リバース1999 モル・パンク遊記 外典 〜星の揺籠〜 作:流川夕
砂嵐が来る──という理由から大学が臨時休校になった。少し前に外国から来た講師は「砂が理由で休むなんてインドって国は馬鹿げている!」と鼻で笑っていたが、その豪気な息を吐く二つ穴が塵に塞がれる日は遠くないだろう。
帰宅の途についた女子大生たちは、そんな雑談に花を咲かせながら列車に揺られていた。教授や講師の噂から始まり、昨年インドに初めて誕生した女性首相の論評から流行りのファッションまで、話題は多岐に渡る。
「あべこべ先生、次の授業で砂まみれになってたりして」
「あの先生、なんで『あべこべ先生』ってあだ名になったの?」
「わかったっていうとき、首を縦に振るからだよ」
「えっ、なんで?」
「外国だと『了解』は頭を縦に動かすんだって」
「じゃあ、あたしたちみたいに首をちょっと横に揺らすのは?」
「少しでも頭を横に振ると『否定』って意味みたい」
「えーっ、変なの……シャルジャ、知ってた?」
「ええ、私も最近、フランスのお友達から教えてもらったわ」
「欧州かあ。行ってみたいけど、お金ないよねぇ」
「いっそ政治家になれば、外遊し放題じゃない?」
「じゃあ、あたしが立候補したら投票してよ!」
「そういうのはシャルジャのほうが向いてるんじゃない?」
「私は政治家なんて無理よ」
「はあ〜、砂嵐がなければ、新しいサリーでも観にいくんだけどな」
「あんた、何着目よ?」
彼女たちの住まいは、ヒマラヤ山脈の麓に位置するチャンディーガルと呼ばれる地域だ。モンスーン気候のため、もれなく風塵の被害地域に該当する。それでも現地人からすれば慣れた年中行事のようなもので、さほど緊張感はない。カールッティカの新月から始まるディーワーリーの祭りが催されるのと同じく、当たり前に繰り返される季節の風物詩となっている。
ただ談笑する女子大生の一人──シャルジャは、ある懸念を抱えていた。モル・パンクという隣村に、ヤンチャな子どもたちが住んでいる。砂嵐の脅威は幼子といえども十分に熟知しているはずだが、なかには恐れ知らずの孤児も多い。
特にカンジーラという少女は注意が必要だった。面倒見が良い反面、盗みや詐欺にも平気で手を出すため、目が離せない。シャルジャにとっては可愛い生徒であり、同時に悩みの種でもある。注意する大人がいなければ、好奇心から危険に飛び込んでしまう可能性もゼロではない。
「シャルジャ、ため息なんか吐いてどうしたの?」
「えっ、ああ……ううん」
友人の不思議そうな顔に、シャルジャは「なんでもないわ」と曖昧な笑みを返した。
砂嵐が来る前に、モル・パンク村に行こう──そう決意した彼女は列車から降りると、ひとまず荷物を家に置き、すぐに駅へ引き返した。
しかしモル・パンク行きの列車がない。
「えっ、脱線事故?」
教えてくれた駅員によると、幸い大きな怪我人はいないらしい。
モル・パンク村へ向かう足を奪われたシャルジャは、困ったように眉尻を下げた。ただ神は善良な信徒を見捨てはしない。しばらく路上で佇んでいると、馴染みの商人に声をかけられた。
「おらぁ仕入れのついでにモル・パンクも寄るよ。三輪車に乗っていくかい?」
「ぜひ、お願いします!」
まだ肌寒い季節だが、幸い日差しが強い。走行中に向かいから吹きつける乾いた風が、涼しげに彼女のスカーフを揺らす。
「ありがとうございました、ティワリさん。本当に助かります」
「シャルジャよ、行きはいいが帰りは乗っけていけんぞ。おらぁ別の村も回って、砂嵐が来たらそこに泊まるつもりだからな」
「いつもなら列車の脱線も数時間で直るので、きっと大丈夫だと思います」
「しかしモル・パンクなんかよく行くよなぁ。おらぁ商売はしにいくけど、いっつも取って喰われちまわねぇかビクビクしてるよ。なんせ、あの村に住んでいる連中は人間じゃねぇ」
モル・パンク村には、人ならざる者たちが住んでいる──とはいえ、外見は街を歩くホモ・サピエンスとなんら変わりない。ただし彼らは、超常の力を扱う。
カーリーのように大地を砕き、ガルダのように空を飛び、ハヌマーンのように雷光を放つというが、その能力も個人で異なり、千差万別だ。
「ティワリさんは、なにか怖い目に遭われたんですか?」
「いやあ、関わらんようにしているからなぁ」
それが誤解と偏見の原因です、とシャルジャは胸中でつぶやく。
数ヶ月前、ある事件に関わった際、彼女は異能の者たちを率いる組織『聖パブロフ』財団から勧誘を受けた。とても魅力的な誘いだったが、まだ正式に返事をしていない。大学を卒業するまで考えたい、という表向きの言い訳を、先方は呑んでくれた。実際は、まだ踏み出す勇気が足りない。ただの人間が、本当に違う世界で活躍できるのか、という不安がある。
「神秘術って、なんなんでしょうね?」
「そりゃあ神秘学家が使う魔法みたいなもんだろう」
「じゃあ、神秘学家はなんなんでしょうか?」
「そりゃあ神秘術を使う連中のことだろう」
「なんだか堂々巡りだと思いませんか?」
「化け物のことなんかより、おらぁ明日のおまんまのほうが心配だからなぁ」
どちらにせよ、善良な市民からすれば未知と恐怖の対象に違いない。
「あんな連中に、なにを教えたって無駄だと思うけどなぁ。シャルジャも子ども相手の先生なんて、よくやるよ」
「あの村には親のいない子も多いですから」
モル・パンク村には孤児が多く、また女に教育は不要という古い考えの親も少なくないため、学校を知らぬまま大人になる者も珍しくない。そんな子どもたちのために、彼女は休日に教師の真似ごとをしている
シャルジャ先生。
そう呼ばれるのはこそばゆいが、教育を司るサラスヴァティーに倣い、せめて子どもたちが自分の道を正しく選べる手伝いをしよう──それは彼女の善意であり、また日々の原動力でもあった。
「もう着くよ」
商人は、まっすぐ村長の家に向かうという。
途中で三輪車を降りたシャルジャは、子どもたちが隠れ家にしている空き家へ向かった。風は強くなり、悪戯好きの妖霊が舞うように、気づくと鼻腔に塵が入り込んでいる。まだ日は高いが、帰路も考えるとのんびりはしていられない。目元から下をスカーフで覆い隠した彼女は、砂塵の気配を感じながら足を急がせた。
やがて古びた土塊の建物が見えてくる。
「カンジーラ、アジャル、みんな、いる?」
扉を開くと屋内は、空っぽだった。どこからか拾ってきた破れかけの絨毯と、脚がぐらついたテーブル、引き出しのない棚以外はなにもない。
「ここじゃないなら、前の隠れ家?」
以前、子どもたちはクマールという女性の持ち家を隠れ家にしていた。しかし現在は倒壊しており、建物は見る影もない。
しかたなくシャルジャは周囲の住民に聞き込みを開始した。
「さあね、どっかで盗みでもやってんじゃないの?」
「アジャルもカンジーラも見てねぇな」
「またお前か、帰れ!」
「子どもたちが北の廃墟に出入りしてるって噂は聞いたけど」
「人間は失せろ!」
箒を持って追いかけ回されたあげく、シャルジャが得られた情報は『北の廃墟に子どもたちが出入りしている』という噂一つ。それでも聞き込みの最中に子どもたちが姿を見せることはなく、けっきょく彼女は縋る想いで北の廃墟へ足を向けた。
「聞き込みに時間をかけすぎたかな……」
移動も相俟って、到着した頃には日が傾きかけていた。
土と石で造られた、古い家屋。なんの変哲もない二階建ての廃墟だ。
しかし陰影が濃いせいか、どこか不気味に見える。
窓や戸板すらなく、屋内は暗闇に包まれていた。悪霊でも潜んでいそうな寒々しい空気を祓うように、シャルジャは声を張りあげた。
「カンジーラ、いるの⁉︎」
続けて他の子どもたちの名前も呼ぶが、返事はない。
「叱らないから、いるなら返事をして!」
すると──。
扉のない入り口の淵を小さな子どもの指が掴んだ。気のせいか、青白く見える。眉間にしわを刻んだシャルジャは、胸に手を添えながら前に踏み出した。
「ねえ、誰かいるの?」
そう呼びかけると、指はすっと仄暗い屋内へ消えてしまう。
シャルジャは、子どもたちがふざけているのだろうと考えた。
「もう、いい加減にしないと怒るわよ!」
言いしれぬ不安と背筋を這うような寒気を覚えながら、それでもシャルジャは屋内に足を踏み入れた。建物が太陽を背にしているせいか、中にはわずかな光も存在しない──というより、この空間は他の色を排泄するかのような濁りに満ちていた。
星のない深夜とも違う。
明かりのない洞窟とも異なる。
鬱蒼とした森林の迷宮ですらない。
ただ電灯がないだけの部屋とは一線を画す、異質な空間。
ぞわりと腕に鳥肌が立ったシャルジャは次の瞬間、顔をこわばらせた。
「えっ……」
反射的に振り向くと、ただ深淵が広がっている。
扉も、窓もない。
とたんに、上下左右の感覚すら失われていく。
「なに、これ?」
次第にここがどこかも、わからなくなる。
恒星のない宇宙に似た、果てない奈落。
終わりのない終焉。
しかし、たしかに黒という色は存在する。
シャルジャは、震える指先に闇の手触りを感じた。
「ひっ──」
雨が降ったあとの泥濘のような、どろりとした重さ。
水に濡れた森に漂う、鼻の奥がつんと痛むような臭い。
さらに溶けた小麦粉をずるりと流し込まれたかのように、喉が詰まる。
「おえっ……あっ……」
喉から、鼻から、目から、耳から、闇が流れ込む。
どろり、どろり、どろり、液体と個体の中間にある気持ち悪さが、体内に侵入し──まるで立ちながら、汚泥の満ちた水槽に沈められているような錯覚に襲われた。
苦悶の幻影。
漆黒の責苦。
仄暗い感触。
誰かの息遣いが聞こえる。
それが己の呼吸か、この無明に潜む何者かの吐息かは判断がつかない。
全身を這う黒い舌が蠢き、溢れる涙すらも頬を伝う前に舐め取ってしまう。
神に祈る間もなくシャルジャは深淵の沼に溺れ、そして消えた。