リバース1999 モル・パンク遊記 外典 〜星の揺籠〜 作:流川夕
ニューデリーの気象局によれば、モル・パンク村に砂嵐が到着するのは未明から明け方にかけてのあいだらしい。しかし天候に正確さを求める愚かさを知っているカーラ・ボナーは、気まぐれなガルダが羽を動かす前に調査を終わらせようと考えていた。
一方で、マチルダの手紙が頭から離れない。
『クマールの遺産が存在しているかもしれない』
添付されていた資料によれば、それは第二の宇宙を創造する神秘術らしい。無論、いくら神秘学家でも、模倣とはいえ広大な星の海を生み出すような芸当など叶うはずもない。ただカーラには、一つ心当たりがあった。
ハンドルを握る体の半分に西日を浴びながら、彼女はつぶやく。
「それが瞑想者の領域内なら?」
ある特殊な精神世界なら、どんな荒唐無稽な願いでも叶うかもしれない。マチルダの手紙によれば、クマールは創造した宇宙をモル・パンク村に召喚するつもりだったようだ。
もしも現実世界に宇宙が現れた場合、どうなるのか──観測も計算も不可能な事象は占星術でも解明できない。さらに神秘術から生み出された星の揺籠は、その成長過程で人の生体エネルギーを糧にするそうだ。つまり人的被害は、すでに起きている可能性がある。
「でも、なにかおかしい……」
クマールは狂気に満ちた女性だった。
目的は二つ。
自分を見捨てた家族への復讐と、けして目視できない星の降臨。前者は当人が手を下す前に潰え、後者はカーラを含めた幾人かの協力で阻止した。遥かな空想の星を現実世界に引き込み、空から降らせようとしていた相手に倫理観を期待するのは無駄とは理解しながらも、拭えない違和感がある。
「どれほど妄執にとり憑かれても、彼女は研究者としての知性と見識を捨て去ってはいなかった。自分の欲望を実現するために絶望と犠牲を招こうとしたクマールも、変わり果てた現実のクマールも、天文学者として意味のないことはしない」
疑問に答える者はなく、やがて日は沈む。
田舎の夜は早い。彼女が到着すると、すでに多くの家が明かりを落としていた。星の瞬きを遮る雲や人工の光はなく、ただ寒々とした闇の海に砂金の群れが浮かんでいる。
かつてディーワーリーの夜に流星群を眺めながら「きっとシンドバッドがルフに落とされたダイヤモンドの平原も、こんなふうに輝いていたんだろうなあ」と口にしたのは、この村に住む少女──カンジーラだ。
「あの娘の顔も見ておきたかったけれど、また今度になりそうね」
宵の静寂を裂く三輪車の駆動音は村の中心部を横断し、北の廃墟へ進んだ。
ミス・マチルダ・ブアニッシュが送付した地図は正確に位置を示しており、彼女が所属している『聖バブロフ財団』の高い調査能力が窺える。
エンジンを止めたカーラは、闇に浮かぶ土塊の廃墟を見据えた。壁には亀裂が走り、窓や戸板は外され、また物音や人の気配もない。
ただ、たしかに闇の息遣いを感じる。
肌が泡立つような感覚と第六感の警鐘は、神秘術の兆しに違いない。
「財団の調査ではなにも発見できなかった……でも、これは……神秘術が発動している?」
これがクマールの神秘術か否か、そこまでの判断はつかない。あるいは完全に『マヌス・ヴェンデッタ』の手が加えられている可能性のほうが高い。本来ならば財団に報告し、正規の調査を求めるべきだろう。
カーラは無意識に、腰から吊り下げていた望遠鏡を手に取った。癖のようなもので、考え込むときに握っていると妙な安心感がある。
「でも──」
これまで痕跡の確認されていなかった神秘術が唐突に発動した。
なにか、取り返しのつかない異常事態が起きているのではないか?
そこでカーラは、ハッと目を見開いた。
いま自分は、目の前の事象に関わる理由を探している──彼女は、そう気がついた。
「クマール」
その名をどう呼ぶべきか、まだ答えが出ない。
故人を偲ぶように?
無念に思いを馳せて?
あるいは後悔と悲しみを宿して?
ただ一つ、たしかなことは。
「私は、クマールを亡霊にしている」
死者はよみがえらない。
生者の道は続いていく。
どれだけいなくなった者に理想を描こうと、それは残った者の希望的観測にすぎない。
「観測に希望を抱くなんて、研究者としてもっとも恥ずべき姿ね」
望遠鏡を腰に戻したカーラは、静謐の眼差しを廃墟の闇に注いだ。
すると彼女の興味を惹くように、戸板のない入り口の淵に子どもの指がかかる。その色は青白く、ぼんやりと光を帯びていた。高さから察するに、まだ二本の足で立つことを覚えたばかりの幼子だろう。
こんな夜更けに現れる様子は、まるで「幽鬼です」と名乗らんばかりだ。
「常世と現世の境界を曖昧にするつもり?」
カーラは、ゆったりと踏み出した。まるで決まりごとのように幼子の指は屋内に引っ込むが、彼女の足取りに乱れはない。
「私は初めての道に迷い込む虎の子」
廃墟の闇に身を委ねた瞬間、空間が閉じた。
出入り口や窓が消え、無明の暗黒に質量を持ったなにかが蠢く。ナーガラージャの住処を寝床にした蛇の群れが動き出すように、流体の闇がカーラを侵しはじめた。
しかし彼女は臆さず腕を伸ばすと、姿と形を見せない暗黒の手触りを知覚する。
「恐れを消せはしない。消してはいけない。
未知は常に、探求と畏怖を内包する」
冷静なカーラの心を乱すように、風の音が消えた。
さらに知恵と理性を塗り潰さんと、空間を満たす無明の存在が波打つ。
それでも彼女の自我は揺るがず、唇の隙間から漏れる艶やかな声で闇を彩る。
「私は観測者。箒星は、もう願いを叶える神秘の象徴じゃない。あの美しい軌跡は大気に衝突した宇宙の塵が、ただ発光しているにすぎないと解き明かした。古き恩恵に敬意を抱きながら、いまわれらの時代を謳歌する。夜はやさしく、物語は何処にもあらず」
刹那、その言葉に反発した空間の闇が大きくうねりをあげる。ぬかるみのような見えざる泥水が、彼女の全身を呑み込んだ。天地の感覚が失せ、足元が崩れていく。
五感を奪う暗黒の胎に堕ちながら、なおもカーラは唱え続けた。
「幼い頃、私は虎に憧れた。
けれど叙事詩に描かれた黄金の財宝や美しい髪を、もう望みはしない」
さらにどろりとした流れが渦を巻き、瞬く間にカーラの口、目、耳、毛穴を塞いだ。すると釜に入れる前のナンを無理やり押し込まれたかのように喉が詰まり、窒息の苦しみが無意識に酸素を求める。
しかし彼女の根源に淀みはない。
探究者の声なき声は続く。
「これは夢……」
現実ではなく、神秘術が生んだ空間。
流れに身を任せた彼女は、自らの霊智──グノーシスを呼び覚ます。
真実と虚実の境界を曖昧に歪め、二つの世界を結ぶ奥義。
相手が幻想と夢魘の産物なら、積み重ねてきた経験と知識で対抗する。
存在しない星々の軌跡を辿るように、道なき旅路を歩む条件は整った。
この不快な深淵の沼を命の揺籠に見立て、カーラは泰然と祈る。
「शान्तिः」
肉体と精神の狭間に、時と理を超えた異界がある。
それをカーラは、瞑想者の領域と呼んだ。