卑怯者①
ある森を貫く河川に十六歳くらいだろうか、少女がひとり。釣り竿を引き上げて、かかった獲物を手繰り寄せる。「こんなものか」と独り言ちて、それまでに釣った魚が山と積まれた桶にそれを入れ、帰り支度を済ませると、木々の中へと入っていった。彼女が迷いなく森を進むと、程なくして村が見えてくる。四方を木々に囲まれた、森の中の小さな村。
「エヴァリスタ! どうだったー?」
森から出てくる彼女を、明るい声が出迎える。同い年くらいの少女が笑顔を湛え、手を振りながらエヴァリスタの方へ駆けてきた。エヴァリスタはそんな彼女を見、優しく微笑んでから、手に持った桶を掲げ、「大漁ー!」と間延びした声で叫ぶ。少女が駆けながら「うわー! すごい」と感嘆する。程なくして、彼女のもとに到着すると、少し飛ばし過ぎたか、膝に手をついて息を切らせている。すると、彼女らの声が聞こえたようで、中央を広場として囲う家々から続々と人が出てきて、エヴァリスタを認めると、皆、彼女の方へぞろぞろと向かってくる。
「スージーの声がでかすぎて、みんな起きちゃったみたい」
「もう。みんな起きてたよ」
からかうようにクスクスと笑いながら、エヴァリスタが冗談を言うと、少女はわざと呆れた調子をつくって返し、拳を作って口を抑えながら、同じようにクスクスと笑った。
「わー! こんなに獲ったの! おかえりなさい、エヴァ。ほんといつもありがとうね」
一人、こちらに来るなり桶を見た女性が言う。すでにエヴァリスタと少女を中心に数人集まってきていた。
「いえいえ! とんでもないです。宿代も出さずに泊めてもらっているのはこっちなんですから」
「ほんと。できた子ねぇ。家のこと手伝ってもらうだけでも十分なのに! スージー、あなたもエヴァを見習いなさい。家でもいつもいつも、エヴァに面倒みてもらってるんだから。ちょっと、話聞いてるの?」
「でもママ、そんなお利口なエヴァリスタを連れてきたのは私でしょ?」
「また言い訳して! ちょっとその口貸しなさい……!」
「やなこったー!」
唐突な親子喧嘩の合図に、エヴァリスタは吹き出してしまった。人集りもいよいよいっぱいになってきて、皆がエヴァリスタに向かって挨拶を投げ掛ける。今や中心にエヴァリスタが居て、その周りをクルクルと回りながら追われる娘と追う母。さらにその外縁には、二、三十もの人が集まっていた。
まもなく娘が母に捕まった。少女がほっぺをつねられているところに「スザンヌ、おばさん、またやってんのか……」と少年が集団を潜って、中心に入ってきた。
「あれ、エルマーじゃん。イノシシもう獲ってきたの?」
「い、いや……その。行ってない」
エヴァリスタの問いに気まずそうに少年は答える。母親がつねるのを振りほどいて、少女は驚いた顔でエルマーを見る。
「どうして!? 私エルマーが森にグレゴールさんと入っていくの見たよ?! もしかして、また……」
「そうさ。怖気付いて先に帰ってきた……イノシシってさ、いざ目の前にするとおっきくて、その……」
「そんなの……」
少女はなんて返していいかわからず、戸惑いながらぼそっとつぶやいて、閉口した。
「でも、チャレンジはした、でしょ?」
お互いに俯いて気まずそうにしているところに、エヴァリスタはその高い背を屈めて少年の顔を覗き混みながら、笑顔で言った。その仕草に顔を赤らめて、恥ずかしさを隠すように背を向けた彼に、彼女は「ふふ」と楽しそうに笑った。むしろ少女の方が先に元気になって、「うん、そうだね! エルマーは頑張った!」と快活に笑い、少年は背を向けたまま、ぶっきらぼうに「うっせえ」とだけ答えた。一瞬漂った気まずさはもう霧散していた。
この一幕を微笑まし気に眺める聴衆。それら生暖かい視線に気が付き、少年は一層恥ずかしくなって、逃げるように彼女たちへ体を向け直す。すると、エヴァリスタが満面の笑みで出迎えた。「はい、これ」と彼女が差し出したのは、綺麗な花だった。「綺麗でしょ?」彼女の声は少年の耳に官能的な刺激を与える。また恥ずかしくなって目も合わせられずに小さな声で「うん」とだけ返す。花を手に取るときに手が少し触れて、それも大層恥ずかしかった。
「エルマーは、こっちの方が好きでしょ?」
小首を傾げながら優しく微笑む彼女は、少年にとって花よりも一層美しかった。彼女は自分のことをよく知っている。彼女は情けない、男らしくないオレのことをバカにしたり、心配したりしない。こうやって、花が好きなオレも受け入れてくれる。それが彼にとって、かけがえのないほど尊いものだった。彼が今回狩りに出ようとしたのだってそうだ。何故家では女のほうが強いのに、外では男が強いことにされて危険なことをさせられるのかわからなかった。でも、今は違う。彼女を守るためなら、狩りだってなんだってする。そういう決心で少年は狩りにチャレンジしたのだった。
彼が花を抱えながら考え事をしていると、反対側の森の奥から帰還を知らせる声が聞こえた。三人の男がイノシシを運んで村に入ってくる。エヴァリスタたちを囲った人々が声に気付いて振り返るのを見てとると、先頭を歩いていた男が手を大きく振って収穫成功の快哉を叫ぶ。関心が移ったのか、群衆は彼らの方に向かってぞろぞろと歩き出した。
「あー、グレゴールさん帰ってきた! うわ、すっごいおっきなイノシシ! ねね、エルマーもエヴァリスタも近くで見に行こ!」
そう言うなり、母の背中を押して去っていく彼女に呆れた顔を浮かべて、ふと少年は隣に並んだ彼女の顔にちらと目をやる。その視線にすぐに気がついて、ぱっと彼女が顔を向けると、また恥ずかしくなって、ぷいと顔を背けてしまう。エヴァリスタはそんな態度を気にした様子もなく、「私たちも行こうか」と彼をいざなう。彼はこくりと頷いて、先に一歩足を運んだ彼女に追いつこうと、少し大股に踏み出した。
(どうやら、兄貴は難なく狩りを熟したらしい。要は俺はまったく必要なかったわけだ。であれば、俺は行かなくて正解だったのか。どうせ、足手まといになる。そもそも、「替えの利くこと」に一生懸命になる意味なんてあるのだろうか……いっそのこと兄貴みたいに一回村から出るのもいいのかもしれない、いや、どうなんだそれは。結局、兄貴のマネごとで終わる。それこそ、「替えの利くこと」じゃないか? 大体、先に生まれたヤツはずるい。開拓者になる権利をもっているんだ。あとに生まれたヤツは先に生まれたヤツらに後から続いていくしかない……)
「コラ! また考え事してるでしょ。それも、悪い方に」
少年はか細く無感動な吃りと共に、隣を歩く彼女を見た。不貞腐れた顔で少年を睨む。二人は立ち止まってお互いに向き直った。
「落ちこむのもわかるけど、前進はしたじゃん。ほら、「やってみることが大事」、でしょ?」
あの、いつだったろうか、彼女が村に来たばかりのころ。もうそろそろ二ヶ月だから、ちょうど一月前だったか。彼女と誓った言葉。
「頑張らなくてもいいけど、頑張った自分は褒めてあげて、だったか」
「そゆこと。それにさ、エルマーは確かに狩りはできないけど、得意なことだってあるでしょ?」
「得意なこと? ねぇよ。そんなの」とぶっきらぼうに返した。それをまるで聞こえなかったかのように、少年が手に持ってる物を指差して「それ、なんで好きなの?」と彼女は尋ねる。突拍子ない問に何も返せず不自然な間を作ってしまった。そのことを恥じて少年が口を縛ると、いいから、とエヴァリスタは表情で彼に回答を促す。
「いい匂いがするから……? 花びらも綺麗だし、なぁこんなの得意とは関係ないだろ」
「でも他にも好きな花はたくさんあるでしょ? 人より関心をもってるってのは立派な特技なんじゃないかな」
「なあ、無理に褒めるのはやめてくれ。そもそも、花に詳しくて何の意味があるんだ」
「ないね。でも、そのためなら一人で森だって入っていける。森に入ってすることは何も狩りだけじゃないでしょ? 例えば、薬草を取りに行くには森に入らないといけない。だから、私はね、エルマーには植物の博士になってもらって、この村の人たちの怪我や病気を治す役目を担ってほしいと思ってるんだ。それで、一緒に綺麗な花もとってくる、どうかな?」
「何様だよって話だよね」と照れくさそうに彼女は言う。それから、一拍置いて、楽しそうに「それなら、頑張れそうじゃない?」と笑みを浮かべた。そんな彼女を見てるとなんだか元気が湧いてきて、できそうな気がしてくるのは、どういうわけだろう、と少年は考えながら、「ああ!」と行って大きく頷いた。小恥ずかしくて、お礼のひとつも言えなかったのだけれど。
「スージーだって、
「知ってた?」と、エヴァリスタは言うが、彼女と出会うまで「数学」なるものすら聞いたこともなかった少年にはまったく何のことだか皆目わからなかった。
「おばさんには内緒なんだけど。夜中にこっそり教えててね。私の持ってきた本、十三冊もあるんだけどもう全部こなしちゃったんだ」
「ああ、あれか……スージーが本、文字読めたのか……」
自分も読めないんだが、と子どもだと内心バカにしていた彼女の意外な一面に感心し、同時に少し嫉妬した。
「それがね、最初は読めなかったんだけど、私が魔法でそれっぽい形を作って説明したり、彼女にそれをいじらせたりしてると、自分で本を読んで理解できるようになってきてね。そんなスージーを見てると、やっぱり、好きなものを突き詰めるのって素敵なことだと思うんだ」
彼女はそう言うと、次を繰り出すのを渋るような顔をして、恥ずかしそうにした。しかし、すぐに気を取り直したようにして、小さく口を開いた。
「でさ、早速明日……私と一緒に森に行かない? ほら、今日はお祭りじゃん? だから、明日から頑張るの。どうかな?」
エヴァリスタはさっきとは打って変わって、慎重に言葉を選ぶような調子で、自分の声を隠すように少年に言った。彼は一瞬何を言ってるか理解も追いつかず、またしても不自然な間を作ってしまったが、今度は恥じらいも他所に、ぎこちなく頷いた。緊張で声は出なかった。
「やった! じゃあ昼時に私がエルマーの家の戸を叩くから。荷物の準備はしといてね!」
小躍りする彼女に少年は「ああ、わかった」とだけ返す。
「さ、そろそろ行こっか。今日は、村中の人が広場に集まるお祭り! 明日はデート! 楽しみだね!」
少年はほとんど反応せず、固まったまま、口元だけが緩みそうになるのを抑え込もうとする。おそらく、ほとんど甲斐ない抵抗だったろうが。
*
お祭りにしてはやけに強い火に肌を撫ぜられてジリジリと焼けるように熱い。少年は他の村民と同じように寝ていて、もう起きることはなさそうだった。
「なんで……」
少女の声が燃え盛る広場の空気を微かに揺らした。