木枯らしの吹く夜、暗い部屋に一人の青年が机の前で胡坐をかいていた。スマホの明かりのみで照らされる上半身とそわそわと揺れる背中はよそから見てみれば幽鬼のように見えるだろう。それだけに留まらず、彼の口からは笑いをこらえる声が漏れていた。通報必至の光景である。
カタカタと戸が鳴り、ぴちゃりぴりゃりと台所から水滴の落ちる音がする。
そしてついに時計の針が3つすべて天を仰ぎ、カチッと音が鳴る。
「ハッピーバースデイ!俺!」
青年の行動は早かった。手元の2つのリモコンを奇妙な舞のように振り回しながらテレビの電源と部屋の明かりをつけ、そのままの流れでスマホを弄り陽気な音楽を流す。
その日は青年の20になる特別な日だった。
明らかとなった机の上には、唐揚げ、チーズ、おでん、焼き鳥、砂肝etc……。あらゆる肴と圧倒的存在感を放ち所狭しと並ぶ
「さっそく。いただきます」
カシュ、と小気味いい音が弾け彼は一思いに呷る。ぱちぱちとした喉の刺激と口に広がる苦みがたまらない。酒だけとなるわけがない。彼はもりもりと肴も平らげていく。
「あー、美味しい!ありがとう爺ちゃん!」
彼の健啖っぷりは祖父譲りだった。健啖家であり酒豪でもあった祖父に懐いていた彼がこうなるのは必然。それに百種もあろうかというこの酒(流石に誇張表現である)は祖父からの贈り物であったのだ。
ふとテレビを見るとどうやらアニメの一気放送のようだった。小説家になろう発の小説が原作のアニメ、『薬屋のひとりごと』である。
「薬屋のひとりごとか、ちょうどいいや見直そうっと」
彼はこのアニメを見ながら飲むことに決めたようだ。
* * *
夜も更け、6話に差し掛かったあたりだったが、彼は
出来上がっていた……
顔はゆでだこを通り越して青く、身体は震え凛々しかったはずの瞳は焦点が定まらない。にもかかわらず飲み食いする手は止まってなかった。アニメに見入っていた彼はほぼ無意識に吞み続けており、もう己では止まれなくなっていた。
「妃様たちきれぇだなぁ~、あぁ!このシーン!きたきたきた!」
薬屋のひとりごと第6話、「園遊会」。皇帝、皇太后、四夫人がそろい踏みでの催し物という華やかな回。そして薬屋のひとりごとの顔ともいえるシーンがあった。うら若き乙女たちがこぞって真似をし、後々頭を抱えるという伝説の
手元の茶碗に適当な透明の酒を注ぎ準備する。
我らが主人公猫猫が他所の宮の侍女との冷戦を勝ち取ったり、案外モテモテの猫猫が3本の簪を受け取って同僚に羨ましがられたり、ようやく始まった毒見でも嫌がらせの現場を目撃してしまったりと色々あったのだが。
ついにその時が来た。
猫猫が毒入り
『これ、毒です』
「kるe、ろくで…」
ここからの先の記憶は彼にはない。おおよそ急性アルコール中毒で倒れた後、己の吐瀉物での窒息だろう。一人暮らしの彼に助けなど来るはずもなく、この後の流れは察する通りだ。親不孝極まりないが、この死に方できっと彼はよかったのだ、誰だって死に絶えるその瞬間を記憶なんてしたくないだろう?なんせ彼は……
* * *
いやまさか転生なんてものを体験することになるとはね。
自分に残る最後の光景は男物の茶碗に酒を注ぐ景色。
「しかもあれ、スピリタスだよなぁ」
たまたま手を伸ばした先がそれだったとは、運がないし助かるわけがない。いや、何であっても御臨終だった気もするが。
それにしても我ながら最悪な死に方だ。親孝行なんてできてないし、むしろ特大の親不孝をかましてしまった。と、思い返すと気分が落ち込むが後悔するのはもうやめていた。この生を自覚してからの最初の1年間で散々してきたのだ。それに、今の自分には気づいてしまった事実を受け入れなければならず、そのための思考に支配されているのだから。
爺ちゃんごめん。俺の馬鹿のせいで自分を責めているのだろうか。
あぁは言ったが鬱々とした気分をスパッと切り替えられるわけもなく、牧草の生えた斜面で仰向けになり空を見る。
一面の曇天だった。曇天は好きだ、大きな空を見つめても眩しくない。
そうやって心地の良い風を肌で感じながら黄昏れていると視界の端に大きく手を振る人影が見えた。
「冷えてきたからそろそろ戻りなさい」
「はぁい」
女性の声に舌足らずな子供の声で答える。可愛らしい声の主は草原に任せていた体を持ち上げ、服と肩ほどにまで伸びた黒い髪についた葉屑を払い落とす。寝転がっていて凝った体を伸ばしながら家に帰るとそこには先ほどの声の女とそれに抱かれる3歳児ほどの男の子がいた。
「ねぇね!」
「ただいま、
「おかえり、
「ただいま、ママ」
* * *
女として2回目の生を授かったらしい。現代に女として生まれたならそこまで悩むことはなかっただろう。男と女で断崖絶壁ほど認識が違うことはあるまい。しかし、生まれた世界が世界だった。今いるところは
この世界はその実、男尊女卑の世である。女は嫁ぐものであり、家を守るものであり、子を増やすものである。原作の後宮という贅を凝らした場所などその極致である。天子を授かるための場所であり、そこの女性は家の趣向こそあれど本人の意思はほとんど無い。
後宮ほどはいかないが、商家の娘の己も未来に自由などないだろう。
ふと顔を横に向け高級品である大きな姿見に写った己を見る。
艶やかな黒髪に垂れた目尻と大きな赤い瞳。整った顔の
美しいものというのは価値がある。特に女なら。他所の商家に嫁ぎ橋渡しになるも大きな商談の手札になるも、より取り見取りだ。
椅子に座り、肘置きに身を任せながら物憂げな顔をしていると。
「いて!」
ぷにぷにとした手がにゅっと生えて髪を引っ張られる。その先には2歳になる弟、
「ねぇねー」
「あーもう、はいはい」
洋は俺の
目の前で跳ねる頭に手をのせ、その髪を愛でる。短く整えられているが、茶色で細い弟の髪は柔らかく気持ちがいい。
少し話が変わるがこの町は間に座す山脈によって人の交流がほぼないとはいえ、弟を見るように北の国との混血が進んでいた。
町の通りを見てみれば黒髪が少ないなんてことはないのだが、俺の今生の両親祖父母に黒髪が全くいない。早い話、似ていないのだ。ただ俺だけ。
まぁ養女と言われたこともないし、己の子として育ててもらっていて愛情も感じている。だからただの考え過ぎなのだろうけれど。
「?」
じっと見つめてくる姉が不思議なのだろう、こてんと頭を横に倒す。
「ふふ、おまえはかわいいねぇ。ほれ、うりうり」
弟のまっかな頬をもみくちゃにする。くすぐったいのか洋のきゃははという声が部屋に響く。
「もしかしたら。俺の相手はおまえなのかもねぇ」
いや無いか。
麗しい幼女は自問自答しつつ、今はこの幸せを嚙みしめていた。
お爺ちゃんほんまにごめんなさい。