キルシュタイン夫妻の逆行物語   作:1sen

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ep.14 The Diary of Tom Riddle/Grenzlinie

 

 

 

 

 

 ───気付けばそこは、一面の炎の海だった。

 

 地平線の遥か向こうまで、見渡す限りが猛々しい紅色に染まっている。

 まるで大地そのものが燃えているかのような激しい火の手はやがて黒煙となって天を覆い、夜の帳よりも深い闇をその場に齎していた。

 人も、物も、何も無い。

 在るのはただ只管、果てしない『無』の空間のみ。

 とてもこの世の物とは思えない程の現実離れした光景に、半ば諦めたような溜め息が口から漏れ出てしまう。

 

 「……地獄っつーのは、こんな『いかにも』な場所なのか……なんつって、な……」

 

 冗談めかして、ジャンは軽口を叩く。

 ……そうでもしなきゃ、()()()()()()()()()()()

 

 分かってる。

 もう、全部が終わっちまったって事は。

 自分は死んだ。

 ミカサを庇って、死んだんだ。

 

 その結末、それ自体に後悔はない。彼女の命を己の身一つで救えたのなら、それは本望というものだ。

 夫として、アイツを守ってやる事が出来た。満足だ。これ以上、望むべくもない。

 

 ……だが。

 後悔はなくとも、『心残り』はある。

 

 ミカサを、一人にしてしまう。

 まだ幼い子供達を、父親のいない子供にしてしまう。

 

 両親の事も、アルミン達仲間の事も。

 幾らでも浮かんできて、挙げればキリがない。

 

 「…………あ゛ぁ……クソったれ…………」

 

 ───ここが、終着なのか。

 

 身体の力が抜けて、地面に膝を付く。

 不思議と、熱は感じなかった。

 今際の際はこんなものかと、自嘲気味に笑って項垂れる。

 

 息子(マルコ)と、もっとチェスをしてやりたかった。

 (サシャ)に、もっと美味いもん食わせてやりたかった。

 末っ子(リンドウ)と、もっといっぱい遊んでやりたかった。

 

 ……ミカサと、もっともっと、一緒に居てやりたかった。

 

 「()()、死ねなかったんだがなぁ……」

 

 すまねぇ。

 すまねぇ。

 だらしない親父で。

 力の足りない夫で。

 

 悔しくて、情けなくて。

 知らず、涙が溢れた。

 震える拳で、感情のままに地面を殴り付ける。

 だがそこには微かな砂埃が舞うだけで、後に残るのは虚しい手の痛みだけ───。

 

 「…………?」

 

 ……砂?

 痛み?

 

 待て。

 ちょっと待て。

 考えろ。

 考えろ、ジャン・キルシュタイン。

 

 ……()()()()()()()()()()()

 

 なんで、ここまで思考を回せる。

 なんで、まだ痛覚が残ってる。

 

 「……違う……違うぞ、コイツは……」

 

 ───自分は、()()()()()()()()

 

 己の意志とは関係なく引き込まれる、謎の空間。

 その奇妙な事象に、覚えがある。

 ……思えば『そこ』も、()に満ちた世界だった。

 

 もしこの自分の読みが正しいのだとしたら。

 まだ、『終わってない』。

 

 「生も死もねぇ、別の世界……これは、『道』だ……!!」

 

 目を見開き、顔を上げる。

 ……すると、燃え盛る大地の更に向こう。

 何も無かった筈の空間に突然、『何か』が現れた。

 

 ───天に向かってそびえ立つ、()()()

 それはまるで馬鹿でかい樹木のように先端を無数に枝分かれさせ、空全体に根を張るが如く悠々と広がっている。

 そして、やがてその()()()を中心に、周囲の炎や煙が徐々に霞んで消えていった。

 漸く顔を覗かせた空には、満天の星々が輝いていて。

 ……己の中の『在りし日』の記憶が、脳を激しく打ち鳴らす。

 

 (───『座標』!ってことは……)

 

 仮説が、確信に変わる。

 やはりここは『道』の中だ。

 どうしてこの場所に来れたのかは分からない。だが少なくとも、まだ何かを変えられる可能性は残っている。

 諦めるな。

 見苦しくても良い。最後まで往生際悪く、とことんまで足掻き続けろ。

 

 考えろ。

 考えろ。

 

 考えろ……!

 

 「…………あ…………?」

 

 無我夢中になって、咄嗟に振り返り。

 そこで、異様な光景を目の当たりにした。

 

 ───()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……何が起こっているのか、一瞬理解が追い付かなかった。

 思わず何度も首を回して、自らの前後を確認する。

 

 一方には、嘗て見たそれと同じ『道』の景色。

 だが片や一方には、全く異なる『炎』の景色。

 それら二つが今、()()()()()()()()()()()()()()

 

 「何だ、こりゃ……」

 

 ふと足元に目を落とすと、そこは丁度『境目』のような場所だった。

 自分の今居る所を起点に、綺麗に狭間が生まれている。

 地面だけじゃない。空も同じように、雲や煙が不自然に偏っていた。

 ……まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()かのような、不気味な感覚。

 ジャンは思わず、喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。

 

 と。

 

 「……ん……?」

 

 不意に、『炎』の空間の中に違和感を覚える。

 さっきまでは無かった筈の、違和感。

 

 ……()()を見て、ジャンは全身が総毛立つのを感じた。

 

 引き寄せられるように、『炎』の空間へ再度足を踏み入れる。

 恐怖と疑念に頭を交互に殴り付けられながら、ゆっくりと()()に向かって近付いて行く。

 

 つい先程。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だが、明らかに様子がおかしい。

 ───()()()()()()()()()()()()()

 それにあちこちから火の手が上がっており、ともすれば今まさに『焼け落ちて』いるかのような状態であった。

 

 しかし、それでもなお。

 天に向かって悠々とそびえ立つ、『大樹』の如きその姿は、紛れもなく。

 

 「………………『座標』、だ………………」

 

 気の抜けたような声が、喉から漏れる。

 息をする事さえ忘れ、唖然として空を見上げた。

 かなり変わり果てているが、間違いない。

 背後に見える光の柱……『座標』と、瓜二つの形をしている。

 

 ───何だ。

 一体、何が起きてる……。

 

 あれが本当に、『座標』なのだとしたら。

 ()()()()()()()()()()()()()()()という事なのか。

 

 二つの『道』。

 二つの『座標』。

 それらが重なり合った、この不可解な空間。

 

 ───『何か、良からぬ事が起きている』。

 困惑と混乱の最中で、ジャンが今唯一理解する事が出来たのはそれだけだった。

 

 「畜生……どうする……どうしたら良い……!何か、手掛かりになりそうなモンはねぇのか……!」

 

 頭を抱えて、必死に辺りを見渡す。

 

 ……あまりに異常な事態だ。

 最早、これまでの知識や経験が通用するのかさえも分からない。

 この未知の世界で、何を軸にして動けば良い?何処から何を試せば良い?

 

 ───駄目だ。

 何も思い付かない。

 文字通りの、八方塞がりだ。

 

 「頼む……帰らなきゃなんねぇんだ、俺は!」

 

 来た道を飛ぶように引き返し、今度は『道』の空間の中を駆けずり回る。

 しかし何も見つけられず、また『炎』の空間へ。

 何度も。

 何度も。

 何度もそれを繰り返す。

 

 一体どれだけの間、そうしていただろうか。

 折れそうになる心に鞭を打ち、弱音を吐きそうになる口を頬ごと張って。

 それでも諦め切れず、死に物狂いで走り続けた。

 

 ……だが、何も見付けられない。

 ただ時間だけが、無情に過ぎていく。

 

 「!?……うおっ……!!」

 

 焦りと疲労からか、ジャンの足が縺れる。

 そのまま勢い良く転倒し、砂の大地に頭から突っ込んだ。

 

 砂の上に、無様に這いつくばる。

 立ち上がろうとするが、何だか身体に力が入らない。

 目の前には、依然として燃え盛る『炎』が在る。

 せめて『道』の方で倒れられたら、空が見えたのに……と、どうでも良いことをふと考えてしまった。

 

 ……駄目だ。

 自分一人では絶対に、この状況を打破出来ない。

 

 「………………」

 

 助けが、要る。

 この状況に共に立ち向かってくれる、誰かの助けが。

 

 「……れ、でも、いい……」

 

 力を振り絞って、身体を起こす。

 縋るように手で砂を掴み、その拳を額に打ち付けた。

 

 「……誰でも、いい……何でもする、から……頼む……!!」

 

 今、ここで自分を助けてくれるなら。

 ───悪魔にでも魂を売ってやる。

 

 「……俺に、力を貸してくれ……!!!」

 

 祈り、咆える。

 命を賭けたって良い。

 身体を捧げたって良い。

 それよりもずっと、大切な物があるのだ。

 そのためなら、何だって───。

 

 ───さら。

 さら、さら。

 

 「……っ!?」

 

 思わず、()()()()()()()()()

 

 ……何だ?

 今、一瞬。

 ()()()()()()()()()()()()()……。

 

 「気のせい、か……?」

 

 恐る恐る、地面を見下ろす。

 しかしそこには、何の変哲もないただの砂があるだけだ。

 時折風に吹かれたように、小さく流れて行くだけ……。

 

 (……風?)

 

 ゾクリと、背筋に悪寒が走る。

 ……()()()()()()()()()()()()()()

 

 「……な、にが……」

 

 喉を震わせながら、恐る恐る砂の行方を追う。

 

 さらり、さらりと。

 砂はなおも、動き続けていた。

 時折止まり、また動き出し、蠢くように固まっては奇妙な凹凸を形成していく。

 

 そして。

 現れた『それ』に、ジャンは息を飲んだ。

 何故なら、そこにあったのは。

 何処からどう見ても───。

 

 『ワカッタ』

 

 ───()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「は……?」

 

 驚愕の声を上げたのも束の間。

 またもや砂が勝手に動き始め、新たな文字を地面に浮かび上がらせる。

 

 『オマエニ、タクス』

 

 ……すると。

 突然、『黒い座標』が()()()

 

 空に広げた無数の枝、その内の一本。

 それがなんと、()()()()()()()()()()()()

 

 伸びて、伸びて。

 やがて枝は空間を超え、『道』の中へと侵入した。

 ……しかし、まだ止まらない。

 まるで宙を()()蛇のように只管に進み続け、その先端は一直線に『座標』へと向かっていく。

 そして、互いの枝と枝がぶつかりそうになった、その瞬間。

 

 ───二本の枝が()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「おい……何だ……何が、どう……なってやがんだ……!?」

 

 慌てて、地面の砂文字を睨み付ける。

 

 ……コイツの存在が何なのかはさっぱり分からない。

 だが、明らかに『独立した意思』がある。

 今の現象も、明らかにコイツの仕業だ。

 

 何なんだ、コイツは。

 一体、何をしようとしてるんだ。

 

 「……答えろ!!お前は何だ!!何者なんだ!?これは何、を、して…………?」

 

 ───そこで、言葉が途切れる。

 

 ふと目に飛び込んで来たのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 陽炎のように輪郭が揺らめき、しかし実体として確かに其処に在る、何とも不思議な様相の『それ』に思わず目を奪われ、()()()()()()()()()()()()()()と気付くのに幾らか時間を要してしまった。

 

 「な……」

 

 愕然として振り向くと、己の背後から空にかけて一本の細い筋が伸びている。

 目を凝らしてその根を辿ると、其処にはやはりと言うべきか、先程ひとりでに動いた『黒い座標の枝』があった。

 

 (……いつの、間に……)

 

 ……避ける暇も無かった。

 『死んだ』と思って、一瞬意識が飛びそうになる。

 

 だが。

 予想に反してまるで痛みは無く、血の一滴さえも流れない。

 いや、寧ろ。

 身体の中に、何かが巡って来るような……。

 

 『オマエヲ、コチラト、()()()()。アトハ、ウマク、ツカエ』

 

 ……分かる。

 何となく、感覚で分かる。

 

 ───これは、()()だ。

 それも、ただの記憶じゃない。あらゆる時代、あらゆる場所の人間が経て来た闘争の歴史……言うなれば、『戦闘経験』だ。

 膨大な量のそれが今、自分の身体に()()()()()()()

 それだけじゃない、別の『力』も肉体に染み込んで来るような気配も感じる。

 これは、まさか……。

 

 『サァ、イケ。ノコリハ、アチラデ、オギナオウ』

 

 砂文字に、そう告げられた途端。

 急に猛烈な、睡魔のようなものが襲って来る。

 

 『セイゼイ、シニイソグナヨ』

 

 ───現実に戻される。

 頭ではなく何故か、()()()()()それを理解していた。

 

 『……ナア、()()()()

 

 ───。

 ──────。

 ────────────まさか。

 

 「……ま、て……!待って、くれ……!」

 

 まだ意識を手放すまいと懸命に堪えながら、何とか口を開く。

 ……どうしても。

 どうしても、訊かねばならなかった。

 

 「お前……お前、は…………『()()()』、なのか……!?」

 

 もし、そうだとしたら。

 ───また、お前にも会えるなら。

 

 「教えろ……!どう、なんだ……!」

 

 ……幾らかの、沈黙の後。

 砂は静かに応えた。

 

 『チガウ』

 

 そうして、ジャンが完全に気を失う直前。

 最後に目にしたその文字は。

 

 『()()()()()()()()()()

 

 何処か、悲しそうに歪んでいた。

 

 

 

 

×××××××××××××××××××××××

 

 

 

 

 ……目を覚ますと。

 そこには、見知らぬ天井があった。

 

 「───っ!!」

 

 慌ててその場から飛び起きようとするが、全身に痛みが走って思うように動けない。

 顔を顰め、仕方なく目だけを動かして周りを見ると、どうやらそこはこじんまりとした小さな部屋のようだった。

 見覚えの無い場所だ。訓練兵団の医務室にしては、あまりに簡素過ぎる。ベッドも自分の寝ている一台しか無く、随分と殺風景に感じる。

 

 「んだ、ここ……」

 

 窓から覗く傾いた陽の光から、今が日没前であるらしい事だけは分かった。

 しかし、それ以外の情報が全くと言って良い程に無い。

 近くに誰か居ないものかと、望みを懸けて声を上げようとする。

 ……すると。

 

 「ん……冷てぇ」

 

 ふと額に、ひんやりとした物を感じた。

 ゆっくりと手を伸ばして触れてみると、そこには濡らした布巾が置いてある。まだ冷たさが残ってる所を見るに、置かれてからそれほど時間は経っていないのだろう。

 

 (少なくとも、()()()()()()()()()()……って事か……)

 

 ───気持ち良いな。

 誰だか分かんねぇけど、ありがとう。

 

 目を閉じて、静かに水の冷気を感じる。

 張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ解れていくような気がした。

 

 「……さっきのアレは、()()()のか……」

 

 エレン達の元に駆け付ける、少し前。

 瓦礫の山の中で潰れ、死にかけていた筈の自分が見た、『夢』のような何か。

 

 ……いや。

 『夢』なんかじゃない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 アレはそう、形容する他ないだろう。

 

 (……進撃の、残り火……)

 

 ───あの『砂』は、確かにそう()()()

 

 それがもし本当に、真実なのだとしたら。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()と、ジャンは静かに納得する。

 

 「最初、此処に来た時の『光』は……やっぱ、そういう事か……」

 

 手の甲を額に当て、溜め息混じりに呟いた。

 ……元の世界で、エレンの墓の前に居た自分達を包んだあの『光』。ヒトが巨人化する時のそれと似ているように感じた、その理由の一端が漸く分かった。

 

 察するに。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それならば、色々と辻褄の合う部分が出て来る。

 そして、あの瞬間。

 自分が死の淵を彷徨っていたあのタイミングで、『何か』が起こった。

 それにより、自分は『道』の中へと喚ばれ、『残り火』と出会い、再び現世に舞い戻って来る事が出来た……のかもしれない。

 

 (俺ぁ……どうなっちまったんだろうな……)

 

 ……()()()、と。

 『残り火』はそう言っていた。

 そして現に、自分はあれからとんでもない力を手にし、ぶっ倒れる寸前まで戦場で暴れ回る事が出来たのである。

 

 『道』を通じた『戦闘経験』の獲得……嘗て聞いた、アッカーマン一族の力の原理とよく似ている。だが彼らと違って、自分の身体能力がそれに追い付いていない、言わば『()()()()()()()()()()』状態なのだ。使い方を間違えれば最悪、自分自身の身体をも潰しかねない。

 

 それに、もう一つ。

 我ながら、信じられない出来事ではあるが───。

 

 (───巨人を、()()()()()んだ……俺が)

 

 あの時は何故か、『出来る』と信じて疑わなかったが。

 今になって漸く、その恐ろしさに気付く。

 

 『巨人を呼び寄せた』ということは、つまり。

 ……()()()()()()()ということに他ならない。

 それではまるで……。

 

 (……『始祖』の、能力(ちから)じゃねぇか……)

 

 唇を噛みながら、動揺を押し殺すように強く目を瞑る。

 

 一体。

 何が起こっているのだろうか。

 この世界にも、自分の身体にも。

 

 一人きりの狭い部屋の中が、馬鹿に広く感じる。

 不安で、心細くて。

 誰かに傍に居て欲しくて。

 ……堪らず、その名を呼んでいた。

 

 「───ミカサ……」

 「残念、ハズレだ」

 「へっ……?うぉ……っ!?」

 

 仰天して、ベッドから転げ落ちそうになる。

 何とかギリギリの所で踏み止まり、慌てて声のする方に顔を向けると、そこには見覚えのある女兵士が立っていた。

 

 「……ノックはしたぞ。その様子じゃ、気付いてなかったようだが」

 「し、失礼しました!え、と……貴女は確か、精鋭班にいた……」

 「リコだ。リコ・ブレツェンスカ……リコで構わん」

 「は、はぁ……あの、すいません、何故精鋭班の方が此処に……?」

 「見れば分かるだろ。お前の頭のソレを交換しに来たんだ。ついでにメシも持って来てみたが……どうやら、無駄では無かったようだな」

 

 フッと小さく笑って、リコと名乗った女兵士は食器の乗った盆と水音のする桶を軽く掲げてみせた。

 しかし、ジャンが聞きたいのはそんな事ではなく……。

 

 「い、いや……そうではなくてですね、どうしてこのような場所に上官の方がいらっしゃるのかと……」

 「それはお前、ここが()()()()()()()だからだ」

 「……はい?」

 「生憎と今、兵団は他の負傷者の手当で手一杯でな。それに、戦場の後処理もまだ終わっていない。見た所、お前には特に()()()()()()()()()()()から、一先ず此方で引き取って安静にさせておく事にしたんだ。部屋が手狭なのは許せ、空いてたのが此処しか無かったんだよ」

 

 言いながらテキパキとジャンの頭から布巾を取って、新しい物と交換し始める。

 そんなリコの姿を、ジャンはただ呆然と見つめる他なかった。

 

 「……何で、わざわざそこまで……ただの一訓練兵でしかない自分を……」

 「ただの?面白い事を言うじゃないか。度重なる危機を退け、あまつさえ区奪還の立役者の一人になった男が、随分と謙虚なものだ。お前に救われた側の人間達の気持ちは考えていないらしいな?」

 「は……?」

 「お前をここに運んだのは、精鋭班(われわれ)の意志だ。イアンを始め、誰もそれに異を唱える者は居なかったよ。お前を看ていたのも、私一人じゃない。残った全員で持ち回り、容態が変わらないか気を払い続けていた。たまたま私の番の時に、お前が目を覚ましたってだけの話だ。この後、イアン辺りがすっ飛んで来ると思うが……覚悟しておけよ?」

 

 新しく濡らした布巾を丁寧に折り畳み、此方の額に優しく乗せると、リコは面白がるようにニヤリとほくそ笑んだ。

 

 ……少しだけ。

 言葉が、詰まった。

 不安に揺れていた心の奥底に、熱い何かが込み上げて来る。

 

 「しかし、ややタイミングが悪かったな。ミカサ……アッカーマンの奴がここに居れば、泣いて喜んだだろうに」

 「っ!?ミ、ミカサ……アイツは、無事でしたか……!?怪我なんかは……!」

 「あぁ、問題ない。あれからほぼ丸二日、時間が許す限りずっとお前の傍に付きっきりだったぞ、アイツは。今はまだ、戦場の後処理に当たってる頃合いだと思うが……死体の山を見て動けなくなってる訓練兵達を、先頭に立って必死に支えてるよ。『彼が動けるなら、絶対こうするだろうから』……だとさ」

 「…………」

 

 ───どっ、と。

 脱力感と安堵が一気に身体中を駆け巡った。

 

 そうか。

 ……そうか。

 

 「良かった……」

 

 知らず、笑みが溢れる。

 それが聞けただけで、もう十分だった。

 

 ……すまねぇ、ミカサ。

 あん時も、折角お前と再会しといて、碌に何も言ってやれねぇままだった。ひでぇ旦那だよな。

 もし今日も此処に来てくれるなら。

 その分、ちゃんと色々伝えさせてくれ。

 

 心配かけて、悪かったって。

 またお前と会えて、嬉しかったって。

 ……『ただいま』って。

 

 「───全く。不思議だな、お前らは……()()()()()

 「……?」

 「お前とアッカーマンの間には、何か特別な繋がりがあるみたいだ。仲間同士の信頼関係よりも遥かに強くて……恋人というには、あまりにも深いように思える。まるで、そうだな……家族とか、()()にも近い何かを感じるよ」

 「え゛っ……い、いやぁ……そう見えますかね?ま、参ったなぁ、ハハハ……」

 「冗談だ。そう真に受けるな、ガキンチョ」

 

 そう言って悪戯っぽく笑うリコだったが、ジャンは内心冷や汗を垂らしながら、乾いた笑いを返す事しか出来なかった。

 

 ……てか、ガキンチョて。

 四十にもなるおっさんにとって、なかなかのダメージが入る一言である。ガワが十五なんだから、仕方のない事ではあるのだが。

 

 ───と。

 

 「……こんな風に、また笑えるなんてな」

 

 不意に、リコの手がジャンの頭に触れる。

 何処か慈しむかのようにくしゃくしゃとその髪の毛を乱雑に撫でながら、彼女は静かに言葉を続けた。

 

 「正直、此処にはもう戻って来れないだろうと思っていた。きっと、他の連中も同じ気持ちだった筈だ。倒れたイェーガーを守るだけ守って、そのまま何処かで巨人の餌になるだけだろう、と……。お前やアッカーマンが居なかったら、あと何人仲間が死んでいたか……想像すらしたくない」

 「……」

 「お前がどうして生きていたのか、どうしてあんなに急激に強くなったのか、今も腑に落ちない点はある。だが……それでも、お前があの場に駆け付けて、その力で私達を助けてくれたという『事実』に変わりはない。今の人類(われわれ)には、きっとそれだけで十分だ」

 

 やおらにベッドの隣に跪き、両の手でジャンの手をしっかりと握り締める。

 眼鏡のレンズ越しに見える彼女の瞳の奥は、何処までも澄み切っていて。

 言葉よりも尚強く、その想いが伝わってくるような気がした。

 

 「……皆を代表して、今言わせてくれ。ありがとう……キルシュタイン」

 

 ……。

 ……そうか。

 そうだよな。

 

 この身体がどうなってしまったのかは分からない。

 けれど、少なくともあの戦いで、自分は与えられた能力(ちから)を『誰かを助ける』事に使えた。

 それがあったからこそ、変えられた運命だってある。

 

 なら、自分が『()()()()()』は。

 変化に怯えるのではなく、この能力(ちから)()()使()()()()()()()()()()を考え、模索し、追求していく事だ。

 

 『上手く使え』。

 『残り火』はそうも言っていた。

 ───お望み通り、使ってやるとも。

 

 (やってやろうじゃねぇか、クソ野郎……!)

 

 だよな、『親友』。

 

 「……此方こそ、ありがとうございます。リコさん」

 「ん?」

 「お陰で今、自分も色々と踏ん切りが付きました。漸く少し、前に進めそうです」

 「……そうか。そりゃあ良かった」

 「ええ。必ず、この地獄を変えてみせます……約束させて下さい、()()()

 「───は?え……?」

 

 握られた手で、彼女の手を握り返す。

 思いの外小さなその手を壊さないように優しく、されど力強く。

 己の決意そのものを、大事に包み込むように。

 

 「諦めねぇぞ……俺は……」

 

 この能力(ちから)を完全に支配下に置く事が出来れば。

 ……元の世界に戻る手掛かりにも繋がるかもしれない。

 

 この世界の運命を捻じ曲げる。

 自分達の世界へと帰る。

 どちらか、じゃない。

 『()()()()』だ。

 

 絶対に、成し遂げてやる。

 

 「……お、お前……まさか……」

 

 ん?

 

 「いや、いや……いやいやいや……だって、お前にはアッカーマンが……」

 

 ……ん?

 

 「で、でも……いや、しかし……そもそも、年下は……」

 

 …………あれ?

 

 「あ、あの……リコさん?」

 「へっ!?な、なんだ、今度は何を……!?」

 「いやあの、大丈夫ですか……?何か、心なしか顔が赤いような……」

 「は!?ば、馬鹿!そんな筈ないだろう!これはアレだ、夕焼けの光だ!私がそう簡単に崩れるか!舐めるなよガキンチョ!」

 「は、はぁ……」

 「というか手、手を離せ!いや離してくれ!熱くて敵わん!お前の意志は伝わったから、十分!だから……!」

 

 ───ガチャーン。

 

 突如、部屋に響き渡った陶器のような物が割れる音に、思わず身体を強張らせる。

 音のした方をふと見ると……。

 

 「……あ……アッカーマン……」

 

 妙に恐る恐るといった様子でその名を呼んだリコが、顔を引き攣らせる。

 

 ……そこには扉の入り口の所で、何処か呆然と此方を見つめているミカサの姿があった。

 足元には恐らく食器か何かであっただろう焼き物の破片が細かく散らばっている。

 しかし何故か、彼女はそれを拾うような仕草も見せず、ただぼんやりとその場に突っ立っているだけだった。

 

 「ミカサ!!来てくれたのか!ありが……」

 

 とう、と。

 言い切る前に、ジャンはギョッとして己の目を見開いた。

 

 ……ほろり、ほろりと。

 ミカサの頬を、数滴の雫が伝う。

 

 「……う」

 「……う?」

 「……うわ、き……」

 「待て待て待て待て待て待て待て待て」

 

 身体の痛みも忘れ、慌ててベッドから飛び起きてミカサの下に駆け寄る。

 

 ───何だ。

 何がどうなっている。

 

 (……いや、まさか……)

 

 ……嘗て。

 亡き親友から長けていると評された、『現状を正しく認識する力』。

 戦場の最前線で己を生かし続けてきたそれによって、今現在導き出された答えとは───。

 

 「……違う!違う違う!誤解だ、それはマジで誤解だ!!」

 

 ───つまり、()()()()()なのだろう。

 彼女の身体を抱き締めながら、必死に弁明する。

 

 「んな訳ねぇだろ!お前以外に靡くか、俺が!」

 「……グス……でも、何だか……凄く、仲睦まじそうだった……」

 「アホ!ありゃお互いに感謝を伝え合ってただけだ!ですよね、リコさん!?」

 「えっ、あ、そ……そうだな……そう、だよな……」

 「何で、ちょっと言い淀んで……」

 「だから……!だあああ、もおおお!!」

 

 ……こんな筈では。

 こんな筈ではなかった。

 もっとちゃんとした空気の中で、互いを労りたかったのに。

 

 「悪かった!俺が悪かったから!とりあえず一回話を聞いてくれ、頼む!!」

 

 全身の悲鳴をガン無視して、只管嫁に頭を下げ続ける。

 拝啓、息子達……特に息子へ。

 異性への絡み方には常に細心の注意を払うように。

 

 親父が馬鹿だっただけ?返す言葉もねぇよ畜生。

 

 

 

 

 









題名から分かる方がもしかしたらいらっしゃるかもですが、砂のシーンは『ハリー・ポッターと秘密の部屋』より、リドルの日記の中に引き込まれる描写をイメージして書きました。
あの場面は何度見ても背筋がゾクゾクしてしまって堪りません。

今回の話で、また少し先への布石を打てたかなと思います。



では、また次回。
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