アリウスの王 作:大嶽丸
──“Kyrie eleison.”
──“Christe eleison.”
──“Kyrie eleison.”
いつの日だったか。銃声鳴り止まぬ戦場にはあまりにも似つかわしくない美しい歌声に、酷く驚いたのを覚えている。
「この歌を覚えている人なんてもう居ないと思ってたのに……まさか貴方が知ってるなんてね。うん、その通り、これは主に慈悲を乞う、祈りの歌だよ」
歌姫はそう言って笑った。祈りを捧げる賛美歌──かつての教義を忘れ、信仰が廃れ、ただ貧し、飢え、争うばかりのこの地においてそれはもはや何の意味も為さず、誰の心に響くこともない。
それでも彼女は祈るのだと言う。地獄の中で生きるからこそ、そこで生きる者達の為に誰かが祈りを捧げなければならないのだ。
「たとえ余裕が無くて、より良い明日を希望することさえ儘ならない残酷な世界であろうと……私だけでも、ただ善く在りたいんだ。──それって何もおかしくない、ごく普通のことでしょ?」
多くが愚かだと嗤うだろう。
多くが無為だと嘲るだろう。
けれど、彼女は祈り続ける。賢愚など関係無く、ただ善く在り続けることを望んだ。
「ねぇ……■■ちゃん。お願いしていい?」
そして、そんな彼女にとってその歌を知る者が現れたのは、耳障りだとすら罵られた自分の歌を美しいと言ってくれる者が現れたのは、何よりの
報われたとすら、思えた。
「もし、もしもだよ? この戦いが終わったらさ。一緒に歌ってくれない? この歌を、私の祈りを、皆に聴かせたいんだ」
そう子供のように笑いかけられ、果たして何と返答しただろうか。柄ではないと笑い飛ばしたか、それとも気紛れで約束してしまったか……どちらにせよ、その記憶を忘却の彼方へと追いやり、未だに思い出せない時点で己はとんだ薄情者だろう。
ただ、その時に浮かべた笑顔だけは、脳裏にこびり付いて離れず、いつでも想起される。
ある者は言った。
呆れ返る程の祈りと祈りの果てに“神”は、憐れな我々の元に天上から降りてくると。
──くだらない。
その神とやらは、ついぞ降りてくることはなかったというのに。
助けを乞う者を助けず、慈悲を乞う者を救わず、ただ彼らに祈りを、ただ理不尽なまでの不幸を強いるだけの神に、果たして如何様な意味があるというのか。
神とは欺瞞。その起源は恐怖であり、遥か昔の人々が身に降りかかる自然災害や理不尽な不幸に対して理由付けを行い、そうして自分達の理の及ばぬ上位存在を想像し、畏怖し、信仰することで救いを求めたに過ぎない。
だからこそ、“全ては虚しい”のだ。
果てにあるのは救済でも神罰でもなく、ただ虚無があるのみ。そのような都合の良い存在など居るはずがなく、在ってはならぬのだから人は自らの足を、自らの意思で動かさなければならない。
ただ論理的に夢も無くそう結論付ける。それは“神秘”などという
そんな不遜な無神論者が賛美歌を歌い、神に祈りを捧げるなど笑い話にもならないだろう。
ああ。けれど、それでも。
──彼女の純粋な祈りと願いは、とても心地が好かった。
「……夢、か」
見慣れた会長室の古びた天井。懐かしく、そして最悪な寝覚めに顔をしかめる。
どうやら転寝をしてしまっていたようだ。瞼を擦り、デスクに置かれた書類と向き合う。便利屋68との邂逅から一週間後、アリウス自治区に戻ったニトは生徒会長としての執務を行っていた。
(ミレニアムにて新兵器の発表有り、か……あそこの技術は確かに凄いが、些か遊び心が過ぎるというか余分な要素を付け足し過ぎるきらいがあるのがな。その他に外部関連で目立った報告は無し。アビドスの方もあれから変化は無いようだ。食農部から追加の予算申請……ふむ、これは妥当か。工業部は……また工場を増設するつもりか。環境面は大丈夫なのだろうか? 一応その辺を配慮するように言っておこう。給食部含む市街の飲食店の売上は先月同様黒字傾向……完全に軌道に乗っているようで何より。ヒヨリのように、食が充実すればそれだけ士気も向上するのだからな)
学校だけでなく、自治区のトップたる生徒会長ともなれば多忙な印象を受けるが、実のところ大した仕事量ではなく、主に生徒会やその下の者の手によって殆ど纏められた内容を閲覧し、許諾するか否かというだけ。それは単純に生徒会での役割分担やニトの書類捌きが優れているからなのもあるが、それだけアリウス自治区が平和であることを意味していた。
少なくとも自治区内においては生活・経済が安定し、余裕が生まれ、少なからず利潤を求めようとしている。微々たる変化ではあるもののニトにとっても喜ばしいことであった。
アリウス自治区において所謂企業という組織・団体は存在せず、一部の部活動がその役割を担っている。食農部や工業部がその代表例であり、前者は自治区内の農園・水田の98%を、後者は木工類と食品類を除く全ての工場を管理し、経営していた。両方とも食農科・工業科の生徒、及びその卒業者の大半が所属しており、その規模は最大級である。
他にも校内の食堂だけでなく、各飲食店を管理する給食部を筆頭に様々な部活が産業や商業を担っており、それらの利益の一部は税金として大元であるアリウス分校へと還元されていく。
そのシステムは正しく国家と言う他無い。そういう意味では自治区の中核であるアリウス分校は謂わば内閣のような立場だろう。ニトとしては学校が自治権を有するという状況は異常極まりないので名義を変える、または新たな上位組織を作る等をして改革したかったが、アリウスもまた学園都市キヴォトスの一部であり、古くから根付いた概念を根本から変えるのは難しく、その権威を保つ為にもそこら辺には手を加えるのは諦めた。
生徒会長という肩書きも名前だけであり、実際には理事長、或いは自治区長と呼んだ方が意味合い的には正しい。BDといった教材で済ませている他校と違い、元生徒の教員も普通に居るため生徒会長がトップだと上下関係がややこしくなってしまうので徐々に変えていくつもりだった。
「──月島です。今、よろしいでしょうか?」
するとノックする音が鳴り響く。
「ん? ああ、入れ」
「失礼します。ご報告したいことがありまして」
ドアが開き、入ってきたのは副会長だった。彼女が来訪する理由の大体はこういった報告事項なので察していたニトは無言で続きを促す。
「以前、閣下が紹介した“便利屋68”ですが、こちらの用意した依頼を順調にこなしており、特にあまり表沙汰には出来ない仕事も率先して引き受けるため“Empty sky”からも好評なようです」
「……そうか。それは何よりだ」
株式会社“Empty sky”。
それはアリウスが隠れ蓑としてブラックマーケットで経営している
アリウスの生徒だけでなく、ヘルメット団、日雇いの傭兵、その他にも前科のある者や後ろ暗い過去を持つ者達を支援し、“仕事”を斡旋する。その内容は直接戦闘、諜報、要人警護や施設などの警備、軍事教育、兵站といった軍事的なものから探偵、害虫駆除、役者、清掃、建築及び取り壊しと様々であり、更により多くの仕事を取る為にその依頼料は相場よりも安い価格設定にしている。
そのためカイザーPMCを筆頭とした同業者からは睨まれているが、今や“Empty sky”を利用していない傭兵は居ないとまで言われる程に規模を拡大し、ブラックマーケットでは一大勢力を築いていた。
中には犯罪行為に荷担する場合もあるが、今回“業務提携”を結んだ便利屋68はそのような仕事への食い付きが凄まじいため重宝されているようだ。
「話を聞いた際は些か懐疑的でしたが、確かに平均よりも遥かに高水準な戦闘力を有していました。あのような戦力がどこの勢力に取り込まれることもなく、隠れていたとは……それを見つける閣下の慧眼と手中に収める敏腕には感服させられました」
「よせ、偶然の賜物に過ぎん。それと、彼女達とはあくまでもビジネスパートナーとして契約している。くれぐれも無下に扱わず、対等に接するように」
「……はい。畏まりました」
ぶっちゃけ仲良くやれるか不安だったのでニトは副会長の報告に安心し、内心ガッツポーズをする。便利屋68はゲヘナの生徒なのでそれに関して一悶着あるかと思われたが、よくよく考えれば地上の駐留部隊は自治区内と比べてゲヘナやトリニティへの偏見や悪感情が少なかった。
ヘルメット団の中には現役のゲヘナ生はわりと居るし、珍しくはあるもののトリニティからドロップアウトした者も居るには居た。今更それが何人か増えようが問題などあるはずもない。
「それと、これはまだ調査段階なのですが、どうやら連邦生徒会の方で妙な動きが──」
「閣下ァ! 失礼ィします!!」
その時である。
バンッとドアが勢い良く開けられ、一人のアリウス生が入ってきた。
「む?」
「なっ……貴様ッ! ノックもせずにどういうつもりだ? 閣下のお部屋だぞ」
「ヒッ……も、申し訳ございません! 緊急でお伝えしたいことがありまして……!」
これに副会長は顔をしかめ、声を荒げた。怒りの滲んだ眼で睨まれ、アリウス生は怯えた様子で平謝りしながらも報告を優先すべきだと判断して言葉を続ける。
「ト、トリニティの生徒が攻め込んで来ました!」
廊下に響く程の大声で伝えられた簡潔明瞭な内容に、ニトは目を見開く。
(……え、マジで?)
この後、どうにか心を落ち着かせてどれ程の戦力が攻め込んできたのかと冷静に尋ねたら“一名”だと返答されて更に椅子から転げ落ちそうなくらいおったまげた。
アリウス自治区の平和な一日は、あっさりと崩れ去ったようだ。
結論から言うと、勘違いだった。
トリニティの生徒が自治区へやって来たのは事実だが、攻め込んできた訳では無かった。確認した限りでは周囲に伏兵が潜んでいることもなく、流石に単独で襲撃するとも考えづらいのでアリウスの早とちりであったのは明白だろう。
この経緯を現場の生徒から聞いたニトは胆を冷やしたとホッと胸を撫で下ろす。現段階でトリニティと戦争するのはなるべく避けたかった。
(しかし、
曰く、自治区に入り込んだトリニティ生に敵意は無く、むしろ自分達アリウスと和解をしたいと提案してきたのだ。
対応した生徒はトリニティ生がその場で武装解除してみせたこともあって戸惑いながらも上への判断を仰ぎ、途中で伝言ゲームのようになりつつもニトの耳に届いた。
これはニトからすれば意外なこと。単純にトリニティ側にメリットが無いように感じていたから。たとえアリウスの存在を認知していたとしても、こちら側からアクションを起こさない限りは見て見ぬフリをするだろうと踏んでいたのだが……。
(まあいい。その辺は本人に直接訊くとしよう)
もうすぐそのトリニティ生は会長室へと来る。そこで頭の中で幾つも湧いてくる疑問の答え合わせをするつもりであった。
(──にしても)
そんな中、まだ疑問が降って湧く。どうやって自治区の場所を知ったのかもそうだが……。
(オレが張った“防護結界”に反応しなかったのは何故だ? 登録した人間以外が触れれば真っ先に感知するはずだというのに)
ニトの有する“異能”の一つ。彼女は自治区全土を特殊な無色透明の結界で覆い尽くしており、外部の人間が侵入するのを阻んでいた。
だからこそ、今回これに全く反応せずにトリニティ生が侵入していたというのを知り、驚いたのだ。
「閣下、失礼します」
「ああ。入れ」
そして、ドアが開く。
入ってきたのは“錠前サオリ”。入学当初から兵士として最優秀の成績を収め、今や“スクワッド”という槌永ヒヨリも所属している少数精鋭の特殊部隊を率いるエリートである。
どうやら現場で対応した生徒というのは彼女のようだ。その後ろに居るのが──。
「──あなたがアリウスのトップ?」
トリニティの生徒特有の白い羽根。夜空に浮かぶ天体を思わせる形状をした、特徴的なヘイロー。鮮やかなピンク色の長い髪。ただそこに居るだけで“お姫様”という印象を与える雰囲気を醸し出す美少女が、そこに立っていた。
「────」
その姿を見て、ニトは瞠目する。
同時に防護結界が反応しなかった理由も、単純にそこまで
何故なら、その顔は──。
「…………?」
一方、そんなニトの様子にトリニティ生は不思議そうに首を傾げる。
ニトもこれに気付き、こほんと気を取り直すように咳払いした。
「──ああ。失楽ニト。このアリウス分校の生徒会長であり、自治区の長を務める者だ」
そう名乗れば、彼女はにこりと笑った。
「ニトちゃんね☆ 私は聖園ミカ。トリニティ総合学園の三年生で、“ティーパーティー”のパテル分派領袖、って言えば分かるかな?」
「ほう……それはまた大物が来たな」
ティーパーティーとは、トリニティ総合学園において生徒会にあたる組織のこと。
かつて、トリニティ自治区に存在した各学園が統合した際に、主要な三つの学園であったパテル、フィリウス、サンクトゥスは、学園の三大派閥へと姿を変えた。
そして、様々な思想や信仰が入り乱れるトリニティを調停する立場として結成されたのがティーパーティーであり、現在は各派閥から選出された代表者である三名の生徒会長と、複数の行政官とで構成される組織となっており、各生徒会長が一定期間ごとに最高意思決定者となる“ホスト”の役回りを交代して運営している。
以上がニトの知る情報。加えて、彼女──ミカは自らをパテル分派の領袖と称した。それはつまりただのティーパーティーの構成員ではなく、上述した三名のリーダーの内の一人であることを意味している。
(それに、察していたが、やはり“聖園”か。とんだ奇縁だな、本当に)
ちらりと隣に立つ副会長を一瞥する。ミカを見るその顔にはニトに対する馴れ馴れしさに苛立ちを覚えながらも複雑そうな表情が浮かんでいた。
一方、案内したサオリは少し様子が変な二人に内心困惑している。
「では、確認を兼ねて問おう。ティーパーティー・聖園ミカよ。君がこのアリウス自治区に足を踏み入れた理由はなんだ?」
しかし、過去に振り回されてはいけない。相手がトリニティ総合学園のトップの一人である以上、この面会は今後の方針を左右する、重大な事柄であるのだから。
それは、ミカもまた同様だった。
「──私は、あなた達アリウスと和解したい」
一片の迷いも無く口にする。
その純粋な願いを聞き、ニトは再び
──これが、“魔女”との最初の出会いだった。
連邦生徒会長失踪とミカがアリウスと接触したのとどっちが先か後かよく分かんないのでこの作品ではこんな感じで。時系列的な不備が多々あるかもしれませんが、修正不可能な場合はごり押しするんで気になったら適当に脳内補完してくれると幸いです。