お待たせいたしました。
着古した下女の衣服を纏う小柄で髪の長い女だ。
その女は後ろ手に戸を閉じると迷いなく歩き出し、気持ちの良い風を呼び込む窓も閉めた。
魅音は密室を作り出すその不審者に一瞥もくれず、書を読んで寛いでいる。
その理由は良く見知った女だからだ。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
若汐はフゥー、と息を吐きながら漆黒の
お得意の化粧でまだ別人のようだが、髪色が元の黒さに戻ると若汐だと何とか認識できる。
「困りますよぉ
「ごめんなさいね。でも若汐なら誰にもばれない。そうでしょう?」
「信用していただけるのは嬉しいですけれどこれっきりにしてください。もし明るみになったらどんな罰を受ける事か……」
「どうしても気になることがあったのよ。でもそうね、二度目は無い。約束するわ」
普段
「それで、水晶宮の様子は?」
若汐が化粧を落としたのを待って、魅音は読んでいた書に栞を挟んで閉じながら本題に移る。
魅音が水晶宮に潜り込んで
その後の反応を知るために若汐に張り込ませていた。
もう何日か掛かると思っていたが空いた時間が一日のみということは。
「どうも大量の化粧品を捨てたみたいですよ。侍女たちが水晶宮とゴミ捨て場を往復しているので見に行ってみれば捨てられている物の殆どが化粧品でした。あと気になったことと言えば揃って怯えた表情をしていたことでしょうか? 真っ青な顔でした」
「なるほどねぇ」
魅音の工作は効果的に働いたようだ。
正直なところ成功するかどうかは半々だろうと読んでいたので安堵した。
「他には?」
「といいますと?」
「捨てられたゴミは化粧品だけだった? 例えば紙類だとか」
もう一つ確かめねばならないことがあった。
「焼き場の方へ行った侍女も見ましたが手には何も持っていなかったような……?」
若汐は首をかしげる。
そういえばどうして?と考えていそうな顔だ。
魅音が聞いているのはどこにでも隠せる細い紙の帯のことで、若汐は木簡や紙束を想像しているのですれ違いが起きている。
魅音としては都合がいいので訂正しない。
侍女たちにも内緒の事なのだ。
(
てっきり後宮管理人殿にまで届いて騒ぎになると思っていたのだが、そのような話を聞かない。
内々に処理したということだろうか。
もし怪文書が大っぴらにされたら間違いなく、いの一番に疑われるのは魅音なので様々な言い分を用意していたが……不要になった分には良いか。
魅音は肘置きに身体を任せる。
重たい簪を引き抜き、結い上げられた黒髪を手でほぐす。
右手を後ろに回して背中に流れたすべてを前に持ってきて垂らした。
体勢のせいもあるのだが、あまりの長さから椅子からこぼれて絨毯の上に広がってしまった。
(多分、希望は繋いだ)
床に着いた髪には見向きもせず、胸元まで伸びる側頭部の髪を指先でくるくると遊ばせながら神妙な顔をする。
毒が排除されたのならば後は東宮の体力に期待するしかない。
しかし、東宮は三ヵ月と少しの乳飲み子。
その毒が既にか弱い命の喉元を掻っ切っていないことを祈るばかりだ。
間に合っていてくれ、と魅音は
魅音は目を閉じた。
もう魅音にできることなどない。
夕餉時まで軽く眠ることにした。
* * *
と、いうことがあったのが天麩羅に舌鼓をうった日の二週間ほど前。
今現在、魅音は好物の余韻に浸る余裕なく廊下を歩いていた。
ざわつく胸を押さえつけながら騒ぎのする方へと急ぐ。
「魅音さま!」
玄関まであと少しという所で
焦りと怯えを見せており、肩で息をして膝に手をついた。
伝令を頼まれたであろう小依は引きつる喉に鞭うって言葉を話そうとする。
「あの……! 外でッ」
魅音の棟は全力で走ったとて息絶え絶えになるほど広くはない。
呼吸がうまくいかないのは余程怖い思いをしたからだろう。
二、三度背中を撫でてやる。薄い体だ、でも多少女性らしくなってきている。
貧しい生まれの小依は、幼い頃から栄養に恵まれなかったのか小さな体と細い四肢が目立つ。
同年代の魅音は不憫に思い、特別に目をかけていたが、肉のつきにくい体質のようで心配していた。
最近肥え始めたので安心する。
「落ち着きなさい。大体状況はわかっているわ」
宥めてやったことで息の整ってきた小依だが、申し訳ないことに休ませるわけにはいかない。
魅音の後ろに控えるという仕事が残っている。
魅音は玄関の方へ顔を向けた。
ここまでくると外の様子が聞こえてくる。
『──と言えど約束の無い訪問は困ります。お帰りください』
これは若汐の声。
『いいからあの女を出せ! 居るんだろう!』
これは
その怒気は凄まじく、小依が怯えるのも頷けた。
(私が出ないわけには……いかないんだよなぁ)
押しかけ客をもてなす決まりなんてものは無い。侍女たちが追い返すのが普通だ。
しかし相手が上級妃で、怒り狂っていると来れば話が変わってくる。
対応する侍女が理不尽な折檻を受けたとしても泣き寝入りになるのはこちらなのだ。
だから魅音は己が矢面に立つことを選ぶ。侍女たちを守るために。
侍女たちの想いとは反するが、そこは強権を振るう。
(にしても嫌な予感は当たっていそうだな)
本来の梨花妃は気位は高いが高潔な人間だ。
こんな愚かな行為は妃としての
癇癪を起して玉葉妃をぶったのだって毒に精神を蝕まれていただとか、産後で不安定だったとか、吾子を守るための本能だとか。
自分で
その日から二週間ほど。毒が取り除かれたとしてもそれだけの時間で体調が好転はしないだろうが、扉の先にいるその人の気配はまるで……。
本当はこの目で見たくない。
事実を確認したくない。
滅入る気持ちを押し込めて魅音は
* * *
玄関の戸を跨げば太陽の光が燦々と降り注ぐ。石畳に反射して眩しい。
痛いほどの光量で目を少し細める。
すかさず日傘が差された。
魅音は目の前に広がる光景を見渡す。
まずは水晶宮の侍女が三人。
主人に同調して罵らずにあたふたとしている。
次に若汐の後ろ姿。
小柄も小柄な彼女だが肝は魅音の侍女一据わっている。怖気付いていない堂々とした佇まいだ。
そして若汐を詰めている問題の妃。
凛とした美貌と落ち着きのある雰囲気。皇族、華家の傍流の名家出身なだけあって魅音には無い気品に満ち溢れている。
それでいて傲慢ではないその立派な人格から侍女らの忠誠心は強い。今の水晶宮が纏まっていられるのは梨花妃だからだ。
あと、でかい。少し前に元気な姿を見かけたのだが、目が惹かれた。自分の物で見慣れているはずなのにそれでも目が行くのは人類に対して等しく魔性なのだと思った。
(虫の知らせは的中……と)
そうであってほしくなかった。
二週間前の時点で梨花妃の美貌は毒の影響で陰りを見せていたが、魅音の目の前にいる梨花妃は輪を掛けて悪化してしまっているようだった。
急激に痩せ、髪も肌も荒れている。
足元も覚束ない。水晶宮からここまで歩いてきたのか?
目線をずらすと駕籠が目に入った。
そりゃそうだ。水晶宮からここまでは病人には遠すぎる。
──ふぅ。
改めて心の
余所行きの仮面を深く被る。
「ごきげんよう、梨花妃。私の侍女が何か粗相でもいたしましたか?」
逆撫でしないよう、にこやかに、柔らかく話しかける。
ここで漸く梨花妃は魅音に気が付いたらしい。
目と目が合う。稲妻を幻視させる激しさだ。
「お前お前お前えぇぇぇぇ!!」
「んぐッ」
対話を求めた魅音だが、それは叶わなかった。
梨花妃は魅音を目の前にして理性のタガが外れたようだった。
血走った目でこちらを捉えて、大股で近づいてくると大きく両手を振り上げ魅音の首を狙う。
急所を守るため、魅音は反射的に腕を前に出した。
両者の指と指が絡み、取っ組み合いの形になる。
(力が……強すぎる!)
改めて分かった指の病的な細さと、踏ん張りの利かないふらついた足腰であるのに健康でより重いはずの魅音(梨花妃は痩せているため今は魅音の方が重い)を力で圧倒してくる。
明らかに
手の骨がミシミシと悲鳴を上げている。
魅音は苦痛に顔をゆがませながら、至近距離で梨花妃の顔を見た。
精気の無い土気色の肌を隠すために厚く白粉が塗りたくられている。
しかし、例の特徴的な光沢もなければ、鉛白入り白粉の白さと伸びでもない。
高級品には違いないが、良く見る無害な白粉だった。
魅音は痛みに耐えながら口を開く。
「紙を、見たのではないのですか」
「紙? 意味の分からないことを! この呪い
一層力が強くなった。
梨花妃の爪が食い込み、赤い雫が滲む。
「やはりお前が呪いの源なのだろう! 吾子を元に戻せ!」
大粒の涙を流す、母親の慟哭に近い怒号を間近で浴びた。
その悲痛な思いに
(しまった)
取っ組み合う手が緩んでしまった。梨花妃の手が魅音の手を締め上げる。
魅音の脳裏に冷たい水が流れる感覚が走った。
魅音さま!と呆気に取られていた侍女たちの悲鳴が聞こえた。間に入ろうとする若汐も間に合いそうにない。
(このままでは砕けてしまう)
恐怖する魅音だが、その時はやってこなかった。
「ぁ」
突如として梨花妃の身体が崩れる。
魅音の方に倒れてくるので、それを受け止めてゆっくり、ゆっくりと膝を畳んで腰を下ろす。
「魅音さま!」
「梨花さま!」
正気に戻った侍女たちが駆け寄ってくる。
特に水晶宮の侍女は絶望に染まった顔だ。
人が突然倒れる光景というのはかなり
「安心なさい。気を失っているだけよ」
興奮しすぎたのだろう。唯でさえ弱った梨花妃の体は血も酸素も足りているはずがない。
大きな声を出して酸素を吐き出し、全身に力を入れて呼吸を疎かにしては当然こうなる。
魅音は誰にも見られないうちに梨花妃の目元を正すと、水晶宮の侍女と近くにいた宦官に指示を飛ばす。
「一刻も早く休ませるように。ほら駕籠に乗せて。人が集まってくるわ」
流石にこの状況では水晶宮の侍女たちも憎っくき魅音妃という態度は取れないようで、大人しく魅音から梨花妃を受け取り、指示通りに動く。
やや危なっかしかったが梨花妃をすぐ傍に移動された駕籠に乗せる。
それを宦官が持ち上げると揺らさないように、しかし極力早く帰っていった。
見届けた魅音は未だにへたり込みながら、震える両手を見つめる。
(こ、怖かったあぁ……)
組み合いになったのは
荒れる心拍が中々落ち着いてくれない。
「魅音妃……これは……」
若汐と小依が血の滲む魅音の手の甲を濡れ手巾でふき取り、静が大きく上下する魅音の背をさすっていると蜂蜜のような声が上から聞こえた。
甘い天上の声だがいつもよりざらついて荒い。僅かに乱れた襟を見るに騒ぎを聞きつけて急いで駆けてきたのだろう。
手を怪我して座り込む魅音とそれを甲斐甲斐しく介抱する侍女たちだけだ。
「何があったかお聞かせ願えますか?」
「勿論。私もお話したいことがあります」
困ったような顔の壬氏を見上げながら魅音はそう言う。
魅音と壬氏の話し合いが決まった。
しかし、石畳に座る魅音とそれを上から見る壬氏という構図が変わらない。
この状況なら棟の主である魅音が先頭を歩いて、客人である壬氏を応接間まで導くという流れになるはずなのだが。
「魅音妃? お立ちにならないのですか?」
お召し物が汚れてしまいますよと気にする壬氏に、魅音は顔を両手で覆いながら答えた。
「恥ずかしながら、その。腰が砕けてしまって……」
魅音の足はプルプルと震えて力が入りそうにもなかった。
バツの悪そうな壬氏と静寂が憎い。
多少休んだ程度ではどうにもならず、結局侍女たちの肩を借りて引きずられるように部屋に戻った。
沢山の閲覧、お気に入り登録、評価、感想、ここすき、ありがとうございます。
亀更新になるかもしれませんがこれからもよろしくお願いします。