水面を見上げながら、こぼりと空気が逃げていくのをぼんやりと眺めている。
何がなんだか分からない。
いきなり誰かに組み付かれたと思ったら身体は宙を舞い、そして今は水の中。
意外なほどパニックにならなかったのは、状況が既に詰んでいると確信してしまったからだろうか。
アリウス分派がトリニティへの進入経路として使っているのは、その地下に広がる太古のカタコンベだ。
複雑怪奇なその迷路は一定時間毎に構造が切り替わるという性質を持っており、それを把握せず場当たり的に突破することなど不可能に近い。
アリウスの生徒でさえ事前に教えられた道順が変わってしまえば抜けられない地下通路は、大凡日付の変わる頃にその構造を一変させる。
時刻は既に深夜。
タイムリミットまで幾ばくもなく、現在位置は不明。
おそらくは敵地の真っ只中であり、挙句ずぶ濡れにされて着替えもない。
いっそこのまま大きく息を吸い込んだら楽になるのかもしれないと、たゆたいながら考える。
戒野ミサキには希死願望がある。
Vanitas vanitatum et omnia vanitas.
全ては虚しい。どこまで行こうとも全ては虚しいものだ。
アリウスではそう教え込まされる。
――じゃあ、なんで生きてるの?
そう考えることは不思議なことだろうか。
上からの命令も、ゲヘナやトリニティへの恨み辛みだって、本質的にはどうでもいい。
だって全ては虚しいものなんだから。
上からの命令も、ゲヘナやトリニティへの恨み辛みだって、虚しいもののはずじゃないか。
そんなことに躍起になるだなんて、それこそ虚しいと言わないでどうするのだ。
友人達は立場相応にやる気を出しているから手伝っているけれど、わざわざそんなことをしたいとも思わない。
くぐもった波の音。
ミサキが着水した際に大きく揺れた水面が仄暗い月光を乱反射させている。
そしてそれが、再び激しくかき回される。
生み出された水流を肌で感じて視線を動かせば、緑の髪の友人が水を掻いてもがいていた。
はぐれなかったことを喜ぶべきか、一緒にはぐれてしまったことを嘆くべきか。
自分の命を諦めることはきっと出来るけれど。
友人を見捨てるほど人間性は捨てていないつもりだから。
仕方なく、諦めることを諦めて、銃身を重石に水の中を歩いてゆく。
二人そろって水面から顔を出せば、そこはどこかのプールサイド。
水を含んで重くなった衣類が身体に張り付き、否応無しに体温を奪っていく。
「うわーん! 荷物がびしゃびしゃです……折角集めた雑誌がぁぁぁ……!」
「思ったより余裕がありそうで安心した」
ヒヨリは長い髪から雫を滴らせながら、水を吸って歪んだ雑誌に涙を流していた。
彼女も彼女で悲観的な性質なのだが、一周回って図太く楽観的にすら感じるという味のある性格をしている。
「ともかくここから離れないと。派手に水飛沫も上がってただろうし、警備に見つかると不味い」
「うぅぅぅ……き、着替えも欲しいですよね……乾かすにしたって、せめて下着くらいはないと……」
裾を絞るだけでは焼け石に水。
替えの服を買うか、ランドリーで洗濯するか。
どちらにしても人目にさらされるだろうし、そもそも手持ちのお金で足りるのかも怪しい。
ジャケットを雑巾のように絞って水気を抜いていると、
――発砲音が響く。
「あだっ!?」
「っ!?」
側頭部を弾かれたヒヨリの口から悲鳴が上がる。
反射的に銃声が聞こえた方向に銃を構えるが、今なお水の滴るソレが整備もなしにまともに動くかは分からない。
「動くな」
けれど掛けられた声は、自分達の知っているもので。
「ままま待ってください私たち怪しいものじゃなくて全裸の変質者にプールに突き落とされたんですぅぅぅっ!」
「待ってヒヨリ……いや本当に待って? 今なんて言ったの? 全裸の変質者……?」
「ミサキにヒヨリ……? 二人もヤツに襲われたのか?」
「アズサも待って? え、トリニティには本当にそんなのが居るの……?」
「うわぁぁぁん! アズサちゃん服貸してください! 着替えが全部水没して、このままではいい女になってしまいます!」
真っ先にこの場に駆けつけたのは、どんな幸運が働いたのか、トリニティで唯一発見されても問題のない人物だった。
トリニティにスパイという名目で送り込まれた同じ部隊の仲間。
「アズサさん! 銃声が聞こえましたが何かあったのですか!?」
だが、わちゃわちゃとプールサイドで旧交を温めているところに、知らない声が響き渡る。
ハッとなってももう遅い。
この場所は遮るものなど何もないのだ。
今からでも更衣室にでも逃げ込む?
フェンスを乗り越えて逃走する?
プールの中に、なんてのは流石にないけど……。
「――ジャケットはそのままで。言い分もヒヨリの言ってた通りで問題ない」
顔を近づけたアズサから小声で指示が通る。
雑巾のように絞られたままの上着からはアリウスの校章を読み取ることは出来ない、はず。
「問題ない。威嚇射撃で済ませたから」
「いや思いっきり当てましたよね!?」
「威嚇射撃で済ませたから」
天然なのか狙ってやっているのか、アズサとヒヨリがまた馬鹿馬鹿しく騒ぎ始める。
薄暗いプールにやってきたのはジャージ姿のトリニティ生。
金の長髪に白い羽根という珍しくもない風貌だが、寝起きなのか羽は妙に毛羽立っている。
ああいうのの手入れって結構面倒くさいのかもしれない。
「あぁ、確かに二人いらっしゃいますね。無事で何よりですわ。ずぶ濡れのようですし、乾燥機をお貸ししますのでついて来てくださいな」
「……待って。確かに二人と言ったけど、どうしてそれを知っているんだ?」
「連れ去られそうになった子を助けたからフォローをよろしくと友人に叩き起こされましたの。おかげで手櫛も整えずに大急ぎで走ってきたのですが……見苦しい姿をお見せしてしまいましたわ」
乱れたままの翼を気にしながら、駆けつけてきたお嬢様は恥ずかしげな様子で頬を染めていた。
だけど、その口から出た言葉から違和感を拭い去ることはできなかった。
「……連れ去られそうになった? 私達が?」
「ミサキさん! ちょっと、ちょっとこっち来てください……!」
不意に横から引っ張られる。
よろめきながら数歩の距離を開け、悲観的な友人は耳元で囁いた。
「え、ええと……あの中でガスマスクしてなかったのって私たちだけなので、勘違いされたんじゃないかなぁって……」
「…………なにそれ」
小隊を率いている姿は、見ようによっては集団に囲まれているように見えなくもないだろうけど。
……いや、そうじゃない。
相手側が持っている情報がちぐはぐだ。
もしかしてトリニティ側はまだ、私達をアリウス分派という集団ではなく、ガスマスクの不審者としか認識してないんじゃないか?
「もうひとつ確認させて欲しい」
「まだ冷えますし、そちらの方々に暖を取らせてからではいけませんか?」
「そ、そうですよアズサちゃん。早く暖房の効いた部屋でホットミルクを頂かなければ風邪を引いてしまいます……」
「妙に図々しいですわね貴女……」
「大丈夫、すぐに終わるから」
潜入しているアズサの手を借りるのは悪い話じゃないけれど、それでどうなる?
リーダーは別働隊。
私達がはぐれたことに気付くのはアリウス自治区に帰り着いてからのはずだ。
そもそも全裸の変質者に襲われて行方不明になったなんて報告を、マダムは信じるのか?
……どう考えても無理だろう。
状況証拠を繋ぎ合わせれば、どさくさに紛れて逃亡したようにしか見えないのだから。
「状況的に全裸の変質者がその友人になるのだけど、それで合ってる?」
「趣味は少々変わっておりますが、自慢の友人ですわ。それが何か?」
それに姫はどうなってしまったのか。
……いっそ、トリニティに捕らえられていてくれればいいとさえ思ってしまう。
アリウスに連れ戻されれば最後にはどうなってしまうのかなんて、悪い予想しか立たないのだから。
「……流石に相手は選んだほうがいいと思う」
そのときのアズサは
ため息をつきたいのはこちらも同じだった。