後々の展開も踏まえて、ここまでは書き切りたく……。
───何だ、これは。
目に飛び込んで来る全ての情報が完結しない状態で突き付けられる、途方もない理不尽に脳を侵されながら、ジャンはそれでも一つだけ、己が今何をすべきかを理解し、死物狂いになって身体を動かしていた。
「……え、えーと?どうしたのさ、二人とも……そんなあり得ない物を見たような目をして……」
「何だよ、そんなに俺らが見舞いに来るのが意外だったか?」
「ていうかジャン、君カーテンを壊しちゃったのかい?備品の破損は教官に絞られるんだから気を付けないと。この前だってコニーとサシャが……」
やれやれといったように溜め息をつきながらジャンとミカサの下に歩み寄り、カーテンの布を拾おうとしたマルコの腕は、横から伸びてきた手に掴まれ、阻まれる。
驚いたマルコが目線を上げると、そこには彼が今まで見たこともないくらいに酷く険しい表情をした親友の顔があった。
「ジャ、ジャン?カーテンを拾いたいんだけど……」
「……くな」
「え?」
「動くな。全員、その場から」
低く、静かに。
しかしその言葉は部屋全体に響き渡った。
声の主の目線は次いで、三名の来訪者へそれぞれ向けられる。
明らかな懐疑と、警戒の目。
当然、そんな様子を黙って見ていられる筈もなく。
「おい、ミカサ!ジャンのヤツどうしたんだよ、こんな急に……」
「ジャン!やめてよ、マルコの手を離して……」
動揺したアルミンがジャン達の仲裁に、エレンがミカサに事情を聞こうと一歩踏み出した。
───それが、引き金になってしまった。
「……動くなっつっただろうが!!!!」
怒号。
一少年の癇癪とは明らかに違う、上官による命令にも近い迫力。
その確かな「圧」に、まだ経験の浅い訓練兵達の動きは完全に制されてしまった。
常より温厚なアルミンやマルコのみならず、普段はジャンと犬猿の仲であるエレンでさえもが、ただ言われるがままに口を噤む。
張り詰めたような緊張感が広がる中で、「圧」を解かぬままジャンはゆっくりとマルコ達に告げた。
「……そのまま三人共、この部屋を出ろ。何も無ければ居室に戻ってくれ。後で教官への報告義務があるなら、『自分もミカサも身体面に異常は無いが、まだ少し意識が朦朧とした状態』だとでも伝えて、他の連中に訊かれても同じように返せ。兎に角、俺達は今日は休む……良いな」
必要な指示だけを簡潔に伝え、余計な情報は一切漏らさない。
一つ一つ慎重に言葉を選びながら、掴んでいたマルコの腕を静かに放す。
───頼む、行ってくれ。
冷や汗を頬に感じながら、ジャンは縋るような思いで祈った。
きっと、
「……分かった、そうするよ。エレンもアルミンも、それでいいだろう?」
果たして、ジャンの祈りが通じたのか否か。
マルコは大きく息を吐き、両手を軽く挙げて承諾の意を示した。
彼が折れた以上はと、エレンとアルミンも───エレンはやや不服そうな表情ではあったが───特に異論を唱える事なく、同意をするように頷く。
「幸い明日は休日だからね。二人とも、しっかり回復するまで休むと良い。周りにも、僕から上手く言っておくさ」
「……話が早くて助かる。すまねぇな」
「伊達に君の親友してないだろう?」
そう言ってマルコは微笑んだ。
……ジャンは、笑えなかった。
下手に表情を動かせば、堪えていたものが決壊してしまう気がしたから。
「じゃあ、僕達はお暇するよ。二人とも、お大事に」
「う、うん。ミカサもジャンも、無理しないでね」
「……じゃあな」
マルコに続く形で、アルミンとエレンが部屋を後にする。
そうして三人が出ていった扉が、ガチリと音を立てて閉まった瞬間。
「……っ!!」
咄嗟に、ジャンは腕を伸ばす。
刹那、しっかりと抱き込むように受け止めたのは、呼吸を大きく乱して気を失った、自身の妻の身体だった。
「よく耐えたな……ミカサ……」
彼女の、艷やかな黒髪を優しく撫でる。
───ミカサを、妻を守る。
混乱の最中に己を突き動かしていた、その唯一の目的が果たされ、ジャンもまた身体から力が抜けていくのを感じていた。
×××××××××××××××××××××××××××××
「何だったんだ、ジャンのヤツ……」
医務室から帰る道すがら、エレンは訳が分からないと言った具合でそう呟いた。
「アイツのあんな姿、見たことねぇ。マルコはあるのか?」
「いや、僕もだよ。ああいう雰囲気でジャンと話をしたのも、これが初めてだ」
「……僕、何故か最初の洗礼の時のシャーディス教官を思い出したよ。どうしてか分からないんだけど、不思議と……」
「クソッ、何かジャンに負けちまったみたいでムカつくぜ……」
パシッと掌を拳で殴って不満を露わにするエレンの横で、マルコはアルミンの言葉に何か引っかかる物を覚えていた。
「教官……確かに、教官みたいだった。でも、それ以外はいつものジャンだったし……」
歩きながら色々と考えてはみるものの、真相はやはり不明だ。
結局、次に会った時にいつもの彼に戻っていればそれで良いということに落ち着き、三人は一度報告のために教官室へと向かう。
しかしマルコは、その違和感がどうにも頭から離れないでいた。
───
そんな突拍子もない考えが頭を過った所で、「思い込みが過ぎるな」と、二人に気付かれないよう小さく溜め息をついた。
×××××××××××××××××××××××××××××
───これは、なに?
思考が、途切れる。
───悪いユメ?
身体が、震える。
ミカサにとって、何より大切な記憶。
彼と過ごした日々、その一日一日。
それはいつまでも色褪せる事なく、彼女の心の一番大事な所に、宝物として眠っていたもの。
ミカサをミカサたらしめる、大きな大きな宝箱だった。
それが、何の前触れもなくこじ開けられた。
宝箱の中に閉じ込められてしまったようだと、ミカサは靄がかかった頭で何処か他人事のように考えていた。
視界が霞む。呼吸が苦しい。
意識が、薄れて───。
「……動くなっつっただろうが!!!!」
怒号。
気を失いかけたミカサは、すんでの所で夫の声に呼び戻された。
───ジャン。
抜けた身体の力が、ほんの少しだが戻って来るのを感じる。
そうだ。
今、自分は一人じゃない。
戦っている。夫がこの状況に、立ち向かっている。
自分だけ倒れる訳にはいかない。
少なくとも、ジャンと二人きりになるまでは繕わなければ。
……自分は、彼の妻なのだ。
耐えて、耐えて、耐えた。
ジャンが三人の視線を集めてくれたお陰でいくらかマシではあったものの、それでもきっと酷い顔をしていたとミカサは思う。
永久にも感じる時間を耐え、やがてエレン達が部屋を出ていった瞬間、張り詰めていた糸は切れ、彼女は意識を手放してしまった。
倒れそうになった身体が、優しく抱き留められるのを感じる。
「よく耐えたな……ミカサ……」
沈み行く思考の海に、柔らかく響いた低い声。
酷く憔悴した心に滲む一筋の安堵が、ミカサの瞳から雫となって零れ落ちた。
×××××××××××××××××××××××××××××
再び目を覚ますと。
そこには、同じ天井があった。
既に一度見ていたから、あまり驚きはない。
先と違うのは……。
「……!良かった、目ぇ覚ましたか……」
安心したように此方の顔を覗き込む、夫の姿があるという所だ。
自分はベッドに寝かされていたのだと、そこで漸く気付く。きっと彼が運んでくれたのだろう。
「……ジャン。ごめんなさい、私……気を失って……」
「失って当たり前だ。こんなとんでもねぇ状況、誰だっておかしくなる。気にするなよ」
ミカサの手が、ふわりと握り締められる。
───温かい。
自分がよく知る手よりずっと小さく、まだあまりゴツゴツもしてない。
けれどその優しい触れ方は紛れもなく、これまでずっと連れ添ってきた夫のものだった。
「もう少し、握っていて……」
少しだけ、甘えてみる。
この人ならきっと断らないからと、ちょっぴりズルい考え。
ふ、とジャンは小さく笑う。
そして、もう片方の手も使って、ミカサの手をしっかりと包み込んだ。
「いくらでも、な」
自分の熱を伝えるように、自分はここに確かに居ると伝えるように。
彼の手には、優しい力が込められていた。
「ありがとう……あなた」
「……何か、この姿でそう呼ばれると変な感じだな」
「じゃあ、『旦那様』?」
「もっと変になっちまった」
「子供たちの前なら、『お父さん』だけど」
「お前、さては結構元気になってきたな?」
「ふふっ……ごめんなさい。ジャンのお陰で、少し冷静になれた」
「なら許す」
そうして、二人で顔を見合わせて笑う。
何か、事態が好転した訳でもない。
相も変わらず分からない事だらけで、状況的には依然として最悪のままだ。
───けれど、まだ笑える。
いつもと変わらない夫婦漫才で、二人の間だけのノリで。
それだけで、酷く安心するのだ。
二人でいれば大丈夫。
互いにそう、強く思った。
× × × × × ×
「───少し、状況を整理するか」
ある程度ミカサの調子が落ち着いたと判断し、ジャンはそう切り出した。
何も分からないが、せめて分かることだけでも羅列して、ミカサと互いに共有しておきたかった。
医務室の隅においてあった適当な紙と鉛筆を引っ掴み、ミカサの横でカリカリと書き進める。
「まず一つ目。ここは、ほぼ確実に過去の世界だと見ていい。少なくとも、そう考えざるを得ないと思うだけの材料が揃っちまってる」
「うん……訓練兵時代の私達の姿。そして……エレンとマルコがまだ生きている。夢でも幻でもないなら、それしかない」
ミカサも起き上がって、ジャンの書いている内容を見ながら肯定の意を示す。
過去の世界にいる。にわかには信じ難い話であるが、ジャンは一つだけ、その切欠となったであろう出来事に心当たりがあった。
「やっぱ、あん時の『光』か……」
鉛筆を走らせる手を止め、頭を掻く。
ミカサは何のことか分からず、ジャンに問う。
「ジャン……『光』って、何のこと?」
「ん?ほら、最後に俺達が……あの、エレンの墓の前にいた時だよ。ほんの一瞬だったけど、彼処の一帯が光ったろ」
「……私、見てなかった」
「マジか……まぁ一瞬だったし、タイミングが悪かったのか?」
結構な光量だったと思うが……と、ジャンは首を傾げる。
しかし、問題はそこではない。ミカサが見ていなかったのなら、それはそれで構わないのだ。
肝心なのは、その『光』に
「雷、って感じでもない……ありゃあ、
「巨人……?そんな、巨人の力は全てこの世界から消え去った筈!エレンと一緒に……」
「ああ。勿論それは間違いない。エレンは自分の命と引き換えに巨人の力を終わらせた……だが」
ジャンはミカサと、己をそれぞれ指差す。
互いに若返ったその姿が、ジャンの中に嫌な仮説を生んでしまう。
「この状況がエレン───いや、『始祖の巨人』の力の残滓……みたいなものが働いてるんだとしたら、納得出来る部分が色々と出てきちまうんだ。俺達の今の状態もそう……例えば、
「……そんな……」
「若しくは、この世界そのものが『道』っていうのも考えた。エレンが最後、俺達に会いに来た時みたいに、『始祖』が周囲の景色や環境を操って別の世界を創り出してる、ってな。ただ、こっちの説は可能性が低いと思う。
「……」
ミカサは黙って、ジャンの説明を聞いていた。
巨人の力が関与しているかもしれない。
それは、彼女にとって何よりも恐れていた事態だった。
彼女は大きな代償を払って、その力をこの世から消した筈だ。
それがもし復活したとなれば、それは何のための痛みだったというのか。
───何のために、自分は彼を……。
「ミカサ」
ぽん、とジャンがミカサの肩を叩いた。
「……こいつはあくまで、まだ俺の中の仮説に過ぎない。しかしまぁ、考えの一つとしては互いに共有しておきたかった、ってだけだ。ミカサもその程度の認識でいてくれ」
「……うん」
ゆっくりと、ミカサは頷く。
その横で、ジャンは更に別の事に思考を巡らせていた。
ここまでの一連の流れを思い起こす。
……ミカサと二人、揃って医務室に運ばれ。
目を覚ました後、見舞いに来たマルコ達を半ば命令するような形で追い返し。
その後、ミカサと二人きりでこうして話している。
───いずれも、
「話を戻すぞ。……二つ目。俺達の行動は、恐らく俺達の元いた世界に影響を及ぼさない。『世界そのものが違う』、と考えるべきだ」
紙に、簡単な図を描く。
一本の長い横線を引き、横に「1」と書き込む。
そしてその線の中間辺りから、分岐するような線を一本別方向へ伸ばし、その横に「2」と書いた。
「俺達の元々の世界を、『1』の世界とする。この世界は、俺達がエレンの墓の前にいた時を区切りとして、時間の干渉なんて当然なく真っ直ぐ進んできた。……唯一、『進撃』で未来を知っていたエレンも、起こり得る事象に手を加える事は出来なかった」
「1」の線の終端までを鉛筆の先でなぞる。
「そして次。俺達は今こうして過去の世界へと戻され、この短時間でかなりの出来事を経験した。ミカサ、今こうしてお前と話してるこの瞬間もそうだ。全部が、
「1.」の線の終端から線の分岐点までをパッと戻り、そして「2」の線の終端までを同様になぞる。
「しかし、俺達の記憶は、未だ『1』のままだ。消える事もなく、『2』の記憶に上書きされる事もなく、そのまま残っている。つまり、『1』と『2』の世界は同時に存在しているって事になるんだ」
二つの線をトントンと叩いて、ジャンは説明を終える。
……ジャン自身、この現象がどういうものなのかまださっぱり理解できていない。
二つの世界。いわば同時並行的に存在する、もう一つの世界が生まれた。そのような事が有り得るのか。
しかし、眼前の事実として起こってしまっている。
ならばそうなのだろうと、自分を納得させる他ない。
「……何だか難しくて、頭がこんがらがってきた」
「あぁ。俺も自分で言ってて訳わかんねぇ」
ミカサもジャンも困ったように、一つ大きな溜め息をついた。
修羅場をいくつも潜って来て、訳の分からない状況に何度も投げ出されてきた二人だったが、今回ばかりは理解の範疇を超えすぎている。
相手は巨人でも兵器でもなく、「時間」。
最早、一つの概念そのものだ。
ただの人間である自分達に、どうこう出来るものではないような気さえしてくる。
「……つまり、だ。一つだけ確かだと思えるのは、俺達がここでいくら泣こうが喚こうが、向こうの世界に何も届かない……ってこった。だから救援なんてのは当然望めねぇし、向こうへの戻り方も、いやそもそも
そこまで言い切って、ジャンは小さく唇を噛む。
状況は相当絶望的だ。
今の自分達は、何を目的に動いて良いかも分からない。
その点に限って言えば、「天と地の戦い」の方がまだ希望は見えていたくらいだ。
───分かることを羅列すればするほど、分からないことが増えていくなんてな。
鉛筆を走らせる手に力が入り、ミシと嫌な音がした。
「……どうして……」
そんな消え入りそうな声に、ジャンはハッと我に返る。
向くと、ミカサがマフラーに顔を埋め、静かに涙を流していた。
「どうして、こんなことに……」
「ミカサ……」
堪らず、ジャンはミカサの頭を抱き締める。
その姿の幼さも相まってか、妻が一際小さく感じてしまう。
「……すまねぇ。折角元気になったってのに、また暗い空気にしちまったな。俺のせいだ、赦してくれ」
───つくづく情けねぇな、俺は。
ミカサの頭を撫でながら、ジャンは自戒した。
事実を言うだけだったらガキにだって出来る。
それを聞いた相手がどう思うかくらい、予想がつく筈だろうに。
自分の不甲斐なさに、ほとほと呆れてしまう。
「子供達にも……お義母さん達にも……アルミン達にも……もう、会えなくなるの……?」
不安を吐露するミカサ。
しかし、それを止める事はジャンには出来ない。
何故ならジャンも、同じ不安を抱えているから。
怖い。恐ろしい。
誰かに助けを求めたくてしょうがない。
それでも。
自分が、折れることは許されない。
夫として、父として。
そして、
「……諦めるなよ、ミカサ」
優しく、背中を叩く。
「俺達で、何としても帰り方を見つけるんだ。やれることは全部やって、くたばる寸前までは精一杯足掻いてみようぜ」
それは、ミカサに向けた言葉か。
はたまた、己に言い聞かせる決意の証明か。
「俺達は、往生際の悪い調査兵団なんだからな」
その意志は、常に。
『自由の翼』と共に。
その魂は、常に。
『亡き親友』と共に。
「───帰るぞ、二人で」
覚悟を決めた男の瞳には、大きな炎が宿っていた。