翌日。日の登り始めと共に再び走り出した馬車の中。レーゲンとエヴァリスタは、ネーエの魔法の練習を手伝って、ネーエが疲れて来た頃。少し休憩しようと、馬車の縁に三人して凭れた。真ん中のエヴァリスタが自分のやけに大きな荷物を取る。本を読むのだろう。
「あれ? 何処やったかな」
エヴァリスタがガサガサと荷物を漁りながら呟く。ネーエはビクッとして思わず、御者の方を見る。御者も振り向いて、ネーエに意地の悪そうな笑みを浮かべると「それは」と話し始めた。慌ててネーエが立ち上がって、「何でもない!」と声を張り上げる。エヴァリスタは急にどうしたとネーエの方を見てから、また袋の中を探し始める。
「うわっ懐かしこの本ここにあったのか」エヴァリスタは本を一冊取り出すと声を上げた。
「ここにあったのかって……貴方その中毎回入れ替えてないんですか?」左隣でその様子を眺めてたレーゲンが呆れたような顔をする。
「いや、まあ時々? でも、もってくべきものを忘れた事はないぞ。しかも、便利なことに、必要なものは上に積まれるから取り出しに苦労した事もない」
「現に苦労してるじゃないですか……」
「いや、こんなのは初めてのことなんだよ」
「でも『ここにあったのか』でしょう。しっかりなくしてるじゃないですか」
「ええと、それはだな……」エヴァリスタの目が泳ぐ。何か良い返しは無いものだろうか。
「不要な物は置いて来て下さい。毎回、荷物はちゃんと入れ替えること。良いですね?」
「わかったよ」エヴァリスタは降参して残念そうに頷いた。ネーエにはその姿が面白くて堪らず笑みを溢してしまう。
「わかれば良いんです。それで、その本は?」レーゲンが興味深そうに、エヴァリスタが手に持った本を見つめる。
「ああ、これか。勇作の知識にブツリキソというものとビブンやらセキブンやらがあってな。それを統合する為に私が纏めた本だ。まあ本というには可読性の低い走り書きばかりだが。読むか?」
「いや良いです。また難解な説明でちょっかいかけてくるんでしょう」
「補足してるだけだろ。勇作の国では代数的手法が幾何的手法を支配してるんだ。だから、子どもには国が半強制でそれを学ばせる。まあ私の勝手な解釈だが。その頂点がベクトルとビブンセキブンさ」
「うわ、読まなくても始めるんですね」
「おい。これくらいなら良いだろ」
「駄目です。それにしても、ユウサクさんの国ってのは何時聞いても不思議なものです。そもそも、何処にあるんでしょうね」
「全くだな。だが、この大地をずっと進んで、海の向こうを探しても見つかりはしないだろうさ。勇作がよく目にしていた地図は、端の無い繋がったものだったしな」
「端のない、というのは球面となる大地全体を記述しているという事ですか」
「ああ。そもそもあいつの記憶に魔法なんてものは存在しないし、物語の中の想像上の産物以上のものではなかった。何時も不思議がってたよ」
「魔法がない、ですか。そういえば、魔物は居なかったみたいですしね」
「そうだな。勇作とは話したことなかったか?」
「ハハ、会釈ぐらいですね。彼は私たちとは違う言葉を話しましたから」
「ニホン語だな。そうか、話した事ないのか」
「教えて欲しいと伝えたことがあるのですが断られてしまいました」
「あいつは面倒事をとことん嫌うからな。私に言えば教えたのに」
「その手がありましたか。そういえば、貴方は普通にユウサクさんと話せるんでした」
「意外と面白いぞ? 『もったいない』なんてのはワンガリー・マータイが国連でも用いた、勇作の国独自の観念らしい」エヴァリスタはレーゲンをわざと困らせてやろうと、意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「ちょっと、意味わからない単語を並べて喋らないで下さい」
「それを説明する前に今の銀河の状況を理解する必要がある」
「日本語はわからないですってば」
「ハハハ、すまんからかった」エヴァリスタが笑う。
「全く」レーゲンは呆れたような笑みを浮かべる「そう言えば、ユウサクさんってどんな人何ですか?」
「まあ良い奴だったよ」
「いや、それは抽象的過ぎませんか?」
「この話はお仕舞い。ほら、本読むから黙ってろ」
「何で隠すんですか」
「秘密の一つや二つ誰だって抱えてるもんさ」
「面倒事を嫌うってのは?」
「ああもう。何で詮索するんだ。知らない方が良い事もあるんだ」
「そう言われちゃうと弱いですが」
「そういう事だ。お前はあいつが何となく凄い奴と思っておけばいい」
「わかりましたよ。もう聞きません」
エヴァリスタはリラックスしようと凭れて、本を膝下に置く。ふと、ネーエが気になって彼女を見た。自分の袋から取り出したのか、本を読んでいた。
「ネーエ、それ」エヴァリスタはネーエが楽しそうに捲っているそれを見て、呟くように言った。それを聞いたネーエがエヴァリスタの顔を見上げる。
「懐かしいな。シュティムトの絵だ」エヴァリスタは覗き込むように、ネーエの開いたページを見る。
「エヴァリスタが描いたんじゃないの?」
「違うさ。あいつがお前くらいの時に、そいつとペンを一本くれてやったら描き出したんだ。あいつ、私の本に悉く絵を描き始めるから、頼むから描くならこれにしてくれってな」
「へえ。絵上手いんだ」
「そうだな。勝手に外に出て何してるかと思えば絵を描いてるような奴だったよ」
「でも、シュティムトならこんな下手な絵を描くのもわかるかも」と言って、ネーエは昨日見た、男の絵が描いてあるページを開いた。
「おお、懐かしい。属領になった南方帝国に、レーゲンと三人で行ったんだ」
「うん、何ですか? うわあ懐かしいですねその絵。ずっと像の前に座りっぱなしで困ったのを覚えてますよ」
「お前が飽きて引き剥がそうとするのに私は一番困ったがな」
「いや、あれはどう考えても貴方達の方がおかしいでしょう」
「ほう、未だ認めてなかったか」挑戦的な笑みを浮かべてレーゲンの方を見る。
「まあ大した集中力なのは認めますが」
「私もこの絵には舌を巻いたな。これほど精確に描写する子どもなんざそう居ない」
「人の話聞いてんですか。私は別に褒めてないですからね」
「像はもっと小さいんじゃないの?」と言い合う二人を割って、ネーエがエヴァリスタに尋ねる。
「うん? ああそうだな。でも、この時のシュティムトは今のネーエくらいの大きさでな。あいつは自分が見たまんまを描いたんだ。だから、上に引き伸ばされた感じになる」
「ふーん」ネーエは上手いという事らしいと取り敢えず納得して感心する。
「そう言えば彼は今絵描きでしたっけ?」
「オイサーストでな。今の絵はすっかりスタイルが変わったが」
「へえ、見た事ないですね。まあ良かったですよ。絵描きの仕事に就けて」
「仕事? あいつは別に宮廷の壁画を掘ったりはしてないぞ?」
「あれ? 違うんですか」
「仕事はしてないと思うぞ? 絵を描いてるんだ」
「ええと、生活は? 結婚もしたんでしょう?」
「金は余ってるからな。別に稼ぐ必要もなきゃそれでいいだろ」
「まさか、親の金に依存してるんですか?」レーゲンは非難の目をエヴァリスタに向ける。
「おい、怒るなよ。未だにお前達帝国の人間の沸点がわからん。何が問題なんだ」
「富裕層はこれだから……」やれやれとレーゲンは頭を抱えた「良い歳した男は自律しないと。それじゃあ結婚なんて……いやしてるんでしたねそう言えば」
「私は結婚した後の方が不安だったけどな。どうも、ちゃんと飯は作ってるらしい」
「飯って……もっとあるでしょう。まあもう突っ込みません」
「意外とお前は勇作と気が合ったかも知れんな」
「え、何です? 今話しました? ユウサクさんのこと。気が合うって」
「ああもう、近づくな。ヒントはここまでだ」
「ねえ、二人ばっか話してないで。シュティムトの絵見たい。オイサーストにあるんでしょ?」ネーエがエヴァリスタの肩を叩く。
「え、ああ。そうだな。私もあいつが向こうに行ってからは見てないし、顔出すか。レーゲン、お前も付き合えよ」
「もちろん。言ってやりたい事が今日で五万と増えましたから」
「だからウザがられるんだよお前は」
「貴方も大概嫌われてるでしょう」
「おっ、言ったなお前?」
「ちょ、貴方から始めたんでしょ」レーゲンは笑いながら言うと、そう言えばとネーエの方を向いた「何で貴方の本をネーエちゃんが持ってるんですか?」
「うん? 確かに。ネーエ、お前だったのか」エヴァリスタもネーエを見る。ネーエはギクッと肩を震わせると「何のこと?」と目を泳がせた。
「やっぱり。何だそう言うことか」エヴァリスタは袋をひっくり返した「おお、あったあった」探していた本が見つかって満足したようだ。ネーエはホッと胸を撫で下ろす。
「ネーエちゃん。人の荷物を勝手に漁っちゃ駄目だからね? ほら、貴方からも言いなさい」とエヴァリスタの肩を小突く。
「ネーエ、ありがとな。お陰で懐かしいのが見れた」エヴァリスタはネーエの頭を撫でる「それに、ちゃんと整理しなきゃな」と言ってハハハと笑い出した。
「ちゃんと叱れって意味ですよ……」レーゲンは呆れた目でエヴァリスタを見る。今日だけで何度呆れた事か。
「読む前に片付けて下さいね」ふと御者の声が聞こえた。「後でやるよ」とのエヴァリスタの返答にキッパリと「今すぐに」と返す。彼女がしゅんとして片付け始めるのを見て、レーゲンとネーエはそれを見て大いに笑った。
*
南方のとある森。幼いシュティムトが張り切って外に出て行く。手には白紙ばかりの本と一本のペン。
「お母さん! 帰ったら見てね! すっごく上手いんだから」ドアを勢い良く開けて出て行く際に、満面の笑みでエヴァリスタに告げる。
「ああ。楽しみにしてるよ。気を付けてな」シュティムトに寄って行って、頭を撫でる。狩りをしていた村でよく見られた光景。ガキはこれで喜ぶらしい。エヴァリスタの思う通り、彼は笑顔で「うん! 行って来ます!」と言ってそのまま出て行った。
どうせ、すぐそこに座って絵を描くだけだと言うのに、全速力でそこまで駆けて行く。その様子を見てから、家に戻った。
「その笑顔も未だ偽物なのか」二人だけになると、勇作がこちらを向いて真剣そうな面持ちで言う。
「偽物? 真偽の判別方法が私にはわからん以上、何とも言えんな」
「シュティムトの利用方法を見つけた。だからお前は彼に母親のように振る舞う」
「計画には何だって必要だ。ずっと前に言ったはずだ。長期に亘る以上、全ては実験だと」
「人をマウスみたいに。俺の試みはどうやら失敗だったようだ」
「試み? 何をした?」
「お前が計画について話さないように、俺もその試みについては話さない」
「あっそ。別に気にもならんよ」
「お前は俺が用済みになった。最近冷たいのは、そうやって演技をする必要も無くなったからだ。記憶を抜き去って、ポイという訳だ。俺にはわかるぞ」鋭い目でエヴァリスタを睨み付けるも、彼女は何も聞こえないかのように無視してその辺にあった本を手に取った。
今、エヴァリスタに隠れて手記を書いている。この魔物は人の言葉を話すが、それは全て自分の為で、人間を上手く利用する為に使用してるに過ぎない。頭が良く、美しいが、性格はクソのような奴だ。この世界の言葉もわからぬ俺の手記が、こいつを滅ぼす銀色の弾丸になるとも思えないが、何もしないよりマシだ。
魔物は人の心を本当に理解しない。母性本能を欠いていて、母親の役を負わせた所で、それに目覚める気配もない。俺の母との違いを如実に感じさせる点だ。
家族愛がない。現に俺はこの通り、貴重な知識の詰まった肉袋の役を果たせば、今までの親切な態度がプツッと途絶えてしまう。全ては演技、本物じゃない。
論拠はある。こいつは何時からか俺の記憶をパタっと読まなくなった。シュティムトを連れて来てから暫くは、毎日のように記憶を読んできたし、ダルいくらいに絡んできた。こいつが俺に冷たくなったのは、その終わりと符合する。
勇作は思考を巡らせる。出来ることなら元の世界に帰りたい。いつ命を奪われるとも知れず、こんな奴と一緒に暮らさざるを得ない。ベッドの上で一人絶望の中、彼は泣いていた。