リバース1999 モル・パンク遊記 外典 〜星の揺籠〜 作:流川夕
神秘術を扱う物を、神秘学家と呼ぶ。
神秘学家が操る技を、神秘術と呼ぶ。
すなわち神秘学家とは、神秘術の使い手だ。
すなわち神秘術とは、神秘学家の異能力だ。
これは世界に認知されており、特に秘匿された事実というわけでもない。
ただ正しく理解している者は少なく、また正しい理解を望む者もいない。
故に人間は、神秘学家を異端と蔑む。
故に神秘学家は、人間と距離を置く。
共に容姿と血の色は同じだが、別の種族だと断じる。
このように世界を統べる霊長の人類は、いま分断と分岐の歴史を歩んでいた。
しかし特殊な力を持つ神秘学家も、圧倒的に数で勝る人間たちの法には従わざるを得ない。神秘学家は人間に比べるとあまりにも数が少なく、独自の経済圏を築けるような規模には程遠かった。
だから神秘学家といえども、誰かに暴行を加えれば警察に逮捕される。
その例に漏れずシャーマィンと名乗る髭面の男は神秘学家を自称しているが、数人の男に暴行を加えた罪でチャンディーガル警察分署の留置所に投獄されていた。風体は精霊を信仰する祈祷師のようであり、片腕に奇妙な意匠を施した義手をつけている。
苦虫を噛み潰したような顔の彼は、格子の奥から延々と無実を訴え続けていた。
「だから、彼らをやったのは俺じゃない。犯人は『マヌス・ヴェンデッタ』だ。わかるか、説明が必要なら何度でも繰り返そう。『マヌス・ヴェンデッタ』は神秘術を悪用し、ロクでもないことを企む連中だ。去年、モル・パンク駅で起きた事件は知っているだろう。つまり俺は、むしろ助けに入った側だ。精気を吸われて殺されかけていた彼らを守り、悪い連中を追っ払ったところであなたたちがやって来て、なぜか俺は牢屋に入れられている。だが、あなたたちが自分を責める必要はない。警察が疑わしい相手を取り調べるのは市民の安全を守るために必要な措置だ。俺は、そう理解している。しかし誤解が解けたのなら、寛容な姿勢を見せてほしい。倒れていた男たちは生きているはずだ。彼らの一人でも、犯人が俺だと言ったとしたら話は別だが──」
そこで当直の老いた男性警察官が、うんざりした様子で手を振った。その片手に掲げられた紅茶からは、刺激のある香辛料の匂いが漂っている。お世辞にも衛生環境が良いとは言い難い署内においては、唯一の良心的な空気だ。
「お前さんさえいなけりゃ、わしは一人でのんびりとしておるところなんじゃがな」
「二人きりなんだ、仲良くしよう」
「ひひひ、檻の快適さでも語り合うか?」
容疑者を拘束する留置所も兼ねているため、排泄用の穴からは糞尿の悪臭が立ち込め、外を歩く市民の賑わいよりも、真っ黒に汚れた鼠の鳴き声や蝿の羽音のほうが騒がしい──あるいは檻に囚われた男が、いまは『耳障りな王』の座を簒奪している。
「なあ、被害者の証言はどうなっているんだ?」
「倒れていた男たちは全員、まだ目を覚ましとらん。だから誰からも証言を得られていないというわけじゃ。わかったら、黙っとれ!」
事件は明け方、街中の廃墟で起きた。
誰かが争っているという通報を受けた老警官と同僚数名が現場に駆けつけると、そこには怪しげな儀式と、床が砕かれ壁を焼いたような戦いの痕跡、意識を失って倒れている数名の成人男性、そして佇む謎の祈祷師──一晩を牢屋で過ごした彼は、まるでマサラをかけわすれた豆でも食べたかのような顔でうめいた。
「つまり俺は?」
「それまで牢獄生活を楽しめ──ええと……シャー、シャン、シャイ……」
「シャーマィンだ」
「ああ、牢獄生活を楽しめ、シャーマイン」
「シャーマィンだ」
「おお、シャーマイン」
「シャーマィンだ」
「ああ、もう、うるさいうるさいうるさいわ!
じゃあ聞くが、その『マヌス・ヴェンデッタ』はどこにおる?」
「だから逃げられたんだよ」
「話にならん」
「犯人は二十代から三十代くらいの若い男が三人、全員ちょっと酒臭かった。酒瓶が転がっていたような、なかったような……そのあたりは、あなたたちが捜査したんじゃないか?」
「そんな情報で犯人が絞り込めると?」
「わかってる。いまの俺は、まさに虎の前で『自分より美味しい餌がいるぞ』と訴えている兎みたいなもんだ。でも勘弁してくれ、俺は師匠の──」
「ああ、ん〜だが身元がはっきりすれば話は別じゃ。いま、カーラなんちゃらとかいう女の元に若いのを行かせておる」
「ミス・カーラ・ボナー?
なぜ彼女の名前が出てくる?」
「お前の所持品に、その女に宛てた手紙があったからのう」
「俺の手紙を勝手に開けたのか?」
「恋文かと思えば、中身が感謝の手紙とはつまらん」
「ミス・カーラ・ボナーは無関係だ。彼女に迷惑はかけたくない」
「知ったことか。
なんなら、この紅茶はどうじゃ。誰の荷物から失敬したと思う?」
「俺の荷物から取ったのか?
飲んでもいいが、それなら少し分けてくれ。喉が渇いてしかたない」
「べろべろばー、やなこった。
こっちは夜勤明けで疲れとるんじゃ。
若いもんが遅刻しておるせいで、まったくもう!」
すると、そこに制服姿の若い男が駆け込んできた。帽子を目深に被っており、慌てた様子で老警官に頭を下げる。
「遅れて申し訳ありません!」
「やっと来たか、スリカント。
たるんどるぞ、この馬鹿者がぁ!
……ん、お前、その怪我はどうした?」
若い警察官は、こめかみと鼻っ柱に傷を負っていた。
老警察官の慧眼が、即座に怪我の種類を見抜く。
「真新しい打撲痕じゃな。これから腫れあがるぞ。スリカント、喧嘩でもしたか?」
若い警察官──スリカントは、渋面で「ええ」と苦々しく首を傾げた。
すると格子に近づいたシャーマィンの眼光が、鋭い光を帯びる。
「スリカント、と言ったな。その帽子を取って、顔を見せてくれないか?」
「な、なんだ貴様は!
罪人が気安く話しかけるな!」
「やっぱりな……その声、聞き覚えがあるぞ」
びくっと体をこわばらせたスリカントは、さっと牢屋から顔を逸らした。
すると成り行きを見守っていた老警官が、シャーマィンに近づく。
「今朝は他に収監者もおらんから、お前さんのせいで騒がしくてしかたなかったわい」
ただ心のどこかで、警官として培った長年の勘が「こいつは嘘を言っとらん」とも感じていた。
「なにが言いたい、シャーマイン」
名前の訂正を諦めた囚われの男が、厳かに告げる。
「俺が追っ払った『マヌス・ヴェンデッタ』の神秘学家たち──うち何人かに怪我を負わせた。顔も覚えている。その一人が、目の前にいるスリカントという男だ」
さらにシャーマィンは、じっと老警官を見据える。
「俺が見つけた『マヌス・ヴェンデッタ』は廃墟で妙な儀式をしていた。倒れていた男たちは、生贄にされていたらしい。あなたたちが来る前にざっと調べたが、どうも離れた場所に仕掛けた神秘術を作動させていたようだ」
スリカントは黙して語らず、じりじりと出口に動き始める。しかし、その進路を新たな若い警察官が塞いだ。
「ただいま戻りました!
申し訳ありませんが、ミス・カーラ・ボナーとは入れ違いで……って、スリカント⁉︎
お前、その傷どうしたんだ?」
うなる老警官が、二人目の若い警察官にスリカントを見張るよう指示を出した。
ほっと胸を撫で下ろしたシャーマィンが顎髭を撫でる。
「『マヌス・ヴェンデッタ』の儀式がどういうもので、成功したのか、失敗したのかは俺にもわからない。だが仮に凶悪な神秘術が発動していれば、取り返しのつかない事態になる」
「わしは神秘術のことはよくわからん。だが離れた場所と言ったな。
具体的に、どの地域じゃ?」
「俺の荷物に、ブラフマーの像と妙な模様が刻まれた地図があっただろう。それは『マヌス・ヴェンデッタ』が儀式に使用していた代物だ」
老警官は、床に転がっていた囚人の荷物を逆さまにした。いくつかの香辛料や茶葉がばら撒かれ、埃と糞尿の悪臭に刺激的な香りが混じり、全員が一斉に咽せた。
シャーマィンはうめきながら、首を振った。
「もっと丁寧に扱ってくれないか?」
「うるさいわい。ほれ、これがブラフマーの像と地図じゃな?」
「その神像は儀式を起動する鍵になっていた。もう用済みの品だが、これが砕けないかぎり神秘術(アルカナム)も生きているという証になる。地図のほうは、もっと単純だ。おそらく描かれた幾何学模様の中心が、『マヌス・ヴェンデッタ』に狙われている地点だろう」
「ここは、たしかチャンディーガルの近くにある──」
「モル・パンク村、北部。おそらく、そこが神秘術の起動地点だ」