リバース1999 モル・パンク遊記 外典 〜星の揺籠〜 作:流川夕
研究所は、朝から忙しなく人が行き交っていた。砂嵐が迫っており、提携機関や取引先の調整で慌ただしい。特に天体観測を主とする部署は、機材の片付けに追われていた。外に設置してある機材も多く、撤去作業は急務だ。天候が快復したあとに備え、元の計測とズレが生じないよう、あらかじめ綿密なスケジュールを組んでおく必要もある。
それこそ紙と埃が砂嵐のように舞う一室の片隅で、一人の若い女性研究員──カーラ・ボナーは一枚の便箋を眺めていた。
「これは本当なの?
ミス・マチルダ・ブアニッシュ……」
その手紙は遥か遠く、異邦の友人から届いた。
差出人のマチルダ・ブアニッシュは、人ならざる超常の力を宿す者たちの組織『聖パブロフ財団』に所属する神秘学家(アルカニスト)だ。そしてカーラも、神秘学家である。二人は数ヶ月前、モル・パンク村で起きた事件がきっかけで出会い、親しくなった。
便箋には、こう綴られている。
『クマールの遺産が存在しているかもしれない』
クマール。
持たざる神秘学家であり、卓越した天体研究者。
その名を唇の奥で唱えたカーラは、長いまつ毛に縁取られた目をそっと細めた。
「いまさら、どうして……」
カーラにとってクマールは先生であり、目標であり、同志であり、友であり、一言では言い表せない複雑な関係がある。しかし天体研究に生涯を捧げた恩師は愛憎と妄執の末に道を踏み外し、のちに自ら命を絶った。
「私はクマールの最期を見届けた。でも受け入れてはいない。だから亡霊が追いかけてくるの?」
そこに書類の山を抱えた若い職員が通りかかった。まだ上着が必要な季節だが、走り回っているせいか額は汗ばんでいる。じっと部屋の隅に佇んでいるカーラを咎めるように、彼は嫌味ったらしく唇を突き出した。
「ミス・カーラ・ボナー!
この忙しいときに、また姿をくらますつもりじゃないでしょうね!」
「え?」
「忘れたとは言わせませんよ。
去年、ディーワーリーが始まる少し前、急に長期欠勤したでしょう!」
「あれは……」
話せば長くなる。まさか神秘学家のクマールがモル・パンク村に一つの星を落とそうと企み、その陰謀を阻止していた──などと説明しても、多くの者は信じないだろう。カーラ自身も、語るつもりはない。
物語は悲劇に終わり、一人の天体研究者が追い求めた星は深淵の彼方に消えた。
「けれど私は、まだ彼女が夢見た星を忘れられないのかもしれない」
「は?」
嫌な予感がするぞと言わんばかりに顔をしかめた若い研究員に、便箋を折りたたんだカーラはふっと微笑みかけた。
「こんなときに悪いけど、少し休暇をもらうわ」
「はあっ⁉︎」
「占いも、その調子で上達するといいわね」
そう軽やかに告げると、カーラは颯爽と研究所を後にした。
彼女の道標は、便箋に記されている。
『地下にあったクマールの部屋を調査した財団が、妙な痕跡を発見したらしいの。
先に言っておくけど報告が遅れたのは、わたしのせいじゃないわよ?
『マヌス・ヴェンデッタ』の神秘術は特殊だから、財団も検証に時間がかかったみたい。
とにかくクマールは星を落とそうとしただけじゃなかった。
別の仕掛けも用意していた可能性があるってこと。
その多くは財団が接収したけど、一つだけ行方不明の研究があるそうよ。
でも財団は資料に記された場所で、神秘術を見つけられなかった。
調査員たちは『マヌス・ヴェンデッタ』が回収したと考えているらしいわ。
つまり、こういうこと。
クマールの遺産が存在しているかもしれない。
だから念のため、あなたには伝えておく。
場所は星落としの標的にされたモル・パンク村、その北にある廃墟。
詳しい資料は手紙に同封するから、気になるようなら目を通して。
困ったことがあったら、財団に連絡してちょうだい。
あなたにきちんと協力するよう、チャンディーガル支部に手紙を書いておく。
このミス・マチルダ・ブアニッシュに抜かりはないわ。
その行方がわからなくなったクマールの研究は──』
三輪車のハンドルを握ったカーラは、乾いた唇を舌でしめらせた。
クマールは神秘学家(アルカニスト)の才に恵まれず、個人で大きなしかけを施したとは思えない。彼女は秘術の多くを『マヌス・ヴェンデッタ』と呼ばれる裏組織に頼っていた。それは災厄を生み、かつては一つの村を星の落下で滅ぼそうという企みにも発展している。
同じ規模の危険が、もしもモル・パンク村に迫っているとしたら?
「宇宙の、顕現……」
マチルダ・ブアニッシュの手紙には、そう記されていた。
地上に宇宙を生み出し、すべてを混沌に呑み込もうとしていたのだと。
「クマールは、モル・パンクに新たな星の揺籠を生み出そうとしていた?」
つぶやいた疑問は三輪車の駆動音に巻かれ、エンジンの轟きは車輪の跡と共に遠ざかる。
入れ替わり、一人の若い男性警察官が研究所に駆け込んだ。
「おい、ミス・カーラ・ボナーはいるか?」
すると仏頂面の男性研究員が、不機嫌そうに舌打ちする。
「たったいま休暇をとって出かけたばかりだよ」
「そいつは困ったな……」
「彼女、なんかやらかしたの?」
「いや、暴行罪でしょっぴいた男の件でちょっとな……」
「へえ、どんな奴?」
「まあ、ここの研究員って可能性も……いや、あのナリじゃなさそうだなあ」
無駄足を踏んだと思いたくない警官は、かすかな希望を抱きながら問いかけた。
「シャーマィンって髭面の神秘学家なんだが、誰か知らないか?」