自分の拙い文章を読んで頂いているというだけでも、とっても嬉しい限りです。
今回もまあまあ長いです。正直、どこで区切るのかの判断が一番難しいかもですね……。
「……ごめんなさい、ジャン。私、また取り乱して……」
涙を拭いながら、ミカサは謝罪を口にする。
さっきからジャンには迷惑をかけてばかりだ。
自分だけ苦しがって、気を失って、泣いて弱音を吐いて……ジャンだって辛い筈なのに、それを吐き出す機会を自分が奪ってしまっている。
───いくら何でも甘え過ぎだ。
これでは、うちの子供達と変わらない。
妻としても、母としても失格。
今の所、夫の荷物にしかなっていない自分を、ミカサはただ恥じるしかなかった。
「……いや、今のは完全に俺が悪い。考えなしに突っ走り過ぎちまった。まだまだだな、俺も」
「違う!あなたはただ、状況を把握しようとしただけ……何もおかしい事は……!」
「それでも、お前を泣かした事には変わりはねぇんだ。ったく、チビ達に会わせる顔がねぇぜ」
苦笑するジャンの腕の中で、ぐっと彼のシャツを握り締める。
……だめだ。
また、甘えそうになる。
ずっとこの温もりに、包まれていたいと思ってしまう。
けれど、頭の中の冷静な自分が警鐘を鳴らしている。
その弱さはいつか、己を苦しめる毒になる、と。
これから先、この世界にたった二人で立ち向かって行かなければならない。
異常に充ちたこの状況では何が起こるのかも分からず、もしかしたら二人が離れ離れになる時があるかもしれない。
そんな時に、自分が彼に寄りかかったままでは、きっと何も出来なくなる。支えてくれる人がいないと脆いだなんて、役立たずも良い所だ。
───彼の枷になるような存在にはなりたくない。
「……ジャン」
そう言ってミカサは顔を上げると、両手でジャンの顔をふわりと包んだ。
「聞いて」
そのままコツン、と自分のおでこを彼のおでこに小さくぶつける。
驚いた様子のジャンに、ミカサはありったけの言葉で自身の思いを伝えようと口を開いた。
「私は、あなたの奥さん」
目を閉じて、彼を感じる。
その体温。その息遣い。耳を澄ませば鼓動さえも分かる。
「あなたに支えられるだけの女には、なりたくない」
その優しさを受け取るだけでは、対等じゃない。
彼の伴侶である以上、自分も彼にとって、同じような存在でなければならないのだ。
……あなたが辛い時は、今度こそ私が。
自分の心に灯った熱がじわりと身体中に広がっていくのを、ミカサは静かに感じていた。
「あなたのことも、支えたい」
だって、夫婦なのだから。
暫しの静寂が、二人を包む。
どれだけ自分の思いが伝わっただろうと、ミカサは少し不安になった。
お世辞にも、口が上手い方とは言えない。
もっと色んな言葉を重ねるべきだったかもしれない。
拙くてもいいから、もっとしっかり───。
「───ありがとな、ミカサ」
その言葉と共に、今度はミカサの顔がジャンの手に包まれる。
「俺がヤバい時は頼んだ。最悪、ぶん殴ってでも引き戻してくれると助かる」
「任せて。得意分野」
「……そうなんねぇように頑張るわ」
目を開けたミカサの前には、ちょっぴり頬を引き攣らせながら微笑むジャンがいる。
顔が近い。
いつもより身長差がないからだと気付く。
……ほんのちょっと上を向くだけでいいのは、楽かも。
頭の片隅でそんな事を思いながら、ミカサはゆっくりと唇を近づける。
応えるように、ジャンも少しだけ顎を引く。
───若い頃の姿をしたお互いとの口付けは、何となく不思議な味がした。
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「……なんか、すげぇ緊張するんだが」
手汗をズボンでゴシゴシと拭いながら、ジャンは呟いた。
嘗ては殆ど訪れた事のない部屋の前で、これから二十年以上振りに会うであろう人物の顔を想像し、当時の厳しい訓練での記憶が嫌でも鮮明に蘇ってくる。
しかし『彼』と接触しない事には今後の身動きが取れないと、ジャンとミカサは意を決して医務室を後にし、卒業して久しい訓練兵団の兵舎をあっちへこっちへと迷いながら漸く目的の場所に辿り着いたのだった。
「結局、あれからまだ本人の行方が分かっていないとはアルミンから聞いてた……じゃあ、やっぱり」
「さぁ、な……ただどっちにしろ、二度と会えないだろうとは薄々思ってた。それがこんな所で覆るとは、つくづく人生ってのは不思議だぜ」
二人が最後に『彼』と会ったのは、『地ならし』直後のシガンシナ区。ジーク・イェーガーによって巨人に変えられた仲間を討つべく、砦に集まった時のこと。
当時の訓練兵達を導いて、ジャン達の掃討作戦の助力をしてくれた『彼』に、あの時は結局礼の一つも言えないまま島を後にしてしまったと、二人は後悔していた。
「色々とあったが、俺達にとっちゃやっぱ恩師だからな。一緒に酒でも飲んでみたかったが……」
少し寂しそうに目を細めた後、気持ちを切り替えるような大きな深呼吸を一つして、ジャンは扉を丁寧にノックする。
間を置かず、「入れ」と低く厳格な声が部屋の内から聞こえ、部屋の主の在室を二人に知らせる。
「……ここは、俺がやる」
ミカサにそう囁き、ジャンはノブを捻って扉をゆっくりと開く。
やがて二人の視界に入ってきたのは、奥の机の上で大量の書類を広げて目を通している、一人の男の姿だった。
「失礼します……『シャーディス教官』」
その言葉に、書類に落ちていた男の目線がジロリと此方に向けられる。
───キース・シャーディス。
104期訓練兵団主教官、そして元調査兵団第12代団長。
「……貴様らか」
久方振りの再会を果たした『恩師』は、その代わらぬ迫力を以て、静かに二人を迎えたのだった。
× × × × × × × ×
「敬礼は」
教官の口から最初に発せられた言葉はそれだった。
不意を突かれたジャンは、思わず聞き返してしまう。
「……は、敬礼?」
「敬礼だ。まさか入団から二年も経って、今更『入室要領を忘れた』などと抜かすのではあるまいな。それとも気絶をしている間に全て記憶を飛ばしたか。生憎と、その程度の事を一から叩き込んでいる余裕など無い。使い物にならん兵士は例外なく開拓地送りだ」
そう言って自分とミカサを睨む教官の姿に、ジャンは漸く己が失態を犯した事に気付く。
───やべぇ。
兵士という立場でなくなって暫く振り過ぎて、完全に頭から抜けていた。
慌てて右手を胸に、左手を腰に回し、兵団の『敬礼』の姿勢を取る。
「し、失礼しました!自分が代表です!ジャン・キルシュタイン以下二名、シャーディス教官に報告を致しに参りました!」
合ってるよな、これで……と冷や汗を流しながら、ジャンは恐る恐る教官の顔を伺う。
なにぶん、つい昨日までは世界を引っ張る英雄の一人として、国の統治すら部分的に行っていた事がある程の権力がある立場だったのだ。事実、油断をしていなかったかと問われれば否定することが出来ない。
───今の俺は一兵卒。今の俺は一兵卒。
自分に言い聞かせるように、心の中でそう繰り返す。
「……敬礼の動作がぬるいぞ。貴様らも完成期に入ったのだ、如何なる状況であろうと怠慢は許さん。次は無いと思え」
「はっ!是正致します、申し訳ございませんでした!」
言いながら、ジャンはギリギリで難を逃れたのだと悟った。
───あっぶねぇ。
思わず口から漏れ出そうになる溜め息を必死に押し殺す。
横をチラリと見ると、空気を察してくれたのだろうミカサが姿勢を正したまま、心配そうに目線だけを此方に向けていた。
これはボロが出る前に要件を済ませた方が良いな……と、ジャンは教官の続く言葉をじっと待つ。
「……貴様らの容態は、先刻にマルコ・ボットから聞いていた。少なくともすぐに回復出来る状態では無かったと言っていたが……その様子であれば、今後の訓練に支障無しと見做して良いということだな?」
「はい!我々二人の復帰を許可願います!」
「良かろう。しかし今回の一件で、貴様らの評価は間違いなく下がった。その分は貴様ら自身が勝手に取り戻せ」
「はっ!!」
返事と共に、もう一度敬礼を行う。
……そんだけ?
あまりの話の早さに、ジャンは少し拍子抜けしてしまう。
訓練中の事故だったらしいとはいえ、自己管理だの何だのと何かしらの説教を受けるだろうと覚悟していた……のだが、まさかこれほどすんなり終わるとは思ってもみなかった。
───まぁ、何事もないに越したことはねぇか。
思わぬ誤算に内心でほっと胸を撫で下ろし、急いでミカサと教官室を後にしようとした。
だが。
「……待て」
背後から突然、静止の声が掛かる。
驚いた二人が振り向くと、何処か怪訝な顔を浮かべながら此方をじっと見つめる、シャーディス教官がいた。
「……は。どうか、なされましたか……?」
何か自分が粗相をしたのかと、唾を飲み込むジャン。
しかし教官の方からは、指導をする時のような鋭い空気が一向に感じられない。
寧ろ、何か不思議な物でも見たかのような───。
「……いや、何でもない。以後の訓練、心してかかれ」
ただ、それだけ。
そして再び、何事も無かったかのように書類の山に目を落とす教官の姿に、二人はただ疑問符を浮かべるしか無かった。
× × × × × × × ×
───何だ?
教官室を後にする二人の訓練兵を見送りながら、キース・シャーディスは何処か奇妙な違和感を感じていた。
人を見る目は確かな方だと自負している。
これでも嘗ては人を束ね、自由を求めて壁の外へと挑んでいたのだ。統率とは、人を知らぬ事には始まらない。
己の無力さを痛感し、このような僻地へと引き籠もってしまった今も、その目だけは失われていない筈だ。
だが。
その自負が今、僅かに揺らいだ。
───ジャン・キルシュタイン。
内地での生活のために憲兵団を志望すると公言しているような、利己主義且つ現実主義な男。
その在り方を否定する訳では無いが、このまま行けば奴の行き着く先は有象無象の兵士の一人に過ぎないだろうと思わざるを得なかった。
その点で言えば、自分と同じ。
何かを変える事も、何かを成し遂げる事も無い。
違うのは、奴自身がそれを望んでいるということ。
良く言えば平和に、悪く言えば無難に。生涯を全う出来ればそれで良い。
そんなどこにでもいる、優秀な普通の人間。
……それが、今まで見てきた奴の評価だった。
自分しか居なくなった教官室に、溜め息が響く。
大体の人間は、目を見れば分かる。
特に、
壮絶な経験をした者にしか宿らぬその暗い輝きは、例え本人が気付かなくとも、同じ経験をした人間には分かるのだ。
奴の目は、まさにそれだった。
調査兵団で嫌と言うほど見てきた、地獄を知る目。
───そんな筈はない。
己の中の理性的な面が否定する。
たかだか数日で、人が変わる訳が無い。
第一、奴は実戦経験すら無い訓練兵だ。
一体どこでどうやって、そんな経験をしたというのだ?
……きっと、自分の思い過ごしだ。
そう結論付けて、キースは
理性の片隅に巣食ったままの小さな疑念に、無理矢理蓋をして。
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「大丈夫か、ミカサ?」
「……少し、怖い。けど、大丈夫」
ミカサがジャンの腕を掴む。
その手から伝わる震えが、言葉以上に彼女の心を表していた。
二人は今、食堂の前に立っている。
既に日は暮れ、現在は訓練兵達の夕食の時間。
厳しい訓練を終えて、ようやっと食事にありついたのであろう彼らの憩いの談笑が、離れた所からでも充分に聞こえてくる。
───教官に会った時の比じゃねぇな。
限界まで引き絞った弓の弦より尚張り詰めた意識が、どれだけ深い呼吸を繰り返しても解けてくれない。
自分の腕を掴むミカサの手に、ジャンはもう一方の手を重ねた。
「……さっき、事前に打ち合わせた通りだ。俺達は今から『三年目の訓練兵』を演じて、あいつらの中に溶け込む。何も知らない、ガキだった頃の俺達としてな」
「……うん」
「未来での知識も経験も、一切口にしちゃならない。特にライナー達、マーレから来た連中には、絶対に俺達の秘密を悟られないようにすること。その気になれば、奴らは巨人の力を使って俺達を消しに来る……どころか、ここに居る人間を皆殺しにして、強制的に口封じをすることだって可能なんだ。この、訓練兵団そのものが人質だと思わなきゃなんねぇ」
「……うん」
「そして、今から……俺達は人前で、夫婦としていられなくなる。ただの同期として、一定の距離を置いた関係であること。それが一番、あいつらに違和感を与えないで済む方法だと思う」
「……」
ジャンと離れて過ごさなければならない。
精一杯強がってはいるものの、ミカサはやはり不安だった。
突然この世界に放り込まれてからここまで、全部ジャンが何とかしてくれていたのだ。
彼と表立って接触が出来なくなるということは当然、その間の困難は自分で何とかしなければならないということ。
夫の存在が一体どれだけ大きかったか、ここに来て改めて実感する。
───それでも。
いつまでも、彼におんぶにだっこじゃいられない。
彼を支えるのだと誓ったのだ。
深呼吸を一つして、ジャンの顔を見る。
「……誰もいないところなら、一緒に居られる?」
「ん、多分な」
「皆が寝た後、夜とかは会っていい?」
「勿論」
「……分かった。じゃあ……少しだけ、さようなら」
ジャンの腕から静かに手を離す。
途端に、身体から熱が奪われていくような気がした。
───大丈夫。
怖がっている弱い自分に喝を入れて、少しだけジャンと距離を空ける。
ただの同期で、ただの仲間くらいの距離感の人間に取るような、絶妙な塩梅のスペース。
それが、これからは迂闊に超えられない『壁』なのだと分かって、ミカサの心はきゅっ、と縮まった。
「……よし。行くぞ」
ジャンが一歩、大きく踏み出す。
そして勢い良く、食堂の扉を開いた───。
× × × × × × × ×
「……なかなか戻ってこないね、ミカサ」
スープを掬いながら、アルミンは隣に座る親友に話し掛ける。
何せ、初めての事だ。
彼女が訓練中にダウンするなど、正直この目で見るまでは信じられなかった。
あれからずっと、訓練兵団内はその話題で持ちきりだ。
そも、アルミンが知るミカサ・アッカーマンという女の子は、昔から人並外れた強さを持つ桁違いの存在であった。
幼い頃から大人顔負けの力を有し、如何なる訓練でも歴代の兵士を遥かに凌ぐパフォーマンスを見せる、真の天才。
同期の誰もが一目置く、圧倒的な実力者。
そんな彼女が見せた、ある意味人間らしい一面。
珍しい物を見たと、その場に居合わせた誰もが驚いていた。
「……まぁ、大丈夫だろ。さっきも目は覚ましてたんだし」
「うん、そうだと良いんだけど……何だか、あまり顔色が良くなかったような気もするんだ。少し心配だよ」
「そうなのか?全然気付かなかったな」
「エレン……君、もう少しミカサのことをちゃんと見てあげなよ。愛想尽かされても知らないからね?」
「分かんねぇよ、そんなの。それに、いつも向こうが勝手にお節介焼いて来るんだ。その点に限っちゃもううんざりなんだよ、いつまでもガキみたいに扱いやがって……」
パンを不機嫌そうに齧りながら、エレンはブツブツと文句を垂れる。
アルミンも、エレンの言い分が分からないでもない。確かにアルミンがミカサに会った時から、彼女はいつでもどこでもエレンにずっとくっついて回っていた。エレンのような反抗心が強いタイプだと、その状況に不自由さを感じてもおかしくはない。
しかしアルミンにとってはミカサも大切な親友で、家族同然の間柄なのだ。エレンの傍にいたいというミカサの気持ちだって、よく分かる。
互いが互いを大切に思っているからこそ、何とかいい折り合いを付けられないものか、と。アルミンは常々思っていた。
「もし時間に間に合わないようだったら、僕らで夕食を持っていってあげようよ───」
お見舞いがてら───と続けようとした、その時。
食堂の扉が、突然勢い良く開いた。
自然とその場の人間の目が一斉にそちらに向けられる。
そこに立っていたのは。
「……ジャン!ミカサ!」
少し離れた場所から、マルコが安心したような声で彼らを呼んだ。
しかし当の二人は、何故か少し強張った面持ちでゆっくりと中に入ってくる。
「よ、ようマルコ。さっきは悪かったな、助かったぜ」
「別に何もしてないさ。それより、もう調子は大丈夫なのかい?」
「あぁ、まぁ……な。多分問題ねぇと思う」
「そうか、それなら良かったよ。けど二人とも、あまり無理はしないようにね」
「あ、ああ……あと悪りぃ、俺らのメシってあるか?無いなら仕方ないんだが……」
「ジャンのはここに取って置いてるよ。ミカサのは……」
キョロキョロと辺りを見渡すマルコに、アルミンは応えて手を振る。
「オーイ、ミカサ!君のはこっちにあるよ!」
「あ、いたいた。だってさ、ミカサ」
「……う、うん。ありがとう、アルミン」
手を軽く振り返し、ミカサはアルミン達の元へとやって来た。
しかしやはり、どこか足取りが重い。
それに顔も、普段より影があるような───。
「……え、えっと……その……た、ただいま」
そう言って、ミカサはぎこちなく微笑んだ。
どこか儚くて、けれど慈愛に満ちた笑み。
───こんなミカサ、初めてかもしれない。
見たことのない幼馴染の表情に、アルミンはやや驚いていた。
「おう。早く食っちゃえよ。あんまり時間もないんだから」
「う、うん」
一方、それに全くと言っていいほど気付いていない唐変木っぷり全開なもう一人の幼馴染は、特に違和感を感じた様子もなくパンをモグモグと頬張っていた。
呆れるアルミンを他所に、ミカサは少し慌てたようにパタパタと席につき、自分の食事を摂り始める。
それから、暫しの沈黙。
会話らしい会話もなく、妙に居心地が悪そうにそわそわしながら黙々と食べ進めるだけのミカサに、アルミンは思わず訊いてしまった。
「……ねぇ、ミカサ。何だかさっきから、全然僕たちと目を合わせてくれないような気がするんだけど……気のせい?」
その言葉に、ミカサの肩が跳ね上がる。
どうやら図星だったらしい。どうしてかは分からないが、彼女は意図的に自分達からの視線を避けている。
「はぁ?なんでそんなことしてんだよ?」
「……ち、違っ……そんなつもりは」
「って、言いながら顔背けてんじゃねぇか。何だよ、俺達が何かしたってのか?」
「違うの……エレン、お願いだから、今は……」
「だから、目ぇ見て話せって」
そう言って、エレンはミカサの肩を掴む。
途端に、ミカサは震えながら小さく縮こまってしまった。
こんな弱々しい彼女の姿、今まで一度も───。
「……エレン、離してあげた方が良いかもしれない。何だかミカサの様子が変だ……ミカサ、ごめんね。僕らが何かしてしまったなら謝るから」
「いや、俺達何もしてないだろ。何も心当たりなんかねぇって!」
「なくても!今、ミカサが震えてるのは変わらないじゃないか」
「だめ……喧嘩、しないで……ごめんなさい……」
どうにも納得がいかない様子のエレンと、それを窘めようとするアルミン。
互いの主張がぶつかり、そこに僅かに不穏な空気が流れ始めようとしていた、その時。
───別の席で、大きなざわめきが起こった。
「……なんだ?」
エレンもアルミンも思わず気を取られ、騒ぎの元となっている一角に目を向ける。
小さくなっていたミカサも、恐る恐るそちらを見た。
そこには───。
× × × × × × × ×
「……それにしても、君が立体機動でダウンするなんてね。正直驚いたよ」
正面で静かにスープを啜っている親友に、マルコはしみじみとそう言った。
何せ、彼の得意中の得意分野だ。単純な機動力だけで考えれば、あのミカサにも比肩し得る程の技術を持っている。
そんな実力者が二人揃っての……ということもあり、今日一日は皆何処か訓練に集中できていないような雰囲気だった。
「……正直、何も覚えてねぇ。俺達に何があったんだ?」
「僕も聞いた話だから、詳細は分からないんだけど……飛行中に、突然意識を失ったらしいよ。糸の切れた操り人形みたいに、プツンと。奇跡的に二人ともアンカーを刺してた状態だったから、宙吊りで済んだんだってさ。危ない所だったね」
「あぁ……まったくだな」
ジャンが苦々しげに笑った。
───悔しいだろうな。
彼の表情を見て、マルコは察する。
ジャンは憲兵団志望だ。そのために成績を何よりも重視していて、特に評価点数の高い立体機動の訓練は彼にとって絶好の稼ぎ場だったのだ。
完成期に入ったこともあり、訓練の評価はますます厳しくなってきている。
その環境で、今回のミスだ。あまり好ましい状況とは言い難い。
……それでも。
可能性はゼロじゃない。
この先必死に訓練に臨めば、点数を取り返すことだって十分できる。
何より、彼は親友だ。支えてやるのが友の役目じゃないか。
「……大丈夫だ、ジャン。まだまだ訓練は終わってない。僕も協力するから、一緒に取り返そう!……行くんだろ、憲兵団に?」
彼を鼓舞するように、拳を突き出す。
負けず嫌いの彼はすぐに乗ってくるだろうと思っていた。
───しかし。
「……あー、いや。その、だな……」
妙に歯切れの悪い言い方をして、ジャンは言葉を濁した。
首を傾げるマルコに、ジャンはハッとした様子で慌てて手を振る。
「いや、違ぇんだ!別にそれが嫌だってわけじゃなくてだな……!」
「……?」
急にしどろもどろになったジャンの姿に、マルコは訝しげな表情を浮かべる。
……と。
「なんだなんだ、どうしたんだよジャン!辛気臭そうな顔しやがって、まだ寝てた方がいいんじゃねーのか!?」
「あまり体調がよく無さそうですね!コニーの言う通りです、無理は身体に良くないですよ!あ、ということはあんまりご飯も食べられないかもですね……ならば、私の方に預けて頂いても構いませんが!」
横からぬるりと現れてやんややんやと騒ぎ立てる男女二人組。
ニヤニヤとジャンを突付く坊主頭の小柄な少年と、涎を垂らして彼のパンを狙う茶髪のポニーテールの少女。
104期訓練兵団が誇る問題児の巨塔二人は、盛大に空気を読まずにこの場に現れてしまった。
「コニー……サシャ……」
「こら、二人とも!人が落ち込んでる時に!」
「だって、ミスする方が悪いんだも〜ん。こりゃ、憲兵団は俺に決まったな!!」
「そうです!前にも言いましたよね、『獲物を奪われる方が悪い』って。なので今回は、失態をしたジャンが全面的に悪いですとも!」
やいやいとはしゃぐコニーとサシャに、マルコが頭を抱えていると。
「……おら、二人ともその辺にしとけ。これ以上煽るとジャンが本格的にキレるぞ。止める俺達の身にもなれ、なぁベルトルト」
「う、うん。二人とも、その辺りで……」
ガタイの良い金髪の男と背の高い物静かそうな男の二人組が背後からのっそりと現れ、慣れた具合でそれとなく彼らの仲裁に入る。
「ライナー……ベルトルト……」
「何だよ、ライナー!ジャンの味方すんのかよー!」
「馬鹿言え、俺は中立の立場でいるだけだ」
「ならベルトルト、貴方のパンを下さい!」
「ご、ごめん、もう食べちゃったよ」
───いつの間にか騒がしくなってしまった。
どうにも収集がつかなくなってしまったこの状況に、マルコは溜め息をついてジャンに謝ろうとした。
しかし。
マルコの声は、その視界に飛び込んできた予想だにしない光景によって、喉の奥底へと押し戻される。
「……ジャン?泣いているのかい?」
「……え?あ……」
じっと、コニーやサシャ達を見つめながら。
ジャンはポロポロと、涙を流していた。
「……ぅ、あ、やべ……何だコレ……止まんねぇ……畜生……」
目元を手で覆って懸命に隠そうとしているが、その頬を伝い零れ落ちる雫は次第に量を増して行く。
「……くそ……ここまで耐えたってのに……情けねぇ……」
突然の出来事に、マルコは言葉を失ってしまう。
騒いでいたコニー達も漸くジャンの異変に気付いたらしく、ぎょっとした様子で彼の周りを囲む。
「お、オイオイ……お前やり過ぎだぞコニー!」
「えええ〜!ご、ごめん!まさかそんなに落ち込んでるとは……」
「そうです!度が過ぎてますよコニー、そんな怪我人に鞭打つような真似、あんまりです!」
「サシャ、君も同罪じゃないかな……」
その騒ぎはやがて、周囲に波のようなざわめきを生み。
波は、一人の女性の元へと届く。
× × × × × × × ×
「……ありゃあ、ジャン……が、泣いてんのか?」
エレンのその言葉は最後、ミカサの耳に入らなかった。
気付けば、ミカサは飛び上がるように席を立ち、自分でも驚くほどの速度で走り出していた。
何かを言っているエレンとアルミンの顔がちらりと視界に映った気がするが、それすらも今は全てどうでも良かった。
ただ、彼の元へ。
それだけが、今の己を突き動かしている。
───ごめんなさい、あなた。
自分の愚かさを激しく呪う。
つくづく、自分は彼に甘えるばかりで、彼の心の悲鳴が全く聞こえていなかった。
辛くない筈がない。苦しくない筈がない。
彼はずっと、耐えていただけだったのに。
その悲鳴を受け止めてあげなければならなかったのに。
彼の涙を、自分が奪っていただけだった。
「……うおっ!ミ、ミカサ?お前なんでここに……?」
「……いて」
「え?」
「退いて、ライナー」
「えっ、あっ、はい」
───これは、あまり良くない手かもしれない。
当初の目的とかけ離れてるし、きっと周りにだって違和感しか与えないと思う。
最悪、自分達の首を締めることになりかねない。
けれど、それでも構わないのだ。
今、ここで。
……彼の傍に居られるのなら。
「……ジャン……っ」
勢いそのままに彼に向かって両手を大きく広げ。
その頭を優しく、優しく包み込む。
自分はここに居ると伝えるように。
胸の中で、彼を守るように。
時が、止まった。
恐らく私に気付いていなかったのだろうジャンが驚いて、掠れた声で私の名前を呼ぶ声だけが微かに聞こえる。
「ごめんなさい、でも……」
ついさっき、約束したのだ。
彼の事を支えると。
彼の危機は、自分が助けると。
そのためなら……。
「やっぱり、二人でいたい」
……私は、何であろうと怖くない。
「……あ、えーと……ミカサ?」
水を打ったように静まり返ったこの空間の中で、ただ一人の声だけがミカサの耳に入る。
「なに?……マルコ」
「……あー、その、なんというか……単刀直入に聞く、んだけど……ジャンとは、どういう……?」
「……」
くるりと、周りを見渡す。
騒ぎの中心にいたコニーやライナー達も、口をあんぐりと開けて此方の言葉を待っている。
彼らだけじゃない、この場の全ての目が自分達へと注がれていた。
───こうして見ると皆、年相応の顔だ。
年齢で言えば、うちの子供達と然程変わらない。
「……ないしょ」
少しだけ、小さい子をからかうように。
ミカサは瞼を閉じ、ジャンの頭に頬を乗せて微笑んだ。