ざる。
「そもそも、席が隣だからってアイツ調子乗り過ぎじゃね?」
「確かに。彼氏でもねえのに気取ってるもんな。噂じゃ女を引っ掻き回してるらしいぜ。この間も隣のクラスの笹川が餌食になったとか」
「モモさん、嫌だったら俺からアイツに言うからな?」
「そうそう! ストーカーされてるなら俺たちが守るから!」
「我々ファンクラブ一同、アイツの好きにはさせません!」
龍生の胸の奥が、すっと冷えた。
――事実は違う。
一度、校舎裏に呼び出されて告白された。好きではなかったので断った。彼女は泣きながら走り去った。それだけだ。
それが人の口に乗って、いつのまにか「女を引っ掻き回す男」になっていた。
(……無責任で、悪意に満ちた噂だな)
自分が悪く言われるのは、正直どうでもいい。昔からあることだし、慣れている。
だが、今回は違う。
この場でこの流れを止めなければ、火の粉はモモに飛ぶ。それだけは許容できなかった。
(……ナナ、どこだ)
こういう揉め事の仲裁には、あいつが一番いい。異性相手でも物怖じしないし、姉御肌で女子からの信頼も厚い。彼女の背後には、いつのまにか女子の列ができる。
この男どもにとって、いちばん敵に回したくない相手だ。
探すまでもなく、ナナはもうこちらへ歩いてきていた。
(……助かった)
が。
ナナの足が、途中で止まった。
顔から、みるみる血の気が引いていく。生まれたての子鹿みたいに膝が震えはじめた。
(……えっ?)
直後、背後から心臓を握られるような圧が来た。
「――言いたいことは、それだけですか?」
「へっ? も、モモ、さん?」
「も、モモ?」
さっきまでの柔らかさは、跡形もない。
これ以上は冷たくできないという限界の温度で、声が場を支配していた。
「先程から妙な戯言を並べていますけれど。私は私が好きで龍生さんと一緒にいるだけですので。あなた達にとやかく言われる筋合いはありませんが?」
「え、い、いや、お、俺たちはその…………」
「それに今日は、この子とお昼を食べると――そう、申し上げましたよね?」
「は、はい……っ」
教室が葬儀場の色を帯びていく。男どもの顔は、地球儀みたいに青い。
「お、オマエらっ、さ、流石にもうやめといた方が……モモも、な? コイツラも反省して──ひっ」
仲裁に入ろうとしたナナが、視線を一発浴びて縮こまった。
瞳が必死に訴えてくる。
(りゅ、リューセイがなんとかしてくれ!)
(ば、バカ言うな! どうやれってんだこの状況で!!)
姉の権威が弱すぎる。いや、権威の問題ではない。あれは動物的な本能で黙らされている。
くそ。どうする。
この身体で、この空気を、どう変える。
(──っ!?)
ふと、打ち上げ花火みたいに頭にアイデアが閃いた。ただ、同時に二度と払拭できないような羞恥を覚える。
──けど、やるしかない。
羞恥を虫けらのように押しつぶす。
身体を方向転換し、彼女に抱きつくような形で、甘えた声を絞り出した。
「ま、まぁまぁ〜。お、怒んないでぇ」
ああ。
死にたい。
何だこの羞恥プレイ。
静寂。
逃げ場のない、濃度の高い静寂。
これでもダメなのか。ここまでやったのに。
恐る恐る見上げる。
「か…………」
「か?」
「かわいいぃぃぃぃぃ──────っ♡」
「ふぎゃぁっ!?」
羞恥で潤んだ瞳が、意図せず庇護を求める子供のそれになっていた。
細い腕が、容赦なく締め上げてくる。
「はぁぁあんっ♡ どうしましょう、どうしましょうっ♡ なんて可愛い……はぁあ♡」
「も、モモおぢづげ、ぐるじいっ」
「はっ、ご、ごめんなさい!」
力がゆるむ。頬は桜色に染まりきっていた。
「と、とりあえず、ごめんなさい。えっと、お昼はこの子と食べる約束をしていますので」
「は、はいっ」
当てられた男どもは、揃ってトマトの色になり、蜘蛛の子を散らすように撤退していった。
――危機は脱した、らしい。
息をついた瞬間、背後からくすくす漏れる音が聞こえた。
「りゅ、リューセイオマエ……ま、ママって……っ! ぷっ、アハハハッ!」
「うふふ、龍生さんは甘えるのがお上手なんですよぅ。ねっ、龍生さん♡ もう可愛すぎて、身も心も捧げてしまいそうです♡」
「…………」
――ああ、やってしまった。
同い年に向かってママ呼び。抱きつき。甘えた声。
事情を知っているナナからすれば、一年は擦れるネタだろう。
龍生は遠い目をして、そっと瞼を閉じた。
龍生を一目見ようと、学年を問わず生徒が押し寄せていたらしい。
客寄せパンダだな、と呑気に構えていた当人は、その喧騒に気づくこともなく熟睡していた。
目を覚ましたのは、昼休みである。
(……ん? なんか、やたら眠い……)
小さなあくびがひとつ。
空き教室だ。窓から入る光が床に長い四角を作っている。
机ひとつ挟んだ向かいから、視線を感じた。
つり目の少女。ナナ。
普段のやんちゃさが引っ込んで、妙に柔らかい目つきをしている。
「……なんだ?」
「あ、ようやく起きたのか。随分ぐっすり寝てたぞ」
「…………なんか無性に眠いんだよなぁ」
「ふふっ、仕方ないですよぅ。そのお身体でしたら、私たち以上に睡眠が必要なはずですもの」
「そうか、だからねむ……ってだから頭撫でるな!」
いつのまにか、髪をすくわれていた。指が通るたび、くすぐったさが後頭部に広がる。
「ふふっ、可愛いですね♡」
「うぐっ……」
反論しようとして、龍生は言葉を飲んだ。
彼女の顔があまりにも満ち足りていたからだ。
数分後、ようやく満足したのか、手が離れる。
……少しだけ物足りない気がしたのは、気のせいということにした。
視線を感じて振り向くと、ナナがこちらをちらちら窺っている。妙にそわそわしていた。
「な、なんだよ」
「えっ? あ、いや、別に……なんでもない……」
ふいっとそっぽを向いて、また盗み見る。
(……なんだ、この視線)
首を傾げる龍生の頭上で、モモが意味深に笑った。
「あら。ナナも龍生さんに興味があるのかしら?」
「うえっ!? べ、別にそんな事ない…………というか、その……か、可愛いなって」
「ふふっ、そう。じゃあ龍生さん、少し移動しますね?」
「は? ちょ、おいまて! 俺に拒否権は!?」
抗議は無視され、「よいしょっ」と持ち上げられ、ナナと向き合う形で座り直させられた。
「…………なぜこの向き」
眉間に皺を寄せる龍生とは対照的に、ナナの顔がみるみる崩れていく。
「か、かわいい……!」
仔猫を愛でる手つきで、頭を撫でられた。
「…………頭撫でるな」
顔を赤くしてそっぽを向く。その仕草が追い打ちになったらしい。
「か、かわいいぃぃ♡ な、なあ、抱っこしていいか?」
「い、いや、だからだめに決まって──」
「──ええ、良いわよ」
「ホントかっ!?」
「──ちょ、だから俺の許可は!? おいこら、勝手に抱きつくな!」
抗議は虚しく、次の瞬間には腕の中だった。
「よしよし、いい子だぞ〜〜〜」
「こ、コノヤ……ち、近いっ」
ジタバタしてみるが、この腕の中は思いのほか居心地がいい。背中を叩くリズムが一定で、抗う気力を静かに削いでくる。
(くそっ、なんか悔しい……!)
動物好きの母性が発揮されているらしい。こうなると抵抗は無意味だ。
「龍生さんは本当に甘えん坊さんですね♡」
「…………うるさい」
――そのときだった。
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
視線。ただの好奇ではない。粘りつくような、怨嗟に近い温度の。
「ん? どうかしたのか?」
「…………いや、なんでもない」
振り返っても、もう気配は消えている。
気のせいか。
引っかかりを胸に残したまま――ぐぅぅぅ、と情けない音が腹から鳴った。
「じゃあ龍生さん。そろそろお昼にしましょうか」
待ってましたとばかりに、モモが弁当箱を広げる。
「えー、もう少しだけ良いじゃん」
「ナナ。愛でたい気持ちは痛いほどわかるけれど、ちゃんとお昼を食べて午睡しないと、龍生さんの成長に悪影響よ?」
「保育園の先生か! まてまて、この姿は今日一日だけだからな? 二人ともわかってる?」
「いっそ姉上に言って、ずっとこのままでいられるか聞いてみよっかなぁ」
「そうねぇ。でも私としては、ちょっと複雑ね」
「アホ言ってねぇで早く昼にするぞ。あと三十五分しかない」
回収され、膝の上に着地する。もはや何を言っても無駄だと悟った。
とにかく、飯だ。そう切り替えれば、今朝からの苦労も少しは報われる。
「今日のお弁当は、こちらになります」
「おお…………っておい、弁当箱おかしくねえか?」
表面に、昔好きだった特撮ヒーローが掠れた印刷で描かれている。子供用のフォークとスプーンまで添えてあった。
「お義母様が綺麗に保存してくださっていたそうで、今朝教えていただいたんです♪」
「か、可愛いなぁ〜」
(なんで俺の母親の連絡先を知ってるんだ……)
突っ込みは飲み込んで、蓋を開ける。
今朝の天ぷら、豚肉のアスパラ巻き、卵焼き、焼き魚。すべて小さく切り分けられ、隙間なく詰められていた。
「サイズ感といい突っ込みどころは山ほどあるけど。めちゃくちゃ美味そうだな」
「ふふっ、ありがとうございます」
「へぇ、相変わらずモモが作ってんのか」
「ええ」
「このフォーク使うの恥ずかしいんだけど。とりあえず頂きます」
「はい。召し上がれ♡ あ、龍生さん」
伸ばした手から、フォークが取り上げられた。
(……これはまさか)
「はい、あ〜ん♡」
案の定である。自分で食べる選択肢は、最初から存在しない。
観念して口を開けた。
――至福が来た。
ふんわりした食感。控えめな甘み。塩気は立てず、胃に何ひとつ負担をかけない。
この身体に合わせて味を調整したのだと、噛んだ瞬間にわかった。
「美味い! 相変わらず美味いな!」
「ふふっ、ありがとうございます!」
顔を上げた先で、モモが嬉しそうに笑う。
そのやりとりを見ていたナナまで、顔を崩していた。
「なぁ、次はアタシがあげても良いか?」
「ええ、いいわよ」
「やった!」
やや緊張気味に、芋の天ぷらが差し出される。
「あ、あーん」
「うん、美味い」
「そ、そっかそっか。良かった」
「なんでお前が安心してるんだよ」
交互に餌付けされる昼休みである。
話題は自然と、モモの料理へ流れていった。
「そういえば、五歳くらんときに、いきなり料理を習い始めたよな」
「ええ。お料理に興味が湧いたから」
「でも、余りにも急じゃなかったか? 確か王宮の料理人に何かの作り方を教わってからだったような……あの時はレシピがわからないやらで大騒ぎしてたっけ。あれ、でも──」
「──な、ナナ。恥ずかしいからやめて」
珍しく食い気味の制止だった。
頬がうっすら朱に染まっている。
(……意外と、モモのこと知らないんだよな)
龍生はそう思った。
なぜ姉やナナと暮らさず、この家に住むことを選んだのか。一ヶ月以上、同じ屋根の下にいるのに、そういう根っこの部分は何ひとつ聞けていない。
聞いてもはぐらかされるのがオチだ。それでも、気にはなる。
「こっちに来てからも美柑に教わってたみたいだし。何かきっかけあったのか」
「そうねぇ」
視線が、ふと落ちた。
見上げると、その目がこちらを覗き込んでいた。奥に何かを畳んでしまってある目だった。
「まぁ、元々興味あったのよ。いずれにしろ、覚えておいて損はないと思ったから」
曖昧な答えだった。
話したくないのか、説明しづらいだけなのか。判断はつかない。
龍生は、それ以上踏み込まなかった。
「損?」
「ええ。誰かのお嫁さんになった時に必要なスキルだもの。ね、龍生さん」
「…………ここで俺に同意を求めるな」
「で、でもそんなの、料理人に任せれば良くないか?」
王族なら一流の料理人が控えている。ナナの疑問はもっともだ。
「ええ。それでもいいと思うけど──自分の作った料理で、愛する旦那さんに美味しいって言ってもらう幸せは格別よ。ね、龍生さん♡」
「だ、だから俺に振るなっての!」
――龍生さんから美味しいって言葉を頂けるだけで、私には十分なんですから♡
今朝の台詞が、勝手に再生された。
顔が林檎になる。
「うーん、でもなぁ」
「あら。あなたもリトさんに作ってあげたら、きっと喜ぶわよ?」
「な、なんでここでリトが出てくるんだよ!」
「別に深い意味はないけど…………顔が少し赤いわよ?」
「べ、別に赤くなんかなってないし! 何であのケダモノで赤くならなくちゃいけないんだ!」
「そうかしら?」
「そうだって!」
姉妹の応酬をBGMに、龍生は弁当を平らげた。
食後には、いつものモモお手製のクッキー。
そんなときだった。
「あれー、こんなところにいたんだ!」
「ん? 姉上?」
「お姉様?」
ララだった。姉妹が同時に顔を上げる。
「おい、ララ。いきなり止まってどうし──あれ、モモ達、ここで昼食ってるのか?」
続いて現れたのはリト。
噂をすれば、である。龍生の胸の奥で、経験に裏打ちされた嫌な予感がむくむく膨らんだ。
「はい。お外は暑いですから。それに──」
モモが視線を落とす。膝の上にちょこんと座るものを見て、微笑む。
「あ、あー、そういうことか。確か龍生が小っちゃくなっちゃったんだっけ」
「そうそう。ごめんねー、私の発明品のせいで」
眉を下げるララに、龍生は首を横に振った。
「いえ。ララさんの発明品に触れたら最後だってのを失念してただけなんで、自業自得です」
「にしても、本当に子供なんだなぁ。二、三歳くらいか」
「ほんとだねー。あ、子供のお弁当箱だ! 可愛いー!」
「あ、ララ。走ると危ないぞ」
小走りに駆け寄ってくる。後ろから、諦め顔のリトがついてきた。
「龍生さんのお母様が大切に保存されていたのを、お借りしたんです」
「そっかぁ…………ふふっ、やっぱ近くで見るとホントに可愛いね」
前かがみになったララが、優しく目を細める。
龍生は反射的に視線を逸らした。この距離感は、中身が高校生には毒だ。
「…………そりゃどうも」
「子供ってこんなにぷにぷにしてるんだねぇ──あれぇ?」
ララが、唐突に首を傾げた。
「な、なんです?」
ぷにぷにと人の脂肪を弄んだかと思えば、少しアホっぽい声とともにきょとんと彼女は首を傾げた。
「ん──、この顔どっかで見たことあるような気がして」
記憶を探る目で、じっと覗き込まれる。
(何言ってるんだ?)
幼児化しただけなのだから、面影が残っているのは当然だ。
それなのに、その一言には妙な引っかかりがあった。
「あ、姉上。リューセイが幼児化した姿だから、見たことあるんじゃないか?」
「ん──、それはそうなんだけど…………そうなのかなぁ?」
「いや、俺に聞かれても」
数秒考え込んで、ララはぱっと手を叩いた。
「まあ、いっか! リトもリューセイと遊ぼう! 可愛いよー?」
自己完結したらしい。
気にはなったが、この人のことだ。突拍子もない何かを考えていたに違いない。龍生は思考を打ち切った。
(……なんだったんだ、さっきの間)
ため息をひとつ。
その呼びかけに応じて、リトが一歩前に出る。
「へぇ、どれどれ──うわっ!?」
しかし、次の瞬間だった。
リトの足元が突然空を切った。
どうやら踏み出した瞬間に、何かにつまずいたらしい。
まるで漫画のバナナの皮を踏んだかのように、彼はバランスを崩し、背後へと倒れ込んでいく。
だが、その瞬間──。
「んっ!?」
リトは咄嗟に、目の前にあったララの尻尾を掴んでしまった。
次の瞬間、ララの身体がビクリと大きく震えた。
まるで電流が走ったかのように、彼女は悶えるように身をよじり、甘い声を漏らす。
「あぁっ、ん、リトぉ~、そこは敏感なんだから尻尾はだめぇ~~……っ」
「ご、ごめんっ!」
リトは慌てて手を離したが、時すでに遅し。
ララの身体は力が抜けたように傾き、そのままリトの上へと覆いかぶさる形で倒れ込んだ。
そして──。
むにゅっ。
何とも言えない、柔らかい音が響いた。
龍生は思わず眉をひそめる。
(……嫌な予感がする)
その予感は、見事に的中した。
リトは地面に尻もちをついた状態で、ララの体重を真正面から受け止める形になっていた。
そして、彼の両手は──見事にララの胸の上に着地していた。
完全なるラッキースケベの完成である。
「んっ、リト、くすぐったいよぅ」
「ご、ごめん!」
顔を真っ赤にしたリトが、慌てて手を離そうとする。
だが、焦りすぎたのか、逆にララの服の布地を掴んでしまい、さらに胸を揉みしだくような形になってしまう。
ナナの顔が、一瞬で怒りに染まった。
「あ、姉上に何やってんだっ! このケダモノ──っ!!」
「ち、違う! 誤解だ────っ!!」
だが、ナナの拳が振り下ろされる前に、龍生はそっと立ち上がり、静かにモモに声をかけた。
「なんというか、相変わらずのラッキースケベだな。取り敢えず逃げよう。巻き込まれる」
「そうですね。でも、龍生さんも、朝方寝ぼけてる時は情熱的なんですから♡」
「うん? は? まて、それってどういう事?」
「ふふっ、ひ・み・つです♡」
「いやいや、凄い気になるんだけど!?」
「2人とも助けてくれぇーー!!」
「まてっ! このっ、ケダモノーーっ!!」
こうして騒がしいお昼は過ぎていった。
弁当を片付けながら、モモは次の授業を思い出した。
音楽。移動教室だ。
そこで、腕の中に目を落とす。
すやすやと寝息を立てている。小さな身体が、こちらの胸元に体重をすっかり預けきっていた。
長い睫毛。ふっくらした頬。呼吸に合わせて、唇がわずかに開いては閉じる。
(はぁぁっ、なんて可愛らしい……っ)
こぼれかけた恍惚のため息を、モモは自分の頬を軽く叩いて押し戻した。
(って、それどころじゃないわね)
このまま教室を移るとなると、この人をどうするかが問題になる。
起こすか。誰かに預けるか。
――寝顔を見てしまうと、起こすほうは選べない。
「なぁ、リュー生のやつどうするんだ?」
隣を歩くナナが、ちらりと視線を寄越す。声には、なんとかしてやりたいという色があった。
「そうねぇ」
腕の中の重みを抱き直す。
保健室という手も、今日は使えない。御門は昼過ぎから出払っている。
(いっそ授業を抜けて、ずっと面倒を見ていようかしら)
浮かんだ考えを、校則という二文字が押し戻した。
どうしたものか。廊下を歩きながら考えあぐねていると、背後から声がかかった。
「モモさん」
振り返る。
青いショートカットに、前髪をヘアピンで留めた少女。
「春菜さん?」
言ってから、ふと引っかかった。
この人は二年生だ。もうすぐ予鈴が鳴るこの時間に、わざわざ一年の階にいる理由はなんだろう。
「あれ、こんなところで何してんだ?」
ナナが首を傾げる。
「龍生くんのことで」
モモの中で、何かがわずかに揺れた。
(……龍生さんの、ことで)
「私が龍生くんを預かろうか?」
「――えっ」
息を呑んだ。
予想していない申し出だった。
けれどモモの意識を掴んだのは、言葉そのものより、彼女の瞳の奥にあるものだった。
――結城リトへ向けるときの色と、違う。
気のせいなのかもしれない。確かなものなのかもしれない。判断のつかないその一点が、胸の内側をざらつかせた。
理屈でいえば、預けるのが最善だ。
この人なら丁寧に見てくれる。それは疑いようがない。
でも。
「おーい、モモ。授業始まるぞ」
「え、ええ……そうね」
腕を離す。
さっきまでそこにあった、しなやかで温かい重さが、ふっと消えた。
その空白のぶんだけ、胸が締まる。
モモは歩き出しながら、一度だけ振り返った。