想定していた以上にトリニティ総合学園の警備態勢は重厚だった。
言葉にしてみればただそれだけなのだろう。
桐藤ナギサ襲撃のためにトリニティ各地に浸透させていた部隊と次々に連絡が取れなくなっていた。
現地は混乱しているのか情報も錯綜している。
ある者は全裸の変質者に襲われた。
ある者はヘルメットを被った集団に襲撃された。
ある者は正義実現委員会に無力化された。
ある者は自警団を名乗る者に捕縛されて視覚と聴覚に大打撃を受けた。
……まあ、最初のはいくらなんでもありえないだろうと、錠前サオリは端末に寄せられる情報を眺めながらため息をついた。
時刻は深夜。
薄っぺらな三日月がうっすらと闇夜を照らしている。
彼女が立つのはトリニティの片隅に佇む廃墟のひとつ。
現在の警戒状況を見るにこの場所も危険があるのは間違いないが、情報の秘匿のため連絡手段を持っていない相手との待ち合わせ場所を急に変える訳にも行かない。
単に作戦中止を告げるだけなら符丁でも可能だが、状況があまりにも変わり過ぎている。
事前に定めておいた集合場所は既に予備の予備まで警戒網の中だ。
まるで何年も前から用意していたかのような周到さに、聖園ミカへの警戒度が跳ね上がる。
彼女の用意したセーフハウスは襲撃を受けていないようだが、残党を一網打尽にするための罠でしかないのは考えるまでもない。
百合園セイアの殺害が彼女にどのような影響を及ぼしたのか、それは分からない。
だが、明確に一線を越えたのは確かだろう。
お友達になりたいと、物語のお姫様のような、お花畑のような提案をしてきた彼女は、もういないのだろう。
全ては虚しいものだと、分かっていたはずなのに。
耳に馴染んだ靴音が廃墟に響く。
「アズサか」
「……サオリ? 何かあった?」
雰囲気の変化を察知したのだろう。
アリウスに居た頃よりずっと穏やかな表情を浮かべるようになった愛弟子が、疑問の声を上げる。
「計画は中止だ。浸透させた戦力が各地で狩られている。想定していた事態のひとつだが、こうも見事にやられるとはな」
「……そう」
その瞳に安堵の色が浮かんで見えたのは、きっと気のせいだ。
――気のせいでなければならない。
「でも、マダムがそれを許すとは思えない」
「……追って指示を出す。指示があるまでは、今まで通りに潜伏を続けろ」
指示を出す手段がもう残されていないことも。
指示を出すことが自体ができなくなる可能性も、伝えたりはしない。
目前に迫るエデン条約に関連して、アズサには伝えられていない計画もある。
それが終わればどうなるかなど分かりはしないが、それまでは動けなくなるほどの折檻もされないだろうという打算もある。
言葉だけでは納得できないのか、彼女からは静かに視線を向けられ続けている。
「定時連絡もこれで最後だ。これ以上の接触はリスクが高い」
「……………………」
返答はない。
「アズサ、警句は忘れていないな?」
「Vanitas vanitatum et omnia vanitas」
「あぁ、全ては虚しい。どこまで行こうとも全ては虚しいものだ」
まだ何かを言いたそうな後輩を残し、踵を返す。
もし、次に顔を合わせるとしたら――
ひたひたと、裸足の足音が聞こえる。
ピタリと足が止まり、銃を構え、周囲に警戒を向ける。
アズサも何かの気配に気付いたようだ。
視線を向けても、彼女は静かに首を振るばかり。
少なくとも背中を合わせるのに支障はないようだ。
「サオリ、トラップは?」
「A-3、B-7の混合」
「了解」
ひたひたと、ひたひたと。
廃墟を歩くには不似合いな足音が響く。
あれ、これもしかして怪談的なやつか? と頭によぎるものの、後輩の前で無様な姿は晒せない。
最初の段階で姿をくらませておけばよかったと、自らの判断ミスを悔やむ。
戦闘に重きを置いたアリウスだからこそ、迎撃の思考が先に出てしまった。
アズサとの密談を確認されれば彼女の身にも危険が及ぶだろう。
だがこの段になって行動を変えるのも、もはや間に合わない。
この場所への侵入も十重二十重の警戒を突破してのこと。
慌てて逃げ出してしまえば容易く警戒網に引っかかる無様を晒す羽目になる。
からんと、通路の角から小石が転がりだした。
照準を合わせ、息を引き絞る。
更に一歩、裸足のつま先が角から覗く。
一歩、流れるような白髪が、透き通るような美しい肌が、ほの暗い月明かりに照らされて。
「こんばんは! 今日はいい露出日和だね!」
元気よく挨拶をくれやがった変質者に鉛玉をぶちこんだ。
全裸の変態はギュインと急加速して平然と回避行動をとる。
どこから取り出したのかその手には一本のナイフが握られていた。
瞬間、サオリの脳内にはとある情報が浮かび上がる。
ある者は全裸の変質者に襲われたと言っていた。
ガスマスクを剥がれ、衣服を切り裂かれ、下着を毟り取られて写真まで撮られてしまったと。
それを聞いたときは何を馬鹿なと考えた。
全裸なのにどうやって写真を撮るんだと益体のないことさえ頭に浮かんだ。
――まさかそれが真実なのだとは夢にも思わなかった。
アサルトライフルから吐き出された弾丸をチュインチュインと切り落とす全裸という出来の悪い悪夢のような光景が繰り広げられる。
敵側がカバーリングを行うことを想定して敷設されているトラップも、正面からのゴリ押しを敢行する輩には適切に機能を発揮しない。
「んー、ここには居ないっぽいかな。お邪魔したね! 夜更かしはあんまりよくないよ!」
そして冗談みたいな格好をした少女は何かの確認を終えたのか、こちらに構うことなく窓から飛び出してそのまま姿をくらませた。
「……なあアズサ。トリニティではああいうのが普通なのか……?」
変質者の消えた窓を眺めながら、素直な思いが口を突く。
もしやマダムが執拗に虚しさを語るのは、アリウスの外にはああいうのが生息しているからなのだろうか。
そう考えてしまうほどに理解と常識から外れた邂逅だった。
視界の端でアズサがものすごい勢いで首を振っているのを確認できるが、正直そこまで精神に余裕はない。
硝煙の匂いが立ち込める廃墟には、いたたまれない空気だけが残されていた。