リバース1999 モル・パンク遊記 外典 〜星の揺籠〜 作:流川夕
「ベル研究所のアーノ・ペンジアスとロバート・W・ウィルソンが発見した宇宙背景輻射は、おそらく現段階でもっとも宇宙の起源に近づける方法よ。ラウジウスの熱力学第二法則に矛盾する定常宇宙論は、もう先が見えない」
瞑想者の領域に潜ったカーラは、精神世界とも呼ぶべき異界に佇んでいた。景色は廃墟と同じく黒一色で、他の色は存在しない。天地も左右もない無空に浮かびながら、彼女はいくつかの見えざる気配を感じ取っていた。多くは眠るように横たわっており、動く様子はない。
ただ孤独な探究者の独白を、明確に聞く者がいる。
「これから研究が進めば、散乱光モデルが正しいのか間違っているのかもわかる。その分岐から先の答えを導き出せれば、星の輝きが満ちる前にあった生まれたばかりの宇宙を垣間見ることだってできるかもしれない」
情熱と冷静の天秤を保ちながら、彼女は夢を語り続けた。
瞑想者の領域では、心の隙を容易につけ込まれてしまう。しかし逆手に取れば、しかけてくる敵を誘き寄せる罠にもなりうる。その目論見どおり、闇に隠れた意思はすぐ間近に迫っていた。距離は関係なく、声が届く位置にいれば、腰の望遠鏡を手にするまでもなく観測は成せる。
すでに対峙すべき相手を捉えたカーラは、朗々と続けた。
「私たちは頭上に瞬いた幻想を分解し、神話の深淵を覗こうとしている。けれど過去を観測し、未来を占う者の探究に終わりはない。次の未知を探してさまよう旅人の道行は、どこからでも始められる。このモル・パンクからでも、世界中の人々が、ただ生きているかぎり」
紡ぎ終えたカーラに、一つの声が返ってきた。
「ああ──」
その知的な響きを帯びた女の声は、嘲笑うようにカーラを否定した。
「つまり君は、死者となったあたしに探究の権利はないと言いたいのかい?」
ハッと息を呑んだカーラは、チョコレート味のエネルギーバーと同じくらい舌に慣れ親しんだ名を唱えた。
「──クマール」
「久しぶり、というのが正しいのかな」
暗黒の宙域に、白衣を纏った中年の女性が現れた。結い上げた白さが混じる髪と、黒縁の眼鏡の奥に静かな知恵の海をたたえた探究者──クマール。その泰然とした相貌は、見る者の背筋をぴんと伸ばすような厳しさを帯びている。
彼女の姿を目にした瞬間、カーラは過ちと大罪を認めた。
切なる願いが、冷たい理性に溶けていく。
「違う……」
秤にかけられた情熱と冷静が、いま未練と失望に置き換わる。
心のどこかで、もう一度だけクマールに会える気がしていた。
悲劇としか思えない別れを、やり直す機会があると。
「私は間違っていたのかもしれない」
「ん?」
「あなたは、誰?」
目の前にいるクマールは、姿形を似せた虚像だ。
しかし存在を疑われた当人は不快そうに眉をひそめ、その問いを否定する。
「あたしはクマールだ。無論、この神秘術(アルカナム)に施された精神の分裂体という表現が正しい。しかし他の領域にいたあたしと同じく、すべてがあたし自身だ。思考、性格は一貫している。リスクを分散するために意思や情報の共有こそしていないが、おそらく最後に残った真の自我と言えるだろう」
「つまりあなたは、本物のクマールや、星の降る夜を願った彼女が消えたことを知っているのね。意思や情報の共有をしていないのに?」
「驚いたよ、ミス・カーラ・ボナー。まさか揚げ足取りであたしに論戦を挑もうというの?」
「いいえ、あなたを否定したのはあなた自身よ」
──ただ、生きているかぎり。
──つまり君は、死者となったあたしに探究の権利はないと言いたいのかい?
「クマールは自分の探究に、他人の許しを得ようなんて考えない」
「そんな些細な言葉一つであたしを否定するというのは、いささか暴論に聞こえるね」
「もう一度だけ聞くわ」
サリーを揺らしたカーラは、悠然と腕を薙いだ。ぴんとのばした指先と探究者の眼差しが、恩師を真似た何者かの虚構を崩さんとする。
「あなたは、誰?」
次に、もう返事はなかった。
クマールの姿はぐにゃりと歪み、粘土が水に溶けるように闇へ潰える。代わりに空間を満たす暗黒が蛇腹の波打つ様相を体現し、無空に音なき轟きが木霊する。聴覚ではなく、肌で感じる威圧感──異界を統べる意思の怒りを浴びながら、カーラの指先が神秘術の光を照らした。
「私のディヤーを灯す刻が来た」
その小さな輝きが、瞑想者の領域に展開する宇宙の真実を暴く。最初に感じた眠るような気配の正体は、不幸にも廃墟に足を踏み入れてしまった人間たちだった。子どもの姿はなく、全員が大人。なかにはカーラの見知った顔もある──シャルジャ。
「どうして彼女が……?」
刹那、質量を宿した闇がカーラの体を激しく打ち据えた。暗黒の宙域に終わりはなく、吹き飛ばされた彼女の体は幾億光年でも飛び続けるだろう。
「それも悪くないけれど……」
悪戯な願望を打ち消し、彼女は痛みに歯を食いしばりながら片手を掲げた。太陽を中心に回る惑星の恩恵は、幻想の世界であろうとも阻めはしない。
赤い土と命の可能性を秘めた火星の加護が、カーラの身に反抗の力を与える。
「空想を現実に!」
三つの赤い連星が生まれ、乱軌道を描きながら闇を奔る。実体のない深淵の存在を、神秘術(アルカナム)の輝きが照らし出した。それは光を浴びてなお、たしかな輪郭をもたない歪みという事象。渦状の怪物を火星の加護が打ち据えると同時、瞑想者の領域が鳴動する。
さらにカーラは流れに身を任せ、現実の夜を照らす無数の輝く砂に想いを馳せた。占星術師が自らを観測することは稀である。しかし彼女は世の理を知り、己の状況を把握し、最適な未来を導き出す。
「予測通り」
深淵の怪物が牙を剥くが、緩やかな小川の化身となった彼女は変幻自在の動きを見せ、襲いくる災禍の波をことごとく受け流した。カーラの卓越した観察眼と計算能力が敵の攻撃軌道を予測し、危機回避の未来を結ぶ。
「宇宙は時に、容易く歪む。線形性の刻は普遍ではない」
十分な余裕を保ちながら、カーラは次に大いなる土星の天恵を呼んだ。試練を超える恩寵が約束され、その身はあらゆる虚構を打ち破る。
「いま、この闇を超える!」
空のない宇宙で天に祈りを捧げる。火星と土星の運命を手放したカーラは、頭上に新たななる星を創造した。それは彼女の印ともいうべき、信念の輝き。不確かな瞑想者の領域で唯一の円満な天体。大いなる産声に恐れをなした深淵の歪みが、全てを呑み込まんと螺旋を描く。
「そう、あなたは──」
ここに至り、ようやくカーラは理解した。
宇宙の創造、具現化、一から望む星を作り出そうとした狂気。しかしクマールは、その行いが自らの研究と理想に対する冒涜だと悟った。故にこの神秘術(アルカナム)は放棄され、深い眠りに就いていたのだろう。なんらかのきっかけで目覚めさえしなければ、永遠に誰の記憶からも忘れ去られていたかもしれない。
「つまり、あなたは母の胎内から這い出たばかりの赤ん坊」
目の前の歪んだ深淵は、神秘術から生まれた仮初の命なのだろう。
宇宙の創造という定められた本能に従い、拡大しているにすぎない。
囚われた人々は、この暗黒を満たす星の代わりに選ばれた命なのだ。
この歪んだ怪物は本気で、いまから新たな宇宙に成長しようとしている。
「子どもだから──」
子どもだから母を求め、クマールの形を模した。
子どもだから思い通りにいかず、駄々を捏ねる。
子どもだから無垢に求め、罪の意識を持たない。
子どもだから矛盾に気づかず、嘘を塗り重ねる。
注意すべき親は、導くべき師は、もうどこにもいない。
「この場所は本当に、星の揺籠だった」
生誕の喜びと悲しさを併せ持って誕生した闇の赤子に、カーラが終わりを告げる。
「全てのものに……因果あり!」
天頂に達した輝く星が、一筋の軌跡を描いて落下する。
すると異界の支配者たる歪みは抗うように回転を強め、あらゆる光を呑み込む事象の地平面と化した。宇宙に存在する物質をあまねく無に帰す終焉の概念が、カーラの神秘術すらも受け止め、噛み砕かんと咆哮をあげる。
しかし夜空の女王となった彼女に、もはや敵はない
「あがくことも運命の一環」
唯一の円満な天体は奇跡を呼び、満月が微笑む。黄金色の光を帯びたカーラは、強化された神秘術(アルカナム)を用いて瞑想者の領域に干渉した。
現実の因果では、事象の地平面を超える力は生み出せない。
「クマールは言った」
──あたしは力尽くで、神像を一つ浪費して。
──中にある物の影を少しだけ現実に引き出したの。
──必要だったのは、外から内へと向く力。
──単一方向からは突破しにくい薄い膜を突き破る。
「なら、その逆もできるはず」
残る力を指先に込めたカーラは、先ほど瞑想者の領域に奔った亀裂から現実世界に干渉した。空想の中でしか成立しない現象ならば、正しい物理法則を当てはめることで潰える。
「事象の地平面は太陽と比類する星の終焉と共に生まれる。それは途方もない刻の先に観測されるべき奇跡。産声を上げたばかりの宇宙に、あなたは存在しない!」
カーラの星が輝きを増し、事象の地平線が音を立てて崩れる。
刹那、深淵の歪みが泣いた。今度は明確に、どうにもならない憤りを秘めた慟哭が聞こえる。望まれずに生まれ、理不尽に潰える命の嘆きを、彼女は静かに受け止めた。
「この傷は癒えないのかもしれない」
自ら命を絶ったクマールを追い求めるように。
救えると信じた自分の傲慢さを悔いるように。
違う未来を夢想する浅はかさを恥じるように。
「けれど痛みを心に刻めば、いつでもあなたを観測できる」
レンズを通して星を眺めるように。
結果と因果の整合性を悩むように。
「クマール」
彼女が告げた、別れの挨拶に。
「धन्यवाद」
瞑想者の領域を統べる主人が潰え、仮初の宇宙が崩壊を始める。しかし事を終えたカーラは、険しい顔つきで周囲を見渡した。事象の地平線の発生と、それを壊すという無茶を通した代償か、異界の因果は観測も不可能なほど乱れ始めていた。
「これは……」
彼女一人なら強制的に精神を肉体に戻すような術も使えるが、それでは囚われた人たちを見捨てることになってしまう。すると脱出の方法を模索する彼女の目が、巨大な精霊の姿を捉えた。どこから侵入してきたのか、黒い山羊のような異形は外から来たらしい。
「第三の観測者……いえ、助けにきてくれたの?」
これは地獄に垂らされた蜘蛛の糸に等しい。
精霊は長い両腕に人々を抱えると、カーラを導くように宇宙を飛んだ。果てのない闇、もはや永遠に光を失う虚空を、ひたすら駆け抜ける──幻想の暗黒に軌跡を描いた最初で最後の流星が現実世界に帰還し、そして瞑想者の領域は霞のように立ち消えた。
「ここは、廃墟……?
こほっ……」
咳き込んだのは、塵を吸ったせいだ。まだ夜明けには早いが、すでに風は荒れ、砂が地面を撫で回している。床には、瞑想者の領域に囚われていた人々が倒れていた。
それからカーラは、深夜にモル・パンク村の戸を叩いて回った。当然のように迷惑がられたが、背に腹は代えられない。被害者たちは無事に保護され、一件落着──そう思われたが、一つだけ問題が残った。
事件に巻き込まれたシャルジャが、目に涙を浮かべている。
「カンジーラとアジャルが、どこにもいないんです!」
しかし村人たちも、手癖の悪いヤンチャな少女たちの姿は見ていないという。
子どもたちが出入りしているという噂があった北の廃墟も、まったく別の建物だった。
カンジーラとアジャルは、どこに消えたのか?
徐々に砂嵐の兆しは強くなる。
やがて、かすかな日差しがモル・パンクを包み込んだ。
[newpage]
[chapter:エピローグ]
「シャルジャ先生、遅っせぇな……」
そこは子どもたちの隠れ家──最初にシャルジャが訪ねた廃屋の床下で、カンジーラはぼりぼりと腹を掻いていた。その隣では、膝を抱えてうずくまる弟分のアジャルが心底恨めしそうな顔で不満を露にしている。
「夕方にシャルジャ先生が来たとき、ネタばらししておけばよかったのに……」
「なに言ってんだ、バカ! いないと思った場所にいるから、なおさらびっくりするんだろ! 苦労して掘った穴なんだぞ、普通のびっくりじゃ困る。シャルジャ先生にはひっくり返るくらい驚いてもらわなきゃ!」
カンジーラの繰り出す蹴りに、アジャルはため息で応えた。この狭い空間では逃げ場もなく、また避ける気力も残っていない。トイレのついでに何度か逃げようかとも思ったが、カンジーラを「アネキ」と慕う少年には、その勇気が足りなかった。おかげで一晩を穴倉で過ごし、いま朝を迎えようとしている。
「でもさあ、カンジーラのアネキ。もしシャルジャ先生が諦めて帰っちまってたらどうするんだよ?」
「シャルジャ先生がアタシらを見捨てるわけないだろう!
……まあ、でも一晩中探し続けてくれてるかもって思うと、だんだん悪い気がしてきたな。よし、アジャル。ちょっと見てきな。まだシャルジャ先生が村にいるようだったら、なんとかこっちに誘導してこい!」
「そんな、無茶だよ!」
「もしアタシが外で見つかったら、これまでの苦労が水の泡になるだろ!」
「どう転んでも絶対に叱られるよ……」
「そもそもシャルジャ先生が悪いんだ。この前だって、アタシより村の連中ばっかり心配するし……」
「それは誤解だったんじゃなかった?」
「それだけじゃないぞ。
シャルジャ先生は今度、神秘学家の組織に入るかもしれないんだ! シャルジャ先生が変な連中のところに行ったりしないように、もっとちゃんと引き留めておかないと……」
「つまりカンジーラのアネキは、シャルジャ先生を取られたくないってこと?」
「だ、誰もそんなこと言ってないだろう⁉︎
いいから早く行けったら!」
「もう、わかったから蹴らないでよぉ」
理不尽なアネキに急かされたアジャルは、そっと床板を持ち上げた。風の荒れる音は聞こえるが、まだ本格的な砂嵐は来ていないらしい。夜明けの仄かな光に目を細めた少年は次の瞬間、ぎょっと顔をこわばらせた。
目の前に、二人の女性が佇んでいる。
「うそ……」
その二人──シャルジャはラクサーシャのような怒りの形相で腕を組んでおり、隣に佇むカーラは「しぃ」と唇に指先を当てながら沈黙を指示する。観念したアジャルは、ぎこちなく床下から抜け出し、気の毒なほどがっくりと肩を落とした。
「最悪だ……」
なにも知らない床下の少女だけが、呑気に声をあげている。
「おーい、アジャル!
ちゃんと行ったか?
まだいるなら、ついでに食いもんもってきてくれよ。
アタシ、もう腹減って死にそう」
呆れたように頭を抱えるシャルジャの肩を、この場所を占星術と推理で探しあてたカーラが軽やかに叩く。
「人気者ね、シャルジャ先生」
「もう、からかわないでください」
囁きあうカーラとシャルジャ、その隣でうなだれるアルジャ──なかなか帰ってこない弟分に痺れを切らしたカンジーラが顔を出すのは、それから十数分後のことだった。
開発 Bluepoch
原作 リバース:1999 期間限定イベント『モル・パンク遊記』より
とある異国の空港で──両親の「落ち着きなさい」という制止を振り切り、いざ搭乗ゲートを潜ろうとする旅装姿の少女がいた。どこかのジュークボックスから流れる陽気な旋律をテーマに、自信に満ち満ちた勇敢な声が冒険の始まりを告げる。
「止めないで、パパン、ママン。ようやく砂嵐が去って、飛行機が出るようになったのよ。いまモル・パンク村は、きっとわたしを必要としているわ。待ってなさい、みんな。このミス・マチルダ・ブアニッシュが、華麗に助けてあげるんだから!」