マイノリティ脈絡   作:サイクス・ピコ

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皇帝酒③

あれを見たやつらは身近な人間まで信じられなくなる

もはや人間は自分以外はすべて信じられないあわれな動物だ*1

永井豪『デビルマン』

 

 部屋に戻ると、途端に静かになった気がした。ネーエはぐっすり寝ている。どうやら、一度も目を覚まさなかったらしい。それだけを確認すると、エヴァリスタは特にネーエに関心を寄せる事もなく、部屋の奥の窓の方へまで進んで行った。窓の外は真っ暗だ。窓に手を触れて、辺りを見回す。オリーブの火はほとんど燃え尽きてしまったらしい。

 

 万人の万人に対する闘争。人間は自由を犠牲にすることで初めて福利を手にする事が出来る。人間はその本性(本能と言い換えても良い)から言って利己的であるが故に、国家へ自由を譲渡しなければ破滅的な状態に陥る。魔物の場合はどうだろうか? 

 

(私たちの第一の秩序は、魔力量による地位の階梯だ。それに不満があれば、殴って従わせれば良い。これが第二の秩序。ある意味で合理的だ。人間が決して解消できぬ、互いへの懐疑を全く問題にしていない。しかし人間は、敢えてこれを問題にしてきたようにも思える)

 

 デカルトは『我惟う、故に我あり』と言った。底の抜けたカオティックな懐疑。それに蓋をする為に、自我の形式を第一に求めた。そんな所だろう。そこには内部に閉じた自己定立しかない。だから、この原理には超越的な一者を確実に必要とするだろう。その意味で、本質的に他者を欠いている。

 

(私がネーエの思惟を、自我を、アナロジカルな推論に拠って、可能的にしか保証できない事態とは、どういう事なのだろう。ネーエが自我を思惟して存在を叫ぶ瞬間に、他の如何なる存在も、それを確かなりとすることはできない。であれば、角の生えていない魔物として、何時人間を捕食する者とも限らないと疑い得る)

 

 国家へ自由を譲渡しようが、人間の行為能力はかかる政体に定められた法律を超越している。結局のところ人間(かれら)は、信頼という脆いシステムを捨てる事ができていない。反対に私たちは、優劣の推移律を秩序に導入することで、この問題を無効にしてしまう。弱いのならば、従え。さもなくば、死ね。思い通りにならなければ、殺す。

 

(人間は懐疑の放棄をある段階で行う。それが信頼であろう。懐疑それ自体は信頼の影として、人間が相互行為を可能にする問題で有り続ける。懐疑が問題でなければ、優劣を決する推移律を以ってして統制する必要が生じよう。大きな構造においては帝国も似たような事をしている。しかし、徹底的ではない。その意味で、推移律を凡ゆる事象に求める事を人間は避けているのではないか)

 

 だとすれば、行き詰まってしまった魔物の生き方を改めるには、この圧し潰されてしまった相互不信の観念を蘇らせてやる必要があるのではないか。さて、その方途は如何に。

 

 ガチャと、ドアが無造作に開けられて思弁は停止する。どうせ幾度となく繰り返されてきた戯れの思考に過ぎない。エヴァリスタは特に感情なく先を見据える。

 

「ミリアルデ、か」

 

「人間の少女ね」

 

 ミリアルデはゆっくりとエヴァリスタに近づきながら、未だぐっすり眠るネーエを見て呟いた。

 

「遅いだろ。早く寝ろよ」

 

「私がこの村に辿り着いたのは、魔物に私の故郷が滅ぼされて一人彷徨っているから」

 

「復讐に殺しに来たってのか?」

 

「復讐? そいつは私が殺したから。でも、殺しに来たのはそう。言葉を話す魔物は、人を欺く事に長けている。君だって同じでしょ」

 

「そいつらに滅ぼされたのか」

 

「そう。沢山の仲間が殺された。最初は友好的な関係を築きたい、なんて宣ってたわね。同じ魔法使いとして共に研究しよう、なんてね」

 

「それは残念でならんな」

 

「そんなこと思ってないでしょ」

 

「作法の問題だからな」

 

「屁理屈ね。この子が死んだって君は何も感じはしない。ねえ、貴方はこの子やさっきのおじさんをどうするつもりなの?」

 

「食べる、とでも言って欲しいのか?」

 

「そうね。食べる為だけにしては無駄な事ばかりしているように見えるから」

 

「無駄、ね」

 

「ミリアルデ。何故、魔物が言葉を話すようになったと思う?」

 

「何、急に」

 

「私は人間に憧れたからだと思う。その力に依らぬ在り方に。互いの可能な範囲を埋める優劣のない在り方にな」

 

「そう。それが理由だと言いたい訳?」

 

「魔物はその事に未だ気が付いていないんだ。人間を捕食対象としてしか見れない保守的な考えに浸り切ってしまっている。人間を食らう過程で、別の在り方に憧れたと言うのに。未だ言葉は体の良い捕食の道具以上の価値を持っていない。お前達の書いた本を読めば、その理知に、愛智に目覚めると言うのに。強さと弱さに依ってしか、互いの価値を判別できない蒙昧から目覚める事が出来ると言うのに」

 

「話が長いわ」

 

「私には無知蒙昧な魔物を道理に啓いてやる使命があるんだ。最初に気付いた私が、彼らを教化してやらなければならない」

 

「私には君もその考えに浸り切ってるように思えるけど」

 

「そうだ。だからこの子らと関わる必要がある」

 

「は? さっきのが理由だと思ったんだけど、違うの?」

 

「すべてが理由だ。昔、この子とは違うガキの世話をした事がある」

 

「君の話、わかりづらい」

 

「結論を急ぐからだ。それで、最初はただの面倒事程度に考えていたが、違った。私もまたその子に蒙を啓かれたんだ。自分が蒙昧でないことを前提にするべきではないし、それを啓くのは他者であり、人間だ」

 

「めんどくさい事を考えるのね」

 

「南方帝国の哲人は、自らの知らない事柄について知らないと思う事に自らの知恵の所在を求めたらしい」

 

「らしいって何?」

 

「そう言ったと本に書かれているのさ」

 

「君、変な魔物だね。フリーレンとは気が合うのかも」

 

「誰だ? 友達か?」

 

「うん。私は彼女のいる村に向かっているのよ」

 

「近いのか?」

 

「いいえ。大陸の中央、と言うには、南すぎかしら」

 

「.南に逃げても魔物は居るぞ。魔物の王を名乗る馬鹿がエルフを殺すよう命じている」

 

「そう。忠告ありがとう。でも、中央は森が入り組んでいて比較的安全なのよ」

 

「へえ。どこもかしこも森はアレの手先だらけなのかと思っていたよ」

 

「じゃあ私からも忠告。君は人間を理想化しすぎ」

 

「心配は要らないさ。別に理想通りじゃないからって殺しはしないよ」

 

「そういう意味じゃないんだけど。まあいいや。じゃあね」

 

「ああ。おやすみ」

 

 ミリアルデの背に向けて、エヴァリスタは言った。彼女の方は、振り向かずに手だけ振って、そのまま部屋から出て行った。

 

(危うく殺される所だった。まあいざとなればネーエを起こせば良かったのだろうが、その必要もなかったようだな)

 

 エヴァリスタは宿の入り口へと向かっていく足音を聞いて、ホッと胸を撫で下ろした。

 

(結局のところ、今の私たちの生き方はそう長続きするものじゃない。この大地の生命へのケアを忘却し、勝手気ままに貪る様な在り方では、何れ滅んでしまうだろう)

 

 彼女は私を憎んでいる。角の生えた私を。それを『私は殺していないから』、と言う事は容易い。しかし、人間を殺すというのは、彼らの文脈の中に自らを引き込む事だと自覚しなければ。殺しが殺しを生む。その積み重ねが、私たちを敵だと認識させ、殺しを加速させもしよう。その時に真っ先に犠牲になるのは、私の様な弱い魔物だ。それだけは阻止せねばなるまい。

 

(しかし、もし仮に私たちが人間を殺し尽くしたとして、次に何を貪るつもりだ? そうやって、凡ゆる物を滅ぼし続ければ、私たちを存立させる条件が何時しか崩壊して、遂に私たちも滅んでしまうのではないか)

 

 考え過ぎだ。そこまで考える必要は今のところない。彼女はそう思って、頭を冷やそうと、ネーエの隣で横になった。

 

(こいつも、簡単に私を信頼する。愚かだと思う反面、羨ましくも思う。こいつの七年がその様に判断させる文脈を形成したのだから。隣に魔物が居る時、私は何時押し倒されて踏み付けられるか、何時裏切られるか、その事ばかりが頭を過った。このガキには、そんな事は想定に入らない)

 

 そっとネーエの顔に触れた。例えばこの手を握って、顔を殴り付ける事ができる。起こすだけなら、優しくつねってやる事だってできる。寧ろ起こすなら、大声で呼びかけるのも良い。肩を揺さぶっても。今は起こす必要がないから、私はそのようにしない。

 

(魔物を前にしてぐっすり眠れる鈍感さ。幾ら私が人を欺く事に長けているからと言っても無警戒過ぎだ。しかし、そのような場所でこいつは育って来た。そうだ。私は一体何時から眠れなくなったのだろうか)

 

 靄だろうか、灰色がかった森の中をエヴァリスタは歩いていた。身に覚えのある魔物が二人、気付いたら隣にいる。彼女はどう言う訳か転んだ。背中が踏み躙られる感触。これで何度目だろうか。

 

「誰が俺に偉そうな態度を取ってやがるんだ」

 

「カスみたいな魔法だ。やはり魔力が全てを物語っている」

 

「努力が足りないんじゃないのかしら」

 

「弱い魔物は楽で良い。お前みたいに諦めちまえば、強い奴にへえこらするだけで良いんだからな」

 

「それ、こないだ襲ったエルフの里で使ってる奴が居たな。記憶を読むだけなんてエルフでも高が知れてるんじゃないか?」

 

「馬鹿みたいな魔法ね。そんなんじゃ一生強くなれないわよ? プライドを捨てて一からやり直すべきね。そんな無駄な魔法捨てなさい」

 

「おい、しつけえぞ。お前の仕事だろ」

 

「ハッ、ご機嫌取りに俺の好きな料理かい。こんなものっ.!」

 

「ねえ。エヴァリスタ」 

 

 耳元で呼びかける声に重たくなった瞼を上げる。

 

「あれ? 朝か。ああ、ごめんよ」エヴァリスタは身体を倒して仰向けになる。

 

「寝てたの?」

 

「うん。気付いたら朝だ」

 

「珍しいね。寝ないかと思った」

 

「寝るさ」

 

「ふふっ、流石に寝起きは静かなんだ」

 

「どういう意味だ。そっちこそ、朝から元気だな」

 

「まあね」ネーエはクスクスと笑って、自分も仰向けになる。

 

「ねえ、エヴァリスタ」ネーエはポツリポツリ話す「昨日ね、お父さんの事思い出したの。あの女の人と握手したら」

 

 エヴァリスタは仰向けのまま、黙ってネーエの方に首を傾ける。

 

「それで泣いちゃったの」ネーエの声が滲む「何で一人で逃げたんだろうって」

 

「おい、ネーエ。ほら」エヴァリスタはネーエに身を寄せると、ギュッと彼女を抱き締めた。

 

「お父さんとお母さんにまた会いたい」エヴァリスタの胸でくぐもった声が響く。

 

 エヴァリスタはどう答えていいかもわからず黙っていた。墓を作ってやった所で効き目は高が知れている。所詮、個体なんてものは死んでしまえばそれでお終いだ。だからだと言うのに、そんな事もわからないのか。

 

(愚かなガキだ。何て愚かな)

 

 そう考えて、エヴァリスタはまるで吸血鬼のように、ネーエの首元に顔を埋めた。愚かな怪物だ。全てを失ってから、自分のあり方について言い訳ばかりをしてきた。長い錯誤の中でいつのまにか自分まで閉塞してしまっていたと気付いた時には、既に手遅れだったのだろうか。しかし結局のところそれは、賭けに依ってしか知り得ない事だ。生きねば…………

*1
永井豪『デビルマン』講談社、一九七三年。

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