雨の降る中泣き腫らした翌朝、意外なことに
──あのお方が、もし男に生まれたならば皇帝の右腕になっていただろう御人。
そう考える魅音の抱く感情は憧憬。
『こんなところから出たいか』……決して狙ったわけではなく偶然であるのだろうが、魅音本人ですら気づいていなかった金属でできた小箱に仕舞われた本心を一刺しで穿った、まっすぐな声と言葉に魅音は心動かされていた。
人としての格が違う、僅かに感じる敗北感と人の上に立つべき人物の
体を起こした魅音は寝台に腰掛けるように両足を放り出す。早朝特有の肌寒さはない、少し寝すぎたようだ。
「お目覚めになられましたか。目元の腫れは……ありませんね」
この時間になっても魅音が起きるまで待機して声掛けもしなかったのは傷心の主を慮ったから。
だが侍女の二人とも心配すると同時に寝起きの主を見るや否や面食らったような表情を浮かべている。
てっきり落ち込んでしまっているだろうから慰めねばと考えていたのに、予想と反してどうしてこんなにも悩みのない軽やかな顔をしているのだろうか。
「今日は随分と天気がいいわね。歩きたい気分だから準備よろしくね」
魅音は少し頬を赤らめて言う。これは恥ずかしさから来る色づきではない、高揚を隠しきれていないのだ。
侍女たちは明らかにおかしい、だが狂っているようには見えない主に混乱しているが命令されたとおりに魅音の髪に櫛を通し、濡れた手巾で顔を拭き、着替えを用意するなど忙しく動き始める。
そんな彼女たちをぶんぶんと振り回す当の本人はというと。
(阿多さま感謝いたします)
魅音は阿多妃の信奉者と成り果てていた。
* * *
昨日降った雨がそうさせるのかむせ返る暑さに雲一つない快晴。
残暑の頃だというのに照りつける日差しが今日は一層強い、今年一番といってもよかった。
静に傘を差してもらいながら魅音は今日も歩く。
すっかり土は乾いているが雨を受けた花木は緑の葉を艶やかに煌めかせている。足元を見てみれば逞しく咲く蒲公英が視界に入った。魅音はしゃがみ込むとその黄色い花弁を人差し指でつつく、すると逞しい脚力が特徴的な小さな虫が飛び立つ。
見えないところに隠れていたようだ、驚かせてしまって悪かったと思いながら両膝に手を当てて立ち上がる。
この辺りは人の往来が激しく蒲公英のような生命力あふれる植物しか生えていない。
目を楽しませるには物足りないのでまた歩くことにする。
(池の鯉でも見に行こうか)
ただでさえ暑い季節なのにこの日照りでは魚たちは身を隠していそうではあるが、同時に他の妃たちも少ないはずだ。急激な天候の変化で蝶よ花よと育てられた気位の高いお嬢様たちは今頃寝込んでいる。
そういう訳で普段受けるチクチクとした視線が少ない今日は魅音にとって最高の散歩日和である。
目論見通り小池の周りに人の姿はなかった。人気な場所であり、なかなか近寄ることができなかったので魅音は非常に楽しみにしていた。
ただ目論見通りということは予想も当たっているわけで魚の姿はなかった。水面に浮かぶ蓮の葉の裏に隠れているかもしれない。餌でも放り込めば顔を出してくれるのだろうが思い付きでここに来たのでそんなものは持ち合わせていない。なんなら雨の影響か水が濁っていてあまり綺麗ともいえない。
「そろそろ帰りましょうか」
見たかったものが見れなかったのは残念だが仕方がない。強い日光で色鮮やかな世界を独占できただけで良しとしよう。
それにこの暑さではそう長時間外に出ているのは得策とは言えない。魅音自身は体力がある上に傘を差してもらっているので余裕があるが、その影を作っている静はずっと腕を使ったままだ。
主に気を遣わせないのが従者としての矜持ではあるだろうが、従者を潰す主というのも支配者として失格だろう。
静に声をかけた魅音は帰り道の方向へと体を回すのだが、その足は一歩も進まなかった。
「……」
「どうかなさいましたか?」
魅音は彼女たちの少し前を歩く女官をじっと見つめていた。
その女官は随分と小柄で、その体躯では大変であろう重そうな荷物を抱えている。普段なら頑張れ、と心の中で応援するだけなのだが、どうも様子がおかしかった。
足元はおぼつかず左右に揺れ、肩が上下している。そして袖や髪のへばりつく首筋から覗く肌は真っ赤であった。
静は魅音が壁になって見えていないらしい。
「魅音さま!?」
魅音は裳をたくし上げると突然走り出した。静は主の突拍子もない行動と、脚をあらわにするはしたない姿に非難の声を上げる。
とうとうその女官がふらりと後ろに倒れそうになるが、間一髪間に合った魅音が汗で服が汚れる事も厭わずに全身で受け止め、そのまま横抱きにして持ち上げた。触れたことでわかったその体温から熱中症だと断定する。
そこで静も状況に気が付いたようだ。駆け足で魅音に寄るとその手に持つ傘でさっと影を作る。
「私がお運びいたします」
「このままでいい、少しでも時間が惜しい」
受け取ろうとする静を固い口調で断り、近くの木陰まで移動して下ろした。本当は軒下が良かったのだが日の角度が悪く影になっていなかった。
「傘とその腰の瓢箪を頂戴。あと、一度戻って水と塩を。若汐も呼んできなさい」
魅音はぐったりとした女官の服を緩めながら有無を言わせぬ剣幕で静に命令する。
静は魅音さまを一人にするなんて、という顔をするが周囲を見渡して他に頼める者がいないことを理解すると歯ぎしりをしながら走っていった。この暑さだ、好んで外に出るものは少ない上にここまで人の通りがないとは運がなかった。
魅音は懐から手巾を三枚取り出すと、受け取った瓢箪の中身である茶を振りかけて濡らし、女官の首と両脇にあてる。
「お母さん……?」
荒い呼吸をする女官の目がうっすらと開けられる、朦朧とする意識の中どうも魅音は母親に見えているらしい。
(うーん、お母さんかぁ)
少し奇妙な感覚が残るが言われて悪い気もしない。
「もう大丈夫だからね」
優しく穏やかな声と表情で魅音は甲斐甲斐しく介抱した。
*
静と若汐が到着する頃には眠ってしまったのか意識はないものの大分安定していた。軽度なものでよかった、水分と塩分を取らせてやればもう安心だろう。
人手が足りるなら木陰にいる理由もない、若汐に背負わせて医局に向かう。
ところでこの女官とほぼ同じ背丈なのに苦も無く担ぎ上げる若汐の膂力は一体どこから……。全く関係ないことを考えられるくらい魅音も張りつめていた気を抜いていた。
* * *
「魅音さまって時々十五歳とは思えない母性を見せますよねー」
夕日に照らされながら医局から自室への帰路の最中、若汐にそういわれる。
母性を見せるというのは先ほどの医局での事だろう。ちょび髭が特徴の小太りなお医者様に寝台を借りてそこに病人の女官を寝かせ、意識が戻るまで椅子に座って待っていたのだが、目を覚まして魅音の姿を捉えるなり平謝りし始めたのだ。それは体に障ると魅音が宥めて頭を撫でてやっていたらまたすぐに寝てしまった。余程疲れていたのだろう。
魅音としてはただ心配していただけのつもりなのだが、侍女たちにはまるで聖母のように見えていたらしい。
「弟がいたから年下には甘いのかもしれないわね」
「そうですか?年齢というよりもご自分よりも小さいものには見境ないように見えますが」
「静までそう思っていたの?」
「たまに若汐を甘やかしておりますよ、ご自覚在りませんでしたか?」
若汐って年下じゃないの?という驚きはさておき、魅音はある程度納得していた。
魅音の精神的な年齢は数字だけ見ればそこそこ高い。見るからに大人ではない相手には年上であろうとも保護欲が湧くのは当然ではある。一度保護対象と判定されてしまえば、元弟である
そして、彼女自身は十五の身体に引っ張られてお転婆だと分析していたが、ふとした時に彼だったころの意識が混ざり合い歳不相応な雰囲気を纏うらしかった。
「
「あ、あはは」
ちくりと若汐に刺される。魅音が頻繁に若汐を振り回すものだから、少し、ほんの僅か恨まれているのかもしれない。恐らくは苦言交じりなだけの冗談だろうが。
「あら?」
こうして女三人で帰り道を歩きながら戯れていたのだが、目の前に人の壁ができて通れなくなっていた。
「どうしてこんなにも女官が?仕方ありません迂回いたしましょうか」
すぐに通れないと判断した静に同意し来た道を戻ろうとした時、耳が割れるかと思うほどの黄色い歓声が上がった。
そんな異常事態は気になるものだ。魅音は様子を見るがその理由はすぐに理解した。男の体で女官たちとは頭一つ分背が高いのだからわかりやすい。
その女官の壁の中心はもし女に生まれていたなら傾国のと枕詞が付く天女の如き美貌の後宮の管理人、麗しの宦官壬氏だった。
原作でありとあらゆる語彙で讃えられたその美貌は実際に見るとそれをはるかに凌駕するものだった。
もしその
(それにしてもすごいなぁ。今まだ数え十七歳だろう?これだけの
貴き血筋としての教育と、何より壬氏本人の努力と覚悟の賜物だろう。
「さ、帰るわよ」
このままでは日が暮れてしまうので、魅音は壬氏から目を離せずにいた静と若汐に声をかけて今度こそ別の道を行く。今後、彼女たちに耐性がついてくれればいいのだが。
自慢の侍女たちを魅了してしまうなんて、げに恐ろしき壬氏様の美貌だ。
* * *
後宮での生活も一月すれば段々と慣れてくる。
慣れるということは余裕も生まれてくるわけで、閉鎖的な空間だとしても楽しみを見出すことができるものだ。
では、その魅音の楽しみというと、そこそこの頻度で行われる
日課である散歩は続いており、毎度のように例の北の人気のない
何度も会うのなら下級妃である魅音が身を引いて場所を譲るべきなのだろうが、阿多妃が腹芸無く楽しみにしてくれるものだから最近は今日も会えるのだろうかと期待してしまう。
そして今日も阿多妃との非公式な茶会が開かれていた。
「それでそいつは勉強が嫌になるとよく抜け出してなぁ」
まぁ!とバレないように愛想笑いをする魅音だったが胃が痛くて痛くて仕方がなかった。
普段話題を提供するのは魅音であった。阿多妃の好む全国津々浦々の話の種はなかなか尽きることは無い。さて今日は何を話そうかと準備していくのだが、このように時々阿多妃も何か語りたい気分の時もあるのだ。大抵は後宮での身の振り方など実用的なことを教えてくれるのだが、今日は違った。
先ほどから『そいつ』と登場人物を誤魔化して昔話をしてくれるが、色々と知ってしまっている魅音としては心当たりが一つしかない。阿多妃が乳兄弟として共に育ったあの御方だろう。
そんな天上人の隠しておきたいことなど魅音如きが知っていいわけがない。ぼかして話す阿多妃に合わせて気づかないフリをするしかないのだが、一臣民として帝にとって思い出だろうその秘め事を知ってしまうことに抵抗を覚えずにはいられない。
(まるで阿多さまの愚痴みたいだ、最近主上と阿多さまが衝突する出来事でもあったのだろうか……)
どうにも阿多妃と魅音は馬が合うらしく、魅音の口が堅いのも相まってこうして気安く接してもらえる。
だが魅音にとって拷問にもなりえる内容のこの話は些か心を赦し過ぎではなかろうか。そりゃあ普通は主上の話だとは思いもしないだろうが……。
楽しそうに話す阿多妃の手前、きりきりと痛む腹を撫でることもできず笑顔を維持する。
もう少し続きそうなこの据わりが悪い時間は予想外の人物の訪れと共に終わった。
「ここにおられましたか、随分とお探しいたしましたよ阿多妃」
生け垣の陰から現れたのは美貌の後宮管理人、壬氏だった。
「これは壬氏殿ではないか。ご覧の通り茶会の最中だが、急を要する用事でも?」
「ええ、お話することがございまして……おっと、私は後宮の管理を任されております、壬氏と申します」
壬氏は阿多妃に何やら重要な話があって探していたようだが、それを伝える前に魅音の存在に気づく。
「はじめまして。先月入内して参りました、
自己紹介をすると壬氏は驚いたように片眉を上げた。
「
信じられないようで壬氏の視線が魅音の頭から足先まで一通り流れた。
誰も気づきはしなかったが、椅子に座っていても分かる魅音の
「魅音、まだ十五だったのか」
阿多妃も壬氏と同じように片眉を上げて驚く。そういえば散々過去を語っていたが、年齢には触れていなかったか。
(二人揃うとそっくりだなぁ)
今、壬氏と阿多妃は横に並ぶ形になっている。その顔立ちは無関係であるとは言い難いのだが、そんな荒唐無稽で無礼になることなど誰も指摘なんてできないだろう。
それにしても、驚いた時にする片眉を上げる仕草も遺伝なのだろうか。そんな訳はないのだが、今の二人共がそうしているので余計に血の繋がりを感じてしまう。
「紛れもなく十五ですよ」
元が捨て子であるため十五と断言できる素材はないが、拾われた時期と発育具合からほぼほぼ確定で十五ではある。元捨て子とは流石に言えないので黙っているが。
「いや、嘘を疑っているわけではないが……なぁ壬氏殿」
阿多妃に振られる壬氏も少し話しにくそうだ。少女らしくない発育と言葉にするのは憚られるようだ。
さて、どうも壬氏は内密な要件が阿多妃にあるらしい。魅音は空気を読んでその場を去ることにする。
「阿多さま、そろそろお時間ですのでお先に失礼いたします」
「ああ、またな」
なにの話か気になるところではあるが、弁えない魅音ではない。切り替えて帰路につく魅音は夕餉は何だろうかと呑気に考えていた。
* * *
次の日の昼、魅音の自室に思いもよらぬ客人が訪ねて来ていた。
「ごきげんよう、徐魅音妃」
「ごきげんよう……」
妙にご機嫌な壬氏とその従者で苦労性の
今の壬氏が張り付けている作られた笑顔というものにはいい思い出がない。大体あの
そんな様子の壬氏に魅音の勘がとんでもない事がこれから起きると警告する。
そしてその天女のような微笑みの、弧を描いて結ばれた唇が開かれた。
「
普通なら飛び跳ねて喜ぶところであるのだろうが、魅音は驚きのあまり頭が真っ白になっていた。
「心よりお待ちしております、とお伝え下さい」
どうにか言葉を絞り出す魅音であった。