あれから一月経つが、
どちらかが避けているからというわけではなく、猫猫が忙しくしているのが理由だった。
水晶宮と尚食を行き来する猫猫を見かけたという話を聞いたのだ。
全てを知るわけではないものの、主上の勅命という既定路線なのは疑いようがない。
そもそも切れ者で疑い深い玉葉妃に中途採用されている時点で目立つなという方が無理な話なのだ。
そして、愉快なことをしでかす猫猫を玉葉妃が主上との会話で話題に挙げないわけがない。
本来他の女の話は避けるものだが、主上の好みは分かりやすいので猫猫に限っては問題ないのだろう。
行動力があって、薬の知識がある侍女。宦官手術が廃止されて
そうして水晶宮に行った猫猫は今一か月目。
水晶宮に小屋を作らせて騒がしくしていたことから、無事
ただ、一つ気になることがあった。
どうにも水晶宮で死者が出たらしい。
らしいと曖昧な言葉なのは確証が無いからだ。
物々しい雰囲気に包まれていると報告を受けたのだが、皆口が堅い。堅固な情報統制が敷かれているようだった。
しかし、後宮の女官というのは訓練を受けた兵士ではない。
揃って焦燥しきった顔をしていれば、相応の何かが起こったとは想像がつく。
「朕の前で考え事か?」
魅音の左手側からごつごつとした男の手が伸びて肩に垂れていた髪が掬われる。
同じ長椅子に座る主上がくつろいだ様子でこちらを見つめていた。
「申し訳ありません」
「よい、それよりも何を考えていたのだ」
「主上にお聞かせするようなことでは……」
「よいといっている」
主上もなかなか頑固だ。
主上を迎える立場である魅音が考え事をしていたのが悪いと言えばそうではあるのだが、こうなると引くことは無い。
「何も面白い話ではありません。水晶宮に何があったのか気になるのです。少し前から水晶宮は尋常ならざる様相を呈していますが、厳重に秘匿されていて探ってもわからず仕舞い。余程の事が起こったのだとは思うのですが……」
考えていたことを変に誤魔化さずそのまま伝える。
看破されてしまった以上逃れることなどできない。
くどいようだが、相手は一国の主。争う相手が居なかった約束された玉座だとしてもうつけにあらず。魑魅魍魎が跋扈する宮廷を生き抜く我らが天である。
予め話を逸らす準備をしていたならともかく、今回の様に隙を晒すと魅音のような小娘ではあっという間に飲み込まれてしまう。
魅音は後悔をしながら主上の顔色をうかがう。
美髯の偉丈夫の表情は先ほどのままだった。いや、微動だにもしなかったと言ったほうが正しい。
眉一つ動かさない主上に恐怖すら覚えた。
「梨花か。順調だと聞いている。それよりもだ、今日は面白いものを手にいれてだな」
いつからか、稀にこういうことがあるようになった。
疑問をことごとく有耶無耶にされる。
かといって突き放すわけでもなく、真綿で包むように全てから遠ざけられている気がするのだ。
それは過保護から来る、砂糖を吐くような甘い感情じゃない。
まるで絹の足枷に宝石の格子で監禁されるお姫様の気分だ。
ただ、そのような感覚を得るのは第六感が働いた刹那的な瞬間だけで確信には至らず、主上の意図も分からずにいた。
言い表せない奇妙な感触にもやもやとしていると、主上が懐から何かを取り出して机の上に置いた。
「面白いものとはこれの事ですか?」
それは二つの小袋だった。
光度の足りない、灯篭の優しく揺らめく赤い光で正しく判別できているか定かではないが、それぞれ黄色と紫よりの
丁度二つ、そしてその色の意味からある程度予想はつく。
その通りに黄色ではない方が魅音の前に置かれた。
勧められるがままに手に取ってその中身を確かめる。
ころころとした感触。宝石の類かと思えば違う。
「茶色……
「なんだ、知っておるのか」
今生では初めて見た。
原材料の
「その……媚薬ですよね?」
「つまらんなぁ、それも知っていたか」
可可阿は古くから興奮剤として扱われていたらしい、というのは前世の知識。
同時に魔法の薬ではないことも知っている。あくまで気分を高揚させる成分が多く含まれているだけ。
だけではあるのだが、
どういう反応が出るかは個人の体質によるところが大きい。
「こういう物にはあまり強くないのですが」
「既に試したがそれほど強力なものでもないぞ? それに実に美味だった。気にならないか?」
「そうなのですか?」
この世界のヒトは物の溢れていた現代ほど刺激物に対しての耐性がない。かくいう魅音もそうだ。
散々滋養強壮の効能がある物には痛い目に遭わされているが、主上がそこまでいうなら、と手を伸ばす。
実のところ気にはなっていたのだ。
あの
前世では不動の人気を誇った定番中の定番のお菓子。食べ比べてみたい気持ちはあった。
一粒取り出す。
親指ほどのちょうど一口で食べられるような大きさ。少々形が歪なのは中に何か入っているのだろうか。
「! 美味しい」
ふんだんに使われた砂糖の力のある甘さと
そして何より可可阿特有の苦味だ。それが
程よい苦さで食べやすく、
舌の上で転がしていると、溶けだした
途端に芳醇な香りが口の中を支配する。
これは酒精だろうか、少々きついが砂糖とは違う鼻で味わう甘さがある。
「悩みを聞いてくれるか」
舌鼓をうち、量を食べるべきじゃないと分かりつつももう一つ食べきった時、主上に話しかけられた。
「聞くことしかできませんが私でよければ」
気分が高揚して調子がいい。
座る位置を調整して主上の方へと身体を向ける。
「大人びていると思っていた朕の花がどうやらとんだお転婆らしくてな。じゃじゃ馬が過ぎると苦情が来ている」
ぴしりと笑顔にヒビが入る。
「耳を疑ったぞ」
どうして、とはならない。
ただ、それから一月が経っている。その間に何度も顔を合わせているにもかかわらず、なぜ今になって問うのか。
「え? 主上?」
主上がじりじりとにじり寄ってくる。
元々二人で座っていた長椅子だ、下がる幅なんて僅か。
いつの間にか
その勢いで後ろ向きに倒れてしまい、柔らかい
起き上がろうとするが顔の横に主上の手が落ちてきて退路を断たれた。
「下女の真似事をし始めたのは入内後すぐだったか。楽しかったか?」
にやついた笑みを浮かべ、仰向けになる魅音を上から覗き込みながらそう言う主上に絶句する。喉が引き攣り渇くのを感じた。
「いつから……いえ、誰が……」
「秋には知っていたぞ。誰か、は少し考えてみるといい。一人しかいないはずだ」
何とか喉を振り絞って疑問を言葉にする。
(そんなに前から? 私の知っている人?)
あぁ、確かに一人しかいない。
答えを言ったも同然な主上の言葉に全ての違和感が解れる感触があった。
「
下女の中に帝の密偵がいる可能性もあるが、この主上の言い方では若汐しかいない。
魅音が一人で変装と脱走をした件とは別に、繰り返していた変装の共犯者なのだ。
だが、一つ腑に落ちない。
二人で真似事をしていたことは壬氏には話していないのだ。
となると主上が知ったのは若汐経由ということになるが……。
確かに若汐は寵妃の侍女なため顔を合わせる機会はある。普通の人間ではその尊顔を拝むことすらできないのだから一寸の可能性があると言えるが、それも同じ部屋にいるだけ。目を合わせることも言葉を交わすことも許されていない。
かといって若汐が主上とできているかというと絶対にないと断言できる。
一回でも関係を持とうものなら今までの関係でいられないのが後宮という場所であるし、主上も隠れて火遊びをするような方ではないからだ。やるなら堂々と召し上げているだろう。
だとすると最初から主上の私兵だったのだろうか。
それも違うだろう。
魅音が若汐を使って変装したのは入内して一週間だ。
主上の私兵ならば報告が秋と遅くなるはずもない。
「お前は思案顔が似合うなぁ。そう睨むな。可愛らしいだけだぞ」
「主上に向かってまさかそんな」
そんな顔をした覚えはない。
どんな苦言を言い渡されるのか、それだけで済めば幸運だなと覚悟を固めていたのに、揶揄ってくる主上に戸惑っているだけだ。
「若汐は何者なのですか」
「名持ちの一族は知っているか」
「それは勿論存じております」
名持ちの一族とは多大な貢献をして皇帝に一文字賜った家の事である。身近な例で言うと『卯』の
その成り立ちから揃って名家であり、宮廷における影響力の大きさから領主館で最初に一通り教えられた。
「その中でも特殊な立ち位置の一族がいてな。一つは『
『馬』は有名な家だ。常に皇族について回っていることからやっかみを受けることもあるとか。
魅音にいつか付くというのは語弊がある。正確には帝の血を引く子に付くのだ。もしくは皇后になったときか……。
「そしてもう一つ。皇族直属の諜報機関、『
「まさか、若汐は」
その『
それが本当ならばあの謎技術も魅音を切って主上に付いたのも説明がつく。
「だが、純粋な『巳』ではないらしい」
「はぁ……」
「『巳』としては落第者だからだそうだ。技術はあるが心を殺し切れない点が皇族に付けるには不十分と判を押されたらしい。根として過去に不祥事を起こした
便利な駒が手に入ったと主上はくつくつと笑っている。
「……そこまで話してもよかったのですか?」
故郷に監視がついている。そんなもの妃に過ぎない魅音に話すべきではない。機密も機密だろう。
若汐の裏切りに近い行為に心が痛むが『巳の一族』周りの事情と来ればどうしようもない。
やけに激しく脈打つ心臓を手で押さえながら主上の目を見た。
「構わん。お前に付けるつもりだしな」
「え?」
「『巳』であって『巳』ではない。朕に忠誠を誓わせたが、そいつにとって最も優先度が高いのはお前だ。まさしく落第者、だがそれが都合がいい」
ぐいっと主上の身体が迫る。大きな手が頬に添えられ、尊顔が近づいてくる。
「お前のためなら命を懸けられる奴だ。朕にも楯突くのだからな、人の盾にはなる。いいか? お前は何が何でも死んではならないのだろう? 故郷を大寒波から救いたいのなら今回のようなことは慎め。命がいくつあっても足りん」
酷く深く、非情な釘を打ち込まれた。
主上にとっては跡継ぎになりうる御子も、何時命を落としてもおかしくない赤子の内は民草の一つに過ぎないのだろうか。梨花妃の生家に介入することができないから静観を徹底していた可能性も無いことは無いが……。
一つの小さな命よりも、北峰州の数えきれない命に魅音の持ちうる全てを捧ぐべきという主上の言葉は究極に合理的で、寂しい。
「だがまぁ、快活で跳ねっかえりなお前には妃は窮屈なのだろう。若汐を必ず傍に置くことを条件にある程度は目を瞑るつもりだ。今日はそれを言いに来たのだが……おい、大丈夫か?」
主上がなにやらとんでもないことを言った気がするが魅音はそれどころではなかった。
先ほどから身体が熱くて仕方がない。
血行良く肌は色付き、全身が総毛立って布が擦れる度にくすぐったくて身を捩り脚を擦り合わせていた。
うるさい心臓が大量の熱を発し、それを吐き出すために桃色の唇からは
意識自体ははっきりとしていた。何かしらの重篤な症状が出るようなものではなさそうだ。
しかし、理性を穿つ勢いで本能が下から突き上げてきていて、今宵の理知的な対話はここまでだった。
助けを求めるように揺れる瞳で主上を見上げると、生唾を呑んで上下する喉仏が見えた。
「聞いた話と違うぞ。……これは酒の匂い? そうか、
魅音の呼気から察した主上は机の上にある色の違う二つの小袋をひと睨みすると、力の抜ける魅音の上半身を起こして水の入った杯を口元に運んで介抱する。
少ししたのち、その二人の影は部屋の奥、寝室へと消えていった。
* * *
その日の夜半。
美を体現した裸体を惜しみなく晒しながら深い眠りにつく魅音を尻目に、椅子に座る主上は先ほどの行為で脱いだ衣を小柄な侍女の手によって再び身に着けていた。
「言いたいことがあるなら言え。それとも朕に向かって啖呵を切った獣の姿は主には見せられぬか?」
後ろに立って主上の衣を整える小柄な侍女に向かって、主上は振り返ることなく言葉を投げかける。
その小柄な侍女とは『巳の一族』の落第者の若汐だった。
感情の一切表れない顔で主上の傍から離れると、横になる主に掛け布を被せた。
「魅音さまがあんな使命を背負っているとは知りませんでした」
若汐は今晩の閨番だった。隣の部屋で待機して記録を残していた。
そこまでは普段と変わらなかった。しかし、彼女の訓練を受けて優秀な耳はその話を拾ってしまう。
睦言かと思った小言はまさかの主の故郷の、若汐にとっても縁の深い北峰の危機と来た。
そしてまだまだ小娘な主の過酷な使命に胸を痛めていた。
「諜報はお前たちの得意分野だろう? 今の今までか?」
「私はなりそこないです。それに魅音さまは秘密を好むお方ですので」
若汐が北峰州にいたのは、
なにせ落第者の半端者だ。下手に動くことは許可されておらず、そもそも『巳』とも認められていないので、北峰州に看過できない異変が起きたときの連絡役に過ぎなかった。
結局その役目を放棄して魅音について都にいるのだから落第者の判を押した若汐の師匠は正しいと言える。
もし一寸でも愛国心が足りてなかったら処分されていてもおかしくない。逆に言えば修行中に殺されていないということは皇族を裏切ることは無いと最低限は認められていたということでもある。
「……どうしてあんな許可を与えられたのですか」
あんな、とは若汐と一緒ならば下女の真似事をしてもいいという主上の許しの事だ。
重々しく言う若汐に主上は厳しい目を向ける。魅音には見せることのない表情だった。
主上は丸まりながら寝息を立てる魅音を見ながら口を開いた。
「お前も気付いているのではないか? 魅音の異質さに。こやつの気付きは国力を飛躍的に上げる秘薬だ。だがどうも自覚が無い様でな……引き出すためには自由を与えねばならぬ。しかしその秘薬は同時に劇毒でもある。思想が中々危なくてなぁ、常に目が要る」
そこでお前だ、と言わんばかりに主上は若汐を見た。
心当たりのあることばかりで若汐は黙るしかなかった。
特に先日の千里鏡だ。紛失しないように常に魅音妃についていろという指令があった。
考案した本人は星が見たかったのなどと言っていたが、あれは戦を変えるものだ。
その価値に気づいた若汐が戦慄したのは言うまでもない。
北峰州に居たころから、どこか浮世離れした魅音の人格に惹かれていた若汐であったが、まさかここまでの御人だったとは思ってもいなかった。
「帝の御心のままに。魅音さまの守護はお任せください。ですが……」
「なんだ」
主上の言う魅音の価値云々以前から、命を賭して守るつもりであった若汐だが、改めてここで誓う。
しかし何か思うことがあるらしく、言いにくそうに語尾を濁していた。
「今後の事を考えると私一人というのは心許無いと思います。かといって現状では新しく雇い入れるということも難しく……」
「上級妃ならば、と言いたいわけか」
魅音を失えないというなら主上の息の掛かった人材と協力体制を組んで周辺を盤石にすべきである。
しかし、魅音の侍女は既に若汐を含めて五人。最近色々きな臭いことがあったことから後宮自体も警戒気味であり、中級妃の棟には不必要な人数の新規侍女を招き入れては少々角が立つ。
ならどうすればいいか、それは単純かつ不可能な話で位を上げてしまえばいい。
上級妃となり宮に移動することになれば自然に護衛を紛れ込ませることができる。
広い住まいは守護に向いていないが、頭数が足りないよりはマシである。
言葉を交わしているだけでも首が飛びかねないのに、主上に対してまさかそんな提案をできるわけもなく語尾を濁していた。
「駄目だ、目立ちすぎる。上級妃は高官らの面前に出ねばならぬ。既に勘のいい奴が探りを入れてきている。興味本位だろうだがな。なんにせよ時期が悪い」
そう言うと主上は立ち上がった。
話は終わりだと言うように扉の方へと身体を向ける。
「しばらくお前しかおらん。命を張って護れよ」
「我が身に代えても」
若汐が拱手をして深く頭を下げる。
──うぅん
不機嫌そうな魅音の声が聞こえた。
重々しい空気を感じ取ったのか、寝苦しそうに掛け布を抱き込みながら身じろいで覚醒の気配を見せている。
それを見て主上は慌ててその場を後にし、若汐は近くに寄って甲斐甲斐しく世話をした。
媚薬はふぁんたじー