都行きが確定してから商人としての仕事が減っていき、引継ぎを済ませるのみとなった彼女は時間を持て余していたのだ。
暇つぶしとして嗜むのは刺繍。昔の淑女教育で齧ったのを思い出して再び触ってみたのだがこれが案外楽しい。
それに集中することによって悩み事をその時だけ忘れることができた。今では一日の殆どを針仕事をして過ごしている。
美玲の両肩に万の命を強制的に乗せられたあの日からもう一月も経つ。
それだけの時が経っても美玲は決断できないでいた。
彼女は断る気でいた。今まで生きてきた目的と努力はそう易々と捨てられるものではない。
だが断りの手紙を書こうとするたびに脳裏にチラつくのだ。
凍り付く屍の山。己が生きるために他人から尊厳を奪う人の醜い一面。暴徒と化した民が流れ込み暴虐の限りを尽くされもぬけの殻となる
恐怖にゆがみながら事切れる家族の顔。
筆を持つと手が震え、吐き気を催し食べたものをすべて戻してしまう。
手紙を最後まで書ききることは一度もできず、そんなことを繰り返すうちに筆すら持てなくなってしまった。
人の命を握るとはこんなにも重いことだったのか。なら今までたった一人で背負い続けていたあの胡散臭い男はどうしてニヤニヤとした笑顔を貼り付けることができるのだろうか。
(癪だけどあの男のことを認めないといけないな)
直接言葉でいうことは絶対にないが。
「はぁ」
刺繍中にもかかわらずつい考え込んでしまった。深いため息が出る。
(とうとう逃げ場がなくなってしまったな)
細々と作業しているときにすら思考してしまうのならば起きている時間すべてで忘れることはできないだろう。
そろそろ意思を固めなければならないということだろうか。
不調を訴える身体は心の限界を教える
「ねえさまー!」
鬱々として部屋まで暗くなったのかと思える顔をした美玲の耳に、変声前の男の子の明るく可愛らしい声が届く。
美玲の四つ下で九つになる弟、
そしてそのままの勢いで椅子に座る美玲の胸元に抱き着く。
「こら、洋。針を持っているのに危ないでしょう?」
「えへへ、ごめんなさい」
悪びれる様子もなくはにかむ弟の頭を撫でてやる。
外国の血が強く出た洋の茶色い髪は細く柔らかい。
触り心地が良いので頻繁に撫でていたらすっかり甘えたのお姉ちゃんっ子になってしまった。元々遅生まれで体が小さいのだが、それ以上に幼く見えるのは私が甘やかしたからだろうか。
「ねえさまこれ見てください!先生に褒められました!」
「うん?」
そういって見せてきたのは一枚の書き損じ紙。その裏面にはびっしりと書かれた多数の計算の跡と大きな「優」の印があった。
まだ遊びたい盛りだろうにこの詰め込み様だ。ついていくために日々頑張っているのだろう。
周商会の跡継ぎだからと厳しい教育を受けているにもかかわらず、洋はこのように太陽みたいな笑顔を繰り出せる。
(私の弟は大物だな)
将来はきっと良い商人になるだろう、その笑顔で沢山の人を絆して……背中から刺されるような男にならなければいいが。
「よくできました」
「うわ!」
美玲は両腕を洋の背に回して抱き込む。そのまま力を籠めるのだが鼻が埋まって息苦しいらしく、すぐに腕をはたかれたので解放してやる。
洋は酸欠で真っ赤になった顔で笑いながら話す。
「僕は父さまやねえさまのような立派な商人になるのです。まだまだ学び足りません!」
そうだ、この子は将来商会を率いていく。北峰州に骨も埋めるだろう。
そんな時に大寒波が来てしまったら。
美玲は再び、しかし今度は優しく弟の肩に顔をうずめるように抱きしめる。
姉の流す涙の
* * *
夜、星の光だけが差し込む自室で美玲は寝台に身を任せて考え事をしていた。
後宮の妃となってしまえば猫猫と壬氏に関わる機会はぐっと減るだろう。二人の行動の中心は外廷であるし、関係性が大きく変化する
だから官女として身を立て、壬氏に仕え側に控えようと計画していたのだ。
血のにじむような努力ができたのだってその夢があったから。
その夢は美玲のすべてで。
だから。
「なんだ、決めてさえしてしまえば悪夢は見なくて済むのか」
そういうと美玲は掛布団にくるまり横向きになる。まるで赤子のような姿勢だ。
「おかしいな、何よりも大事な夢が潰えたのに一滴も涙が出ない」
「家族を見捨てるなんてできるわけないじゃないか……」
この日美玲は全てを諦めた。
* * *
昨日、父が帰ってきた。
美玲が領主に呼ばれたことも耳に入っているだろう。
領主が別れ際に言った言葉を思い出す。
『いいかい美玲君。私が待てるのは
今日は美玲にとって決戦の日だった。
身を整えて待つ。
──コンコン
戸が叩かれる。
ほら来た、父の呼び出しだ。
* * *
美玲を見て困惑する父の補佐官に案内されて廊下を歩く。
すれ違う人々も彼女を見てざわついた。
「着きました」
目の前には執務室の扉。慣れ親しんだ思い出深い場所だ。
案内してくれた男の手によって扉が開けられ、美玲は足を踏み込む。
「美玲!私が不在の間に領主様に呼ばれたとはどういうことだ!一体何をされ……その恰好はなんだ」
美玲の気配を感じて早口で捲し立てる父だったが、娘の姿を捉えると言葉が尻すぼむ。動揺と絶望の表情だ。
そんな雲嵐の目線の先には美しく着飾った美玲がいた。しかしいつもと様子が違った。
濡烏色の長髪を高く複雑に結い上げ、派手な化粧をしている。十三の娘だがとてもそのようには見えない。
極めつけはその衣だ。彼女が決して好んで着なかった胸元が少し開いた色気のある豪奢な装いであり、「女」を全面的に押し出していた。
「おかえりなさいませお父さま。私からお話があります。お疲れでしょうがお聞きいただけますか?」
彼女にしては低い声だ。ゆっくりと発音されることで
僅かに瞼を落とし決して父と目を合わせない。軽く俯き顔に陰影をつけることでまるで別人のように演出する。
「駄目だ、それ以上言うな。あの男に何を吹き込まれた!」
椅子を立ち、机に両手を叩きつけて雲嵐が吠える。
聡い父の事だ、不在の間に何があったのか、今から何を言われようとしているのか。正確に予想出来ているのだろう。
まるで美玲に話させないように間髪無く続ける。
「お前の夢は中央で女官として働くことだろう?何度も何度も語ってくれたじゃないか、その時の楽しそうな美玲を嘘だとは言わせないぞ。妃の仕事を否定する気はないがお前の夢とは似ても似つかないじゃないか」
「さあ、脅されていると言っておくれ。父が何としてでもお前を守ってやるから」
いつから父は私に執着していたのだろうか。周商会が徐家に逆らえるわけがないのにどうやって私を守るというのだ。
このままではあの男が言うようにどちらか、いや周商会が倒れるまで父は戦い続けてしまう。
美玲はそんなことは望まない。
歪んではいるものの、嘘偽りのない娘を心配する父親の言葉に揺さぶられ心の内を吐露したくなるがそれは許されない。
隠れて手の甲をつねると美玲は話す。
「これは私の意思ですよ」
「なっ……」
うろたえる父を畳みかけるように続けて言う。
「私は気づいてしまったのです。日々目まぐるしく状況が変わる中央で女官として忙しく働く、何て素晴らしいことでしょうか。しかし女である私はそこまでです。時代の渦に交わることはなく適当な男と婚姻し子を成し育て人生を終えるのでしょう」
美玲は胸元の谷間に左手を添えると上半身を屈める。
そして伏せていた瞼を開き狂気すら覚える妖しい笑顔を作り、人を射殺せるような眼力で父と目を合わす。
「そんなの我慢ならない。だから考えました、この国の女としての頂点に立ってやろうと。折角美貌と肢体と時勢に恵まれたのです、そう思うのは当然だと思いませんか?」
この場は完全に美玲が支配していた。
雲嵐は美玲の初めて見せる破滅的な野心が受け入れられず理解を拒んでしまうようで、パクパクと口を動かしている。
比喩ではなく蛇に睨まれた蛙だった。
「商家の娘として
これははったりだ。妃の位は美貌、知恵、実家の格、帝の寵愛を総合して決められる。
徐家は確かに領主であるのだが中央で失権して久しい、その上妨害を受ける可能性も捨てきれないので中級妃として入内できるかは確約されなかった。
そこまで聞いた雲嵐は力なく椅子に座りこむ。
膝の上に両手を置きこれでもかというほど項垂れ、顔が確認できない。
──終わった。
そう判断した美玲はこれ以上心から鮮血が零れ出ないようにするため踵を返す。
戸に手が届きそうなところでぽつりぽつりと呟く声が聞こえて自然と動きが止まってしまった。
声の方へ顔を向けると父が何か語り始めようとしていた。
「……私は昔からどこか欠けていた、損得勘定でしか物事を判断できず人ですら金か道具に見えて仕方がなかった」
「美玲、おまえは赤子の時に我が家の軒先に捨てられていたところを私が拾った子だ。赤子の頃からおまえは美しかった、これは道具になると打算で我が子として育て始めたのだ」
これは美玲も薄々感じていた。赤子の頃の女としての価値を見定められる周囲の視線、そして初めて父を見たときの冷めた目。
だがその後の愛情は確かなもので、悪い夢を見たのだろうと思いこむことにしていた。
父はどもりながら続ける。
「だが畜産と変わりないと思っていた子育ては楽しかった。あっという間に育ち、私の想像を超えてくる。絆されるのに時間はかからなかった。そうこうしているうちに
「おまえが出奔すると言い出したときは驚いた。中央に憧れ、ひたむきに努力する美玲はとても愛おしかった。美玲の幸せのためと思い、良い嫁ぎ先を探していた私には青天の霹靂で、何があっても美玲を、その夢を応援しようと思った。だから、その野望ですら応援したい」
「どうか一つだけ約束してほしい。決して殺されないでくれ」
そう言い終わると嗚咽を漏らし始める。美玲が初めて見た父の泣く姿だった。
美玲は失意の底にいる父に駆け寄りたかった、謝りたかった。
しかしこの
美玲は誰にも顔を見せずその場を去った。
* * *
商館の前に領主からの迎えの馬車が止まっている。
雲嵐の帰還から一日、約束通りだ。
見送りを断った美玲はその身一つで乗り込む。
先ほど厠で胃をひっくり返したからか真っ青な顔だ。その疲れからか同乗者に気づいていなかった。
「乗ってくれたということは、ありがとうと言わないといけないね。あぁこちらに顔を向けなくていいよ」
美玲の体が驚きで跳ねた。
まさか領主直々に迎えに来るだなんて、しかも気を遣われた。顔色だけでなく吐いたことで紅も不格好に落ちているのだろう、相当ひどい顔に違いない。
領主館へ向かい走り出した馬車だが沈黙に満ちていた。お互いに顔を合わせないよう小窓から外を見ている。
美玲は一月前、この男の養女になると決めてからずっと考えていたことがある。
意を決して沈黙を破り話す。
「領主さま、私に徐の養女としての名を授けてはいただけませんか」
「……いいのかい?」
「はい、名を呼ばれるたび昔を懐かしんで決意が揺らいでしまいそうなので」
過去との決別だ。これから美玲が歩むのは修羅の道、生半可な覚悟ではあっさりと天に召されてしまう。
一体何処から生み出されているのか分からない量の涙が流れ、服に染みを作る。
「いい名前を考えておくよ」
がたごとと美玲を揺らす馬車はどんどんと小さくなっていった。
──────────────────
雲嵐は娘の私室にいた。
主を失った部屋は私物がほとんど残されているにもかかわらずどこか寂しい。
ぐるりと部屋を一周すると片腕の長さほどの大きさの布でできた壁掛けが一際存在感を放っており目を奪われる。
雪をかぶった山々に清流、大中中小の四羽の仲睦まじい雁。内訳は茶色の体毛の三羽と黒い体毛に赤い瞳の一羽だ。そして所狭しと広がる勿忘草の花畑。それぞれすべて刺繍で描かれていた。
その壁掛けを眺めていると隅にこれまた刺繍で字が縫われていることに気づく。
『私の心はいつまでもここに』
ふふ、雲嵐から笑い声がこぼれた。
「美玲、やはりおまえは女帝のようには成れないよ」