皆さんからの温かい言葉に、感謝しかありません……。
───ミカサとジャンがデキている。
そのとんでもない噂は瞬く間に訓練兵団中を駆け巡った。
ただでさえ多感な年頃の男女が揃った環境なのだ。下世話な話、それも他人の色恋沙汰と来れば食い付かない人間の方が珍しいとも言える。
……さらに今回は、その相手が相手だ。
それまでエレンしか眼中に無かったであろうミカサと、そのエレンと犬猿の仲で喧嘩ばかりしているジャン。
ジャンがミカサに惚れている、というのは一部の人間が知っていたが、はっきり言ってその二人が結ばれることは無いに等しい……筈だった。
つまり、何が言いたいのかというと───。
「……」
「……」
「……なぁ、ミカサ」
「なに、ジャン?」
「俺、こんなにやりにくい髪の梳かし、初めてなんだが」
「そう?いつもと変わらないと思うけど。丁寧でとても気持ちいい」
「いや……まぁ、お前が良いなら良いんだけどよ」
むず痒そうに顔を顰めながら、ミカサの暴れた寝癖に慣れた手付きで水を付け、優しく櫛を入れていくジャン。
───哀れにも、
昨晩の騒動から一夜明け、今は日の出から少し過ぎた頃。
まだ早朝だというのにも関わらず、今この談話室にはまるで珍しい見世物が来たのかとでも思う程に、大勢の人間が押し掛けていた。
かくいう自分もその一人だが……と、マルコは半ば自らを恥じながら溜め息をつく。
……最初に彼らを発見したのは、コニーだった。
あの後、ミカサと別れたジャンは直ぐ様男連中に取り囲まれ、攫われるように居室まで担ぎ込まれたかと思うと、まるで尋問されるが如く質問攻めに遭っていた。
しかし当の本人は一切の事を口にしたがらず、「言いたくねぇ」の一点張りで、最後は引き止める同期達を振り切って「いいからもう寝ろ!」とすぐ床に就いてしまった。
そうして日が変わった今日の朝。
マルコが目を覚ました時には、既にジャンの寝床は空になっていた。
トイレかな……とぼんやり考えたのも束の間、居室の扉が慌ただしく開けられ、バタバタと転がり込むようにコニーが中に入って来たのだ。
只事ではない様子に急いで彼の元に駆け寄り、何があったのかと問い質すと。
『……さっき、便所に行く途中で……見ちまった……』
息を切らしながら、コニーは必死に声を振り絞る。
騒がしさに目を覚ました他数人が、いつの間にか自分と一緒に彼の言葉に耳を傾けていた。
『……談話室で……ジャンと、ミカサが……いちゃいちゃ……』
───気付いた時には遅かった。
起きていた人間がほぼ全員、駆け抜けるように居室を出ていってしまった後、マルコはかなりの葛藤に苛まれながらもやはり好奇心の前には逆らえず、親友への罪悪感と共に重たい足取りで彼らの背中を追ったのだった。
そうして、目にしたのが……。
「……しかし、お前の寝癖は相変わらずだなぁ。なんだってこんなにも跳ねるんだ?」
「分かんない。小さい頃からずっと」
「髪質、って訳でもねぇよな……こんなに綺麗なのに」
「ふふっ……ありがとう。いつも褒めてくれる」
「そりゃ綺麗だからな。正直なのが俺の長所だ」
「うん。知ってる」
……この有り様である。
苦笑しながら髪を梳かし続けるジャンと、心地良さそうに目を閉じてされるがままのミカサ。
興味本位で現場に突撃した男達は、そのあまりの絵面に言葉を無くし、二人を離れた所から見守ることしか出来なくなっていた。
やがて話が広まったのか、一人二人と見物人が増えていき、けれど皆一様に同じ反応を示しては距離を取って大人しく眺めているだけだ。
まるで二人の周りに見えない壁があるかのような、異様な光景。
最早いちゃいちゃなんて可愛い話じゃなく、これは───。
「───熟年夫婦の蜜月、ってとこかね……ありゃ」
愉快げに呟いた誰かの声が、マルコの思考を遮る。
振り向くと、自分と同じそばかすが特徴的な目付きの悪い女子が、ニマニマと意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
「……ユミル……君も来てたのか」
「あんだけ騒がしくすりゃ、誰だって興味が湧くさ。特に女はそういうのに敏感なんだぜ?」
「す、すまない……うるさくするつもりは……」
「いーっていーって、別に文句じゃねぇよ。お陰様でまた面白ぇモンが拝めたからな。……にしてもあの馬面野郎も隅に置けねぇな。一体全体どうやって、あの難攻不落の城を落としたんだか。優等生サマも気付かなかったのかい?」
「さぁ……僕も全く知らなかったんだ。あの二人がそうなってるだなんて……」
「……けど、何だか二人とも凄く自然だよね……ずっと前からそうしてたみたい」
「おお〜、愛しのクリスタ!あたしもお前とそんな関係を築きたいから是非結婚してくれ!」
ユミルは隣にいた、小柄な金髪の少女に抱き着いて甘える。
少女の方はやや苦しそうにしながらも、その大きな瞳をパチパチと瞬かせながら、じっとジャン達の方を見ていた。
「クリスタ……君もそう思うかい?」
「うん。ユミルが言ってたのと近い、かな……?フランツやハンナ達のカップルとかとは、ちょっと違うような……変な感じなんだけど、二人ともあんまり初々しい感じがない、っていうか……ごめんなさい、言葉にするのが難しくて」
「……いや。僕も同じ意見だ」
マルコは首肯して視線を戻す。
兵団内での交際自体はさして珍しくない。
クリスタが言った通り、他にも異性同士のペアはいる。
しかしながら今、あの二人の間には他者と一線を画すような、特別な絆があるように思えるのだ。
……一体いつから?
つい先日まではそんな兆候など、まるで感じなかった。
ミカサは常にエレンの傍に居て、それを妬んだジャンがエレンを煽って衝突する。間違いなく、いつも通りの日々だった。
それが昨日、突然ミカサがジャンを抱き締めた事で一変した。
それどころか今、こうして人目も気にせず、そして誰も踏み入れない程の距離の近さで触れ合っている。
正直言って、頭の処理が全く追い付いていない。
(ホントに、君に何があったんだい……ジャン)
何もかもが分からず、マルコは首を傾げる事しか出来なかった。
「……切っ掛けらしい切っ掛けっていやぁ、昨日の例の事故くらいかね。そん時に二人揃って、頭でも打ったか。ハハハ」
「もう、ユミル!そんな言い方ないでしょ!」
「悪りぃ悪りぃ、冗談だって。そもそもアイツらに怪我は無かったって話だろ」
「もう、貴女って人はいつも言葉を選ばない……」
「……案外、そう考えた方がすんなり納得出来るのかもしれないね……ユミル」
「おや、随分と浮かない顔じゃないかマルコさん。その様子だと、あんまりあのペアの成立は祝福出来ないって感じだが?」
「まさか。過程はどうあれ親友の恋が実ったんだ、勿論嬉しいさ。ただ……」
肩を竦めながら答えたその言葉に、嘘偽りはない。
しかしやはり、何かが腑に落ちないのだ。
自分でもハッキリと分からない、けれど確かにそこにある、何かが。
───ふと、ジャンの顔を見る。
その表情は何故か、自分の知る彼よりもずっと落ち着いているように見えた。
程よい自信と余裕が漂う、
「……ジャンが浮かれ過ぎて、成績を落とさないかどうかだけが心配かな」
昨日から、どうにも飛躍しがちな発想に自嘲する。
やや諦め気味に苦笑しながら、マルコは呟いた。
× × × × × × × ×
───結果として。
マルコの懸念は、杞憂に終わることとなる。
「……ちょっ……速すぎますって〜!!」
背後から届いたサシャの悲鳴が、全てを物語っていた。
更に日は過ぎ、現在は立体機動の訓練の真っ最中。
休養日を無事(?)に終え、特に問題なく復帰を果たしたジャンとミカサだったが、それからというもの、その二人の動きが明らかにおかしいのだ。
まずミカサ。
以前から周囲の訓練兵達とは比べ物にならない才能を持っていて、特に戦闘能力に関しては他の追随を許さなかった。
当然、立体機動術に於いてもその技量は遺憾なく発揮され、機動力で彼女の背中を追えるのは一握りの人間だけだった。
……その彼女が、更に腕を上げている。
アンカーの微細な射出箇所、その巻取りから体重移動による軌道の決定、更には身体の回旋等を加えた彼女の身体能力ならではの最高効率を突き詰めた動き。
そしてそこから繰り出される斬撃の威力は、訓練用の巨人型ハリボテの切断可能箇所を超えて、ハリボテごとへし折りそうな程に深く、鋭く、力強い。
既に議論の余地がないほどに抜きん出ていた彼女が、ここに来てもう一段階上の力を身に付けた。
───最早、彼女に並べる人間はここにはいないだろう。
己の遥か前を突き進むミカサを見て、マルコはそう痛感していた。
……しかし。
今現在一人だけ、その背中を追えている人間が居る。
それが───。
「うぉっ!あ、あの野郎……マジかよ……」
そんな、ライナーの驚愕の声が耳に入ったのとほぼ同時に、自分の横を高速ですり抜けて行く者の姿をマルコは視界の端で捉えた。
───ジャンだ。
彼の動きはミカサのように次元が違うものではない。
しかしそれは、理を突き詰めたように美しく、それでいて迎え撃つ障害には臨機に形を変える。
まるで
元より立体機動には素質があった彼だが、その成長具合で言えばミカサ以上だ。
ミカサに抜かされ、そのすぐ後にジャンに抜かされる。
ここ最近の訓練はそんな状態が続いていた。
ジャンの変化は特に目立った。
立体機動だけじゃない。座学から技巧、単純な体力から果ては格闘術まで、満遍なくそれらの能力が劇的に伸びている。
特に座学では、戦術面の授業で専門の教官を唸らせる程の考えを示していた。あのアルミンでさえ、「自分にはそこまで見えていなかった」と舌を巻いたらしい。
───成績を落とす所の騒ぎじゃない。
今の彼は、間違いなくミカサに次ぐ実力者だ。このまま行けば、兵団の次席だって有り得る。
友の著しい成長に、マルコの心は疑念よりも興奮で湧き立っていた。
× × × × × × × ×
「……よっと。いや相変わらず速ぇな、ミカサ」
ミカサより僅かに遅れて訓練を終えたジャンが、笑いながら彼女の隣に降り立つ。
今、ここには二人以外の誰もいない。
久し振りに言葉を気にせず話せる、とミカサは少し安心して口を開いた。
「……やっぱり、昔の身体だから。すっごく、軽い。思った以上に動いてくれる。ジャンは?」
「俺も同じだ。こんな状況で言うのも何だが、若い肉体ってのは良いもんだな。肩こりもねぇし、目も疲れねぇ」
「でもやっぱり、ブランクは感じる。全盛期の頃ならもっともっと、速く動けたかもしれない」
「それについても同意だぜ。やっぱ俺も、大分カンが
肩をグルグルと回しながらジャンは苦笑する。
───しかし、まさかここに来て、もう一度この装置を使うことになるとは思わなかった。
久々に触れたあの瞬間の懐かしさはきっと、暫くは忘れられないだろう。
若かりし頃に己の命を託して空を飛んだ、嘗ての相棒である鉄の塊を感慨深げにコツンと小突く。
「……久しく忘れてたぜ。いいもんだな、飛ぶってのは」
「うん。楽しかった」
顔を見合わせて、クスリと微笑む。
……こうして何も包み隠さない、素の自分でいられるのも僅かな間だけだ。
きっともう少しもすれば、皆が訓練を終えてやってくるだろう。
そうしたら、また二人は演じ続けなければならない。何も知らない、ひよっ子の兵士の一人として。
「……あー、ミカサ」
「……なに、あなた?」
「今、ちょっとだけ……いいか?」
「!……ええ、大丈夫」
夫の目付きが鋭くなった、その
一応周囲を警戒しつつ、彼の続く言葉を待った。
「俺達は、必ず二人で未来に帰る。そう言ったの、憶えてるか?」
「うん」
「だが現状、俺達に打てる手はない。そうも言ったよな」
「……うん」
「じゃあ逆に、今の俺達に
そう言って、ジャンは自分の手元に目を落とす。
立体機動装置の柄を握り締める、
まだ「綺麗」なままだ。
「……この世界の歴史を、変えられねぇかな」
「……!!」
「全部ひっくり返せる、なんてのは無理かもしれんが……もしかしたら、って」
「……ジャン……」
「俺達がここで、もっと力を付けて……そんで、未来での経験も一つ残らず活かして……そしたら、違った結末を
マルコも。
サシャも。
……エレンも。
他にも、沢山。
自分達の未来は、もう既に分かってしまっている。
けれど、「この世界」の未来はまだ分からない。
「……でもそれは、俺が一人でやれるようなモンでもねぇ。それに、仮に何かが変わったとしても、多分俺達の歴史は変わらねぇんだ。戻った時、かえって辛い思いをすることになるかもしれねぇ」
ミカサが傷つく事だけは許さないし、赦せない。
彼にとって、
「俺は……ミカサ、お前が言ってくれた通り、二人で居るべきだと思う。だからお前が反対するなら、この話は無しに……」
ジャンが言い切る前に。
その手が、ふわりと握られる。
顔を上げればそこには、柔らかな笑みを浮かべる妻の姿があった。
「……もし、その過程で何か戻るための手がかりを見つけられたのなら、一石二鳥。何もしないより、何か事を起こす方が絶対に良いに決まってる……でしょ?」
「……ミカサ」
「じゃあ、これからは」
ミカサの手が、ジャンの胸に触れた。
やがてそれは拳に変わり、彼の心臓の真上に優しく押し当てられる。
「……一緒に支え合う夫婦で、一緒に戦う相棒。私の心臓、あなたに預ける。代わりにあなたの心臓を、私に預けて」
「……!」
「変えよう、二人で」
「……あぁ。勿論だ」
くしゃりと顔を歪めたジャンが、ミカサの顔に触れようと手を伸ばす。
……と。
「……あんたら、何そこでいちゃついてんの?」
そんな、冷ややかな声が二人の耳を貫く。
驚いて振り向くと、小柄な金髪の少女が凍てつくような視線を此方に向けながら、ゆっくりと地上に降り立つのが見えた。
今しがた到着したのだろう、額にはじんわりと汗が滲んでおり、呼吸もやや乱れている。
常に不機嫌そうなその顔も、二人にとってはよく見慣れたものだ。
「よう、アニ。お疲れさん」
「……なんか、いかにも『余裕でした』って感じのツラしてるね。ムカつくからやめて欲しいんだけど」
「アニ、許してあげて。ジャンはもともとこんな顔」
「庇ってくれるんじゃねぇのかよ」
「間違えた」
「間違え過ぎだ」
ジャンがミカサの頬をムニムニと摘むと、「ごえんなひゃい」と可愛らしい返事が返ってくる。
そんな二人の様子に、アニは心底呆れたような溜め息を一つついて、興味が失せたと言わんばかりに
「惚気るのも大概にしときな。この後、面倒くさいのがやってくるよ」
背中越しにアニが二人にそう忠告してすぐ後、ライナーやベルトルト、エレン、マルコ、コニー、サシャと言った成績上位者達が続々とこの場へ集まってくる。
「……うあああ!またジャンとミカサがいちゃついてるぅ!!」
「助けて下さいベルトルト!あの二人に鉄槌を下せるのは貴方だけです!」
「そんな無茶な……って、僕の後ろに回り込まないで……」
「こりゃまた見せ付けられちまってるなぁ。おいエレン、幼馴染としてのお前の意見はどうなんだよ?」
「…………うるせぇよ。放っとけライナー」
「凄いよジャン!これなら上位十位以内は間違いなしだ!」
騒ぐ同期達の姿を見て、二人は鼻の奥につんとした痛みを感じた。
───先の未来で、彼らが互いに殺し合うことになるなんて、誰が想像できるだろうか。
あんな地獄は、もう沢山だ。
あの痛みは、自分達が知っていればそれで良い。
やるべき事は決まった。
後は只管、前に進むだけだ。
「……行くか」
「うん」
選んだ道へ、二人は踏み出す。
どちらともなく、歩幅を揃えて。