リバース1999 モル・パンク遊記 外典 〜星の揺籠〜 作:流川夕
「馬鹿馬鹿しい、この僕が『マヌス・ヴェンデッタ』だって⁉︎
はっ! マナーのいい三輪車の運転手がいますか? いませんよね?
勤続五年の立派な警察官である僕が『マヌス・ヴェンデッタ』だっていうのは、同じくらいありえない話です!」
年長の老警官から疑念を向けられ、同期に出口を塞がれたスリカントは、大袈裟に両腕を広げた。帽子を取った彼が、興奮気味に鼻の穴を膨らませる。こめかみや鼻の傷は徐々に腫れあがり、他にも首や顎、頬に青あざも浮かんでいた。
「これは昨晩、絡んできた不良とやりあったときにできた傷です。場所は駅前の路地。友人もいっしょでした。疑うなら、いまから連れてきますよ」
やれやれと肩をすくめるスリカントを、シャーマィンは静かに見据えていた。白い無精髭を撫でた老警官が「いや」と片手をあげる。
「ひとまず座れ、スリカント。浮浪者とはいえ、神秘学家の言葉は無視できん。お前を疑っておるわけじゃないぞ。ただ病院に運ばれた男たちが起きるまで、少し待っておれ。被害者の証言が取れれば、おのずと真実は明るみに出るじゃろう」
「冗談じゃありませんよ。そんな詐欺師みたいな男の言うことを信じるなんて、どうかしています。こんなの署内の笑いものだ。仲間を疑うなんて、下手したら居場所がなくなるかもしれませんよ?」
「わしを脅すつもりか」
そこで沈黙を保っていたシャーマィンが、ふいに「飲んだ酒は?」と問いかけた。虚をつかれたスリカントはうろたえながら「はあ?」と顔をしかめるが、その瞳はバケツに放り込まれた鯉のように泳いでいる。
インドは現在、禁酒法の真っ只中にある。州ごとに対応は異なるが、どの地域でも大手を振って飲酒するというのは考えにくい。するともう一人の若い警察官が反射的にスリカントの口元に顔を近づけ、すぐに「んっ」と眉をひそめた。
「たしかにスリカント、ちょっと酒臭いかもな」
「こ、これは……そんなの、今回の件になんの関係がある⁉︎」
激昂するスリカントに、シャーマィンは淡々と続けた。
「俺は鼻が利く。廃墟に居合わせた『マヌス・ヴェンデッタ』は全員、酒臭かった。神秘術(アルカナム)を起動する儀式の前に、景気づけで一杯やったんだろう。さっきも話していたが、現場には酒瓶が転がっていた」
「デタラメだ、そんな後付けの証言が罪を逃れる言い訳になると思うな!」
「それなら酒を飲んだ場所をハッキリさせて、自分のアリバイを証明したらどうだ。先ほどより酒精の香りが弱まっているから、飲んだ時間は『マヌス・ヴェンデッタ』が儀式をしていた頃とそう変わらないだろう。どこで飲んだにせよ、そこで裏が取れたらシロだ」
「家だ、家で飲んだ。俺は一人暮らしだから、証明できる者などいない!」
その返答を聞いたシャーマィンは思案げに「ふむ」と首を揺らした。
「ところでミス・カーラ・ボナーを訪ねたという、もう一人の警官……そう、あなた。名前を聞いても?」
急に指名された若い警察官が「シャイブ」と反射的に答えると、シャーマィンは満足げに口角をあげた。
「俺はシャーマィンだ。よろしく、シャイブ。ついさっきスリカントが署内に入ってきたとき、あなたは署内にいなかった。同じ頃、どこにいたか聞いても?」
「研究所に行くために使った三輪車を駐車場に停めていた。署のすぐ隣にある」
「ならあなたは、スリカントが署内に入ってくるところを目撃している?」
「えっ、ああ、そうだよ。スリカントが遅刻していたのは知っていたから、夜勤明けのモラルジーさんに叱られるのをフォローしてやろうと思って、慌てて追いかけてきたんだ」
「モラルジーというのは……」
渋面の老警官──モラルジーは返事の代わりに「ふん」と鼻を鳴らすと、先ほどから落ち着かない様子のスリカントに再び椅子を勧めた。
「とにかく座らんか、スリカント!」
「いや、おかしいでしょう! なんで僕を見張る必要があるんです? 同僚ですよ⁉︎」
「スリカント……」
外につながる扉へにじり寄ろうとするスリカントだが、シャイブも出入り口付近を動こうとしない。モラルジーは腰から吊り下げた細い木の棒に手をかけると、それを見たシャーマィンが静かに警告する。
「よせ、彼は『マヌス・ヴェンデッタ』だ。実際に対峙した感触からすると、たいした実力はない。だが棒っきれで立ち向かえるかと言えば、話は別だ。ここから出してくれれば、俺が安全を保証する」
その会話を聞き咎めたスリカントは悪鬼のような形相で唾を飛ばした。
「みんなおかしいよ!
どうして僕が犯人みたいな空気になっているんだ!
僕は警官で、その男は容疑者なんだぞ!」
「なぜわからんのじゃ、スリカント!」
「どういう意味です、モラルジーさん」
「わしは、まだなにも説明しておらんぞ?」
「はっ?」
「お前が来てから、わしは事件についてなにも説明しておらん。」
なぜ『マヌス・ヴェンデッタ』だと疑われているのか?
病院に運ばれた男たちとは、どんな事件の被害者か?
その全容をひとつも聞かされていないにも拘わらず、当然のように「今回の件になんの関係がある⁉︎」と口にした男──スリカントは、ごくりと生唾を呑んだ。
「それは、外で立ち聞きしていたからです。モラルジーさんたちの会話を……ほら、事件について話していたでしょう……その、酒瓶のこととか。僕は遅刻を叱られるのが怖かったから、入るタイミングを伺って──」
しかしスリカントの弁明を、思わず「いや」とシャイブが否定した。
「お前、通りの向こうから駆け込んでいたじゃないか……俺にも気づかないくらい、慌てた様子で……」
そこまで聞いたシャーマインが「そう」と目を細める。
「おそらく嘘は、あらかじめ用意していた。想定外だったのは、この俺だろうな。なぜか儀式の邪魔をした通りすがりの神秘学家(アルカ二スト)が牢屋に入っていた……てっきり逃げたと思ったんだろう。しかし俺は、こう見えて用心深い。念のために儀式の調査を優先したせいで、見事に捕まってしまった」
モラルジーとシャイブが同時に木の棒を構えると、目を見開いたスリカントが大仰に片腕を薙ぎ払った。首をぐるんと回した男が本性を露にし、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように牙を剥く。
「ああ、なんでこうなるんだよ!
しかたない──もう……全員、殺すか!」
いびつな笑みを浮かべたスリカントは咆哮を響かせ、指先から炎の鞭を生み出した。触れた者を焼き尽くす紅蓮の螺旋がしなり、署内を縦横無尽に暴れ回る。その無秩序な軌道は椅子を叩き壊し、壁に焦げ跡をつけるが、とっさに牢屋へ駆け出したモラルジーと、扉を守るように張りついたシャイブには当たらない。
その光景を目にしたシャーマィンが「やはりな」と目を細める。
「まだ完全に力を制御できてはいないようだ」
「呑気に観察しとらんで、早くなんとかせい!」
よろけたモラルジーは格子に縋りつきながら、牢屋の施錠を外した。
「行け、シャーマイン!」
「シャーマィンだ!」
ぎょっと目を剥いたスリカントが鞭の動きを制御しようと念じるが、その隙をシャーマィンは見逃さない。
「悪いが大口を叩いた手前、俺も負けるわけにはいかない」
錆びた鉄の音と共に牢から飛び出した祈祷師が、華麗に踊る。色鮮やかな衣装がふわりと舞い、軽やかな足捌きが悪臭に満ちた警察署を厳かな舞台に変えた。雄大な自然を謳歌するように伸び伸びと飛び跳ねるシャーマィンに、邪悪な炎の鞭は掠りもしない。
激昂したスリカントは、さらにもう片方の手から焔の渦を生み出した。
「そんな踊りで余裕を見せて、この僕を侮ったことを後悔するがいい!」
「いや、すでに精霊は放たれた」
「なに⁉︎」
刹那、スリカントの背後に巨大な影が覆い被さった。獣の臭気と、おぞましい気配が場を支配し、黒々とした怪物めいた精霊が顕現する。二本の太い角を誇る山羊の異形が、未熟な『マヌス・ヴェンデッタ』の構成員に両手をのばした。
孤独な舞踏会を終えたシャーマィンが、乱れた衣装を直しながら厳かに告げる。
「時間が惜しい。二つの道を選んでもらう。片方は屈辱だろうが、洗いざらい悪事を白状することだ。もう片方は信念に殉じるが、永遠の悪夢に苛まれる。足を怪我した兎は、狩人から逃げられない。だが虎に食われるか、善意に縋って飼われるかは自分の選択次第だ」
永遠の悪夢。
精霊の両腕に抱かれたスリカントは、本能で察した。この瞬間の選択が、自分の未来を決定づけるだろうと──『マヌス・ヴェンデッタ』を裏切れば、死が待っている。しかし背後の気配は、終わりすら生ぬるいといわんばかりのおぞましい不気味さを宿していた。
そんな彼の絶望を察したように、シャーマィンは肩をすくめた。
「安心しろ。俺は『聖バブロフ財団』に伝手がある。『マヌス・ヴェンデッタ』の情報を吐くなら、あるいは守ってくれるかもしれない」
「わかった……なんでも聞いてくれ」
観念したスリカントは、尋問の必要もなく素直に自白した。彼は『マヌス・ヴェンデッタ』の中でも新参者で、さして内情には詳しくないらしい。だから使い捨ての駒として、よくわからない儀式の実行役に選ばれたという。
廃墟から回収した道具を一瞥したシャーマィンは、静かに問いかけた。
「つまり、自分がどんな神秘術を起動したかもわからないってことか?」
「あんたの読みどおり、それは元からモル・パンク村にしかけられていた罠のようなもんだ。僕は上から指示された通り、眠っていた神秘術のスイッチを入れたにすぎない。そこでなにが起きるのか、正確に効果を発揮しているのか、本当になにも知らないんだ」
「そのあたりの詳しい尋問は、『聖パブロフ財団』のチャンディーガル支部に任せるとしよう。問題は、モル・パンク村だ。なにが起きているかわからないが、いまから向かって間に合うか……」
すると痛めた腰をさすっていたモラルジーが「おい!」としわがれた声をあげた。
「ブラフマーの像に亀裂が入ったぞ!」
「なに?」
シャーマィンが覗き込むと、たしかにブラフマーの像に一筋の亀裂が入っている。
「この神像は神秘術とつながっている。誰かがモル・パンク村で、『マヌス・ヴェンデッタ』の企みを阻止しようとしているのか?」
あるいは、すでに『聖パブロフ財団』が動いているのかもしれない──いくつかの考えを脳裏に巡らせながら、シャーマィンは思案げに顎髭を撫でた。
「なんにせよ、亀裂に動きがないのは苦戦している証拠だ。ささいな手伝いにしかならんが、ここから助け舟を出すか。起動の鍵になった神像を使えば、神秘術の痕跡も辿れるはずだ」
「ほう、そんなこともできるのか?」
「神秘術も奥が深い。もちろん年の功に勝てるとは言わないが……」
「ふん、若いもんは口ばっかりでいかん。できることがあるならさっさとやらんか、シャーマィン。そのあと誤認逮捕の詫びに、飯でも奢ってやるわい」
「だから俺はシャーマィン……ん?」
ニヤリと笑うモラルジーに、シャーマィンは「参ったな」と頬を掻いた。
「神秘術の痕跡を辿るには、集中力がいる。食事も楽しみだが、まずは茶を淹れてくれ」
「お安いご用じゃ、茶葉と香辛料はたっぷりあるからのう」
豪気に肩を揺らすモラルジーの前では、シャーマィンも苦笑するほかない。
シャイブは理解の及ばない祈祷師と老警官の会話を尻目に、スリカントを牢に入れた。
「あっちは盛り上がってるな、スリカント」
「知ったことか、どうせ僕はもう終わりだ」
二人は、もう五年の付き合いになる。同じ日に警察官となり、同じ職場で日々を過ごした──思えば、互いの境遇や本音を深く語り合ったこともない。
抵抗する気力すら失った同僚の変わり果てた姿に、シャイブは唇を噛んだ。やるせない気持ちばかりが募り、急に罪人となったスリカントにどう接していいかもわからない。
「スリカントが神秘学家(アルカニスト)だったなんて知らなかったよ」
「隠していたからな。そうしなきゃ生きていけない世の中さ。僕はモル・パンクで生涯を終えるなんてまっぴら御免だった」
「あの村の出身だったのか……」
「親父は人間嫌いだったが、僕は神秘学家の親父が嫌いだった。なにもない田舎より、人間として文明社会を楽しみたかったのさ。星の灯りしかない夜の虚しさなんて、お前にはわからないだろう」
「どうして『マヌス・ヴェンデッタ』なんかに?」
「都会で暮らすには金がいる」
「俺に相談してくれればよかった」
「都会っ子で、親が議員のお前に?
言えるかよ。お前より羽振りの良い生活がしたくて、僕は『マヌス・ヴェンデッタ』の手先になったんだ」
「モラルジーさんの言う通り、きみは大馬鹿野郎だ」
「ああ、もう叱られないと思うとせいせいするね」