「───うし。こっちはこんなもんか」
そう言って、ジャンはよっこらせと立ち上がった。
額に流れる汗を袖口で雑に拭う。まだ春先だというのに、身体が火照って仕方がない。こりゃ夏がおっかないな、と一人苦笑した。
「ありがとう、あなた。こっちももう少しだから」
「おう。……しっかし俺も体力落ちたなぁ。ただの草刈りでこんなに疲れちまうたぁ、我ながら情けなくなるぜ」
「私達も四十手前なんだし、それが普通。寧ろ他の人に比べたら、ジャンはまだ若い方だと思う」
「そっか。そりゃ、ウチの奥さんの料理やら何やらのお陰だろうな」
「ふふっ、褒めてもダメ。お小遣いは増えません」
年季の入った手製の石墓の汚れを落としながら、ミカサは小さく微笑む。けれどさっきの言葉はそれはそれで嬉しかったので、今日の晩御飯にオムレツも出してあげようかな、なんて考えたりもしていた。
「悪いな。いつもこの辺のことを任せっきりにしちまってて。あのバカにしちゃあ俺と顔合わせなくていい分、願ったり叶ったりなんだろうがよ」
「あなたは忙しい立場だもの、気にしないで。こうしてお休みの日に一緒に来てくれるだけでも嬉しいの。それに……きっとエレンも、あなたが来てくれて喜んでる筈」
「あんまイメージ湧かねぇな」
「多分、直接は言ってくれないと思うけど」
「違いねぇ」
カラカラと笑って、ジャンはミカサの傍に腰を下ろした。
心底嫌そうな顔をして、でもどこか機嫌は良さそうにしているソイツの姿が容易に思い浮かぶ。自分だってそうだろうから。
そして互いに煽って、煽り返して、いつしか殴り合いになって、誰かが止めてくれるまで引けなくなって。
そんな子供じみた、馬鹿げた事をするに違いない。
……けれど。
そうして思い描いたソイツの姿は、いつだって幼いままだ。
「二十年、か……。いつの間にか、アイツの倍以上生きちまったんだなぁ。そりゃおっさんにもなるか、俺も」
「うん。私もおばさんになった。私のお母さんより、エレンのおばさんより、歳上になった。けど、それが嬉しいって思う。お母さんになるって、そういうことなのかもしれない」
「……かもな。しかしそうは言うが、お前ホント老けねぇよなぁ……それは東洋の血なのか、それともアッカーマン?」
「あと努力。頑張ってる。ジャンも油断してたら危ない。最近白髪が増えてきてるから、気を抜いてるとすぐ芦毛になっちゃう」
「馬じゃねぇわ」
最早一家でも定番のやり取りに、ミカサはクスクスと肩を震わせる。
丁度磨き終えて綺麗になった墓標の上を軽く小突き、「てめぇのせいだぞコノヤロ」とジャンは溜め息をついた。
「じゃあもともとは鹿毛だったってか」
「そう」
「いっそ黒く染めて青鹿毛にしてやろーかな……」
「似合わないと思う。エレンの変装してた時も似合ってなかった」
「それについちゃ同意見だ。二度とごめんだぜ」
「私は鹿毛の貴方が好き」
「……降参」
手をひらひらと振りながら、もう片方の手で顔を押さえて顔を隠そうとしている旦那の姿を、ミカサは嬉しそうに見ていた。
いつもは頼りになる彼だが、こういう場面に限っては弱い。なのでこうして時々直球で言葉をぶつけてその反応を見るのが、妻である彼女の特権であり、ちょっとした楽しみでもあった。
「……あー、あちぃなホントに!な、ミカサも暑いだろ!喉も渇いたし、さっさと始めよーぜ!」
そう慌てたように捲し立てて、ジャンは傍のバスケットをゴソゴソと漁る。
簡単な軽食、お菓子、小さなグラスが三つと出てきて、最後に少し風変わりなデザインの外国語が銘打たれたボトル。
それを見て、ジャンは少し寂しそうに微笑んだ。
「……昔、マーレで難民達と呑んだこと、覚えてるか?」
「うん、エレンが助けたあの子の……」
「あぁ。コイツは、そん時の酒だ。彼らの生き残りが作り方を教えてくれてな。最近、ようやく商品として扱えるようになったんだ。アルミンの奴が今日どうしても来れないからせめてって、わざわざ取り寄せてくれてよ」
「……」
「思えば、アイツと呑んだのはアレが最後だった……ってな。こうしてまたこの酒を囲む日が来るなんて、これも運命ってヤツか」
ボトルを開け、三つのグラスにトクトクと酒を注いでいく。
澄んだ琥珀色で満ちたそれを、一つはミカサに、一つは自分に、そしてもう一つを墓標の前にそっと置いた。
「今日は俺らしかいねぇけどよ、また近いうちに皆揃って顔見せに来るぜ。そんときゃそっちにいても嫌ってほど喧しくしてやっから覚悟しとけ。だから、今回は三人だけのしっぽり呑みで我慢しろな」
土の中で静かに眠る彼に向けて悪戯っぽくそう告げて、此方に小さくグラスを掲げる夫の横顔が、ミカサの胸をじんわりと温める。
───二十年。
人も、街も、世界も。それだけの歳月があれば、姿形なんていくらでも変わっていく。
それでも、自分だけは。自分の、この彼への想いだけは変わらないと思っていた。そしてやがては、過ぎ行く時の流れに唯一人、取り遺されて行くのだろうと。
事実、私は変わらなかった。心の中にはいつも彼が居て、彼の事を思い出す度に寂しさが胸を震わせる。きっと、私がこの生涯を終えるまで、それは決して無くならない。
違ったのは、一人じゃなかったこと。
変わらない私の隣に、「それがお前だろ」と言って寄り添い続けてくれた人がいたこと。
その人も変わらず、同じ人を大切に思い続けてくれたこと。
想いは変わらない。
代わりに、別の想いが沢山増えた。
寂しさは消えない。
けれど、苦しさはもうない。
首元のマフラーを小さく握り締める。
寒さはない。この人が、暖かくしてくれるから。
確かな熱を内に感じながら、ミカサは同じようにグラスを掲げ、二人で優しく墓前のそれへと打ち当てる。
久方振りに口にしたそのお酒は、ほんの少し苦みが増していたけれど、変わらずとても美味しかった。
「エレン。お誕生日、おめでとう」
どうか、このお酒の味が貴方にも届いていますように。
××××××××××××××××××××××××××××
───目を覚ますと。
私はベッドの上で寝ていた。
「……………………」
ベッド?
どうして?
私はジャンと一緒に、エレンのお墓の傍にいた筈……。
「……………………?」
ふと視線を上に上げると、見慣れない天井が広がっていた。
どこだろう、ここ。
私達のお家じゃない……。
「……………………!」
少しずつ、意識が覚醒していく。
それと同時に生まれる、焦りと戸惑い。
思わず、ベッドから跳ね起きた。
(ここはどこ!?私はどうしてこんな所に……!?)
辺りの様子を確認しようにも、何故か周囲がカーテンのようなもので囲われていて景色が遮断されている。
慌ててベッドを飛び降り、カーテンを破り捨てんばかりの強さで勢い良く開いた。
目に飛び込んで来たのは、ここ最近ではあまり見なくなった古い木造様式の簡素な部屋。ベッドがいくつか並んでいる所を見るに、医務室のような場所なのだろうか。
「どこなの……ここは……」
そもそも、直前の記憶が思い出せない。
私はさっきまで間違いなく、エレンのお墓の前でジャンとお酒を飲んでいた筈だ。
飲み過ぎた?……あり得ない。まだ、口を付けたばかりだった。
混乱が混乱を呼んでいる。
そんな中で、ミカサは恐ろしい事に気がついた。
「……っ!待って、ジャンは!?」
夫がいない。
ついさっきまで一緒にいたのに!
(何……どうなっているの……)
足元の感覚が、無くなっていくような感覚に襲われる。
それなのに、気持ち悪いくらいに妙に身体が軽い。
どうして良いのか分からず、吐き気が込み上げてくる。
「……ジャン!!」「ミカサァ!!」
堪らずに出た自分の叫びと重なって聞こえた、その馴染みのある声と共に。
ミカサが寝ていたベッドの隣からカーテンを巻き込んでゴロゴロと男の影が転がり出てきた。
───いた。ジャンがいた。
滅裂になっていた思考に、僅かながら冷静さが戻る。
「っ!?ミカサ、そこにいるのか!無事か!?」
大慌てで出てきたのか、カーテンの大布に覆われながらモゴモゴと喋っている。きっと自分と同様、目を覚ましたばかりで混乱しているのだろう。
一先ず、怪我などはしていないようで安心した。
「……ジャン、私はここ!大丈夫だ、か、ら……」
急いでジャンの下に駆け寄り、大布を捲り上げて彼を救出する。
そして、彼の姿を目にした瞬間。
ミカサの時間は、完全に止まった。
「……ぶはっ!すまん、助かったぜミカ、サ……」
大布の中から解放されたジャンもまた、自身の妻の姿に言葉を失う。
───懐かしい。
奇しくも、二人が瞬間的に抱いた感想は全く同じものであった。
まだあどけない顔立ちに、幼さが見える一回り小さな身体。
そして何より、互いが身に纏うその衣服。
胸に刻まれた
忘れもしない、『訓練兵団』の物だ。
「……お前、ミカサ……なのか?つか、その格好……」
「ジャンも……貴方、本当にジャンなの……?今の貴方、まるで」
昔の───と続けようとした所で、不意に部屋の扉の向こうから、誰かが話しながら近づいて来る声が聞こえてきた。
「…………二人とも、そろそろ目を覚ましたかな。外傷も特に無かったようだし、大丈夫だとは思うんだけど」
「あの二人が立体機動の訓練中に失神、だからね……シャーディス教官も驚いたと思うよ。僕らだってびっくりしちゃったしさ」
「ミカサが気絶するなんてな……アイツも人間だって事か」
「君、ミカサの事を何だと……」
「あとはジャンだな。あの野郎、絶対機嫌悪りぃぞ。得意分野で評価下げちまったんだし」
「まぁ、ジャンなら大丈夫だよ。多分死にものぐるいで取り返そうとするさ」
「もし俺らに八つ当たりしてきたら倍にして返してやる。アニの格闘術も大分掴めて来たしな」
「穏便に頼むよ……」
困ったような笑い声と共に、扉がガチャリと開けられる。
そこに立っていたのは───。
「…………」
一瞬の静寂が辺りを包み込むのと同時に、ミカサとジャンの目がこれ以上ないという程に見開かれる。
───あり得ない。
あり得ないのだ。
自分達の見た目が若返っている、なんて非現実的な事すら、この目の前の光景に比べれば何処か霞んでしまう。
「あ、良かった。目が覚めたんだね、二人とも」
一番前にいた金髪の少年が微笑む。
───アルミンだった。
しかしやはり、ミカサ達と同様に幼い頃の姿をしている。
「やあ、ジャン。お見舞いに来たよ。具合はどう?」
「……よう、ミカサ。大丈夫か?」
それに続く、二人の黒髪の少年。
そばかすが特徴的な、人の良さそうな顔をした方がジャンに朗らかに問い掛ける一方で、意思の強さを物語るような鋭い目付きの、やや人相の悪い方がミカサにぶっきらぼうに尋ねる。
驚愕と、混乱。
脳みそが丸ごと泡だて器で掻き回されるかのような衝撃の中で、ジャンとミカサが漸く発する事が出来た言葉は、彼らの「名前」だけだった。
「……エレン」
「……マルコ」
掠れる喉で、その名を呼ぶ。
二十年以上ぶりに再会した、「死んだ筈の」少年達は、大昔の記憶の中にある姿そのままで二人の前に現れたのだった。