夕暮れに照らされた御者の背中が影を作る。ふと、彼が右を向いて、顔が照らし出される。オレンジ色に染まった皺のある顔は、何を思っているのだろう、ネーエはそんなことをぼんやりと考えながら、エヴァリスタの隣に寄りかかって微睡む。目の前のレーゲンが気になって、視線だけで様子を伺うと、魔力を練る為に組んだ姿勢のまま眠ってしまっていた。
エヴァリスタはずっと本ばかりを読んでいる。何度、日の浮沈を馬車の中で迎えただろうか。その間、エヴァリスタが眠っているのを見たことがない。魔物は寝ないのだろうか。
何の本を読んでいるのだろうか、ふと気になって身体を起こしてを覗き込む。
「これは私が書いた本だ。ルールを変えると全く違うものを記述できる」エヴァリスタが唐突にそんなことを言い出すので、自分の考えを読んだのかとネーエは驚いた。
「二直線が交わらない場合を導入しているシステムからそれを取っ払って、ある一点で必ず交わるとしてみると、面白いことができるんだ」
「ふーん」とだけネーエは言ったが、何の話をしているかすらわからなかった。それを悟ったのか、エヴァリスタはネーエの頭を撫でると「勉強しないとな」と最早口癖になった台詞を吐く。ネーエがそれに辟易して顔を背けると、急に馬車が止まった。二人して呆れたように嘆息する。
「今日はここまでのようです」
似たような表情をする二人にいつの間にか起きていたレーゲンが告げる。しかし、ネーエには承伏し難いようでぶすくれた表情で彼を非難する。
「ネーエ、恐らく明日には村に着くぞ。美味しい飲み物があるんだ」
「ほんと?」ネーエは急に笑顔になってエヴァリスタの方を見た。
「ちょっと、ネーエちゃんに飲ませたらダメですよ。まだ子どもなんですから」
「子どもだからなんだって? 全く説得的じゃないな」
エヴァリスタが言うと、ネーエも非難がましい目でレーゲンを睨む。
「ビールを飲むと太るからです。それに小さい頃から飲んでると痛い思いをしますよ」レーゲンが怯まず答える「ネーエちゃんは痛いの嫌だよね?」
「嫌だ」とネーエが言うと「じゃあやめておいたほうが良い」レーゲンはネーエに向かってニッコリと笑い、得意げな表情でエヴァリスタを一瞥する。
「何だよその顔は。別に村の奴とも顔馴染みなんだそいつらと飲むさ。もちろん、レーゲンは飲まないんだよな?」
「ええ、ええ、あんなものはもう二度とごめんですよ!」
「ビールって何?」
興奮して声を荒げるレーゲンの話に割り込んで、ネーエはエヴァリスタに尋ねる。
「お酒さ。飲むと楽しくなる魔法の飲み物だ」
「違います。翌日の気力を前借りして楽しくなってるだけで、次の日は地獄みたいな気分になることが約束されてる毒物ですよ」
「お前が飲み過ぎなんだろ」
「いつも貴方の方が飲んでる」
「じゃあ弱いクセに飲み過ぎなんだろ」
「貴方が強過ぎるんですよ。はあ何だか飲みたくなってきました」
「二度と飲まないんじゃないの?」ネーエが揶揄うようにそう言ってニヤニヤと笑う。隣にいるエヴァリスタの口が綻んだ。
「ネーエちゃんまで私をいじめて! こんなの飲まなきゃやってらんないですよ」
「見ろネーエ。これがヤケ酒だ。こうなると制御が効かなくなって、次の日に後悔するんだ。で、こんなことを繰り返している内に身体も壊す」
「なんかバカみたいだね」とネーエは面白がって蔑むような眼差しを作る。
「ま、何でも良いですよ。それより、ビールって何、ですか。ふふふ、ネーエちゃん、いいですか。これからこの馬車はビーアと呼ばれる地域を通ります。その近くにはね、遺跡があるんですよ」
「遺跡って?」
「統一王朝を築いた民族はそこを出身としてるのではないかと言われています。その遺跡です」
「ふーん、統一王朝って何」ネーエは如何にも付き合いで質問してやったという態度だ。
「神話の時代の国です。初めて大陸全土の統一を果たした国で、その崩壊以来は南方帝国さえそれを果たせていません。我が帝国を除いては。それにね、今の私たちは統一王朝時代の言葉を話しているんですよ。そういう意味では私たちの祖先なんです」
「ふーん」とネーエは途端につまらなさそうな顔をするが、一方のエヴァリスタは興味深げに頷いた「なるほど。エルフとドワーフが人間と同じ言葉を話すのはそう言うわけか」
「何で貴方が統一王朝期に人間と彼らが一緒に暮らしてたことを知ってるんですか」
「オイサーストに図書館があるだろう。蔵書があってな」
「やっぱり普通に入ってるんですね……まあ貴方の言う通りです。言語の統一も王朝時代の産物なはずです」
「それは今更だろう。それにしても面白いな。で、その遺跡がなんだって?」
「ああそうでした。その遺跡の壁画にはビールを飲む姿が刻まれているんです。つまり、私たちは統一王朝以前の祖先からずっとビールと共に過ごしてきたんですよ。だからビールというのは私たちの歴史そのものなんです」
「急につまらなくなったな。それより、南方帝国は独自の言語を持っていたがアイツらは何なんだ?」
「大陸南部のことは詳しく知りませんが、確か古エルフ語と似ているんでしたよね? それとの関連は指摘できるのかもしれません」
「古エルフ語? 統一前のエルフの言葉か?」
「ええ、もしかして魔導書を読んだことないんですか?」
「私は魔物だぞ? 誰が人間の魔導書なんか読むか」
「いや、南方帝国の言葉も使いこなせる魔物が何言ってるんですか。ええと、でもそれじゃあ、ネーエちゃんには全く教えてないわけですね?」
「おい、話が見えてこないぞ? つまり何が言いたい」
「人間は魔導書が読めないと魔法なんてほとんど使えませんよ。で、そのほとんどは古エルフ語で書かれてます。だから、古エルフ語の勉強は魔法使いには必須なんです」
「へえ、図書館にはなかったと思うが」
「そりゃあないですよ。魔法なんて殆ど禁止されているようなもんですからね」
「そりゃそうか。じゃあお前はどこで勉強したんだ?」
「私が特別だということは知っているでしょう」
「もちろん。魔物狩りだろ?」
「まあ間違ってはいないです。別に帝国公認でもないんですが、伝統的な家業でね。父に教えてもらったんです」
エヴァリスタが話を聞いて「ふーん」と唸ってから黙ったのを見て、ネーエが口を開いた。
「何で魔法はダメなの?」
「ネーエ、魔法には相手に暴力を奮うものが沢山ある。しかも、人間が使う道具なんかよりよっぽど強い。だから、暴力で相手を支配しようとする時に魔法ってのはすごく便利なんだ。もし『魔法を使ってもいいです』なんて帝国が認めたら当然、嫌いな人間を魔法で攻撃する奴が出てくる」
「恐らく、次にはそれに対抗する為に魔法を使う奴が出てくる。しかし、他人から見て、この攻撃する奴と対抗する奴とを区別する方法はない。そうなると、急に隣に立ってる奴がどんな奴だかわからなくなる」
「わからないからとりあえず魔法を勉強しておく、なんて奴まで出てくれば一層悪くなる。人間の群れの基本である相互信頼のシステムは途端に崩壊するんだ。だから、どの群れでも積極的に魔法は使わない」
エヴァリスタが話すのをネーエは固唾を飲んで見つめる。話の内容はネーエにはよくわからなかったが、とにかく大変なことになるというのは伝わったようで、エヴァリスタを見つめる目は真剣そのものだった。
「なるほど、確かに一理ありますね。でも帝国の場合は唯の慣習だと思いますよ。特に理由なんてない。『魔法は魔物が使うもの』みたいな説明がされるくらいですしね。それこそ、ビーアの集落だった時はそうだったのかもしれませんが」
「まあ私の妄想さ、聞き流してくれても良い。システムを支える信頼が崩れれば、信頼の擬制として暴力で他者を従わせようとする奴もいるだろうな。そして、そんなのが長じれば、闘いの強さだけで全てが決するようになる」
「確かに、父には口酸っぱく魔法使いとしての道徳倫理を説かされましたよ。それも、そう言う事態が想定されれば、当然なくてはならない事ですね」
レーゲンは会話の最中にエヴァリスタの表情に注意を払っていなかったから気付かなかったが、彼女が『闘いの強さだけで』と口にする時の表情は滅多にする事のないものだった。ずっとエヴァリスタの顔を見ていたネーエには、それが大変恐ろしく見えて、思わず身を震わせる程だった。
「おい、魔力の反応だ。弱いが魔物だろう。私が処理するからお前たちはそこに居ろ」
エヴァリスタは急に顔を曇らせると厳しい口調でそう言って、馬車から飛び出して行った。
「ネーエちゃん。危険だから、そこにいてね。御者さんも動かずじっとしてて下さい」
ネーエと御者の男が自分の忠告に頷くのを見てから、レーゲンもエヴァリスタの後に続いた。
*
馬車の中に取り残されたネーエは、退屈そうに虚空を眺める。ふと、エヴァリスタの持ってきた大きなな荷物が気になって、そっと袋の中を開けてみた。案の定、大量の本が詰め込まれている。どれも、自分にとっては面白くないだろうと思った。だから、袋の中をひっくり返して、中身を全部出す。
ドンとかバサとか多様な音を本が鳴らすのを聞いて、御者が振り向いてギョッとする。
「ネーエちゃん。だったかな? あまり車の中に荷物を広げるのはやめてほしいかな?」
「すぐ片付けるから、ちょっと待って」
規則性なくぶちまけられた本は、最後の一冊が落とされると、山なりになった。ネーエは直感的に一番上にある本を取り上げて、適当なページを開いた。
「げっ、ピーマン」ネーエはそこに描かれた絵に眉を顰めた。
「ピーマン? どうしたんだい?」御者が気になって声を掛ける。
ネーエは「はい」と言って掲げてのは、確かにピーマンの絵だった。黒い筆で黄ばんだ用紙に書かれてもわかるほど、精確な描写を見て、彼はギョッとした。
「すごい上手な絵だね」
「うん。多分エヴァリスタが描いた。絵上手いから」
「ああ、彼女が……なるほど」
「でも、エヴァリスタったら、私が嫌いなの知ってから、わざわざ探し出して来たの。酷くない?」
「えっ? 何の話かな?」ネーエの不満げな様子に御者は困ってしまった。
「ピーマン。料理に入れてくるようになったの」
「ああ。ハハハ。それは確かに酷いね」
「でしょ?」ネーエはそれを聞いて満足すると、他のページを開いた。今度は、そっぽを向く男の立ち姿が描かれている。見上げるような高い位置に居るのが何となくわかった。
「ねえおじさん。これ何で裸なの」ネーエはそう言うと再び彼に絵を見せる。
「なんだい? ああ、これは南方帝国の立像だね。なんか縦に歪んでいる気がするけど。本当はもっと小さいはずだよ」
「へえ。これはあんまりなんだね」ネーエにはさっきの絵との巧拙は計りかねたが、どうも御者によると精確ではないらしい。
パタンと本を閉じて、自分の脇に置くと次の本に向かう。すぐに閉じて、その本の上に置いた。文字だらけでよくわからない。そうやって、山の上から本を取って行く。どれもつまらなさそうな本ばかり。見た事ない文字で書かれたものもあった。これが南方帝国の言葉という奴なのだろうか。
二十冊程脇の本が積み上がってくる頃には、ネーエはうんざりしていた。結局最初の本以外、絵が描いてあるのは見当たらなかったし、自分でも読めそうな本が皆目見つからなかったからだ。
(結局、最初の本が一番面白かったな)
そう思って、積み上げた山を無理矢理崩して、一番下の本を取り出すと、車の隅に凭れる。この本にしよう。
「読む前に片付けてね」御者の注意にピシッと背筋を伸ばすと「はい」と言って、本を袋に詰め込んで行く。何でこんなに持って行く必要があるのか、片付けながら何となくそう思った。